我輩は犬である
我輩は犬である。名前はゲンジマル。しかし本当の名は知らぬ。この名は今の飼い主である女子(おなご)につけられた名なのでな。我輩はどこで生まれたか一行に知らぬ。覚えているのは川に流されて、“ああ、我輩の命もこれまでか…” と思った矢先に親切な女子に助けられたのだ。が、その女子は泣きべそをかいていたので、顔をぺろんと舐めてやったところ、“にゃぁぁぁぁ〜!!” と奇声を発して逃げ出してしまった。全く困った女子であると幼少の身ながら思ったものだ。で、どこがどうなったのか分からぬが今の飼い主の家で厄介になっている。我輩の飼い主、いや、ご主人と言うべきだろう。名前はこのみと言う名の女子だ。時々我輩のもっとも楽しみなご飯を忘れると言うボケをするところもあるが、非常に愛らしく優しい子である。
このみには好きな男子((おのこ)(貴明という名前なので我輩もそう呼ばせてもらおう))がいた。いたと言う過去形なのはもうその男子はこのみと付き合っていると言う、まあ人間の言葉を借りて言わせてもらうところの彼氏彼女の関係な訳なのでな? しかし、この彼氏彼女と言う関係はこれが実にややこしい。我輩たち犬社会にもややこしいやつはいるのだが、異に人間社会にはそう言う者が五万といるわけで…、人間は難しくてよく分からぬ。そうそう、この前もこのみと街を散歩中に見かけたのだが、女子数人に言い込まれている男子を見かけた。人間社会ではあれを浮気と言うのだそうだ。このみが言うに、“す、すごいねぇ〜。ゲンジマル。タカくんもああなったらどうしよう…” などと言っていたが我輩が貴明を見るに、浮気などは絶対せぬように思えたので、“ワン” と一吠えに吠えてやった。このみも我輩の言わんとしたことが分かったみたいで、“うん、タカくんは大丈夫だよね〜” といつもの笑顔に戻ってそう言っていたが…。
しかし1年と少し前になるのか…と少々昔のことではあるのだが我輩は思い出す。我輩にいつも恋の悩みなどを話してきていたこのみ。当時は顔を見ればものすごくつらそうだったと思い出すのだが、生憎と我輩には人間の言葉は話せぬのでじっと聞いてやることしか出来ぬ訳だ。さすがの我輩もあの時ほど、犬になぞ生まれてくるのではなかったなどと後悔したものだった。しかし犬として生まれてきたからにはどうすることも出来ぬ。悶々鬱屈とした日々が続いたわけなのだが、転機は突然というか唐突に訪れた訳だ。というのもこれは後、犬友達の豆柴の“マル”に教えてもらったことなのだが、あの親切な女子とこのみと貴明がいたらしいのだが、突然このみが逃げ出すように走り出してしまったらしい。我輩も帰ってきたこのみが何だかいつもの元気ではないのに気がつき、いつも嫌だと思っている散歩に付き合ってやることにした。
「タカくん、まだわたしのことお友達だって…。彼女として見てくれてないって…。……やっぱりタマお姉ちゃんみたいなおっぱいの大きな人がいいのかな? タカくん…。でもでもこのみも大きくなったんだよ? ほんのちょっとだけだけど…」
よほど悲しいのかそう言ったこのみの目から涙が一滴流れる。“おっぱい”と言う言葉の意味はよく分からぬが、多分メスにある乳の出る器官なのだろう。我輩はオスであるからしてそのような器官はないのではあるが…。涙を拭うこのみ。しかし人間の目から出た涙はそう簡単には止められぬと去年亡くなった老犬に聞いたことがあるのだが、全くその通りなものだ…。そう思い我輩はそれをぺろんと舐めてやる。やや濃い塩味がした。飼い主が悲しむ姿と言うのはどの犬・猫やその他、人間が俗にペットと言う名で一緒にいるものとしてもとても目に余るものである。もちろん慰めにもならぬことは知っている。が、この女子に泣かれると我輩までどう言う訳か知らぬが悲しい気持ちになるので、ぺろぺろ顔を舐めてやった。
「…グスッ、優しいね? ゲンジマルは…」
涙声でそう言うと頭をくしゃりと撫でられる。とそこへどう言う風の吹き回しか貴明がやってくる。少々汗のにおいがするので走ってきたのだろうが、女子を泣かせる男子は如何なものかと思ったので、このみが立った瞬間に持っていたリードを引いて一目散に逃げ出してやった。このみも同じ気持ちだったのだろう。我輩と同じように逃げ出す。我輩は足は遅いが四本足。このみは二本足ながら比較的足は速いほうだからまずは捕まらんだろう。それに疲れたら負ぶってでも逃げる寸法でいた。それに向こうは二本足…。追いつかれることはまずないだろうとタカを括っていたのだが普段の運動不足のせいか、追いつかれてしまった訳ではあるのだが…。
結局それが幸いにして二人を結びつけたことは言うまでもない。でもそうか…。あれからもう1年が経つのかと思うと我輩のやったあの行為がいい方向へと行ったのだな? と我輩自身、誇りに思う訳だ。とこのみが何やらご機嫌な様子で我輩の朝食を運んでくる。
「今日ね、タカくんが帰りしにこのみにプレゼントくれるんだって〜。いいでしょ〜? ゲンジマル〜」
我輩の頭を優しく撫でながら今日も我輩のご主人は元気百倍の笑顔だ。その笑顔が見られるだけで我輩はとても嬉しい。尻尾を一振り、ぶるんと振ってやった。と、“このみ〜、今日はタカくん起こしに行くんだ〜って早起きしたんでしょ〜?” とこのみの母上の声。と、“あっ、そうだった! それじゃあゲンジマル。行ってくるね?” と言うと我輩に手を振って、嬉しそうに小さな我輩のご主人は秋が来たというのにまだ暑い太陽に負けぬくらいに走って出て行く。しばらくご主人の行った方向を見ていると、ご主人の母上がにこにこ笑顔で出てくる。我輩の頭を一撫でに撫でると…。
「今日も、ううん、今日は特別忙しくなりそうね? ゲンジマル」
こう言ってまた優しく微笑むと家の中へ入っていった。まあ人間様にとっては忙しいのであろうが、我輩たち犬にとってはいつもと変わりはない。でも小さな我輩のご主人の生まれた日である今日9月6日だけは、ちょっとだけドキドキする日なのである。
END