るーこと早春の夕暮れ


 3月1日の麗らかな午後。喫茶店の奥まった席で俺はぺこぺこと頭を下げている。そんな俺の目の前で、長い髪の毛をくるんとカールさせた可愛い彼女は子供のようにぷぅ〜っと頬を膨らましていた。
「るーこ。悪かったって! この通り謝るから! だから許してくれ〜っ!」
「失望したぞ。たかあき…。るーはお前がそんな男ではないと信じていたのに…」
 彼女・るーこは拗ねている。名前は、ルーシー・マリア・ミソラと言うんだが、俺はるーこと呼んでいる。一応留学生ということになっているけど本当は…。いや、それは俺と彼女の秘密だ。しかし何故彼女が怒っているのか。それというのも今日がるーこの誕生日だったからだ。いや、正確には今日と昨日の一瞬の境目が誕生日らしい。境目って言われてもちょっと分らないんだけど…。で、現在午後4時半。喫茶店には重苦しい空気が流れていた。俺に厳しい目を向けて膨らませた頬をさらに膨らませてるーこはこう言う。
「たかあきには失望した。今日がるーの誕生日だったのに…」
「だから悪かったって! その代わりにるーこの好きなもの買ってやるから! だからそんな顔して睨まないでくれよ〜…」
 最近何でか分らないけど、朝起きるのがつらいんだよな。で、毎日るーこにおたまとフライパンって言うベタな起こし方で起こされているんだけど、それでも眠いんだ。授業中なんかで横に座るるーこや後ろの席の小牧さんにつんつんされて、はっ! となることもしばしば…。って言うか今日もされたんだけど…。あははははっ。はぁ〜。
 体は別段これといって変わったところはない。女の子苦手っていうのも徐々にではあるが解消してきている。それもこれもタマ姉たちと、今ここで俺の顔をぷぅ〜っと睨んでいる可愛い彼女のおかげなのかもしれないな? 俺はそう思っている。
 しかし最近は眠い。期末試験もあるんだがとてもじゃないが午前1時までなんて起きていられない。布団があったかいからかな? と思ったがそれは違うと考え直した。だって布団は体温で徐々に暖めていくんだから…。
「るーっ! たかあき、こっちを向け!」
 ふと考え事をして下を向いていた俺は、るーこのほうに顔を向けられた。顔を見れば相当ご機嫌斜めなるーこ。前にも増してぷぅ〜っと頬を膨らましている。その顔は子供みたいだった。
「失礼だぞ? たかあき。るーは誇り高い“るー”の戦士だ。それを子供のようだとはなんだ? 罰だぞ、たかあき。今日はたかあきが何か作れ。うータマもうーこのも呼んではダメだ。たかあきが何か美味しい物を作れ。るーが食べて美味しいと言うものを作れ。それが嫌ならあそこの料理を一品ずつ食べさせろ…」
 い。いや、るーこさん? 聞こえてたんですか? 俺の独り言…。るーこを見るとうう〜っと恨めしそうに俺の顔を睨んでいる。聞こえてたんですね…。とほほ。俺の顔を睨みつけながらそう言ってくるるーこの指さした方向を見てみる。思わず目玉が飛び出しそうになった。
「ふ、ふふふ、フランス料理じゃないか〜?! し、しかも1人、3万5000円って書いてあるじゃないか! あ、あ、あんな高いものはダメ!!」
 るーこの指差した先には高級そうなフランス料理の宣伝広告が飾ってあり、美味しそうな料理がカラー写真で飾ってある。この間オープンしたばかりのフランス料理店の宣伝広告なんだそうだ。俺たち一般庶民には高嶺の花なんだろうけどさ。るーこの手の先、向こうの窓に飾ってある値段表を見てみる。俺の3ヶ月分の小遣いに匹敵する。だ、だめだだめだ。今月の仕送りまで5日もあるのに、高価なものなんてとても…。ましてやあんな高級フランス料理なんてもってのほかだ!! そうるーこに言うと?
「ちーならいくらでもあるのに…。やっぱり“うー”は革命されるべきだ。革命されろ」
 そう言うとるーっと大きく手を上に上げて、“るー”をするるーこ。その間も俺の顔は恨めしそうに睨んだままだ。はぁ〜っとため息を一つつき俺は妥協案を出す。るーこはこの妥協案に首を縦に振ってくれるだろうか。いや、必ずこくんと首を縦に振るはずだ。もう一年近く同棲のように住んできた俺が言うんだから間違いはない。そう思ってじ〜っとこっちを睨むるーこに向かいこう言う。
「あんな高価なものはダメだけど、ステーキなら作ってあげるよ?」
 睨んでいたるーこの顔がぴくっと反応する。松阪牛のサーロインステーキ…。そう、約一年前の俺とるーこの思い出の品だ。あの時は何やらかやらで食べられず、結局カレー肉になっちゃったけど……。
「本当か? たかあき」
 そう言うと途端に嬉しそうな顔になるるーこ。こくんと首を縦に振ると俺は早速肉屋へ行く。空を見る。夕暮れの空に一番星が瞬いていた。俺たちの間を吹く風にだんだんと春の暖かさを感じる。そんな中、一年前と同じように松阪牛のサーロインステーキ1kg、それと牛脂を買い込んで家へと帰る。堤防を通る頃には、陽は暮れて空には満天の星が見える、そんな時間だった。街路灯下に横を見ると嬉しそうなるーこの横顔があった。俺はこの笑顔のために生きているのかもしれないな…。そう思った。


 今日は3月1日の夕暮れ。夕べはるーこの誕生日。2月30日…。2月の最終日と3月の初めの日のちょうど境目にある日…。この“うー”には実際にはない日にち。でも、45光年先のるーこの故郷にはあるのかもしれないな…。そう思いながら立ち止まり空を仰いだ。手を繋いでいたるーこは俺と一緒に立ち止まると…。
「どうかしたか? たかあき」
 不安げに俺の顔を見て言った。その不安げな顔を打ち消すように俺は微笑みながらこう言う。
「いや、“45光年離れていてもるーとうーの心は繋がってる”って、るーこが前に言ってたことを思い出してね?」
「…もう、昔のことだ……。それより帰るぞ? たかあき」
 恥ずかしそうにそう言うと俺の手を握り締めて走り出するーこ。手を取って走る前には北斗七星を戴く大熊座が、るーこの故郷が、一際大きく輝いていた。

END