わたくしは泣いていた。心の底から泣いていた。兄上様も涙を浮かべて悲しそうにわたくしを見つめている…。満月が浜辺の雲間から見え隠れしている、そんな夜。決別の夜だった…。


あなたのそばにいたかった

第一章別れ…後編


 わたくしは兄上様の言ったことを信じることが出来なかった。いや、心の中では信じたいと思っていたの…。でも今までこんなにも好きだった、心の底から愛していた兄上様がわたくしを裏切って、よその女性と婚約し、結婚までしようとしていた。理由はどうであれそんな兄上様の言葉を信じることが出来ないとその時わたくしは思った。兄上様を上目遣いに睨みながらわたくしはこう言う。
「ええ、下らないことは言わないでっ! 食べるのに困って身を売らなければならないものでもないのに、何を苦しんでよその女性のところへ行くのですか? 家には七千円も財産があって、あなたはそこの一人息子ではありませんか。そうして婚約者まで決まっているではありませんか。その婚約者も四、五年の後には文学士…、そしてあなたの妻になると、後の見込みもついているのです。しかもあなたはその婚約者を生涯忘れないほど、思っていると言うではありませんか。それに何の不足があって、無理にでもよその女性のところへ行かなければならないのですか? 天下にこれくらい訳のわからない話がどこにあるというの? どう考えても、よその女性のところへ行かなくていい人が、無理にでもよその女性のところへ行こうとするには、必ず何か事情がなければならないはずですわ。わたくしに不満があるのか、それとも金持ちと縁を組みたいのか…。この二つの他にはないでしょう…。言って聞かせてください。遠慮はいりません。さあ、兄上様。遠慮することはないですわ。一旦妻に決めた者を捨てるくらいの無遠慮な人がこんな事に遠慮も何もいるものですか…。さあ! さあ!!」
「僕が悪いのだから許しておくれ…」
「それでは、わたくしに不満があるのですね……」
 わたくしはそう言うと兄上様を恨めしく…、本当に恨めしく睨む。驚いた兄上様はわたくしの顔を見つめてこう言った。
「鞠絵…、それはあんまりだ。そんなに疑うのなら、僕はどんな事でもして、そうして証拠を見せるよ…」
「わたくしに不満はない? それでは山神さんの“お金”が目的ですか? この結婚もすべては“お金”に目が眩んでの事なのですね? わたくしとの離縁もすべてあなたの“欲”からなのですね? で、この結婚はあなたも承知したのですね? ええっ? …おじ上様、おば上様に迫られて、余義なくあなたも承知をしたのなら、わたくしの考えで破談にする方法はいくらでもあります。わたくし一人が悪者になれば、おじ上様、おば上様をはじめ、あなたの迷惑にもならず、壊してしまうことは出来るのですよ。今、あなたの気持ちを聞いた上で破談にする手段はいくらでもあるのです…。だから…、だからもう一度、もう一度だけでいいですから考え直してはくれませんか? ねえ…、兄上様…」


 鞠絵は全身の力を眼鏡をかけた目に集めて、思い悩める僕の顔を睨んでいた。そうして海岸べりを静かに歩く…。僕の答えは出ない。出る由もなかった……。しばらく歩いていた鞠絵は空を仰いで、ため息をつくとこう言う。
「いいです……。もう、いいです……。あなたの心はよく分かりました…」
「……」
 僕は今は言うこともないと、口を開けずに控えたけれど、鞠絵は自分の乱れる胸を眺めていた。きっと僕を刺し殺してしまいたいという衝動をこらえてじっと我慢していたに違いない。鞠絵は、また何か言おうと思っていたのだろう…。暫く歩いていたけれど、鞠絵の口からは何も言葉が出なかった。波打ち際は綺麗な姿の月に照され、風に吹かれて、びゅうびゅうと白い波が打ち寄せている。とても哀しそうな情景に、鞠絵は怒りも恨みも忘れて、暫く絵画を見ているようだった。だけど、僕が自分の知らないよその女性に取られてしまうと思うと、怒りが…、僕への怒りがこみ上げてしまうかのようにこう言う。
「夢よ! 夢よ! 長い夢を見たのよ!!」
 と…。鞠絵は顔を下にして足の向かうままに波打ち際のほうへ歩いていく…。その姿があまりに悲しくて、僕は涙を流しつつ鞠絵の元へ駆けだして行った。鞠絵を抱き止める。僕の流した涙が鞠絵の肩に落ちる。ぶるぶると肩を震わせる僕の妹。僕の涙が落ちたのが分かったのだろう。ふるふると首を左右に振るとこう言った。
「兄上様……、何を泣いているのです? あなたが泣くことはないじゃないですか! 空涙!」
どうせ、そうだよ…。どうせ……
 ほとんど聞えないまでに、僕の声は涙に乱れていた…。悲しかった。僕と一緒に将来を誓い合い、もうそこまで幸せが来ているというときに…。よほど悲しかったんだろう……。鞠絵を見ると今まで以上にぶるぶると肩を震わせているのが分かる。涙声で海のほうを見つめたままの妹がこう言った…。
「兄上様…、あなたに限ってそう言うことはないだろうと、わたくしは自分を信じるほどに信じておりました…。だけど、やっぱりあなたの心は“欲”なのですね。“お金”なのですね…。それではあまりにも、あまりにも情けないですわ…。兄上様…、あなたはそれで自分に愛想を尽きませんか? いい出世をして、おいしいものも食べられて、あなたはそれでいいでしょうが、お金に換えられて捨てられたわたくしの身になってみてくださいっ! 無念と言いましょうか、口惜しいと言いましょうか…。兄上様…、わたくしはいっそあなたを刺し殺して…、驚くことはありませんわ! …いっそわたくしは死んでしまいたいのです…。それをこらえてあなたを見知らぬ女性に奪われるのを、手出しも出来ずに見ているわたくしの心の中は、どんなだと思うの?…。どんなだと思うのです?! 自分さえ良ければ他はどうなろうと、あなたは構わないの? 一体、鞠絵はあなたの何なの? 何だと思うの? 海神の家には厄介者でも、あなたの将来を誓った恋人ではありませんか……。わたくしはあなたの愛人になった覚えはありませんわ! 兄上様…、あなたはこのわたくしを慰み物にしたのですね…。普段から、あなたの態度が水くさい水くさいと思ったのも道理ですわ。初めからわたくしをひとときの慰み物のつもりで…、本当の愛情はなかったのですわ! そうとは知らずにわたくしは自分の身よりもあなたのことを愛していた…。あなたのほかには何の楽しみもないほどに、あなたの事を思っていた。それ程までに思っているわたくしを…、鞠絵を…、兄上様……、あなたはどうしても捨てる気なのですか? それは無論、資金力の点では、わたくしと咲耶さんとは比べものにはなりません…。あっちは屈指の資産家の妹…。わたくしはもとより一介の女学生です…。けれど、兄上様。よく考えてみてくださいな…。ねえ…。人間の幸せは決してお金で買えるものではありませんよ…。幸せとお金とは全く別物です…。人の幸せの第一は家庭の平和です。家庭の平和とは何か…、それは夫婦が互いに深く愛すると言うほかにはありません…。あなたを深く愛する点では、咲耶さんのような人が百人集まっても、到底わたくしの十分の一も愛することは出来ないでしょう…。咲耶さんが財産で誇るのなら、わたくしは…、わたくしは彼女の夢想することも出来ない、この愛情で争ってみせます!! 夫婦の幸せとはこの愛情の力です…。愛情がなければ既に夫婦ではないのですよ? 自分の身にかえて、あなたを思っているこのわたくしを捨てて、夫婦間の幸せには何の利益にもならない、むしろ害になりやすい…、その財産を目的に結婚をするのは、兄上様…、あなたはいったいどういう心境なの?…。もしお金というものが人の心を迷わすもので、賢者や学者や豪傑が…、千万人に勝るとも劣らない立派な…、立派な…男の人でさえ、たった一銭のお金のために奈落の底に突き落とされたことだってあるのです。それを考えれば、あなたがふっと気が変わったのも、あるいは無理もないのでしょう…。だからわたくしは、それを咎めたりしません。…ただ、もう一度、兄上様…、よく考えてみてくださいな…。そのお金が……、山神さんの財産があなたにとってどれ程の効力があるのかということを…。…兄上様、あなたが働いて、わたくしが家庭を守る。これが家庭のあるべき姿だとわたくしは思っております…。でもあなたが…、あなたがもし怪我でもして動けない体になったなら、わたくしはどんな仕事でもやって見せる覚悟です。それで、もしその日の工面が出来なかったら、わたくしは、自分は食べなくても、決してあなたに不自由はさせません! 兄上様…、わたくしはこれほど……、これほどまでにあなたの事を思っているのですっ!!」
 鞠絵は涙を流してそう言って僕のほうに振り返った……。


 わたくしは兄上様のほうに振り返る。眼鏡を持ち上げて落ちる涙を払うとこう言った。
「あなたが咲耶さんのところへ行く。それは立派な生活をして、おいしいものも食べられて、楽も出来るでしょう…。けれど、あれだけの財産は、決してあなたたちの為に費そうとして作られた財産ではありません。そういう事を、兄上様…、あなたも考えなければいけませんわ…。愛情のない夫婦の間に、立派な生活が何ですかっ! おいしいものが何ですかっ! 世間には、馬車に乗って心配そうな青い顔をして、夜会へ呼ばれて行く人もあれば、夫の車に揺られて花見に出かけていく母子だっているのですよ…。咲耶さんのところへ行けば、家の中の人も多いし、人の出入りも激しいし…。気兼ねも気苦労も人一倍大変でしょう…。その中に入って、気を痛めながら愛してもいない妻を持って、それであなたは何を楽しみに生きているのです? そうして勤めていれば、末にはあの財産があなたの物になるのですか? 山神さんの旦那様と言えば立派かも知れないけれど、食べるところはほんの少しにしか過ぎないではありませんか。仮にそうであったとしてもあの財産があなたの物になるとしたところで、あなたに何十万というお金がどうなるというのですか…。何十万のお金をもってまた新しい女の人を作るおつもりですか? そしてまた…、わたくしのようにお捨てになるのですか? 女性を持たなければ男性の身が立てないものなら、一生の苦楽を他人に頼って、その男性の宝とするのは妻ではありませんか! 何百万のお金がありましょうと、妻がどうしようもない人であったなら、男性の心細さは、花見にも連れていけない車夫に及ばないのではありませんか…。聞けば、あの咲耶さんの母上様は、家の中に二人、家の外に三人も愛人がいるという話ですわ。お金のある者は大方そんな真似をして、夫は床の間の置物にされて、いわば捨てられているのです。捨てられていながら、その愛されている愛人よりは、責任も重く、苦労も多く、苦しみばかりで楽しみはほとんどないといってもいいですわ。あなたが行くところだって!…。もとより向こうの望みであなたをもらうのだから、当分は愛されるでしょう…。だけど、それが長く続くものですか! お金があるから好きな事も出来る。そして他に楽しみが出来て、じきにあなたへの恋は冷めてしまうのは分かっているのです! その時になったとき、あなたの心を考えてみてくださいな…。あの山神家の財産がその心の苦しみを救うのですか? 家に沢山のお金があれば、妻に呆れられて…、捨てられて床の間の置物になっていても、あなたはそれで楽しいの? 満足なの? わたくしがあの人にあなたをとられる無念はいうまでもないけれど、三年後のあなたの後悔が目に見えて…。心変わりをした憎いあなたではありますけれど、やっぱり可哀想でならないから、わたくしは真実を言っているのです! 咲耶さんに惚れてあなたが行くというのなら、わたくしは未練がましく言いません…。だけど、兄上様…。あなたがただ立派なところへ行くという…、ただそれだけのことに迷わされているというのは、それは間違いですわ! 本当に間違っています! 愛情のない結婚は、つまり自分への後悔です…。今夜…、あなたの心一つで、あなたの一生の苦楽は決まるのですから、兄上様…。あなたも自分の身が大事だと思うのなら、またわたくしが不便だと思うのなら…。お願い! お願いですから…。もう一度、この結婚を破談にしては頂けませんか?…。七千円の財産と、わたくしが…、鞠絵があなたの妻というのは、二人の幸せを保つには十分ではありませんか?…。今でさえ、十分二人は幸せではありませんか? 女のわたくしでさえ、あなたさえいれば山神家の財産など、これっぽっちも羨ましいとは思いませんのに…。兄上様! あなたはいったいどうしたというのです! わたくしをお忘れになったの? わたくしを…、鞠絵を可愛いとは思わないのですか?」
 わたくしは危ないところを助けるかのように兄上様を抱きしめて、零れる涙を拭こうともせずに身を震わせて泣いた。兄上様も離れまいと必死に抱きしめ、そして震えている。気が付くとわたくしは唇を咬んでしゃくりあげながら泣いていた。しばらくして、兄上様は静かに言う…。
「ああ、僕は…、僕はどうしたらいいんだろう! もし僕が咲耶さんのところへ行ってしまったら、鞠絵、お前はいったいどうするのだ? それを…、それを聞かせておくれ…」
 と……。木を裂くようにわたくしは兄上様を突き飛ばした。そして、わたくしは兄上様を憎憎しく見つめて…、
「それでは、いよいよあなたは咲耶さんのところへ行く気なのですね?! これほどまでにわたくしが言っても、あなたは聞いてはくれないのですね?! えええ!! はらわたの腐った男!!」
 そう、叫んだ…。心の底からそう叫んだ。唇を噛む。血が出るほど噛む。悔しかった。わたくしがどれほど兄上様のことを思って言っているのか…。気が付くと噛んだ唇から血が滲み出ていた。
 兄上様は、またわたくしの元へ来て抱きしめた。わたくしは兄上様を渾身の力を込めて思い切り突き飛ばす。
 ざざざざっ……と、地響きを鳴らして兄上様は倒れこんだ。倒れたときの衝撃か、兄上様は声も出せずに苦痛に耐えている。わたくしはそのまま砂の上に手をついて泣いた。涙がまるで滝のようにわたくしの眼鏡の上に落ち、眼鏡から溢れた涙は地面に落ちる。ぽたぽたと、握りしめた手の上、そして砂の上に落ちて大きなしみを作っていた。兄上様の身動きを取らせないよう睨みつけるわたくし。兄上様をなおも憎憎しく見つめるとこう言った…。
「航さん…。あなたの…、あなたの心変わりをしたばかりに、わたくしは…、鷺沢鞠絵は、失望の果てに発狂して大事な一生を誤ってしまうのです。学問も、止めですわ! 何もかも、もう止めですわ! この恨みのために鞠絵は生きながら悪魔になって、あなたのような人たちの肉を食べてやる覚悟です!! 山神の、だ……、だん……、旦那様! もう一生、お目にかかることはないでしょうから、その顔を上げて、真人間でいる間のわたくしの、鞠絵の顔をよく見ておきませんか…。……長々の御恩に預ったおじ上様、おば上様には一目会って重ね重ね御礼を申し上げなければならないのではありますけれど、仔細があって鞠絵はこのままおいとまを致しますから、お達者で…。……兄上様、あなたの方からよくそう言っておいてくださいな……。もし、鞠絵はどうしたのだ? とおじ上様、おば上様たちが尋ねたなら、あの大馬鹿者は二月十一日の晩に気が狂って、この浜辺から行方知れずになってしまったと……。そう、言って下さい………」
 兄上様は飛び起きて立とうとする。けれど脚の痛みに耐え切れず兄上様は倒れてしまった…。やっとのことでわたくしのところへ這ってきて、声と涙とを一緒に出して…、
「まっ、鞠絵。ま……、ま……、待っておくれ。お前はこれから、ど……、どこへ行くのだ?……」
 わたくしはさすがに驚いた。兄上様の膝からは、おびただしい血が出ていて、兄上様のズボンを真っ赤に染めていたからだ……。
「け…、怪我をしたのですか?」
 寄ろうとするわたくしを兄上様はまた抱きしめて…、
「ああ…。こんな事は構わないから、お前は何処へ行くのだ、鞠絵…。話があるから今夜は一緒に帰っておくれ。ねえ、鞠絵。お願いだから…、僕の…、僕の言うことを聞いておくれ…」
「話があるのならここで聞きますわ…」
「ここでは僕が嫌だ……」
「ええ…、何の話があるものですか。さあ、この手を放してください…」
「僕は放さない…」
「剛情を張るとまた突き飛ばしますよ……」
「突き飛ばされてもいい…。僕は…、僕は…」
 わたくしは、また兄上様を突き飛ばした。兄上様は無残にもまた倒れてしまった。眼鏡は何処かへ飛んでいった…。
「鞠絵…」
 わたくしはただ前を向いて歩いた。兄上様は必死に起き上がって、脚の痛みに何度か倒れようとしつつもわたくしの後を追って…、
「鞠絵…、それじゃあ、もう止めたりしないから…、もう一度、もう一度……、僕は言い残した事がある! ごほっ、ごほっ」
 今日は寒い日。海岸線を渡る風も一際冷たく感じられる。そんな中、わたくしから突き飛ばされて砂まみれになっても、必死で引き止めようとしている兄上様。そんな兄上様。やはり冬の風は堪えたんだろう。お風邪でも引いたのでしょうか…。わたくしはそう思った…。
 わたくしを追う力もなくなって、兄上様は再び起つ力もなくなって、ただ、わたくしの名前を呼んでいた。でも、わたくしは歩き続ける。涙を累々と流しながら…。心に大きな傷を負いながら……。
 しばらく歩く。もう兄上様の顔は見えなくなっていた。遠くに兄上様の影が見えた。兄上様はなおもわたくしの名前を呼び続けていたんだろう…。兄上様の声が微かに聞こえていた。やがてわたくしが丘の頂上に立ったとき、兄上様の一際大きな声が聞こえてきた…。
「鞠絵! 鞠絵ぇぇぇ!!」
 わたくしは何も言わず、その丘を降りていった。声がした方を見れば黒い影にかき消され、木々は寂しそうに風に吹かれて、波は悲しい音を立てて、二月十一日の月は白く輝いていた……。
「ま…りえ……」
 兄上様はわたくしの名前をいつまでも、いつまでも呼んでいた……。


 僕は気絶していた。気がつくと病室の中だった…。どうして病室の中だったのか僕は知らない。後で教えてもらったことだが、海岸で倒れている僕を偶然見つけてくれた人がいたらしいとのことだ。今この病室には父さん、母さん、それに咲耶さんが来ている。でも、鞠絵の姿は…、なかった。僕は父さんたちに鞠絵のことを話す…。僕の病床の片隅には鞠絵が落としていった眼鏡が置いてあった…。失意の僕に父さんは言う。
「航……、鞠絵のことは私たちに任せてくれ…。鞠絵はお前の妹だ…。それに私たちの娘でもある…。航…。ここに養子縁組の紙がある。私たちの名前はもう書いた。あとは…、ほら、ここに鞠絵の名前を書くだけだ…。……航…、お前もつらかったんだな……」
「航さん、私は鞠絵さんとは会ったことはないけど…、鞠絵さんが航さんを深く愛していたことは分かったわ。航さん…。私…、私……、いけないことをしたのかしら? 鞠絵さんの最愛の人を奪って……。鞠絵さんの将来を奪って……。私は……」
 咲耶さんはそう言って下を向く。僕は…、言った…。
「咲耶さん、別にあなたが悪いわけじゃないよ…。これは、すべて僕のせいなんだから…。僕は結局、鞠絵を見捨てたのも同じなんだ…。僕はね、咲耶さん…。鞠絵のことが好きだったんだよ…。愛していたんだよ…。本当に…、愛していたんだよ…。ただ…、それだけなんだ……」
 咲耶さんは僕の話を静かに聞いていた。ただ静かに……。そして……、
「航さん…、私は鞠絵さんのようには出来ない。航さんの大切な人のようには…。あなたの心の傷は鞠絵さんにしか癒すことは出来ないかもしれない……。でも……、私じゃ彼女の肩代わりは出来ないの? 私じゃ……、駄目なの?」
 咲耶さんはそう言う…。ふと咲耶さんのほうを見ると、咲耶さんは静かに泣いていた。そんな咲耶さんを僕は見捨てることが出来なかった。鞠絵は決して許してはくれないだろう。でも、僕は咲耶さんを見捨てることは出来なかった……。泣いている鞠絵の姿が…、今の咲耶さんにダブって見えた……。僕は……、咲耶さんと結婚した…。

つづく…