「おじいちゃんのバカ! 進学させてくれるって言ってくれてたじゃないのよ…」
少女の呟きが街の片隅に聞こえる。少女は走っていた。胸の中のもやもやを消し去るように…。一生懸命に走っていた。彼女の名前は長瀬由真。高校二年生だ。もう秋の気配もしてくる今日8月31日は彼女の誕生日。それなのに…。彼女の頬に涙が零れ落ちそうになる。走るのをやめてそっと涙を振り払うと、また走り出した。
長瀬一族の娘
「はぁ〜…。由々しき事態じゃ…。何とかせねば主家に申し訳が立たぬわい…。何とかせねばならぬのぅ…」
夕闇迫る、ここ、来栖川家・執事控え室で、老爺が一人呟いていた…。彼の名はダニエル…。立派な日本人だが皆からそのように呼ばれている。最も、それは来栖川翁の孫娘によるところであるのは言う間でもいない…。
ちなみに彼の本名は長瀬源蔵と言う名前である。彼もまた太平洋戦争末期の帝国海軍予科訓練科(予科練)の少年訓練生であった。老爺にしてはガタイのいい体はその頃の名残である…。
「ふぅ……、何故分からんのじゃ…。昔はあれほど“ダニエルになるぅ〜”と言うておったものを…」
老爺・ダニエルは盛大なため息を吐くと、部屋を出て行った。ダニエルにも孫娘がいる。じゃじゃ馬娘と長瀬の家では有名だ。彼の主家、長瀬家は戦後大企業へとのし上がり、今やメイドロボのパイオニアと表される来栖川エレクトロニクスを含む来栖川グループの執事と言う役職に就いていたからである。
そして彼もまた、来栖川の執事である。執事という仕事、簡単でいてこれでなかなかに難しい。ことに、ここは名門中の名門、来栖川である。彼はこの家の執事ということを誇りに思い生きてきた……。彼の孫娘にこんなことを言われるまでは……。
「自分のこれからは自分で決めたいの!! おじいちゃんにとやかく言われたくない!!」
彼の孫娘はそんなことを言うと出て行く。一度縁談の話をして、失敗したこともある。その時はあの男が探してくれたんじゃったか…。ダニエルは椅子に体をもたれかけるとふぅ〜っとため息をついた。
“まあ、うまくいってはおるようじゃがのぅ……”
とダニエルはそう呟くと窓の外を眺めた。あれから3ヶ月が経つ。孫娘はあれ以来元気に学校に通っている。最近ではおしゃれにも気を使うようになってきたようだ。まあ、あれでいてロマンチックな一面もある孫娘だ。致し方ないのであろうとダニエルは思った。
高校二年の秋はいろいろと大変である。そろそろ進路のことも考えなくてはならない。ということで当然長瀬家でもこういう会話が行なわれた。
「由真。ちょっと話があるのじゃが…。……本当に進学する気かのぅ……」
「そうよ? って何? 今さら反対だって言うんじゃないでしょうね? おじいちゃん…」
そう言うと由真はギロリとダニエルを睨む。しどろもどろになりながらダニエルはこう言った。これが、今回のこの老爺と孫娘の喧嘩の発端となったのである…。
「い、いや…。反対とは言うてはおらんわい。…ただ、それでおぬしが幸せになれるかどうかなんじゃ…。あやつが本当におぬしを幸せに出来るかどうか…、儂は不安なんじゃよ…」
カッと頭に血がのぼる由真。体をぷるぷる震わせながら下を向いてぼそっとこう言う。
「そう…、やっぱり、やっぱりおじいちゃんは、あたしと貴明の仲、認めてくれてないんだね? 今まで言ったことも、ウソなんだね? 口から出任せなんだね?…」
「ち、違うわい…。ただ儂はおぬしの身を案じてじゃな…。…も、もちろん仲は認めておるわい。おぬしがあやつのことをどう思っておるのか、あやつがおぬしのことをどう思っておるのかも含めてじゃが……。…しかしのぅ。将来はどうするんじゃ? 当てはあるのか…。…今からでも遅くはないわい……。のぅ? 由真…」
老爺・ダニエルにしてみれば目の中に入れても痛くはないほどの孫娘だ。将来のことを心配しても無理はないだろう。だが、これでは約束が違う。由真はダニエルを激しく睨みつけるとこう言い放った。
「約束が…、約束が違うじゃないのよ!! おじいちゃん! 進学させてくれるって…、そう言ってたじゃない? ええっ? そんなレールの敷かれた人生じゃなくって自分の足で歩いていきたいの! あたしは!! それに…、今までどれだけ頑張ってきたと思ってるのっ? おじいちゃんの…、おじいちゃんの分からず屋!!」
由真はそう言い放つと、部屋を出て行った。彼には分かっていた。分かっていたのではあるが…。もう高校生活も残すところ一年と半年だ。進学する者、就職する者の分岐点である。
由真はもちろん進学のほうを選んだ。彼女の彼氏、河野貴明と同じように…。それを今さら反対されたのである。彼女の心境は如何ばかりであろうか…。ダニエルにもそれは分かっていた。一度はうんと頷いた男である。たが彼は古い人間である。無骨者なのである。無骨者ゆえ、敷かれたレールの上に乗っていくことがどんなに大変かということを、身を持って知っていたのだ。
「待て、待つんじゃ! 由真っ!!」
彼の言うことなど、全く聞き入れない孫娘……。彼を残し、さっさと自転車にまたがってどこかへ行ってしまう。一人残されてしまうダニエル…。彼の心の中は暗い闇…、そのものであった。
そんなことがあってから幾日かが過ぎた。ちなみにダニエルは由真とあれから話してはいない。いや、話そうと思ってもいつの間にか由真は自分の部屋に篭ってしまうのだ。
「……」
「少し様子を見ましょうと? そう仰るのでございますか? お嬢様…」
こくん…。ダニエルの身を案じたのか、芹香がぽそぽそとそんなことを言う。ちなみに芹香は大学3回生となった。今では友達も増え、表情も明るくなった。しかしぽそぽそ喋る癖だけはなかなか直らないのではあるが…。彼女の彼氏である藤田浩之氏に言わせると?…、
「まあ、今まで無菌生活が長かったんだ。普通に喋れるようになるまでにゃもうちょっと時間が掛かると思うぜ? まあ、最もコミニュケーションの取りかたとかは分かってきたっつーかな? へへっ…」
にっこり笑う仕草からは大企業のお嬢様と付き合っていると言う一種の慢心さは微塵も感じられない。常に対等に付き合うと言うのが彼のポリシーのようである。…彼こそが高校時代、唯一芹香の心を分かってくれた人であり、また芹香の最愛の恋人でもある。普段、表情のない芹香のあのように嬉しそうな顔はダニエルにも分かる。エレガンスに纏められた髪がさらりと風に舞う。わが孫娘にも斯様なエレガンスさが欲しいものだとダニエルは思うのだった。
「分かりました……。お嬢様…。しばらくは様子を見ることに致します…」
「はい……。ダニエル……」
芹香はにこっと微笑んで、暖かい紅茶を一口飲む…。優雅な午後のひと時はこうして過ぎて行った。
しかし考えれば考えるほどに暗い気持ちになる。あれから更に一週間が過ぎた。由真とはあれから一言も口を聞いていない。いや、目も合してはくれないのだ。ちなみに今日も朝から口論(ダニエルが一方的に言ってしまったのだが…)になってしまい、由真はギロリと貴明と出会ったころに見せたあの睨みでダニエルの顔をぐぐぐっと睨みつけると、何も言わず表へ飛び出していった。目にいっぱい涙を溜めながら…。
“ふぅ〜……”
深い呼吸で溜め息を吐くと、彼も家を出る。邸宅から1分ほどで仕事場に着く。そう、彼の家はここ、来栖川家の広い敷地内の一角にあるのだ。彼は、若いメイドや執事たちに指示を与えると、部屋を出た。
部屋を出て、しばらく歩く。屋敷内の安全をチェックしながら、彼は執事長のところへと向かった。もちろん、挨拶をするためだ。……といってもなんの気遣いもいらない。執事長は彼の従兄であったからだ。最もここでは、執事統括責任者(執事長)と執事長補佐という主従のような関係である。
コンコン…、とドアをノックをする。中から野太い声が聞こえてきた。
「ダニエルか? 入れ……」
ダニエルは静かに扉を開けると、音をさせないようにそっと扉を閉めた。そうして、静かに振り返ると執事長・セバスチャンの顔を伺う。ちなみにセバスチャンの本名は長瀬源四郎という名前である。このセバスチャンと言う名前もまた来栖川翁の孫娘・芹香によるところである。
「で? 今日は何の用事じゃ? ダニエル…。……また、おぬしの孫娘のことか?」
セバスチャンは椅子に腰掛け、眼だけをダニエルの方に向けた。爛々と光るその眼にダニエルは一瞬ビクッとなったが……、
「そ、その通りじゃ、兄者…。あやつは儂が言うても聞きおらん! ……昔は“ダニエルになるぅ〜”と言うておったものをのぅ…。それもこれも……、あの男のせいじゃ…。い、いや認めてはおるのじゃが…」
歯切れの悪いダニエル。“孫娘とけんかをして最近は口もロクに聞いていない” 斯様なことを従兄に言えるはずもなく……。
「ダニエル……。あの男とは? …ああ、あの男か…」
ダニエルは独り言を呟いたつもりだったがそれは大きな独り言みたいだったみたいだ…。セバスチャンは眉間に皺を寄せたが、思い出したかのようにそう言うと笑みを零した。一方、ダニエルは戸惑っていた。さすがに自分の家の内紛を言う訳にはいかなかった。しかし、ダニエルは昔気質な男である。
主家には忠誠を尽くすと言うそういう男であった。ましてや同じ神風特攻隊崩れの男である。目を見れば思う事が分かってしまう相手であった。観念したようにダニエルはぽつりぽつりと話し出した。セバスチャンはなにも言わず目を閉じてダニエルの話を聞いていた。
「……というわけじゃ。あやつはもう儂の手には負えん。昔は素直に言うことを聞いておったのにのぅ…。いつからじゃったか、急に“敷かれたレールは嫌!”とか何とか言い出しおってな…。のう、兄者。儂は一体どうすればいいのかのぅ…。も、もちろんあやつとの仲は認めておるつもりじゃが…」
ダニエルはそう言うと、紅茶を一口啜った。対面には彼の最も信頼の置ける従兄、セバスチャンが座っている。セバスチャンは、目を瞑ってダニエルの言うことを聞いていたが、ダニエルの話が終わると、静かにこう言った。
「それは前にも聞いたわい。のぅ。ダニエル…。儂も3年前はおぬしと同じ気持ちじゃった。大旦那様には“男を近づけるな”と言われたがの…。しかしお嬢様の嬉しそうな雰囲気を見ているとな……。3年経って儂はあの行為が正解じゃったと思うての。大旦那様も最近では二人の仲を認めているようじゃしな。藤田様もそれに応えようと必死で学に励んでおる。のぅ、ダニエル。おぬしの孫娘ももういい年頃じゃろう。そろそろ、一人立ちでもさせてやってはどうじゃ?……」
ダニエルは、愕然となった。戦後の焼け野原をともにストリートファイトで生き抜いてきた従兄である彼に、そのように言われるとは…。ダニエルは今、奈落の底に突き落とされたような、そう言う心境であった。
セバスチャンはそんな彼の心を見ていたんだろうか…。ふっと彼の顔を見遣るとこう言った。
「それにの、ダニエル…。儂はどうもおぬしの孫娘の恋人が3年前の藤田様にダブるんじゃよ…。お主の話を聞いているとな…」
藤田様…。噂ではこの従兄と互角にやりあった男で、これを機に芹香お嬢様との交際を大旦那様が認めたとか……。従兄を贔屓するわけではないが、ダニエルにとってこの従兄と互角に遣り合える強者はそうそういまいと思っていた。だが…、
初めて遠目に彼の姿を見たダニエルは、圧倒されたのである。まずは目の鋭さに…、しなやかな体裁き、綾香お嬢様に匹敵するほどのパワーとスタミナ…、そしてあり余るほどの優しさ…。どれをとっても芹香お嬢様に相応しい。ダニエルはそう思った。
斯様な男と、あの貧弱な孫娘の恋人であるあの男とは、明らかに違う。敢えて似ているところがあるのは優しさくらいだろうか…。とダニエルはそう思った。しかし孫娘・由真はあの男が好きである。ダニエル自身もそんなに嫌いではない。むしろ、あのじゃじゃ馬娘にはもってこいの存在だと思っている。しかし……。
「このままではのぅ…。いったいどうするんじゃ? のぅ、兄者。このまま年を取っては仕事が出来ぬぞ? 老いは確実に近づいてきておるんじゃ……。祐介を連れ戻すかの?」
「まあ、最悪の場合はそうせざるをえんが…。なあに、まだまだ肉体は若いわい…。おぬしだってそうじゃろう? 儂は知っておるぞ? 毎日おぬしは鍛えておるということをな?……。ほっほっほっ……」
セバスチャンはそう言うと顎だけをかくかく動かして笑う。それを見たダニエルは思った。
“やはりのぅ…。さすがは兄者じゃ。儂のような坊主とは年季の入りが違うわい……”
ちなみに祐介とは彼ら・長瀬一族の遠縁である。確か大学院生で電磁波の研究に没頭しているとか……。従兄の顔を見るダニエル。余裕に見える顔は、ダニエルの心を落ち着かせた……。
「儂らはまだまだ若いんじゃ。まだまだやれるわい。じゃからのぅ、ダニエルよ……。由真にはの、もう少し違った生き方もあると思うんじゃ……。長年来栖川家に御遣いしてきた身でありながら、こんなことを言うのはおかしいとは思うのじゃがな……」
セバスチャンはまた紅茶を飲もうとするも、紅茶がカップに入っていないことに気付き、ティーポットから紅茶を注ぐとカップに口をつけた。ダニエルも冷めた紅茶を口につける。飲み切るとティーポットと差し出したセバスチャンの優しい顔があった。
「もう一杯どうじゃ?」
「ああ、頂くとするかの……」
セバスチャンとダニエル。従兄弟同士の二人である。お互いの顔を見れば何でも分かる。どんな些細なことでも……。ダニエルは心の闇が次第に晴れていくような、清清しい気分になっていくような…、そう言う感じがした……。
「由真。おるかの?」
その夜、ダニエルは孫娘・由真の部屋の戸を叩いた。孫娘に一言謝っておきたいと思ったからである。しかし……。返事は返ってこない。不審に思ったダニエルは部屋の戸を開ける。真っ暗だった。
「由真? どこじゃ?」
とは呼んでみるものの、そこに由真の気配はなかった。電気をつける。いったん帰ってきたのだろうか…。鞄が置いてあった。“どこに行ったのじゃ? 由真…” あちこち見遣る。…と、机の上に置手紙が置いてあった。手紙を広げて目を通す。と、どう言うわけかダニエルは大声で笑ってしまった。ひとしきり笑うと彼はその手紙を持って一階へと降りる。と、途端にけたたましく電話がなった。
「もしもし……、長瀬じゃが…」
「あっ、じいさん!! 由真が俺の家に転がり込んできたぞ?! “しばらく厄介になるから…”とか何とか言って! 何かあったのか? 家に来るなりそう言って…。ええっ? じいさん……」
「…まあ、ちょっとした揉め事があっての……。おぬしじゃったら間違いはなかろうて。儂が認めた男じゃからな? まあしばらく厄介になると思うが…。孫娘のこと、よろしく頼むの?…」
「俺はちっとも安心じゃないやい!! って…。ゆ、由真っ? ななな、う、うぎゃぁぁぁぁ〜っ!!」
ワーワー言い合っている様子を電話越しに確かめるとダニエルは微笑みながら受話器をそっと置いた。手紙をもう一度そっと広げてみる。そこに書かれていたもの…。それは……。
“貴明のお嫁さんになります……。由真…”
「ふぅ〜……。由真もなかなかやりおるわい。……ふふっ、ふふふふっ」
老爺は笑いながら一人そう呟くと手紙を持って自室へと消えた。まあ、あやつはあやつで今が幸せならばいいかのぅ……。そう思いながら…。部屋から月の光が差し込んでいる。ふと空を見上げる。空には下弦の月が町を照らしていた……。
END