その日は、月が出ていた。
月の光が優しく街を照らしていた。
そんな中、オレは走っていた。そう、涙をこらえながら…。走って、走って…。涙が零れないように走って…。つまずきそうになりながらも、オレは走っていた。
オレは、心に復讐を誓った。このきれいな満月に。そして……、
オレを捨てた先輩に…。
復讐の月
改訂版
「別れてください…」
一言、先輩の口が動いた。
オレは、芹香先輩に呼び出されていた。季節は3月上旬。先輩の卒業式は、明日に迫っていた…。オレの家に電話が掛かってきたのは、そんな慌しい季節だった。
「な、なぜだっ! 先輩っ! オレたちの間には何も障害なんてないはずだっ。セバスだって、爺さんだって許してくれたじゃねーか」
「……」
先輩は黙ったままだった。
「なぁ、先輩。教えてくれっ。何が、何があったんだ…」
先輩は、何も話そうとはしなかった。ただ俯いて…。オレは何か裏がある、そう思った。
「先輩、他に好きな奴が出来たのか?」
先輩は、ふるふると首を横に振った。
「……」
「えっ? 私といると浩之さんが不幸になります? なっ、なぜだっ。オレは、オレは先輩のことが好きだ…。今も、これからも守ってみせるっ!! ずっと、ずっと…。先輩だけを愛し続ける。オレは先輩が好きなんだっ」
オレはそう言うと先輩の顔を見た。先輩は悲しそうに俯いているだけだった。
「……」
「どうしたんだよっ!! 先輩!! なにがあったんだよっ! なぁ! 教えてくれっ、芹香!」
オレは、先輩の肩を持つと揺するように言った。
「別れて…、別れてください…。お願いします」
先輩はそれだけ言うと目を閉じた。
「なっ、なぜだ、なぜなんだっ。先輩。オレには訳が分からないよ! 訳を教えてくれよ! なぁ、先輩」
「今は、訳をお話することは出来ません。ですが…、私と一緒にいれば、あなたを不幸にさせてしまう…」
「何言ってるんだ。先輩! オレは先輩と一緒にいられればそれだけでいい…。それだけでいいんだ! だから、頼むから…、頼むからオレの傍にいてくれよ…、お願いだ…」
「あなたを不幸にさせたくない…、あなたを悲しませたくない…」
「なぜだ! なぜなんだ! 芹香…。オレのことはもうどうなったっていいのか? オレのことが嫌いになったのか? もう何も思わなくなったのか? どうなんだっ!」
「……」
先輩は無言だった。先輩の目を見た。先輩の目はとても悲しい目だった…。
「先輩…、先輩はそれで…、それでいいのか?」
オレは、呟くようにそう言った…。先輩は、何も言わずコクンと頷いた。
「そうか…、分かった」
「何が…、何が分かったのですか?」
「……」
オレは、何も話さなかった。しばらく無言が続いた…。
「浩之さん…、ねえ、どうしたの? どうしたのですかっ!!」
先輩はオレの体を揺り動かしながら、そう言った。
「先輩。あんたはオレを笑いものにする気だな?」
オレは先輩を睨みつけてそう言う。先輩は2、3歩後ずさった。オレは続けて…、
「あんたはオレを…、オレをそうやって笑いものにする気なんだな…。どうせ、オレはしがないサラリーマン家庭の子だっ。あんたは、大企業のお嬢様。どう見たって不釣合いにしか見えねーじゃねーか! あんたは、一人高い所でオレたち貧乏人を見ているんだ…。そうなんだろっ!! えぇ? ……。オレは…、オレは自分がこんな大バカ者だとは今の今まで知らなかった…」
「芹香…。よくも、よくもオレを騙したな…」
そう言うと悔しそうに先輩を睨んだ。先輩は、怯えたように肩を震わせながら…、
「騙したりなんてしていないんです、浩之さん、私を信じて…」
「ふっ、口ではどんなきれい事だって言えるんだ…。でも、心は違っているんだろっ!! えぇ? 芹香!! あんたに…、あんたに捨てられたオレの気持ち…、どんなだと思うよ! あんたに大バカ者にされたオレの気持ち…、一体どんなだと思うよ!! 大バカ者にされた、オレは…、藤田浩之は…、血の涙を流しても足りはしないっ!!」
「私…、私は浩之さんのこと、捨てたりしていないわ! 大バカ者にだってしていません…。ですから…、ですから今日は…、私と一緒に帰りましょう…。ねえ、浩之さん。私のお願いです…」
先輩は、オレの元へ駆け寄ってきた。
オレは悔しそうに先輩を見る。オレの目から涙が零れた。オレは悔しくて悲しくて、仕方がなかった。オレは気が付くと力が抜けたように膝を突いていた。
こらえきれない涙を我慢できず、最後は四つ這いになってオレは泣いた…。
先輩は、涙で汚れたオレの顔を拭き、頭をなでなでしながら、静かにこう言った。
「浩之さん…。私、あなたが好きなんです。でも、これには、深い事情があるんです。今はお話することは出来ません。でも…」
「ああ…、先輩、こうして話をするのも今日で終わりだ…。頭をなでなでしてもらえるのも今日限り…。明日には先輩は卒業するんだしな…。当然といえば当然か…。しかし、オレももう今日でこの学校ともおさらばだ。オレは明日、この学校を辞める…。もう、二度と行くこともないだろうな…。しかしオレは、この日を忘れない…。永遠に…、永遠に忘れない。オレを捨てた先輩のこと、絶対忘れない。死んでもオレは忘れない…。忘れるもんかっ!!! そして…、来年の今日の月、再来年の今日の月、いや今日という日の月をずっと、オレの涙で曇らせてやるっ!! いいか、先輩。この月だっ! もし…、月が…、月が…、月が曇ったなら、どこかでオレがあんたを恨んで泣いている…。そう思っていてくれ…」
オレはそう言った。先輩は、びっくりしたように、
「浩之さん…。あなたは…、あなたはこれからどうするのですか? 私と別れてあなたはどうするの? それを、それを教えてください…」
オレの背中にしがみつき、そう言う。先輩は泣いていた。オレには分かった。背中が…、濡れていた…。
オレは、先輩を振りほどこうとした。すると…、
「あっ…」
先輩は倒れてしまった。先輩の膝から、とめどなく血が溢れている。オレは駆け寄った。
「せ、先輩…、怪我をしたのか? 大丈夫か? 先輩」
「私は大丈夫です。それより、浩之さん…。あなたはどうするの? ねぇ、浩之さん」
先輩は、近づいたオレの足にしがみつき、悲しそうにそう言う。オレは言った。
「もう、オレのことは放っといてくれ…。何もかも、もう終わりだっ。夢だっ! 夢だっ! 長い夢を見たんだっ!」
先輩は、足の痛みをこらえて立つと、ぎゅっとオレの背中に顔を寄せる。背中の先輩の温もりを感じた。
「オレ…、オレはこれから、悪魔に魂を売るっ!! そうして生きながらオレは悪魔になって、あんたのような奴らから、金を毟り取ってやる。見るがいい!! これが人間であるときの藤田浩之の最後の姿だっ!! 学校の方には、オレが言っておくから…。もし明日、オレの親しい奴が『藤田はどうしたんだ?』と聞いてきたら、こう言っといてくれ…。『あの馬鹿野郎は、夕べ気が狂って何処かへ行ってしまった』と…」
オレは、そう言うと空を見上げた。
空には満月が昇っていた。悔しい気持ちと悲しい気持ちが入り混じり、オレの心は乱れていた。オレの目からは、とめどなく涙が流れている。先輩は呟くように…。
「なぜ…、なぜそんな悲しいこと、言うんですか?…」
そんなことを言った。オレは言う…。
「なぜ? そんなこと決まってるじゃねーか。あんたはオレを見捨てたんだっ…。そうじゃねーのか?」
「私、あなたを見捨てたりしていません! 私はあなたのことが好きですっ!!」
先輩はぎゅっとオレの背中を抱きしめて、そう叫んだ…。
「何? 見捨ててない? 好きです? バカなっ!! それじゃあ、どうして? どうして別れるなんて言うんだ? 見捨ててないもんが、好きだって言うもんが…。おかしいだろ?」
「だから、それは言えないんです…。でも、分かって…。私、あなたを愛しているの…。そのことだけは本当なんです…。だから…、だから…」
「うるさい! 見捨ててないもんが、なぜ別れるなんて言うんだっ! えぇ?」
「……」
先輩は何も言わなかった。ただオレの背中にしがみついて、放そうとはしなかった。
「もういい…。あんたの気持ちは良く分かった…」
オレは、その時すべてが分かったような気がした。
先輩は、他に好きな奴が出来たんだと…。そう思った。それが間違いであると気付くのは、先輩と別れた後だった…。
「先輩…。なぜ泣くんだ? 先輩は、ちっとも悲しくねーじゃねーかよ! 嘘涙!!」
「浩之さん、私…、私…」
「ええい、もういい!! うっとうしい!! 芹香! 放せ! 放してくれ!」
「嫌です…、放しません。あなたがこれからどうするのか…、それを聞くまで、私、放しません!」
「放せぇぇぇ〜〜〜!!」
「ああっ……」
先輩はまた倒れてしまった。オレは先輩を振りほどくと逃げるように走った。どこまでも、どこまでも、走った。
「浩之さん…、待って…、待って…」
誰もいない校舎…。先輩は一人、倒れた体を起こしながらオレの名前を、いつまでも、いつまでも呼んでいた…。
オレは走った。
転びそうになりながらも…、つまづきそうになりながらも、オレは走った。そう、これ以上涙が零れないように…。オレは、町を彷徨った。
彷徨ったあげく、結局…、自分の家に足が向いていた。
そして、家に着いて自分の部屋に入った瞬間…、
ポタッ、ポタタッ。
また涙が流れていた…。
「畜生っ! 先輩のバカヤロー!! 畜生っ! 畜生っ! なぜオレを捨てたんだっ!! なぜっ!! なぜっ!! なぜオレを捨てたんだーっ!!」
どむっ。ずどむっ。
オレはそう言いながら、壁を殴った。拳が割れて血が出た。
「畜生っ! 畜生っ!」
それでも、オレは壁を殴った…。
痛かった。しかし、痛さより、悔しさの方が強かった。オレは、壁を殴り続けた。悔しくて悲しくて仕方がなかった。その日、オレは泣いた。
一人、男泣きに泣いた。
先輩の卒業式の日、オレは学校を退学した。オレはもう、誰とも会うこともないだろう…、そう思った。
オレの心の鍵が…、カチャッ…、と、閉まった…。
「あれから10年、か…」
オレは自分のデスクに足を置き、椅子をベット代わりに眠っていた。
嫌な夢を見た。ふと、時計を見た。時計は午後4時を指していた。休み時間はもうとっくに終わっていた。
あれから、先輩とは一度も会っていない。
オレは今、ローン会社の取り立て屋という、あの当時では考えられない職業に就いた。オレはあのときの悔しさを忘れたことはなかった。
いや…、忘れたくても、忘れることが出来なかった。オレは、あの時の悔しさを忘れることが出来ず、高校を中退してしまった。
「もう…、あかり達とも会うこともないだろう…」
オレはそう思った。
あかり達に何も言わず、オレは行方をくらませた。捜索願いも出されていたようだ。だが必死でオレは逃げた…。 芹香先輩と別れる前のあの時から一度も会っていない。
オレは、職を転々とした。そして、いつのまにか取り立て屋という職に就いていた。
「起きろ、藤田。チーフが呼んでるぞ」
同僚の一条が起こしに来た。
「んっ、ああ…」
一条とともにオレはチーフの待つ応接室へと向かった。応接室に入ったオレたちは、チーフからとんでもないことを聞かされた。
「ここ数年の不景気を反映してか、倒産する企業が後を絶たない。6年前に、来栖川グループが負債総額12兆円を出して消滅した事は知っているだろう。それで、まだ来栖川に200万円ほど貸し付けがあるのだ。何としても取り立てなくてはならん。元は大企業だ。200万ぐらいはまだ残っているだろう。どんな姑息な手を使ってもいい。来栖川から取り立てろ。分かったか?」
チーフ田村からの指令が出た。
そう、10年前…。オレが先輩と別れた直後に来栖川グループは、負債総額12兆円という膨大な赤字を出し、消滅した。
政府による多額の公的資金が注ぎ込まれ、何とか今年で払うことが出来るそうだ。
公的資金もそうだが、来栖川はこんな小さな金貸し業にも借りていた。よほど、資金繰りに困っていたんだろう…。
「今回の仕事だが…、なぁ、藤田。お前、やってみないか?」
田村はタバコを咥えると静かにそう言った。
「えっ、オレですか?…」
「ああ。一条から聞いたんだが、お前、昔、来栖川の嬢ちゃんと付き合っていたそうじゃないか? どうだ? お前なら出来るだろう…」
田村は、ゆっくりとタバコを吹かしながら、オレに尋ねた。オレは…、
「もう、10年も前の話ですよ? 気は乗りませんが…。まあ仕事となれば何でもしますよ…」
そう言う…。田村を見た。田村は、ほくそ笑みながら…、
「そうか…、では、頼むぞ…。藤田……」
そう言うと応接室を出ていった。
オレは、車を走らせていた。雲行きが怪しくなってきた。夜には雨が降るだろう…。オレは思った。
一条から聞いた住所を元に、オレは先輩の住むアパートへと向かう。
一条から聞いた情報によると、あの来栖川グループ消滅後、先輩の祖父は執事長セバスチャン、その息子の長瀬源五郎とともに自殺し、両親はそのショックが原因で病死。
妹の綾香は行方不明になっているということだった。
遺産は、全部損失保証で公的資金にまわされたらしい。
今はマルチと、少々の内職で生計を立て細々と暮らしているらしい…ということだった。セリオの方は、慰み物としてどこかに売られたんだそうだ…。
オレの両親は、オレが高校を中退してからまもなく、事故で亡くなった。
キィィィー。バタン。
オレは、車をとめた。
「ここか…」
そこには、今にもつぶれそうな古いアパートが建っていた。
手摺りは錆び付き、柱は、今にも取れそうだった。大家に聞くと2階の一番奥だということらしかった。
階段をゆっくり上がる。階段の踏み台は所どころ錆びて、穴が空いていた。
「ここだな…」
オレは、心の中でそう言った。
中から話し声が聞こえている。あれは…、マルチだ。
「芹香さん、もうすぐ出来ますからねっ? 待っててくださいねっ?」
マルチは飯でも作っているんだろうか?
先輩に話し掛けている。マルチの声は、あの学校で出会った声だった。何だか懐かしかった。あの楽しかった学校生活が声とともに蘇るようだった。と…、
「別れてください…」
あの、嫌な場面まで思い出してしまった。
「何思い出してんだ!! オレはっ!!」
首をふるふると横に振ると、オレはサングラスを掛けてちょっとした変装をする。
コンコン。ドアをノックした。
「はーい、どなたですか?」
マルチの声がした。ガチャッ。扉が開く。途端に…、
「あっ、あわっ、あわわわわっ、せ、芹香さんっ、また取り立て屋さんですぅ〜、あうっ!!」
マルチは、慌てふためきながら、先輩の元へと掛けていった。ぼふっと、マルチは先輩のところに駆け寄ると怯えるようにしがみつく…。
「こ、怖いですぅ〜。あう〜っ」
マルチは、ぶるぶると体を震わせていた。
マルチの体を見た。体には、あちこち傷が付いていた。
機械のメンテナンスをしていないのだろうか…。それとも、別の取り立て屋から先輩を守ろうとして、受けた傷なんだろうか…。オレは思った。
ふと先輩の顔を見た。何だか懐かしかった。出来ることならこんな再会は、したくなかった…。
「邪魔するぜ……」
そう言うとオレは、家に上がった。
かつて、日本一の大財閥と歌われた名門中の名門、来栖川が今ではこのありさまだ。ふっ、と心の中でオレは笑った。
「さてと、今、オレがここに来た理由はもう分かってるよな? あんたのところへ貸した200万円、返してもらおうと思ってな…」
「……」
「えっ? ありません? ありませんじゃあ、済まされねーぜ」
オレは言う。そう言ったサングラス越しのオレの目を先輩はじっと見ていた。そして…、
「……。浩之…さん、ですね?」
そう静かに言った…。
オレはうろたえた。先輩はオレの顔を覚えている。そう思うと悔しかった…。オレはもう…、忘れてしまいたかった。何もかも…。
「えっ? ひ、ひ、ひひひひ、浩之さんですか? あっ、ああっ! 懐かしいですぅ〜。マルチですぅ。覚えていらっしゃいますか? わたしのこと……」
マルチは、10年ぶりに出会ったオレの顔を見ると、嬉しそうに微笑んでいた…。
「オレの名は浩之だが、あんた達の知ってる浩之じゃない。あんた達の知ってる浩之は、そう…、10年前に…、10年前に死んだんだっ!」
オレはそう言った。オレは、出来ることならあの頃に戻りたかった。
しかし、オレが愛した先輩は、オレを捨てた…。
悔しかった。オレは先輩にとってなんだったのか? あの時、オレはそう思った。あのきれいな満月に、オレは復讐を誓ったんだ。
そして今、目の前に復讐を誓った相手…、来栖川芹香がいる…。
「金が払えねーんなら、マルチを貰っていくぞ!!」
オレは、そう言うとマルチを担ぎ上げた。
「あわわわっ、浩之さんっ。待って、待って下さいぃぃぃ〜。わたし、芹香さんのお世話をしなくちゃいけないんですぅ〜。芹香さんは…、芹香さんは、びょう…」
「うるさいっ! 黙れ! オレの知ったことかっ!」
オレは、怒鳴った。ふと、先輩を見る。先輩も驚いたようにオレを見ていた…。
「あうっ」
マルチは、びっくりしたように倒れてしまった。多分ブレーカーが落ちたんだろう。オレはそう思った。
マルチを担ぎ上げ、部屋を出ようとした。すると…、
「浩之さん、酷いです…。マルチちゃんには、何の罪もないのに…、なのに…、あんなに怒鳴ったりして…。それに、私には、もう家族が、家族と呼べる存在が…、この世にはいません…。今の…、今の私にはマルチちゃんだけが、私のたった一人の大切な家族なんです…。どうか…、どうか、マルチちゃんだけは連れて行かないで…。私、何でもしますから…。お願い…、お願いします」
先輩は、オレの体にしがみついて、そう言った。ぽたっと先輩の目から涙が落ちた。
「うるさいっ! オレの知ったことかっ! 借金のかたにマルチは頂いていく。それだけだっ!」
オレは、先輩を振りほどいた。だが…、
「待って、浩之さん…。待って…」
先輩は涙を流しながら、オレの体にまたしがみついてきた。
先輩の顔を見る。先輩はやっぱり可愛かった。でも、捨てられた時の悲しみ、そして悔しさがオレの頭をぐるぐると駆け回っていた。オレは言う。
「あんたがなんと言おうと、マルチは頂いていく。ええい、邪魔だっ。放せっ!」
「嫌です。放しません。マルチちゃんは、私のたった一人の大切な家族なんです…」
「どけっ、どかなけりゃ、あんたを蹴る。蹴ってでもマルチを頂いていく!!」
オレはそう言った。先輩はオレの体をしっかりと抱きしめて…、
「私は、いくら蹴られてもいい…。どんな酷いことをされてもいいわ。ここで、死ねといわれても、死ぬ覚悟は出来ています…。だけど、だけど…、マルチちゃんは、何の罪も無いんですよ…。浩之さん、お願いだから、マルチちゃんだけは返して…。返してください…」
「うるさいっ! うるさいっ! うるさいっ! そこをどけっ!!」
どかっ!
オレは先輩を蹴り飛ばした。
「ああっ」
先輩は、音も無く床に倒れる。
オレはその時、自分が嫌になった。
こんな惨めな先輩…、見たくない。心の奥では、そんな感情が芽生え始めていた。しかし、10年前のあの出来事がオレの脳裏から離れなかった…。
もうここに来ることも無いだろう…、そう思いオレは部屋を後にした…。
「マルチちゃんだけは…、マルチちゃんだけは連れて行かないで…。お願い…、お願いします。浩之さん…。私の命はどうなってもかまいません。だけどマルチちゃんだけは…、返して。お願い…、お願い…。ううっ、こほっ、こほっ」
一人取り残された部屋…、先輩は体を起こそうとした。
しかし病弱な体は言うことを聞いてくれず、先輩は涙を流したまま、そう呟きながらまた倒れてしまった。そして、喀血をした。
そう、先輩は結核に冒されていた。あたかもその日は、10年前のあの日…、オレが先輩と別れた日だった。
オレは、マルチを車に乗せ事務所に帰っている。後部座席にマルチを乗せ、車を走らせていた。
と、ぶぅぅぅぅん。起動音とともにマルチが目覚めた。
「あうっ。ここは? どこですかぁ? あれっ、芹香さんは?」
マルチは、キョロキョロとあたりを見回していた。オレは何も言わず、車を走らせた。
「あっ、な、なんでわたしは、こんなところにいるんでしょう? あっ、そ、そうでしたっ! 浩之さん…。わたしを芹香さんのところに…、芹香さんのところに帰してくださいっ!!」
マルチは真剣な表情で、オレの顔を見て言う……。
「駄目だ…」
オレは、一言そう言うと、マルチを突っぱねる。マルチは、目にいっぱい涙をためて、悲しそうにこう言った。
「浩之さん…、変られましたね…。10年前のあの優しい浩之さんは、どこに行っちゃったんですか? 芹香さんは…、芹香さんは、肺の病気なんですよ…。『私は、もう長くないかもしれない…。』そうおっしゃっていました」
「…………」
オレは、何も喋らない。マルチは続けてこう言った。
「芹香さん、こうもおっしゃっていました。『でも私は、生きなくてはならない…。生きて、罪を償わなくてはならない。浩之さんに…。私はあの時、浩之さんに嘘をつきました。本当は私、浩之さんと別れたくなかった…。でも、こうするしかなかったの…。 …それが私の罪…。それが私の犯した過ち…。だから私は生きなくてはならないの…。生きて、罪を償わなくてはならないの…』と…。浩之さんっ! お願いですぅ〜。芹香さんを、芹香さんを、助けてくださいぃぃぃ」
キキキキィィィィィ。
オレは、車をUターンさせた。なぜそんなことをしたのか…、オレは、自分でも分からなかった。
「浩之さん! 芹香さんを助けて頂けるんですね?」
マルチは、一瞬嬉しそうに微笑んだ。
「勘違いするな! マルチ!! オレは、あの時の悔しさは忘れてはいない。先輩には、罪を償わす…、それだけだっ!!」
そう言うとオレは、先輩のアパートへと向かった。マルチは黙ったままだった。
よく見るとマルチは声を殺して泣いていた。アパートに着いて、オレはマルチを降ろし、先輩の部屋へと向かわせた。
マルチは先輩の意識を確かめ、先輩の腕を自分の肩に掛け、階段を下りてきた。
「さっさと乗れっ!」
オレはそう言う。
先輩とマルチの体は、さっきから降り出した雨で、ずぶ濡れだった。オレは、何も言わずにバスタオルを先輩に渡した。先輩は何も言わず静かに髪を拭いていた。
しばらく無言が続く。と、先輩がぽそぽそと言った。
「……」
「なぜ、来てくれたのですかって? ふんっ、あんたに罪を償わすためだ!」
車を走らせながらオレはそう言う。また、先輩が言った…。
「……」
「えっ? ありがとうございました? ふんっ! あんたは今日から、オレの奴隷だっ! 分かったかっ!」
「…、はい…」
先輩は静かに言った。先輩を見た。
先輩はあの当時より、さらに美しくなっていた。オレは車を走らせた。バックミラーに映る先輩の顔は、喀血のせいだろうか? 少し青白かった…。
病院に着いたオレは、先輩を即入院させた。
幸いにも結核はそれほど進行していなかったため、すぐに先輩は隔離病棟に移された。医師の診断によると、2週間くらい安静にしていれば治るということだった。
その時、オレは、ほっ、と息をついた。なぜかは分からない。こんなにも、恨んでいた先輩なのに…。オレは、まだ先輩を愛しているのだろうか…。
「そんなはずはないっ! そんなはずは…」
オレはふるふると首を横に振った。オレにまだそんな感情が残っているのか…。人を愛するという感情が…。
「先輩に、先輩に復讐するためにオレは…」
オレはそう呟いた……。オレは自分が悔しかった。迷いを捨て去ろうと必死だった…。
マルチは、しばらくオレの会社にいたが、来栖川の借金、200万円を返すため、別の会社に売られていった。オレが、マルチを送っていくことになった。
マルチが売られていくという日の朝、マルチは…、
「芹香さんに会わせて下さい…」
そう一言…、オレに言って来た。
オレは、無言のまま頷くと、先輩のいる病院へと向かう。しかし、どうしてそんなことをしたのか…、オレ自身分からなかった……。
「先輩のところへ行ってやれ…。オレはここで待ってるから…」
先輩の病室の前、オレはそう言う。
「はいっ。ありがとうございますぅ」
マルチは嬉しそうににっこり微笑んで、先輩の元へ駆けて行った。オレはその時、マルチのテスト期間最終日の日のことを思い出していた。
“浩之さん、今日は、本当にありがとうございました。わたし…、浩之さんのこと、絶対忘れません…。わたし、浩之さんのこと、大好きでした……”
あの時、オレは優しい気持ちになった…。しかし、今は…、今は違う…。
マルチは、先輩と楽しそうに話している…。そんな時間も終わりに近づいていた…。マルチは最後に…、
「芹香さん、今日まで、ありがとうございました。わたし、人間の皆さんが大好きです。浩之さんは、芹香さんのこと…、嫌いって言ってますけど、本当はもう、もとの大好きさんに戻ってるって、でも、恥ずかしくて大好きっていうこと、素直に言えないんだって、わたし、思っています。だから、もう少し待っててくださいねっ。これで芹香さんとお話するのも最後になっちゃいますけど、わたし、芹香さんのこと忘れません。本当に、本当にありがとうございました」
そう言うとマルチは、涙をこらえてにっこり微笑んだ。
先輩は何も言わない。ただコクッと頷いていた。先輩も涙をこらえている…。オレには、そのことが分かった。
「マルチ…、お前、先輩のこと…、本当に好きだったんだな…」
オレはそう思った…。
オレは無言のまま、マルチを車に乗せた。
「マルチ、先輩のこと…、好きか?」
マルチを譲渡先に送っていく車中…、オレはそんなことを聞いた。
「はい、大好きですっ」
マルチはそう言うと微笑む。そう言って、マルチはオレの方に目を向ける。そして、こう尋ねた…。
「浩之さん、芹香さんのことは?…」
「嫌いだっ!」
オレは、はっきり言う。バックミラー越しにマルチの顔を伺うと、やはり泣いていた。
「オレは、あの時の悔しさを忘れたことはない。オレは死にたいと思った。でもなっ! マルチ! オレは死ねなかったんだ。先輩に必ず復讐する。そのことだけを胸に秘めて、今日まで生きてきたんだ。そう、復讐ということのためだけにっ!!」
続けて…、
「オレは、もうあの時の…、10年前のオレじゃない。あの時のオレは死んだんだっ! オレは…、もうあの時のオレじゃ…、ないんだ…」
マルチは、涙ながらにオレの言葉を否定するように首を横に振るとこう言った。
「いいえ、浩之さんは、あの優しい浩之さんのままですぅ! じゃあ、なぜ、芹香さんを病院に連れて行ってくれたんですか? 本当は芹香さんのこと、大好きさんなはずですぅ。もう、芹香さんのこと、許してあげたいって、芹香さんの優しい笑顔が見たいって…、そう思ってるんじゃないんですか?」
オレは悔しかった。オレの心を見通されているような気がした。でも、オレは……、
「うるさいっ!! うるさいっ!! うるさいっ!! オレは、芹香を…、芹香を許さないっ!! どんな…、どんなことがあっても許さないんだっ!!」
そう怒鳴った。本当は先輩が好きだった。
好きが故、裏切られたときの悲しみは計り知れなかった。そしてオレは、復讐を誓ったんだ。マルチは、それ以後、何も喋らなかった…。ただ…、
「うっ、うっ、うっ…」
マルチのすすり泣く声が、車の中に聞こえていた。
オレは、黙っていた。涙を必死でこらえていた。そうして、マルチは売られていった…。最後に…、
「浩之さん…、芹香さんのこと、よろしくお願いします…」
ペコッ。
おじぎをすると彼女は取引先の人とともに、建物の中へと消えていった…。
“芹香さんの優しい笑顔が見たいって…、思ってるんじゃないんですか?”
マルチの言葉が、オレの頭をこだまのように駆けていった……。
先輩がオレの家に来たのは、その一週間後だった。
「さあ、上がれ!」
オレはそう言う。
「……」
先輩は、何も言わず家に上がった。
「今日から、あんたはオレの奴隷だ!! 服はオレの着古した奴を着てもらう。部屋は、廊下の奥の角部屋だっ! それから、オレのことはご主人様と呼べっ! 分かったなっ!」
「はい、浩之さ…」
バシッ。
オレは、先輩の頬をぶった…。頬か赤くなる。先輩はその場に倒れこんだ。
「オレのことは、ご主人様だっ!」
床に倒れた先輩を見てオレはそう言った。先輩は…、
「はい…、ご主人様」
そう言うと、目を伏せた。
オレは悪いことをしている。そう思った。出来ることなら、奴隷なんかではなく、妻として迎えたかった。しかし、心のどこかで先輩を許せなかった。
裏切られた悲しみ、そして悔しさを返すところは、やはり…、芹香先輩しかいなかった…。
それからオレは、ことあるごとに、先輩を痛めつけた。
「風呂がぬるい!」
バシッ。
「飯が遅い!」
バシッ。
ありとあらゆるところで、先輩をぶった…。
先輩は何も言わず、ただ…、
「許して…、浩之さん…。許して…」
そう、呟いていた…。
肉体的ばかりではない。精神的にもオレは先輩を痛めつけた。こんなことがあった…。
「芹香、飯を作れ!!」
オレは言った。10分後、温かい飯が出来ていた。
オレは、飯を口に運んだ。美味かった…。いままでこんな美味い飯を食ったことがなかった。しかし、オレは素直になれなかった。
素直に美味いとは言えなかったんだ。
復讐のために、オレは先輩に過酷なことをさせてきたんじゃないのか? 心の隅には、そんな感情が…、残っていて……。そして…、
「こんな飯が食えるか!!」
オレは、テーブルごと飯をひっくり返してしまった。
先輩は悲しそうに俯くと、床に散らばった食器を拾っていた。ふと、先輩の手を見た。白魚のようだった先輩の手は、今では見るも無残にあかぎれている。
ぽたっ。
食器を拾う手の上には、一滴の涙が光っていた。
オレは、自分が心底嫌になった。もう復讐なんてどうでも良かった。傍にいって抱きしめてやりたい。そう思った。だが…、だがオレには…、出来なかった。
先輩の体は痣だらけだった。心もズタズタだろう…。
それに、オレを恨んでるに違いない…、オレは思った。服ももうぼろぼろだった。それでも先輩は、何も反抗しなかった。何の抵抗もしなかった。
ただ、オレの課した責め苦に耐えている。そんな先輩を見て、オレは自分が悲しくて仕方がなかった。
「何か反抗してくれよ! 痛いって叫んでくれよ! このままじゃ…、このままじゃ先輩…、死んじまうかも…、死んじまうかも知んないんだぞっ! 頼む…。頼むから…、痛いって叫んでくれよ…」
オレは、心の中で叫んだ。オレはやっぱり先輩が好きだった。素直になれたらどんなにいいだろう? そう思った。
そんなある日…。
その日はオレの誕生日だった。誕生日は仲間とドンチャンやるのが常だった。
しかし今年は、違っていた。家には芹香先輩がいる。そのことがオレの帰宅を早めていた。仲間と別れて11時ごろ、オレは帰宅した。帰ってきて、ふと、テーブルを見る……。
テーブルには可愛らしい小さな箱と手紙が置いてあった。オレは手紙を見た。手紙にはこう書かれてあった。
「浩之さんへ…、あっ、ご主人様でしたね…。ごめんなさい。でも、今日だけはそう呼ばせてください。お願いします。浩之さん、27歳。お誕生日おめでとうございます。プレゼントをしようと思っていましたが、何もありません…。せめてこんなものでも、浩之さんに喜んでもらえるのなら、私はそれだけで満足です…。私にはこの程度しか出来ませんが、どうか許してください…。私、浩之さんに感謝してます。病気のところを助けてくださって…、身寄りのない私をお家に置いてくださって…。ありがとうございます、浩之さん。…ごめんなさい、浩之さん…。私はあの時、浩之さんに嘘をつきました。本当は私、あなたが好きだったの。愛していたの…。出来ることなら、あなたとずっと、一緒にいたかった…。でも、私と一緒にいれば、あなたに迷惑がかかってしまう…。だから、私は別れよう…、そう思ったんです…。でも私の罪は許されないことですよね…。だから私は一生このままでもいい。そう思っています…。それで、浩之さん、あなたの心が休まるのなら…。 −芹香−」
と……。
箱を開けた。箱の中には小さな猫のネックレスが入っていた。
これは先輩の形見の品なんだろう…。オレはつくづく自分が嫌になった。オレは、自分の復讐のために、こんなにも…、こんなにも優しい先輩を今まで傷つけてきたのか…。
そう思ったとき、自分で自分を殴りたくなった。オレの足はもう…、先輩の部屋へと向かっていた。
トントントントンッ…。
階段を上った。
タッタッタッタッ…。
廊下を走った。
「先輩!!」
オレは、扉を開けた。
キィー、バタン。
そこには…。先輩が寝ていた。先輩は、何もない部屋で、毛布も布団もない…、そんな部屋で眠っていた。オレは、先輩の元へと近寄った。
「…………」
先輩は薄っすらと目を開けた。その時…、ぽたっとオレの頬に涙が流れる。先輩は正座をして…。
「ご主人様、どうかなされたのですか?」
そう静かに言った。居たたまれなくなり…。オレは、何も言わず先輩を抱きしめた。
「どうされたのですか? ご主人さ…」
「もういいっ!! もういいんだっ!! 先輩!!」
オレは、抱きしめたままそう言った。
先輩は何のことだか分からないような顔をしていた。オレは抱きしめた体を一旦放し、先輩を見つめて…、
「先輩。許してくれっ! オレ、先輩に酷いことばかりして…。オレは自分の心の鎖に縛り付けられていたんだ。オレは、こんなこと、本当はしたくなかった…。だが、オレはあの時の心の鎖が切れなかった…。だけど、だけど気づいたんだっ! やっぱり先輩のことが大好きだって…。先輩のこと愛してるって…。だから…、だから、ごめんよ…。先輩…」
そう言って、またオレは強く…、強く先輩を抱きしめた。オレは涙が止まらなかった。
「…浩之さん、そんな悲しい顔、しないで下さい。私が、私がいけなかったんですから…」
先輩は、そう言うと俯いてしまった。先輩の目から、ぽろっと涙が零れ落ちる。
「許して…、許してくれ…。先輩…」
オレはそれだけしか言えなかった。先輩は…、
「もう…、いいんです…。もう…」
そう言ってオレの体を優しく抱きしめ返してくれた。
やっと芹香先輩のことを本当に愛することが出来る。オレはそう思った。オレの心の鎖が…、やっと切れた。そう、復讐という名の鎖が…。
オレの復讐が…、終わった…。
季節は、6月だった。
オレは会社を辞めた。今はある福祉機器販売メーカーの営業課で働いている。オレは、芹香先輩と結婚することが決まった。
結局、復讐は出来なかった。
しかしオレは、これで良かったと思っている。先輩のことを、オレは愛している…。そのことが分かったから…。これで良かったんだ…。
6月某日、純白のウエディングドレスに身を包み、先輩はオレを待っていた。
“芹香さん、素敵ですぅ”
マルチがいたら、きっとそう言って、にっこり微笑むに違いない。オレはそう思った。
2人だけの結婚式…、オレたちはくちづけを交わした…。
「へへっ、先輩。似合ってるぜ、そのドレス」
くちづけのあと、オレは、照れ隠しにそんなことを言った。
「浩之さん…、これから私のことは、ずっと“芹香”って呼んでください…」
先輩…、いや、芹香は、恥ずかしそうに、でもしっかりとした口調でそう言った。
「ああ、そうだな…、芹香」
オレはそう言うと、ぎゅっと抱きしめた。
季節は6月上旬、梅雨までの僅かな晴れ間。
結婚式も終わり、2人は教会の門を開け、表に出た。そこには…、きれいに澄み切った青空と一本の飛行機雲がかかっていた。
〜 Fin. 〜