その日、二月十一日は月が美しい夜だった…。……その日…、僕は妹と恋人、その両方を失った…。僕の本当に愛していた女性、去って行く後ろ姿は僕の心に深い傷跡を作っている。僕に残されたもの、それは僕の最愛の妹、そして僕の最愛の恋人、鞠絵の壊れた眼鏡と激しい後悔の念だけだった……。もう少し、もう少し僕に鞠絵を愛していると言うことを伝えることが出来たなら…、この日のことはなかったのかもしれない。そう思うと無力感だけがただ僕の心を覆っていた。


あなたのそばにいたかった

第一章別れ…前編


 時は、明治。文明開化の足音が日増しに大きくなって日本初の内閣制度が出来上がりつつあるころ、わたくしは、ある家庭に引き取られた…。わたくしには、父上様も母上様もいない。だからみなしごだった。でも、どういう因果か海神の家に引き取られる。ちょうどわたくしが五歳のお誕生日を迎える日の前だった。初めて孤児院から出る日の朝は空が青く透き通ってとても気持ちのいい朝だったこと、そして人より少々体の弱いわたくしは海神の家に向かう途中ちょっとだけ気分を悪くしてしまっておじ上様たちを大いに心配させてしまったことをわたくし自身よく覚えている。初めて孤児院ではない家、言い知れない不安がわたくしを覆う。でもそんなわたくしの不安を安心に変えさせてくれる存在がこの家の男の子だった。
 名前を航といった。知的でとても素敵な人だった。わたくしより二歳ばかり年上の彼・航さん、そんな彼のことをわたくしは“兄上様”と呼んで慕っていた。兄上様とは二歳違う。でもわたくしには本当の兄上様のように思えて…。兄上様はお優しくて、どんなときにでもわたくしの体のことを気にかけてくれる。ううん、それだけじゃない。わたくしが寂しくて泣いていたときにはよく兄上様が慰めてくれたものだった。
 もちろんわたくしは自分がみなしごである事は知っていたし、おじ上様たちも特別わたくしをどうのこうのとは言わず普通の家族のように接してくれた。不満もない。とても幸せな気がした。やがてわたくしが十六になるころ、海神のおじ上様、おば上様に兄上様の将来の良き伴侶になってくれといわれた。わたくしは、まさに天にも昇るような気持ちで、即座に承諾する…。今、わたくしの人生はようよう明るくなってきているような気がした…。
 わたくしは女流文学士を目指して、毎日学に励んでいる。でも、わたくしは日本の文学だけではどうも物足りなさを感じていた。そんなある日のこと…。
「鞠絵、鞠絵の好物の蕎麦湯を持ってきたよ…。さあ、あまり根をつめると体に毒だよ? そろそろ休憩してはどうだい?」
 兄上様がそう言ってわたくしのお部屋の襖を開けた。襖の奥には大きな壁掛け時計が立てかけてある。わたくしは眼鏡をかけなおし、落ちかけた羽織を元に直して…、ふっ、と時計を見る。時計は午前零時を指していた。もうそんな時間かしら? まあいいですわ。そろそろ休憩を取ろうと思っていたところですから…。
「あっ? 兄上様…。うふふっ、そうですね? そろそろ休憩に致しますね?」
 わたくしは、そう言って兄上様の持ってきた蕎麦湯を一口飲む。兄上様の作ってくれる蕎麦湯。とても美味しい。でも何よりもわたくしはそんな兄上様のお心が嬉しかった。にこっと微笑むわたくし。お部屋には乱雑に本が積まれている。これは文学の評論集などでわたくしがよく読むもの。
「鞠絵…。勉学、大変なのだな?」
「ええっ? そっ、そんなこともないですわ…。でも、わたくしはもっと多くの文学作品に触れてみたいんです…。まっ、まあ、これは、わたくしの夢みたいなものですね…。うふふっ。……、もしも、もしもですよ…。わたくしが文学士の勉学に外国へ行きたいと言ったら…、兄上様ならどうなされますか?」
 わたくしはそう言ってちらと兄上様の顔を見る。突然そんなことを言われたのかびっくりしたような顔になる兄上様。少々驚いた声でこう言った。
「えっ? ぼ、僕は……」
「うふふっ。冗談ですわ…。もしそんなことになったとしても、兄上様のことが心配で…、わたくし、外国に行ってもすぐに帰って来てしまうでしょうね…。…もう、こんな時間ですわ…。もう少し頑張ることに致しますね?…」
「うっ、うん…」
 そう言って、兄上様は静かに襖を閉めてわたくしの部屋を出て行った。本当は外国の文学に直に触れてみたい。でも居候の身であるわたくしにはそんなことは言えなかった。いや、言えばおじ上様たちは何とかしてくださるだろうと思う。でも海外ということになると、兄上様と離れ離れにならなければならない。そう思うとわたくしは、わたくしには言えるはずもなかった。


 僕は鞠絵の役に立ちたかった。鞠絵に心から喜んで欲しかった。ただ、そう思った…。海神の家は結構な家で、僕はその家の一人息子だ。昔は引っ込み思案だった僕も、今では元気に働いている。それは、一概に鞠絵のおかげだ…。もし、鞠絵がいてくれなかったら、今ごろ僕はどうなっていたか分からない…。僕はもともと体が丈夫な方ではなかった。それに、鞠絵も体が弱かった。僕は鞠絵と同じだった…。しかし、僕の体力は徐々に回復していった。
 でも、鞠絵は体が弱いままだった。喘息持ちなのか、冬になるといつも風邪を引いていた。最近は体力も回復してきたというものの、今でも僕は鞠絵のことが心配でならない…。当の鞠絵は僕の心を知ってか知らずか、一生懸命に…、嫌な顔一つせずに…、僕の手伝いや家事や勉学などに頑張っている。だから僕はどうしても鞠絵に喜んで欲しかった。鞠絵の喜ぶ姿が見たいと思った。海神の家に来て、一生懸命に頑張って一言の文句も言わない鞠絵の、たった一つの願いを叶えさせてあげたいと思った。僕は父さんに相談する。すると…、
「そうか…。鞠絵がそんなことを…。そうか…。航、私は鞠絵を自分の子のように思ってきた。鞠絵の願いとあれば、叶えさせてあげたいと思う。さしもの…、日露戦争のおかげで資金繰りが苦しい状態なのだ…。分かってくれ…、航」
 無理だと言うことは分かっている。先の日露戦争では多額の戦費がかかったと言うことだ。でも僕は必死にお願いした。鞠絵のたった一つの願いを叶えさせてあげたい。その一心で…。
「父さん!! 鞠絵のためだったら、僕は…、航は……、どんな苦労でも喜んで受けるよ!! だから、僕の、航の一生の願いだと思って…、父さん…、お願いだから聞いてはもらえないだろうか?」
「うむ。…航、一つだけ望みはある。先日、仕事柄よく訪れる先の人で山神燦緒という青年がいてな…。その青年の妹に咲耶という鞠絵と同じ十九の娘がおるそうだ。それで、お前のことを話すと、その青年から“是非にでも会わせてくれ”と言ってきてな? そこは、維新後の軍需産業で、莫大な富を得たところだ…。山神君ならば鞠絵の願いを叶えてあげることが出来るかも知れん。どうだ? 航。一度会ってみては?」
 はっ、と僕は気づく。“会いたい”とは、つまりは“お見合い”、そしてゆくゆくは“結婚”ということなのだろう。父さんの顔を見る。父さんも複雑な表情で僕の顔を見つめていた。僕は鞠絵と将来を誓いあった。その鞠絵を僕は裏切ろうとしている。そう思うと心がつらかった…。でも、鞠絵の願いを叶えさせるためには…。鞠絵の将来のこともある。僕との婚約を破棄させて、父さんはいったい鞠絵をどうするつもりなんだろう。このまま鞠絵を見捨てるつもりだろうか? そのことだけは絶対に止めてほしいと思った。もし鞠絵を見捨てることがあれば一緒に連れていく気で僕は父さんに尋ねる。
「父さん…。もし、もし僕が咲耶さんと一緒になってしてしまったら、鞠絵は? 鞠絵はどうするつもりです?」
「鞠絵には、お前の本当の妹になってもらう。私も年を取った。娘の一人もほしいと思っていたところだ…。だから、鞠絵はこの家の娘になってもらう。航…。だから、お前は何も心配しなくてもいい。悪いようには決してしない。これは航、お前との約束だ…」
 僕は、その父さんの言葉を聞いて安心した。鞠絵が本当の妹になる。そう考えただけで、僕は…。でも、でも僕は鞠絵を裏切ってしまった。鞠絵の素直で穢れのない心を裏切ってしまった。僕の目から涙が零れ握りしめた拳へぽたぽたと落ち、ズボンにしみを作った……。


 わたくしは、頑張って勉学に勤しんでいた。文学士になるため、そして兄上様という生涯を愛すべき人のために頑張っていた。最近は勉学が忙しくて学校へ泊りこんでいて、海神の家には行ってはいない。今度おじ上様の好物でも買っていこう。そう思っていた。そんな矢先のことだった…。
「おい、聞いたか? 海神の一人息子があの軍需成金、山神の妹と結婚するらしいぜ…」
 そんな声がどこからか聞こえてくる。“えっ?” と一瞬わたくしは自分の耳を疑う。嘘だと思った。あのお優しい兄上様に限って、わたくしを騙して他の女性と結婚するはずがない。そう思った。第一海神のおじ上様、おば上様はわたくしに一言も言ってはいない。これは嘘だ…。今日でも、海神の家に行って面白く言ってみよう。おじ上様、おば上様は、きっと冗談だと言って笑ってくれるだろう。そう思った。
 夕暮れ時、1ヶ月ぶりに海神の家に向かった…。がらがらっ、と戸を開ける。しかし、いつもなら真っ先に出迎えてくれるはずの兄上様の姿が、今日はなかった。おば上様の姿もなかった。代わりにおじ上様が出て来た。
 おじ上様は何か神妙な顔つきでわたくしを見ていた。“話がある…” そう一言だけ言うとおじ上様は奥へと消えていく。わたくしは居間に通された。おじ上様が居間に入ってくる。兄上様の姿はここでも見えない。どうされたのだろう。そう思い辺りをきょろきょろと窺う。おじ上様は目を閉じてじっと座っているだけだった。暫く沈黙の後、おじ上様は静かにこう言う。わたくしが予想だにしていなかったことを…。
「…鞠絵、航と別れてはくれまいか?」
「えっ? い、今、なんて?」
「航と、別れてはくれまいか?」
 おじ上様はまた静かにそう言われた…。わたくしは目の前が真っ暗になる。あの噂は本当だったの? そう思った。でもあのお優しい兄上様が、わたくしを裏切ってよその女性と一緒になるわけがない。これは夢よ! 悪い夢よ! そう、信じたかった。でも…、
「まあ聞け、鞠絵。お前は文学の勉学に外国へ行きたいそうではないか。航はお前を立派にしてやりたいと思って、今回、お前との婚約を破棄して、山神君の妹…、咲耶さんというのだが…。その人との結婚を決めたんだ。鞠絵…、お前には本当にすまないと思っている。航はお前との約束を破ってしまったって。そう言いながら涙を流していたよ…。私たちも何とかしたかった。本当は、海神の資金でお前を外国へ行かせてやりたいと思った…。しかし、先の日露戦争のおかげでな…。どうしても、資金を工面してやることが出来なかったのだ…。許しておくれ。しかし、お前には私の娘になってもらう事にした。これで、お前たちは本当の兄妹だ。これからも仲良くしてやってくれ。なっ? 鞠絵…」
「…はい
「鞠絵。別に航はお前を嫌っているわけではないのだ。ただ、航はもっとお前に勉学をさせてやりたい。そう思ってのことなのだ。航はお前のことが好きなのだよ。好きな人のために何か出来ないか…。航も苦渋の選択をしなくてはならなかったんだ。なあ、鞠絵…。お前なら分かってくれると思う。本当なら私たちの方で何とかしてやりたかった。だけど、戦後の混乱でどうすることも出来なかったのだ…。だから、航を恨まないでやっておくれ…。頼む…。鞠絵」
「…はい
 わたくしの期待は見事に裏切られた。わたくしは、信じられなかった…。わたくしのことを生涯の伴侶として一緒に楽しい家庭を築こうと約束した兄上様が、その兄上様が…。わたくしを裏切って、わたくしの知らないよその女性と婚約までして、結婚しようとしていたことが…。わたくしは何も言わず、ただおじ上様の言うことを聞いていた。
 いや、正確には聞こえていた。ただ何を言っているのか分からず、“はい”とだけ繰り返すに過ぎなかった…。


 その頃、僕は咲耶さんに会っていた。咲耶さんは、鞠絵とは対照的な活発な人だ。鞠絵も早く元気になってくれればと思う。外国は医学が発達して良いお医者さんがたくさんいるらしい。ひょっとしたら鞠絵も元気になれるかもしれない。僕はそう思った。と、咲耶さんが…。
「航さん…。また鞠絵さんのことを考えていたのね?」
「えっ? 分かるのかい?」
 僕は驚いてそう聞いた。咲耶さんは沈痛な面持ちで言う。
「ええ、分かるわよ。だって、航さん、独り言のように呟いていたんだもの…」
「…僕は、僕はね、咲耶さん。一生の伴侶にするって言う、そう言う将来を誓い合った鞠絵との約束を破ってまであなたと一緒になることにしたんだよ…。鞠絵には本当に悪いと思うよ…。でもね、咲耶さん。僕はあなたを幸せにしたい。今は鞠絵に裏切り者と呼ばれようとも。どんなに罵られようとも…。きっと後になって、僕のやったこの行為が鞠絵にとってどれだけいいものになっているのか…。必ず分かってくれる日がくる…。そう、信じたいんだ。それに…、今まで、僕や家族のために病弱な体で一生懸命頑張ってきてくれた最愛の…」
 そこで僕は首を横に振った。僕にとって鞠絵は、妹なんだ。そう言い聞かせるのに必死だった。でも、そんなことを言ってしまう自分が嫌だった。本当は鞠絵を愛している。心の底から愛している。でも、僕は…。
「いや、妹のたった一つの願いをかなえさせてやりたいと思っているんだ。お金のためにと思われているかもしれない。だけど…、咲耶さん。僕はあなたを幸せにしたい。これは僕のわがままかもしれないけど…」
 そう、言っていた。何故そんなことを言ったのか、僕にも分からない。だけど僕にはどうしても咲耶さんを見捨てることが出来なかった。お金はあるけれど咲耶さんの母さんは男の人を何人も作っては遊ぶ遊び人…。父さんにも愛人がいるとのことだった。咲耶さんは燐緒さんと妹二人と必死で…、
“そんなことは止めて!!”
 と、何度も何度も言っていたんだそうだ。どんなにお金があっても咲耶さんの家の中は…。何だか咲耶さんがとても可哀想に思えた。家庭の愛情を全く知らない、とても、とても可哀想な少女のように思えた。咲耶さんは首を横に振り、僕の目を真っ直ぐに見つめ、そして僕の肩にそっと顔を寄せて…、
「ありがとう…」
 そう、一言言う。その一言にどれだけの重みがあるのか、今の僕にはよく分かる。ふと気が付くと、僕は知らず知らずのうちに咲耶さんを抱きしめていた。月は僕たちを優しく照らしている。鞠絵は僕の心をきっと分かってくれる。そう、そのときは信じて、いた……。


 空には、丸い月がかかっていた。わたくしは、兄上様と咲耶さんという女性がよく出会う場所に来ていた。おじ上様から兄上様の所在を何とか聞き出して、わたくしは兄上様と会うことにした。今ならまだ間に合うかも知れない。そんな淡い期待をもって…。しかし、わたくしは見てしまった。兄上様が女性と…、わたくしの知らない女性と楽しそうにお話をして、そして…、兄上様がその女性を抱きしめている姿を…。はらはらとわたくしの目から大粒の涙が零れる。“兄上様、何故? 何故?” 口からそんな言葉が飛び出した。だけどその声は兄上様の耳には届かない。その夜、わたくしは兄上様を海岸に呼んだ。これが、兄上様との最期の別れになるかもしれない…。そう、思って…。
「わたくしは胸がいっぱいで、何も言うことが出来ません」
 五、六歩、兄上様はわたくしの方へ近づき、こう言われる。
「許しておくれ…。鞠絵…」
「何も今さら謝ることはないですわ。兄上様…。今度の事はおじ上様、おば上様の方から言い出したのか、それとも兄上様の方から言い出したのか、それを聞けばいいのですから…」
「……」
「こちらへ来るまでは、わたくしは兄上様を信じておりました。兄上様に限ってそんなことがあるはずがないと…。信じるも信じないもありませんわ。いずれ夫婦になる仲で、知れた話でしょう?」
 わたくしの目には涙が溢れ、声も震えていた…。悲しみを堪えるようにわたくしは後を続ける。
「大いなる恩を受けているおじ上様、おば上様の事だから、頼むと言われた時には、わたくしは火の中、水の中へでも飛び込む覚悟ですわ…。火の中、水の中へなら飛び込みますが、この頼みばかりはわたくしも聞くことは出来ないと思いました。火の中、水の中へ飛び込めと言うよりは、もっと無理な、あまりに無理な頼みではないかと…。そう思いました…。わたくしはすまないけれど、おじ上様を恨んでおります。そうして言う事もありましょうに、この頼みを聞いてくだされば外国へ行かせてくださると言うのです。い……、い……、いかにわたくしが貧乏なみなしごでも、兄上様を売ったお金で…、そう言うお金で…、外国へ行こうなどとは思いません!!」
 わたくしは立ち止まって海に向かって泣いた。兄上様はわたくしに寄り添って、ちらっとわたくしの顔を覗き込む。そして…。
「許しておくれ……。鞠絵…。今回のことは、みんな…、僕が…。許しておくれ……」
 わたくしの手を持って、兄上様はわたくしの肩に顔を押し当ててそう言う。わたくしは声を押し殺すように泣いていた。波は月に照らされてとても綺麗だった。立ちつくすわたくし達の影はまるで墨のように黒かった。わたくしは涙交じりの声で静かにこう言う…。
「それでわたくしは考えたのです。これはおじ上様がわたくしを説得して、兄上様の方はおば上様が説得して、無理にここへ連れ出したに違いないと…。おじ上様、おば上様の頼みとあっては、わたくしが承知出来ないと言う立場だから、はいはいと言って聞いていたけれど、兄上様。あなたはいくらでも剛情を張っても差し支えないんですよ。どうあっても嫌だと兄上様さえ言い通せば、この縁談はそれで壊れてしまうんです。わたくしが傍にいると知恵をつけて邪魔をするものだから、わざとわたくしが忙しい時期を見計らって来たのですね。そう思うと、心配で心配で、わたくしは夕べは一睡もしていません。いろいろ言われるために嫌と言えない事になって、もし承諾するような事があっては大変だと思いました。だから今日は学校へ行くつもりでわたくしはわざわざ様子を見に来たのです。馬鹿です! 馬鹿です!! 鷺沢鞠絵ほどの大馬鹿者が世界中を捜してどこにおりましょうか!! わたくしはこれ程…、これ程自分が大馬鹿者とは、十…、十九歳の今日まで知りませんでした……」


 僕の心は悲しみと恐ろしさに襲われる。鞠絵を見る。ふぅふぅと息が乱れていた…。
「兄上様、よくも、よくもわたくしを…、鞠絵を騙してくれましたね?」
 僕は思わず慄いた…。睨みつけるように鞠絵は僕を見てこう言う。
「ここに来たのは、咲耶さんに会う為でしょう?」
「そっ、そればかりは…」
「まあ、そればかりは?」
「あまりに誤解が過ぎるよ…。鞠絵…。これはあまりに酷いよ…」
 慄いている僕を尻目に、鞠絵は眼鏡の奥の鋭い目を僕に浴びせてこう言う。その目は僕が鞠絵と一緒に暮らし始めてから初めて見る目だった。
「あなたでも酷いと言うことを知っているの? 兄上様…。これが酷いと言って泣く程度なら、大馬鹿者にされた、顔に泥を塗られたわたくしは…、鷺沢鞠絵は、血の涙を流しても足りませんわ。あなたが納得しないのなら、ここに来る前にわたくしに一言あってもいいではありませんか。家を出るのが突然でその暇がなかったら、あとから手紙を出せばいいではありませんか。わたくしに黙って家を出るばかりか、何の便りも出さないところを見れば、初めから咲耶さんと出会うことになっていたのですわ! あるいは一緒に来たのかも知れません…。そして、兄上様。あなたはその女性と、咲耶さんと、一緒に一夜を共にしたのですね…。ひどい!! ひどい仕打ちですわ!!」
「そんなこと……。鞠絵。これはあんまりだよ。あんまりだ」
 僕は鞠絵のそばに行こうとする。だけど、そばへ行こうとするそんな僕を、鞠絵は突き飛ばしてこう言った…。
「こんなことが、こんなことが、ひどい仕打ちではないとでも言うのですか?」
「そっ、それは…」
「いくら大馬鹿者のわたくしでも、自分の好きな人が、大切な人が、ほかの女性といる。しかも楽しそうにお話をしている。そんなところを見てしまったら。わたくしが、わたくしがどういう気持ちだったか、あなたに、あなたに分かりますか? ええっ? わたくしというものがありながら、そのわたくしを騙して、よその女性と一緒にいたら、一夜を共にしていないという証拠がどこにあると言うの? ええっ? 兄上様」
 鞠絵はそう言うと僕の顔を睨みつける。その顔は悲しい顔だった。僕は言う。
「そう言われてしまうと、僕は何も言えないけど、咲耶さんに会ったんだ。約束していたと言うのは、それは全く鞠絵の誤解だよ? 僕たちがこっちに来ているのを聞いて、咲耶さんが後から尋ねて来たんだ…」
「何で咲耶さんが後から尋ねて来るんです? わたくし、見ていたのですよ? あなたと咲耶さんが抱きしめ合ってる姿を…」
 僕は、唇に釘を打たれるかのように次の言葉が出なかった…。鞠絵の眼鏡の奥の目は、そう言っている間に僕の過ちを悔い改めさせ、罪を詫びさせようとしていたに違いない。僕が咲耶さんと結婚しないということを、鞠絵は信じていたに違いない。もし信じられなくても心のどこかで信じていたに違いない…。いかに鞠絵が僕を信じていたのかがよく分かった。今はただ一つ、僕の心変わり、鞠絵は悟ったに違いないだろう。そう思った…。


 兄上様はわたくしを捨てた。わたくしは、わたくしの大切な、本当に大切な人を見知らぬ女性に奪われた。わたくしが一生をかけて愛していた兄上様は、般若のようにわたくしを苦しめる。恨みはわたくしの心の中にまで達した。怒りでわたくしの胸は張り裂けそうだった。わたくしは最愛の兄上様を殺して自分も死のうと考えた。すると、たちまちわたくしは頭の中が裂けそうになる感覚を覚える。苦痛に絶えかねて尻もちをついて、わたくしは頭を抱えるようにその場に倒れこんだ。
 兄上様はわたくしを見て驚く間もなく、わたくしを抱きしめる。わたくしの眼鏡の奥の閉じた目からたくさんの涙が流れた。その濡れる灰色の頬を、月の光は悲しげに照らし出している。わたくしの吐く息は海の波のように消えていく。兄上様はわたくしの背中を抱きしめ、揺り動かして、びっくりしたような声を出した。その声は更に大きくなっていった…。
「どうしたのだ?! 鞠絵! どうしたのだ?!」
 わたくしは力無げに兄上様の手に触れた。後ろ手に触れた手。とても温かかった。兄上様の顔は見えないけれど泣いていらっしゃるのだろう。わたくしの背中越し、わたくしの着物が濡れていた。しばらく沈黙の後、わたくしは静かにこう言った…。
「ああ、兄上様。こうして二人が一緒にいるのも今夜限りですわ。あなたがわたくしの介抱をしてくれるのも今夜限り。わたくしがあなたに物を言うのも今夜限りです。二月の十一日…。兄上様、よく覚えておいてくださいな。来年の今月今夜、わたくし・鷺沢鞠絵はどこでこの月を見るのでしょう。再来年の今月今夜、十年のちの今月今夜…、一生を通してわたくしは今月今夜を忘れません…。いいえ、忘れるものですか。死んでもわたくしは忘れませんわ! …兄上様、二月の十一日ですわ。来年の今月今夜になったなら、きっとわたくしの涙で必ず月を曇らせて見せますから。もし月が、月が…、月が曇ったなら、兄上様、わたくしはどこかであなたを恨んで今夜のように泣いている。そう、思っていてくださいな……」
 そう言うとわたくしの頬をまた涙が伝い落ちる。月を見ると、わたくしと兄上様を優しく照らしていた。ふっと肩越しに振り返り兄上様を見ると、兄上様はわたくしの肩に顔を押し付けて泣いていた。
「そんな、そんな悲しい事は言わないでおくれ。鞠絵。僕も考えた事があるのだから、腹の立つこともあるかもしれないけど、少し辛抱していておくれ。僕も言いたい事は沢山あるけど、あまり言いにくい事ばかりだから口には出さない。だけど一言言いたいのは、僕は鞠絵の事は決して忘れたりしないよ…。僕は生涯お前のことは忘れたりしない!!」
「聞きたく…、聞きたくありません! 忘れないくらいなら、何故見捨てたりしたのですか!!」
 首を振りながら、わたくしはそう言う。平常心を失い、激情というべき感情がわたくしの口から飛び出した。兄上様も必死で否定するようにこう言われる…。
「だから、僕は決して見捨てたりしていない!!」
「何ですって? 見捨てていない? 見捨てていない人が、わたくしを差し置いてよその女性のところへ行くというのですか? ずっと、ずっとあなたを慕い続けてきた、このわたくしを差し置いて…」
「だから、僕だって考えている事があるのだから、もう少し我慢していておくれ。もう少し我慢して、それを…、僕の心を見ていておくれ。きっとお前の事を忘れない証拠を僕は見せる…」
 と…。こう言うわれる兄上様。わたくしはそう言った兄上様のほうに振り返る。涙で曇った目で兄上様を睨んだ。本当に、本当に忘れないのならなぜわたくしとの婚約を破棄したの? 疑念がわたくしの心の中をとぐろを巻くかのように渦巻いていた。わたくしの愛していた兄上様との別れはもうすぐ…。

後編へ…