「クケーッ!!」
発狂するかのごとく逃げる武士が一人いた。その後をまるで魔界の亡者のごとく追いかける人影が一つ。逃げても逃げても追いかけてくる。武士はおもむろに後ろを振り返る。見ると人影は“うふふふふふ…”と怪しく微笑んでいた……。
うっかり侍と禍日神
「…う〜ん、う〜ん…」
いつもの朝。ここ、トゥスクル國皇城の一室で一人の武士が床に臥せっていた。いや、武士と言えば普通は男であるが彼女は女である。出自を述べるとこの武士、結構なものである。エヴェンクルガ族、義に生き義に死すと言われ、いつしか人は“義はエヴェンクルガにあり” と言われ、その精神は死を賭して主君を守るとまで言われるようにまでなった高潔な血を持つ少数民族…。それが彼女の出自なのである。
「あの禍々しいものを見てしまったばっかりに、某は、某はぁ〜……。はっ! いかんいかん。こんなことでは聖上のお傍付と言う大切な任に遅れてしまうではないか。急がねば…。でも…、ま、またあのおぞましいものを思い出して…。ぶるぶるぶる…」
彼女の名前はトウカと言う。またの名を“うっかり侍”。何故このような名前がついてしまったのか…、本人は不思議でしょうがないらしい。がしかし、今ではこの“うっかり侍”と言うあだ名のほうがトゥスクル國では有名なようだ。それはもう、兵士から民衆まで、赤子から老人まで、ここトゥスクルでは知らぬ人はいないと言うくらい有名である。その情報はトゥスクルでは飽き足らず、周辺の國々…。果ては遠くクンネカムンにまで及んでいるらしかった。かのクンネカムンの若き女皇、アムネリネウルカ・クーヤでさえ…、
「のう、ハクオロ。そなたの國には何でも、“うっかり侍”なる者がおるらしいと言うが、それは本当か?」
と、密会の時に言っていたそうである。嘘か真か…。真偽のほうは、まあ如何ばかりではあるが…。で、今である。何故彼女がう〜んう〜んと呻きながら床に臥せっているのか? と言うのも……。
昨日の夜。いつものようにお傍付の任を終え自室に帰ろうとすると後ろから何やら騒がしい声が聞こえてくる。
「アルルゥ! またこんなイタズラして! 待ちなさ〜い!!」
もはやトゥスクル皇城の名物となっているエルルゥとアルルゥの追いかけっこだ。今日もまたアルルゥが何やらいたずらをして、それに怒ったエルルゥが追いかけてきたのだろう…。後でハクオロが何と言うか。“はぁ〜” と最早恒例となっている大きなため息を吐くハクオロの顔が目に浮かぶ。“聖上も大変であらせられますな…” トウカはそう思った。
「トウカお姉ちゃん…」
しばらくその様子を見ていたトウカに気づいたアルルゥは、トウカの元へ駆け寄ってくる。その後ろを怒った表情で追いかけてくるエルルゥ。顔を見ると相当怒っているみたいだ。こめかみがぴくぴく動いていた。トウカは少々ビビリが入りながらも怒った顔のエルルゥにこう尋ねる。
「エ、エルルゥ殿? 何ゆえにアルルゥを追いかけていらっしゃるのですか?」
「あっ、聞いてくださいよ! トウカさん。アルルゥったら、私の胸を見ていつもいつもいつも、“可哀想”って…。今日なんか、“アルルゥのほうが胸ある”って言いながら見せつけてくるんですよ? じ、じ、自分はぺったんこのくせに〜っ!! 今日は今日でわたしの服の胸の辺りにシラガウト(香辛料の1つ)を塗って! もうっ! おかげで胸がひりひりしてとっても痛いんですよっ?」
「お姉ちゃん、胸小さいって困ってた…。だからアルルゥ、お手伝いしただけ…」
ぷんすかぷん! と言う効果音でも出そうな勢いでトウカの後ろに隠れたアルルゥを睨みつけながら言うエルルゥ…。アルルゥはトウカの後ろに隠れながら、そんなことを言う。…確かにエルルゥの胸は小ぶりだ。だが、このトゥスクルの女性陣が皆巨乳なのだから致し方ないといえば致し方ないというのも事実であろう。特に國師・ウルトリィとその妹・カミュのオンカミヤムカイの皇女姉妹、ナ・トゥンクの女剣奴のカルラなどは筆舌に言いがたいほどの巨乳の持ち主なのだ。エルルゥが怒るのも無理もないのだろう…。かと言うトウカもウルトリィ、カミュ、カルラに負けず劣らずのナイスバディーの持ち主なのは皆も知っているところである。ここだけの話、エルルゥが隠れて“キママゥで出来る豊胸剤”なるものを作り毎晩隠れて飲んでいると言う噂もちらほら聞かれてはいるが、これはまた別のお話…。
「ウルお姉ちゃん言った…。“アルルゥ様ももう何年かしたらわたくしのようになります” って…。カルラお姉ちゃんも同じこと言った…。トウカお姉ちゃんだってそう思ってる……」
アルルゥはトウカのほうを指差してそんなことを言った。ぎろりとアルルゥを睨む目をトウカのほうに向けるエルルゥ。はっきり言って恐ろしい。アルルゥはそう言うとトウカの後ろに隠れて何か同情を引くような目で顔を見つめた。横にはガチャタラが“クルルルルル……” と言ってアルルゥの頬に自分の体を摺り寄せている。当然その光景を見たトウカは“か、可愛いにゃ〜” と思ってしまうわけで…。可愛い物好きのトウカには申し分ないシチュエーションがそこにあった。出来るなら自分もそこに入ってガチャタラにすりすりされてみたいとさえ思うトウカであったが、武士であることに一種の誇りを感じる彼女には斯様な軟弱なことなど到底出来るはずもなく…。かつ、そこに怒り爆発寸前のエルルゥがいるのでは、言うこともままならないのであり…。
「アルルゥ!! トウカさんに失礼でしょ? こっちにいらっしゃい!」
「や……」
ぷぅ〜っと頬を膨らませて“どっかーんっ!!”と頭から溶岩が噴出しそうなくらいのエルルゥ。そのエルルゥの目はトウカの後ろのアルルゥへと向けられている。エルルゥが一度怒り出すと手がつけられないというのはここトゥスクル皇城では有名な話…。この間などオボロがつまみ食いをして犠牲になったばかりだ。それくらい凄まじいエルルゥの怒り。皇であるハクオロでさえ、身震いする有様である。それがいつしか城下へと伝わり…。大妖怪“エルンガー” となって子供たちを恐怖のドン底へ叩き落したことは言うまでもない事実。ちなみに夜は誰一人として表を歩かない。遊郭も日の入りとともに店を終うという。このことが少なからずトゥスクルの経済に影響を及ぼしていることは明々白々である。
“大妖怪エルンガー”、それは夜。厠に行くと現れ、用を足していると突然厠に引きずり込むというものである。昔は浣腸してくるだけの妖怪ではあったのだが、それに付随する形で今のようになっていったのであろう。その原因は…、察しの通りトウカの目の前、頬を膨らまし睨みつける少女の所為であろう。おかげで、“子供が夜、怯えて困る”、だの、“エルンガー退治希望” だのと言う國民の声が目安箱に多く見受けられるようになった。このことでハクオロの仕事が一気に倍以上増えたことは言うまでもない…。ベナウィの嬉しそうな顔がハクオロには実に不愉快だったということも周知の事実だ。
「ま、まあ、エルルゥ殿。落ち着いてください…。夜も遅いことですし…」
「でもアルルゥには一回きつくお灸を据えてやろうかって思ってたんですよ? ですからトウカさんは邪魔しないでくださいっ!」
「やっぱり怖い……。だからみんな言う…。エルンガー……」
「な、な、ななな、何ですってぇぇぇぇぇぇぇ〜〜!!」
“姉妹喧嘩犬も食わず” と言うことわざがある。おそらくこの大陸の古いことわざの一つなのだろうが、今の状況は全くその通りだとトウカは思った。そう思い早々に退散しようかとトウカがその場を去ろうとしたとき…。
「トウカお姉ちゃん…。行っちゃうの? アルルゥ、守ってくれないの?」
と、実に寂しげな、そして悲しげな声を出してアルルゥは言う。振り返りアルルゥの顔を見ると今にも泣き出しそうだ。横ではガチャタラが“キュ〜ン…” とこれまた悲しげな声を発している。斯様な声を出されては行くに行けない。いや、行けるはずもない。元々可愛いものには目のないトウカであったが、このときほど元来の自分の性分を恨んだことはなかったと後にトウカは述懐している。
「ア、ア、アルルゥ? ガ、ガチャタラ? そんな悲しそうな目で某を見つめられても……」
泣く一歩手前のアルルゥ。瞳からは涙が溢れてもう決壊寸前の模様を呈している。ガチャタラも悲しそうに“キュ〜ン”と一鳴きするとトウカの元に来て頬に体をすりすりと擦りつける。元来可愛い物好きのトウカ。例え武士とも言えども彼女は女性である。当然無垢な子供の瞳と小さな動物には勝てるはずもなく、簡単に屈してしまう訳で…。
「か、か、可愛いにゃ〜。もう…」
…と、結局こうなってしまう。ぽや〜っと呆けた顔には最早普段のきりりと引き締まった彼女の面影は微塵も感じられない。と、背後から凄まじい怒気をはらんだ空気が流れてくる。そう、それは子供の頃、里で聞いた太古の昔の物語。悪神・禍日神の物語。禍々しい気を発しながら人や家畜を襲う恐ろしい神の伝説。その頃の記憶がフラッシュバックのようにトウカの心に蘇る。
「トウカさぁ〜ん? 何をやっているんですかぁ〜?」
地獄の底から聞こえてくる様な強烈な怒気を含んだ声。ぎぎぎぎっと振り返るとエルルゥが優しく微笑んでいた。いや、優しく微笑む笑顔の裏には強烈の怒りが見え隠れしているような感じがした。武士と言えど恐怖を覚えたトウカはアルルゥに言って聞かせようと振り返るが…。
「ア、ア、アルルゥ。エ、エルルゥ殿に謝ろう? そ、そそ某も一緒に謝ってあげるから…って? へっ? ア、アルルゥ?」
アルルゥの姿はそこにはなかった。きょろきょろ見回してみるがアルルゥの姿はない。“逃げられた!” と一瞬思ったが、“い、いやいや、これでいいのだ。弱い者を助けるのが某の務め。逃げられるのは某の未熟さゆえのことなのだ…” 首を横に振りトウカはそう思い直した。何と忠義心の厚いことだろう。まあ逆に言えば融通の聞かない石頭なのであるが…。
「トウカさぁ〜ん…。アルルゥに何を甘やかした言葉を言っているのですかぁ〜?」
甘い声で言うエルルゥ。こう言うときのエルルゥほど恐ろしいものはない。振り向きたくない。そのまま自分もアルルゥと同じように逃げてしまいたいとは思ったが武士であるトウカには敵前逃亡など出来るはずもなく…。ぎぎぎぎっと効果音も鳴りそうなくらいにエルルゥのほうに振り返るトウカ…。そこには!!
“ハラワタをぶちまけろっ!!”
と言う怒号と三叉の矛を手のひらサイズにした得物を持ち、ふぅ〜っと荒い息を吐きながら立っているエルルゥの姿があった。ちなみにその三叉の得物、“ふぉーく”というものらしい。考古学にも詳しいハクオロが古代の文献で偶然見つけた食事道具である。幼子には箸は無理、かと言って手掴みは…、と言うことで開発されたのがこの“ふぉーく”と言うものである。さすがは賢皇ハクオロと言うところであろう。斯様な得物を持ち、ふぅ〜っ、ふぅ〜っと荒い息を吐きながら、鬼神の如くトウカの顔をギロリッと睨みつけるエルルゥ。その荒々しいまでの形相、そして、禍々しいまでの威圧感はまさに“エルンガー”、いや、“禍日神”そのものだったとは後のトウカ自身の言葉である。
「エ、エ、エルルゥ殿? お、お、落ち着いて…」
後ずさりながら少々怯えた声で言うトウカ。そこには最早エヴェンクルガ族の誇りもないただの怯えきった女性がいるだけだった。じり、じりっと近づくエルルゥ…。じり、じりっと後ずさるトウカ…。そしてついには壁際まで追い詰められる。ピカッと怪しくエルルゥの目が光ったその時…。誇り高きエヴェンクルガの女武士はがっくりと気絶してしまった…。
で、今現在、トウカは自室で臥せっていた。まあ、あれだけの恐怖を味わったのだ。無理もないのだろうが…。…にしても傷一つ見当たらない。どうしたことだろう…。通りかかった衛兵に聞くと? ちょうど見回りの衛兵が、物音に気づき行ってみると…。……取り押さえるのに5、6人はかかったそうだ。噛みつかれるわ、“ふぉーく”で刺されるわ大変だったらしい。それでも暴れようとしていたので、最後は皇であるハクオロに来てもらいようやく鎮まったとのことらしい。“恐ろしい…。エルルゥ殿が本気で怒れば國一つ、滅ぼすのではなかろうか?” とトウカはエルルゥが太古の昔の悪神・禍日神の如く暴れまわり國一つを滅ぼすかのようなことを思い描いてガタガタと心の底から震えた。とそこへ…。
「トウカーっ、入るぞーっ!!」
騒がしい声とともに、先日酷い目に合わされたばかりのオボロが入ってくる。あちこちと痣だらけではあるが体の傷そのものは消えている。さすがはトゥスクル國回復力ナンバーワンの名をほしいままにしている男の所以であろう。しかしトウカはぶるぶる震えながら返事もせずに布団に丸まっている。
「どうしたんだ? トウカ。いつものお前らしくもない…」
「そ、そ、某、お、おお恐ろしいものを見た。オボロ殿にはもう何か分かっておいでかと思うが?…」
途端にぶるぶる震えだすオボロ…。頭の中にはかの凄惨たる光景が浮かんできたのだろう。沈黙が辺りを包む。思い出したくなかった光景が一瞬にして思い出される。“う、う、うぎゃーっ!!” と言う悲鳴にも似たような言葉を発しながらオボロは退散していった。後で聞くところによると自室に篭って何日も出てこなかったらしいとのことだ。ドリグラは語る。
“ボクたちでも部屋に入れてくれなくて…。一体どうされたんだろ? 若様は…”
まあ、あのおぞましい姿を見れば誰でもこうなることは目に見えて分かっているので、敢えてそのことは触れないでおこう。ただこの心の傷は一生消えることはないということは最早誰にでも分かることである。
その後、カルラ、ウルトリィ、カミュと来たがトウカの話を聞くと皆一様にぶるぶると震えて出て行った。特にカルラとウルトリィは真っ青な顔になっていたのが普段色恋沙汰には滅法弱いトウカの目にも分かった。普段からハクオロに猛烈なアタックをかけている二人である。カルラに至っては、寝所にまで忍び込む始末。斯様な二人だ。出て行くのも不思議ではないのであろう…。トウカはそう思った。また横になる。しばらく寝ていると、今度は渦中の人物の声が聞こえてきた。
「トウカ、いるか? って寝ているのだったな…。では勝手に入らせてもらおう…。アルルゥ、おいで?」
「ん…」
ガラガラと戸を開け閉めする音と“おと〜さん、トウカお姉ちゃん、病気?” と言う可愛らしい声が聞こえてくる。身を起こすと、案の定心配そうなアルルゥと、これまた心配そうなハクオロがトウカの顔を見遣っていた。
「こ、これは聖上。某のためにわざわざこのようなところまで……。誠にもってかたじけない次第にございます」
「何を今更なことを…。もう私たちは家族じゃないか。このトゥスクルという國のな?…。それに、ほら、アルルゥ?」
「ん…。トウカお姉ちゃん」
アルルゥは後ろ手に隠しておいた物をトウカに手渡した。見ると蜂の巣だ。三度の飯よりはちみつが大好きなアルルゥ。いつもカミュ(体の具合のいい時にはユズハも)と一緒に取りに行っては、蜂の逆襲にあってちくちく刺され、帰ってきてはエルルゥに薬を塗られながら怒られている。斯様にして取った大切なものを自分にくれるなどと…。トウカは胸を打ち抜かれるほどの深い感銘を覚えた。最も感動症のトウカのことである。これくらいのことは日常茶飯事なのではあるのだが…。
「そ、某は、某はなんと幸せな者でありましょうか!!」
いつもの如く居住まいを正すと深く手をつくトウカ。心の中で何度も何度も自分に言い聞かせるように思う。
“ああっ! 某はなんと幸せ者であろうか…。斯様なまでの有難き幸せ者は某ただ一人であろう…。父上、母上、某は誠の主君に御遣い出来ました。里を出て早幾年、ご心配をお掛けしておりましたがトウカはやっと誠の主君に出会えることが出来ました。幸せ者にございます…。幸せ者にございます…”
と…。先のクッチャケッチャ戦では敵同士だったトゥスクルの仲間。今ではこうして打ち解けてはいるものの、心のどこかではまだ後ろめたい気持ちがあった。斯様な自分をこれほどまでに大切に思ってくれる仲間、そして主君……。トウカは涙が出そうになるのを必死で堪える。
「……」
何も言わずそっと肩を抱くハクオロ。ハクオロの膝に座って黙々とはちみつを食べるアルルゥ。これほど幸せな雰囲気は他にはないと言っていいほどいい雰囲気である。このほわほわした雰囲気。もっと長く続けばいいのに…。とトウカは思う。がしかし、このいい雰囲気の崩壊の序曲は、徐々にではあるが確実に忍び寄っていた。聞こえるだろう。足音が…。魔性の如き歌声が…。
“るるるるるるるるーん、るるるーるるるるんるん♪”
ぎっ、ぎっ、ぎっ…。徐々に近づく足音。やがて足音はトウカの部屋の前で止まった。
「トウカさん、昨日はすみませんでした。これ、お詫びに……って! なっ? なななななななな何をやってるんですかーっ!!」
ばんっ! と扉を開ける音。扉が壊れるほどの凄まじい勢いだ。思わずギョッ! となる3人と1匹。恐る恐る振り返ると、“ふぉーく”を持ち、ぷるぷる小刻みに震えているエルルゥの姿があった。いや、エルルゥなんかではなかった。あれは大妖怪“エルンガー”。いや、あれこそが“禍日神”だった…、とハクオロは後に述懐している。
「ハ、ハ、ハクオロさぁ〜ん…。トウカさんと何をなさっているのですかぁ〜?」
「へっ? あ、ああ…。ちょっと見舞いにな? ハハハ……。ア、アルルゥも一緒だからそんなに心配はないぞ? って? ア、アルルゥ?」
ふぅ〜っ、ふぅ〜っと荒い息を吐きながらゆっくりとした足取りで近づいてくるエルルゥ。顔はにこやかではあるがその後ろは怒りと嫉妬の炎がメラメラ燃えている。しかも手にはどこで研いたのか知らないが、研ぎ澄まされた“ふぉーく”を両手に持ち、怪しく笑うエルルゥの姿があった。アルルゥは逃げてしまったのか、もうそこにはいない。さすがは姉妹…。長年の勘というものか…。とハクオロは思った。
トウカは昨日のことが頭に残っているのであろう。まるで毒薬でも飲んで死に際に痙攣するかのようにぶるぶる震えだしていた。顔は蒼白、まるで死人の顔だ。退路を立たれる前に何とかしなくては…。最早死人の如く固まっているトウカの手を掴むとハクオロはそう思った。何事にも動じない冷静な判断力。これこそが近隣諸國で恐れられる智将・ハクオロの知恵と言うものか…。
「撤退!!」
号令よろしく部屋を出て行くハクオロとトウカ。が、敵は早々甘くもない。オンカミヤムカイばりの瞬間移動かとも思われる驚異のスピードで一瞬にして退路を断たれてしまった。
「ハクオロさぁ〜ん。どこに行こうというのですかぁ〜? まさか、わたしから逃げようとか思ってないですよねぇ〜?」
ふふふふふっと怪しく笑うエルルゥ。しかしハクオロたちを睨む目は常軌を逸している。というか狂気の扉を開いてしまったような目だ。その姿はまさに“禍日神”そのものであった。
「う〜ん、う〜ん」
床に伏せるハクオロ。ここ数日このような感じが続いている。政から解放されたのはいい。だがうわごとのように“やめろ…、やめてくれーっ”という声が寝所から聞こえて衛兵も恐怖に慄いているという。一方のトウカはと言うと…。
「ま、また…、また見てしまった…。あ、あ、あのおぞましき姿を…。某、もう國に帰りとうございます……。父上、母上」
夜な夜なそんなことを言っては、“ううっ、うううっ” と泣く始末であった。そのすすり泣く泣き声は、トゥスクル皇都、隅々まで聞こえたという。人々は口々に、“恐ろしや…、恐ろしや…。あの泣き声は禍日神に命を奪われた少女の亡霊の声じゃ…。御神ウィツァルネミティア様…。どうぞ儂らをお守りください…” などと噂しあい御神に祈ったという。ここ、トゥスクル國の夜。夜な夜な出没する悪神、“禍日神”。その正体は皇城のごく限られた者にしか知らない……。
END