桜の若葉の小枝をかんざし代わりにした俺の彼女が窓の冊子のところに座っている。空には風流な上弦の月…。長い髪を束ねている姿がとても色っぽかった……。ここは一夜の旅の宿…。


旅の宿

前編


「ねえ、タカ坊。温泉の一泊旅行…、一緒に行かない?」
 4月の下旬のある日、俺はタマ姉にそう言われた。今年の4月、俺はここ、九条院大学の学生となって、今はタマ姉と同棲している。2年前、突然俺の前に帰ってきたタマ姉…。帰ってきたとき、そっと耳元で囁いた“ただいま…、タカ坊”という言葉の意味…。
 そして……。いや、考えるのは無粋だな……。俺はそう思った。昔からなんだが、タマ姉はちょっと(というかかなり)傍若無人なところがある。…だが、2年前のあの日から俺のタマ姉に対する見方は変わった……。
 それは、やっぱりタマ姉も女の子だっていうことだ…。昔の、雄二やこのみや俺を引き連れてズンズン歩いてたタマ姉じゃない可愛い一面も持っていることが分かったし、そして何より俺のことをどう思っているのかも分かった…。
 ……このみが、“タカくんがタマお姉ちゃんのことを好きなら仕方ないよね……” と、少し寂しそうに言っていたことを思い出す。でも、このみのことだ。きっといい人が現れてくれると思う。俺みたいな頼りないやつじゃない、もっといい人が…。俺はそう願ってやまない。
 妹のようで妹じゃない…。それはタマ姉にも言えることなのかもしれないな…。ずっと姉と弟みたく曖昧な関係を続けてきた俺たち…。人を好きになるって言うことは大変なことだと思う。でも俺はタマ姉とこのままずっと一緒にいたい。そう思っている。
「ねえ、タカ坊? ちゃんと聞いてる?」
「うん? え〜っと……」
 ふと、そんなことを考えていた俺はそんな曖昧な返事をする。返事をして横を見るとタマ姉がちょっと拗ねた表情でこっちを見ていた。
「タカ坊? 私の話、ちゃんと聞いてなかったんでしょ〜? …っもう!! じゃあいいわ、もう一回だけ話してあげるから…」
 ぷぅ〜っと頬を膨らましたかと思うと、今度は一転、優しい目をしてこう言う。
「この前、温泉に行きたいなぁ〜ってな話をしてたじゃない? だからね? って、……え〜っと、どこにやったかしら…。あっ、あった!! ほら…、これよ?」
 そう言うとポケットに手を突っ込み、ごそごそと探す。“あった!” そう言うと嬉しそうな顔でタマ姉は俺にチケットを見せる。一体どこから手に入れたんだ? あの3人組の誰かかな? いや…、春夏さんって言う入手先も…。疑問に思った俺はタマ姉に聞いてみることにした。
「ねえ、タマ姉? これってどこから入手したの?」
「ん〜っ? タマお姉ちゃんの、ひ・み・つ! って言うのは冗談でぇ〜……」
 そう言ってペロッと舌を出すタマ姉。俺を見るタマ姉がいたずらっぽい子供のころの顔だったことは言うまでもなかった。後で教えてくれたんだが、このチケットは雄二がくれたものらしい。本当に? とは思ったがここは敢えて言わないことにした。出されたチケットを見る。そこには…、

中棚温泉ご宿泊チケット・一泊二食付き。
泉質:アルカリ性単純泉。アレルギー体質、リウマチ、神経痛等に効能あり。
露天風呂(混浴)あり。

 と書かれてあった。中棚温泉? 聞いたことがない温泉だ。まあ、日本にはいくらでもある温泉。聞いたことがない温泉だっていくらでもある。…って! ろ、ろ、露天風呂?! しかも…、混浴だって?! ギョッ! となってタマ姉を見るといたずらっぽく微笑んでいた。俺は言う。
「……ねえ、タマ姉?…。俺が女の子が苦手だって知っててわざとやってない? こ、こ、混浴の、ろろろ露天風呂なんて、入れるわけないじゃないかーっ!!」
 そう…、俺は女の子が苦手な人間なのだ、その原因は今、目の前にいるお姉様のせい…、と言うと少し大袈裟だが、一因ではある。まあ、今はそれほど苦手と言うほどでもないんだけどね…。でもお風呂となると話は別だ。
「いいじゃないのよーっ。どうせ私たち二人なんだし…。それに私たち恋人でしょーっ? …昔は一緒に入ってくれたじゃない…。むぅ〜…。タカ坊のイジワル…」
 ぷぅ〜っと、頬を膨らましてそんなことを言うタマ姉。その顔は子供の頃の、拗ねてイジイジしているときのタマ姉の顔だった。俺は顔を真っ赤にしながら…、
「タ、タマ姉!! いったい何年前だって思ってるの? はぁ〜…。もう12年も前の話だよ?!」
 そう言う。そう言うとタマ姉の方を見る。ちょっと涙目になって上目遣いで俺の顔を見るタマ姉…。子供のような仕草に思わず“ぷっ!”と吹き出しそうになるが、すんでのところで我慢した。と、タマ姉のほうを見ると小声で何かぶつぶつ言っている。何を言っているんだ? 耳を済ましてみた。
……一緒してくれなかったら、七代先まで祟ってやる……
 相変わらず理不尽な人だ…。そう思いはぁ〜っとため息を吐くと、恨めしそうに俺を見遣るタマ姉に言う。
「いいよ…。もう……。俺が我慢すればいいんだから……」
「ほんと? やったーっ! タカ坊と一緒、タカ坊と一緒!!」
 今までの言動がまるで嘘のようにタマ姉は、自分の体を俺の背中にぎゅっと寄せてくる。背中に当たる感触が、俺の顔を火が出るように赤らめさせることになったのは言うまでもない…。


 …で、現在。俺とタマ姉は信州の山間の町、小諸という所に向かっていた。連休も終わりほっと一息と言ったところ…。泊まる旅館は、かの有名な小説「夜明け前」を書いた島崎藤村が、温泉削掘を手伝ったことでも知られる老舗の旅館らしい。
 連休中に久しぶりに家の方に帰った。このみの家にも行き、例の話をすると……、
「えーっ? タカくんいいなぁ〜。このみも行きたいなぁ〜…。でもダメなんだぁ…。勉強しないと……」
「ふぅ〜ん? …まあ、お土産でも買ってきてやるからさ…。勉強、頑張れよな?…」
 羨ましそうな寂しそうなそう言う目で俺を見遣るこのみ。今年、受験生であるこのみは、今、俺とタマ姉がいる九条院目指してまっしぐらだ。大学のレベルは相当高い…。このみには無理のような気がするなぁ。現に俺が入れたのが不思議なくらいだった……。
 それもこれもあの地獄のような日々のおかげだな…。俺はあの地獄の日々を…、鬼の形相のタマ姉の顔を思い出すと感慨深げに天井を仰ぐ。と、俺が天井を仰いでいると、このみが怒ったような声でこう叫ぶ。
「ああ〜っ! タカくん、失礼なこと考えてたぁ〜。このみには無理っぽいとかぁ〜!!」
 そんなことを言うと、このみはこれ以上とない不機嫌な顔で俺を上目遣いに睨む。顔が可愛いだけに怒った顔も非常に可愛い。…って、何で俺が考えていたことが分かったんだ? ぷぅ〜っと頬を膨らましているこのみに聞く。
「……タカくんの目が言ってたんだよ? うううっ…。そ、そりゃあ、このみはタカくんとは違って勉強も出来ないし、ドジばっかだし…」
 とうとう拗ねモードに入るこのみ。拗ねモードのこのみは非常に厄介だ。ぶつぶつぶつぶつ文句を言われ、怒ると泣きべそをかいてくる。俺は、はぁ〜っとため息を吐くと、こう言ってご機嫌を取る。いつものパターンだ。
「じゃあ、ととみ屋のカステラ買ってやるから…。だから拗ねモードは解除してくれ〜!!」
「……葉っぱ堂のアイスクリームも買ってきてくれる?」
 恨めしそうに俺の顔を見遣るとこのみはそう言う。はぁ〜あ…。だんだんあのお姉様に似てきてるよなぁ〜…。理不尽な言動というのか何と言うのか…。パターンも進化しているんだなぁ〜。はぁ〜……。
“このみ……。あの優しかったお前はどこに行ってしまったんだい?”
 俺は心の中で何度も何度もそう言った…。結局その後、約束だからとこのみにととみ屋と葉っぱ堂を廻らされ……、廻り終わった頃には諭吉さんが羽を生やして飛んで行ってしまった。と言うことを今日の日記に記しておこう。うううっ……。
「お気の毒様……」
 タマ姉は俺の顔を見ると、微笑みながら一言そう言う。
“何がお気の毒様だっ!!”
 とは思ったもののそんなことを言うと泣き出してしまう、傍若無人なこのお姉様にきつく言うことも出来ず……。はぁ〜っと、何度目か分からないため息を吐く俺だった……。


 ……で、現在。軽井沢に向かう新幹線の中。タマ姉は俺の顔を見て嬉しそうに微笑んでいる。よほど嬉しいのか鼻歌なんかも歌っていた。その横で俺はと言うと?……。
「はひぃ〜。つ、疲れたぁ〜……」
 と、窓の外を見る余裕もなく座席に突っ伏していた。我ながら情けないとは思う。だけど男は俺一人、と言うことは相対的に荷物持ちが決まる。はぁ〜……。とため息を吐きつつ突っ伏す。そんな俺の体たらくさにタマ姉は…、
“男の子なんだから、もう少ししっかりなさい!”
 ってな目で俺を見ているのが分かる。自分でもだらしないのは分かっているが、敢えてそれを棚に上げて、俺は言いたい。
“仕方ないじゃないか…。俺は2人分の荷物を持ってるんだから…”
 と…。タマ姉は…、
“しょうがないわねぇ、もう……”
 ってな顔をしている。2人分の荷物と一緒に座席に突っ伏すこと約数分…。ようやく体力も回復してきた。でも何だかやけに静かだな…。さっきまで歌声が聞こえていたのに…。と思いふとタマ姉のほうを見ると……、
「すーっ、すーっ……」
 気持ち良さそうにタマ姉は寝息を立てていた。幸せそうな顔をしてタマ姉は眠っている。朝からはしゃぎすぎたんだな。嬉しそうだったもんな…。タマ姉……。
 そう思いデジカメを取り出すと、“パシャッ!” とデジカメのシャッターを切った…。


 旅行のプランは、ほとんどタマ姉にお任せ状態だったので、どこに行くのかさえ分からない状態。だからじゃないけど小諸と言うところも初めてだ…。
「最初は箱根に行きたいなって思ってたんだけど、箱根だとありふれてるでしょ? 熱海も人がいっぱいだし……。どうせタカ坊と行くのなら静かなところでのんびりしたいじゃない。だからここを選んだの……」
 新幹線に揺られながら、タマ姉はそう言った。東京から上越新幹線に乗ること2時間ちょっと。軽井沢へ降り立つ。ちょうど9時ごろの新幹線で来たため、軽井沢には10時50分くらいに着いた。早いよなぁ〜。と一人で合点して駅に降り立った。
「ねえ、タカ坊? どこか行きたい場所とかある?」
 タマ姉は、俺にそう尋ねてくる。ここからはしなの鉄道と言う電車に乗らなければならないらしい。まあ、ここから4駅先が目的地・小諸なので電車はいくらでもある。そう考えたんだろう…。いろいろと散策してみたいけど、分からないしなぁ…。そう思った俺はタマ姉にこう言った。
「う〜ん。俺、ここに来たの初めてだし…。タマ姉に任せるよ……」
 う〜んと考えるタマ姉。考えること数分…。タマ姉は言う。
「…じゃあさ、牧場に行ってみない? 牛の乳絞りが出来るんだってよ? どこにあるかは分からないんだけどさ…
 牧場か…。子供のころ、何回か親に連れて来てもらったことがあるが…。そうそう、タマ姉たちと一緒に来たこともあったか…。このみがドジして堆肥のところに足を突っ込んで大騒動になって、春夏さんに後でめちゃくちゃ怒られていたことを思い出す。可哀想だったなぁ…。このみ…。
「タカ坊? なに難しい顔してるの?」
 横を見るとタマ姉が不思議そうに俺の顔を覗き込んでいた。俺は言う。
「いや…、昔のことを思い出してただけだよ…。このみが春夏さんにめちゃくちゃ怒られた時のこと…」
「あっ? あ〜、そ、そんなこともあったわね〜っ。懐かしいわぁ〜。あはははは……」
 はぁ〜っと俺はため息をつく。めちゃくちゃ不自然な言動のタマ姉。それはそうだろう。指示した人は目の前におられるお姉様だったんだから…。って今、タマ姉が小声で何か呟いたみたいだったけど? まあいいか…。
「なに? タカ坊? 私の顔に何かついてる?」
 俺と雄二はあの後で親父たちにこっぴどく叱られたんだっけ…。とんずらしていなかったタマ姉の分までね…。まあ、これは昔の話だけど……。
「し、仕方ないじゃない…。あの時はちょうど九条院に入る前で気持ち的に不安定だったんだし…」
 俺の思っていることが分かったのか、今度はタマ姉がぷぅ〜っと頬を膨らませる。って、何で分かったの? 俺がそう聞くと…、
「だって…。タカ坊、独り言でぶつぶつ言ってたわよ?」
 ぐはっ! 独り言か? これじゃどこぞの奇跡を起こす高校生みたいじゃないか!!


 軽井沢は広い。これは予断だが、小諸という所も含めて軽井沢と言うんだそうだ…。道を尋ねて歩いている途中でそう聞かされる。タマ姉に、場所はどこにあるの? と聞いてみるが、タマ姉もどこにあるのか正確には知らなかったらしく…。
「ごめんね?…。タカ坊…」
 と落ち込んだようにそう言う。って、さっき小声で呟いてたことはこのことだったんだね? そう思った。でもせっかくの楽しい旅行だ、そんな落ち込んだ顔をされてもなぁ……。そう思った俺はこう言った。
「いいよ、タマ姉…。その分、探す楽しさっていうのもあるしね? だからほら、行くよ? タマ姉…。いつまでもそんな顔をするから、ほら…、その辺の人が笑ってるよ?」
「タカ坊!! んっ、もう! イジワルなんだから…」
 ぷぅ〜っと頬を膨らませて俺を見つめるタマ姉。以外に子供っぽいところがまだ残っているのでそんな顔も可愛いい。恥かしくなったのか、ぷいっとよそを向くタマ姉。
「……」
 小さな子供が怒った時のような顔をして俺を見るタマ姉。その顔は完全に拗ねてしまっていた。はぁ〜っとため息を吐きつつ俺はタマ姉に謝ることにする。
「タマ姉。悪かったよ……。ごめん…」
「もう、知らない……」
 ぷいっとよそを向くとそう言う。ふっ、とタマ姉を見ると、その顔は微笑んでいた。可愛いお姉さんのちょっとしたいたずらなのかな? そう思った…。タマ姉の手を取って歩き出す。
“牧場はどこにありますか?…”
 と、道行く人に尋ねまわった。ある気の良さそうなおじいさんに出会う。微笑ましそうに俺たちを見つめながら、おじいさんはにこやかにこう答えてくれた。
「牧場? ああ…、それじゃったらな、ここから北の方に上がったところにある牧場か…、小諸と言うところにある牧場が結構有名じゃな? で? おたくさんたちは観光客か何かかね? いやあ、最近は海外のほうがいいとか言いよる若者が多いと言うに…、感心じゃわい……」
 そう言うとにっこり微笑んで、おじいさんは牧場の行き方を教えてくれた。ありがたいことに地図まで書いてくれた。丁寧にお礼を言っておじいさんと別れる。おじいさんは微笑みながら去っていった。別れた後、俺はタマ姉に尋ねる。
「どうする? タマ姉…。このまま小諸に行く? それとも北軽井沢まで行く?」
「そうねぇ〜…。ちょっと早いけど小諸に行きましょうか……」
 11時57分発の電車に乗り小諸へと向かう。電車に揺られること約20分。程なくして電車は小諸に到着した。到着した時間はちょうど12時を過ぎたころ…。昼飯時だったので、軽めに駅構内の立ち食いそば屋で昼飯をとり、牧場へと歩を進めた。


 駅から歩いて約10分。牧場の看板が見えてくる…。や、やっと着いたかぁ〜。2人分の荷物を持って、ふぅふぅ息を吐きつつ牧場の事務所へ向かう。
「突然なんですけど…、見学させて頂いてよろしいですか?」
「ええ、いいですよ? まあ、こんな何もないただの牧場なんですけどね…。乳絞りにも参加されます?」
 牧場の入り口。見渡せば広い野原が広がっていた。俺はそう言うと受付の人に言う。乳絞りにも参加したいので即答でOKした。タマ姉を見ると嬉しそうに牧場のほうを見ていた。
 俺たちを案内してくれた人は、牧場主の娘さんだった。歳は16、7と言ったところだろうか? 頑張ってるんだね…。そう思って彼女の後ろ姿を見ていると、ムギュ〜っ! とお尻を抓られる。横を見るとタマ姉が頬をぷぅ〜っと膨らまして上目遣いでこっちを睨んでいた……。
「タカ坊?……」
「イ、イタタタタタ…。た、タマ姉? 俺は何もやましい気持ちで見てたんじゃないよ〜っ?…」
「嘘おっしゃい!! 鼻の下、でれーって伸ばして〜!! ぷんっ! ぷんぷんっ!!」
 ヤキモチでも妬いたんだろうか…。そう言うとぷぅ〜っと頬を膨らまして俺の顔を睨むタマ姉。
「違うよっ!! 俺は頑張ってるんだなぁ〜って思って見てただけだよ……」
「本当?」
 拗ねたような目で俺を見つめるタマ姉。俺は、うん! と大きく頷く。俺が嘘を吐いてないということが分かったのか、途端にタマ姉はすまなそうな顔をして……。
「ご、ごめ〜ん、タカ坊…。お尻、大丈夫? 結構勢いよく抓っちゃったから…」
 そう言って俺のお尻を摩ろうとする。
“や、止めてくれ…”
 と言いたかったが本気で心配しているタマ姉の顔を見るとそんなことを言うことも出来ず…、結局なされるがままになってしまった。ふと前を見ると、
「仲が良いですね…。うふふっ……」
 牧場主の娘さんが微笑ましそうに俺たちを見ていた。俺の顔が真っ赤になったことは言うまでもない…。


 牛の前までやってくる。のんきそうに干し草を食べながら尻尾をぶらんぶらんさせている。
「じゃあ、早速乳搾りやってみます? あっ、最初に実演でわたしがやってみますね? よく見ていてください…」
 お尻を摩りながらの俺とタマ姉の前、乳搾りの実演が始まる。簡単そうでいてこれがなかなかに難しそうだ…。俺はそう思った。タマ姉を見ると、やる気マンマンと言った顔だ。
「じゃあ、タカ坊。私から先にやらせてもらうわね?」
 そう言って牛の横に座るタマ姉。乳を持つ手にも力を込める。手馴れた手つきで乳を搾っていく。
「九条院の課外授業で一度やったことがあるのよ。だからかな?……」
「へぇ〜…。それにしてはうまいですね?」
 牧場主の娘さんが言う。タマ姉を見ると嬉しそうに微笑んでいた。牛は気持ちよさそうに尻尾をぶらんぶらんさせている。俺は正直タマ姉ってすごいなぁと感心した。何でも出来る。何でも知ってる。そんなタマ姉を俺はますます好きになった。
 やがてタマ姉が絞り終わる。見るとバケツいっぱいに乳が溜まっていた。牧場主の娘さんはびっくりした顔でタマ姉のほうを見ている…。さあ、次は俺だ。タマ姉に負けないようにがんばるぞ!! と意気込んでみたのはよかったのだが、結果はさんさんたるものだった。
 乳を搾ろうと牛の乳頭に手をかけていざ乳を出そうとしたその時…、
“モ゛〜ッ!!”
 そう声を上げて牛は暴れだす。尻尾が俺の顔にぺしぺし当たった。勢いよく振るものだから思いっきり痛い。牛があまりに痛がるものだから、俺には無理だと思ってやめてしまった。
 俺が乳絞りをやめると、牛はこっちを見て何事もなかったかのようにはむはむと干し草を食べている。…なぜか無性に腹が立った。結局タマ姉が搾ったバケツいっぱいの牛乳のみが残った。
 娘さんは重たそうにそれを運ぶ。俺たちもそれを手伝った。何とかして搾った牛乳を牧場のおじさんに渡す。びっくりした顔でおじさんはこう言った。
「……これ、君が一人で?」
「いいえ…、俺じゃなくて…」
 俺はそう言って、タマ姉のほうを見る。おじさんはタマ姉のほうを見ると心底感心したように言う。
「じゃあ、あんたがこれだけの量を搾ったのかい? …すごいねぇ〜。どう? あんた。うちの息子と…」
「お、お父さん!!」
 娘さんは、おじさんを叱るような目つきで睨みながら言う。途端に首を竦めるおじさん。どうやら娘さんに頭が上がらないらしいな…。そう思った。タマ姉はと見ると…。
「…いいえ、ご遠慮させていただきますわ。おじさま。……それに私は彼と付き合っていますので…」
 ふるふると首を横に振りながらそう言う。おじさんを見る。びっくりした顔と同時に非常に残念そうな顔をする。
“姉弟のように見えたらしいね…”
 タマ姉にそう小さく言うとうふふと微笑んでいた。確かにタマ姉は何をやらせても上手いしね…。おじさんが嫁にほしいと言うのも分かる…。最近は酪農関係とか農業関係の嫁に来てがないって言うニュースを耳にするしね……。残念そうにタマ姉を見遣るおじさんを見ながら俺はそう思った。
 搾った牛乳はまず殺菌しなければならないらしい。殺菌方法には高温殺菌と低温殺菌とがあるらしいが、この牧場では低温殺菌だった。冷たく冷えた牛乳を飲む。当たり前だが美味かった。いや、こんなところでタマ姉と二人っきりで飲むからかな? そう思った。
 5月の高原。山にはまだ残雪も残っていて吹く風もまだ冷たい。タマ姉を見ると少し寒そうだ。俺はタマ姉の肩に手をかけて、自分のほうに引き寄せる。タマ姉は俺の肩に頭を置くと、
「ありがと…。タカ坊……」
 そう優しく言った……。


 夕方になる。あの後いろんなところに行った俺たちは今夜の宿に到着する。山間の静かな温泉宿だった。
「ふぅ、ふぅ…、や、やっと、着いたよ〜!!」
 そう言うと玄関の椅子にタマ姉と荷物を下ろす。結構な重さがあるな…。そう思いほっと息をついているところへ、後ろから手が伸びてきて、俺の顔をむに〜っと引っ張った。
「ひひゃひゃひゃひゃ…。ひゃひふふほ?(いたたたた…。何するの?)」
「……タカ坊のイジワル……」
 引っ張っている手をどけて後ろを見る。案の定う゛〜っと恨めしそうに俺の顔を見つめている、いや、睨んでいるお姉様がいた。子供のようなその表情に内心、“ぷっ!!” と吹き出しそうになる。
「ちょっと!! なにニヤニヤ笑ってるのよっ!! タカ坊!! ぶぅ〜っ!!」
 ますます不機嫌になるタマ姉……。それはそうだろう……。だって……、
 牧場から帰る時のことだ。みんなとにこやかにお別れの言葉を言っていたその時……、事件は起こった。羊の群れがこちらにやってくる。そこにヤツはいた。シェットランドシープドックという種類の犬だろう…。遠くから“ワンワン”と吠える声が聞こえた。
 途端に何かに取り憑かれたかのように固まるタマ姉。そうしている間にもヤツは近づいてくる。タマ姉の顔を見ると、案の定顔面蒼白状態…、ちび○子ちゃんみたく顔に縦線が何本も入った状態だった。俺が…。
“タマ姉は犬が苦手なんです!!”
 と言おうとしたが、時すでに遅し……。
「う…、う……、うわぁぁぁぁ〜〜〜ん!!」
 高校時代の同級生、小牧さんのように取り乱すと、そこら辺りをまるで化け物でも出たかと言わんばかりに逃げ回るタマ姉…。牧場の人たちは唖然としながら取り乱すタマ姉を見ている。
 あ〜あ…。やっちゃったか…。もう少し早く言えばよかった。牧場には牧羊犬がいるって言うことは当たり前だったはずなのに…。
 はぁ〜…。と、大きなため息を吐くと俺は自分で自分を呪った。タマ姉は広い牧場の真ん中に座って駄々をこねるかのように泣いている。犬が慰めようと頬を舐めようとしてるけど……、
「うわぁぁぁぁ〜〜〜ん!! あっち行ってよ〜!!」
 駄目だ……。犬のことになるとまるっきりダメダメ人間になってしまうタマ姉。まあ、そこが可愛いところなんだけどね…。でも後のおしおきが怖いなぁ〜…。と、俺はこれから起こることに不安を抱える。
 その帰り道…。
 案の定というかやっぱりというか…、その後のタマ姉は機嫌がものすご〜く悪かった。タマ姉と荷物を背負って今日の宿へと歩く…。その間もタマ姉は機嫌が悪い。俺がおもしろい話をしても……、
「グスッ…タカ坊の……エッ…ヒクッ…イジワル……」
 背中から涙声と拗ねた声が同時に聞こえてくる。ぽかぽかと俺の背中を叩いているんだろう。背中が木の棒で突付かれたように痛い。どうやら相当にご機嫌斜めらしいね。
 はぁ〜…。牧場なんか行かずに真っ直ぐ温泉に来るんだった。後悔先に立たずとは言ったものだ…。ぷぅ〜っと頬を膨らませているんだろうなぁ。今頃……。背中越しのタマ姉の重みを感じながら俺はそう思った。
 そう思ってしばらく歩いていると何かが背中に当たる。ぷにゅぷにゅしたこの感触は、もしかして……。
「グスッ…タマお姉ちゃんを泣かせた罰よ! 男だったらそれくらいの免疫は持つのっ!! …エッ…ヒクッ…」
 こ、この攻撃は俺が一番苦手なものじゃないか!!
“…第一俺だって犬がいるだなんて知らなかったのに…”
 …と、そう言おうとするが更にこの後ろをお姉様を不機嫌にさせかねない。そう思った俺は我慢してこの忍苦に耐えることにした。…が、タマ姉はそんな俺の心を読んでいたのか、体をぐっと俺のほうへと密着させてくる。顔から火が出た…。

後編につづく