あれから…、あの日から五年の月日が流れようとしていた。僕は最愛の妹、そして、最愛の恋人を失った…。あの日以来、僕は妹・鞠絵を探し続けている。だけど、最愛の僕の妹、鞠絵の姿は、ようとして知れなかった……。


あなたのそばにいたかった

第二章復讐


 僕は、咲耶さんと結婚した。それは同時に鞠絵を裏切ったようなものだった。あれからもう五年の月日が経とうとしている。結婚してすぐに咲耶さんは身篭った。初産にもかかわらず安産だった。生まれた子供は女の子で、僕はその子に“雛子”と名づけた。その頃からだろうか? 僕が咲耶さんのことを“咲耶”と呼ぶようになったのは…。
 咲耶は、僕の事をずっと“航さん”と呼んでいる。山神家に来て五年。咲耶の家庭環境などがわかった。雰囲気などは華やかであり、ちょっとした華族のようだった…。でも、咲耶の家の中はとても冷めていた…。五年前、鞠絵が言っていたこと…。あれは本当だったんだと僕は思った。咲耶の兄は僕たちが結婚して間無しに、肺結核で急逝した。
 その三年後…。咲耶の父が亡くなった。暴漢に襲われての不遇の死だった。義母は自分も襲われるかもしれないという恐怖に怯え、気が違ったようになり…、ついには帰らぬ人となった…。義父が死んで三ヶ月後のことだ…。咲耶に残された家族は、女学校に通っている妹二人だけとなってしまった…。悲しかったんだろう…。母のお葬式の時、咲耶は僕の肩に縋って泣いていた。
 親は親だ…。いくら家庭の愛情がなかったにしても、親が亡くなって悲しまない子供がどこにいるんだろうか……。母親の遺骸に縋って泣き崩れる咲耶を見て、僕はそれを痛切に感じた。雛子はまだ二歳を過ぎたばかりだ…。僕が、頑張らなければ…。これ以上悲しいことは繰り返したくない…。咲耶の支えになってやりたい…。僕はそう思った。だって母に縋って泣いている咲耶がまるで…、五年前のあの出来事のように見えてしまうのだから…。事業は咲耶の父の遺願で僕がやることになった。もう二年が過ぎようとしている。
 仕事はそこそこうまくやっていけているようだ…。これも二年間、咲耶の父に経営の何たるかを教えてもらったおかげだ…。僕はそう思う。今日も一つ、商談をまとめて帰ってきたところだ。
「ただいま。今、帰ったよ…」
「おかえりなさい。航さん。さあ、夕食の準備も出来ているから食べましょう。雛子も、お父様にご挨拶なさいな…」
「パパ、おかえりなさい。ヒナ、ママの言うこと聞いて、ずぅ〜っとお手伝いしてたんだよ。ヒナえらい?」
「ああ。雛子はちゃんとママの言うことを聞いてお手伝いしていたんだね。えらいえらい」
 僕は、そうやって雛子の頭を優しく撫でる。雛子は嬉しそうに…、
「くししっ」
 と笑った。僕たちは、そうやって毎日を暮らしている…。毎日…、それなりには楽しいと思う。ただ一つ…、あのことを思い出さなければ…。……僕はあのことを忘れることが出来なかった。
 それは、そう。あの日…、あの月夜の晩に僕を恨んでいると言って泣いていた、たった一人の妹…。そして、止める僕を突き飛ばし、たくさんの涙と悲しみに暮れた瞳を僕に残して去って行った、僕の最愛の人…。……鞠絵、お前は今、どこで何をしているんだ…。今日も、空には丸い月がかかっている。ちょうど、こんな日だったな…。鞠絵と別れた日は…。
 なあ、鞠絵…。お前もこの空の何処かでこの美しくも儚い月を見ているのだろうか…。それとも、もう……。


 兄上様と別れて五年が過ぎた…。でも、わたくしにはほんの昨日の事のように思えて…。
 ……悔しかった…。本当に悔しかった。そして、とてつもなく悲しかった…。わたくしを生涯の伴侶として迎えると優しく微笑んでいた兄上様は、よその女性…、咲耶さんと…。でも、わたくしには何もすることが出来なかった。ただ遠くから幸せそうな二人を見ていることしか出来なかった。無力だった……。…死のうとも考えた。だけど、わたくしは死ぬことは出来なかった。
 この恨みを晴らすまでは…、わたくしは死ぬことはしない。いや、死ぬことなんて出来ない。そう思った。許せない…。絶対に許せない…。わたくしを、わたくしの心を弄んで…、そしてわたくしをまるでゴミのように捨てた兄上様が…。兄上様も、咲耶さんも、そして…、こんなことが許される社会すべても…、全部…、全部許せない…。そう思った。
 でも、わたくしにはなにも出来なかった。あの日、わたくしは兄上様と別れて一人あてもなく街を彷徨った。あの日から、もう五年が経とうとしている。でもわたくしには、つい昨日の事のように思えて…。わたくしを捨てた兄上様の温もりが、昨日の事のように思えて…。わたくしはそんな自分がとてつもなく嫌に思えた…。そしてだんだんと、わたくしは社会の薄汚れた毒に冒されていった…。


 駅のステーションの大時計が午後四時を過ぎ、汽車は客車の扉を閉じていた。機関車には煙がもくもくと立ち上り、三十両くらいの車列を連ねてえんえんと横たわる。秋の日の夕焼けに、窓々のガラスは燃えるように輝いていた。駅員は右に左に奔走して、早く早くと乗客を急がせる。老いたヨーロッパ人は駅員に見つからないようにウイスキーを盗み飲んでいた。
 桃色の服を着た十七、八の娘は日傘の柄にオレンジ色のリボンをおしゃれに飾って、小脇に挟むと汽車に乗ろうとする客に並んでいた。すぐ後から遅れまいと、所帯じみた二十八、九くらいの女の人が大きな風呂敷包みを持った上に、三歳ほどの子供を背負って、あちらの扉こちらの扉と見回している。ところが何処の扉も閉まって困っているので、車掌が慌ててやって来てようやく落ち着いたようだった…。
 三人の少女たちは車両の個室の片隅にいた。旅行鞄を持って、みんなで遊園地にでも行くように、待合室で買った菓子や飲み物などを網棚の上に置いて、パンパンと手の汚れを落として窓から首を出していた。ステーションの方を見る。秋の日が沈んで星でいっぱいになった空を仰いで一人の少女がこう言った。
「いい天気になったね。この分なら大丈夫かな?」
「でも今晩、雨が降るってお姉ちゃまが言ってたよ。ねえ? ひばりちゃん…」
 先に、天気の話をした少女の名前は衛、雨の話題を持ち出した少女は花穂と言う。二人は仲のいい双子の姉妹だった…。
「ええ…、そうですね……」
 そう言った少女は鴫澤ひばり…。少女には、七つ違いの姉と呼べる存在がいた。姉の名は鞠絵と言った…。
 少女には母がいない。父も仕事が忙しく、彼女はいつも部屋の片隅で寂しそうに泣いていた…。鞠絵はそんな彼女を不憫に思っていた。だから彼女の姉になった。ふと気が付くと彼女と鞠絵は一緒にいる時間が多くなっていた。少女は鞠絵のことを本当の姉のように思った。いつしか彼女にとって鞠絵はかけがえのない存在となっていた。
 時には厳しくて…、でも、とても優しくて、生まれは違っても彼女にとっては本当の姉だった。海神家の人たちはいい人ばかりだと、姉はいつもそう言っていた。仕事先で倒れた父が流行り病で他界すると、彼女はある家庭に引き取られた。引き取られた先の夫婦はひばりのことを本当の娘のように可愛がってくれた。
 婚約したと言う姉の便りが届いたのは、少女がある家庭の養女になってから一年が過ぎた頃だ…。便りを見れば嬉々とした文章が書いてある。姉も幸せを掴んだんだろう。彼女はそう思った。
「良かったね…。姉さん……」
 それが……。姉が行方知れずとなって五年…。彼女は、今も幸せに暮らしている。衛と花穂とは仲良しで、しかも女学校の同級生だった。今日も衛たちの姉、咲耶のところへ遊びに行くところだった。ひばりも兄に会いに行くような心持ちでいた。ひばりにとっても姉・鞠絵が引き取られた先の兄のことだ。航のことはよく知っていた。
 兄、航との婚約が決まったときの、姉の満面の笑み…。そして…。だからひばりは航や咲耶のことは知っていた。航は、咲耶との結婚式の前日の夜、ひばりに言った…。
「ひばりちゃん…、僕は君に謝らなくっちゃいけないんだ…。鞠絵との約束は守れなかった…。謝ればすむことじゃないって言うことは分かってる…。君に、“鞠絵のことは僕が幸せにする”って言ったよね?…。…ひばりちゃん。僕を憎んでいるだろうね…。恨んでいるだろうね…。でもね…、ひばりちゃん。僕は決して妹を…、僕の最愛の妹を見捨てた訳じゃないんだよ。僕は海神の家に来て、今まで一言の文句も言わず、僕や家族のために精一杯頑張ってきた鞠絵のたった一つの願いを叶えさせてやりたかったんだ…。鞠絵はきっと僕の心を分かってくれる…。そう…、思っていたんだ。そう…、信じていたんだ…。だけど僕は…、取り返しのつかない過ちを犯してしまった…。鞠絵は…、鞠絵は僕の事を本当に愛していた…。あの時…、僕は自分が犯した過ちの大きさに気がついた…。だけどね…、ひばりちゃん…。僕は、咲耶さんを見捨てることは出来ないんだよ…。泣いていた咲耶さんの姿が…、鞠絵にダブって見えたんだ……」
 航は苦渋に満ちた面持ちでそう言った。ひばりは、大好きだった姉の婚約者が許せなかった…。無論、姉が文学の勉学に外国へ行きたがっていると言うことは知っていた。愛している人のために何かしてやりたいと思うのは当然だろう。しかし、姉を思うのなら、なぜ姉と一緒にいてくれなかったのかと……。
“それも、もう昔のことですね……”
 ひばりはそう思った。大好きだった姉は、航や咲耶、ひばり…。そして自分の心にも深い傷跡を残して行方知れずとなってしまった。あれから五年、今でも兄は仕事の暇を見つけては、最愛の妹を探している。咲耶も兄と一緒に…、いや兄以上に彼の最愛の妹・鞠絵のことを探している。そうやって一生懸命姉を探してくれている二人を見て、ひばりのわだかまりは、次第に薄れていった…。


 ピーっと汽笛を鳴らして、汽車は駅を離れていった。
「ねえ、ひばりちゃん。ひばりちゃんのあねぇ、まだ見つからないの?」
「ええ……」
「大丈夫だよ…。きっとお姉ちゃま…、見つかるよ。だって、航お兄ちゃまとお姉ちゃまが探してるんだもん。きっと何処かで元気でいるよ…」
「そうですね…。元気にしていますよね…。姉さんは…」
 三人は、そう言いあって、窓ガラス越しの空を見上げた。空には、満天の星が輝いていた。姉はこの星空をどこかで見ているのか…。まだ航のことを恨んでいるのか…。それとももう……。あの月夜の夜にたくさんの涙と心に深い傷を負った姉…。ひばりは、もし姉にいつか出会うことがあったなら、航の本当の心を聞かせてあげたい。そして、姉に幸せになってもらいたい。そう強く思った…。と、車両の向こうのほうで、誰かの話し声が聞こえてくる。
「ううう…。ボキの金がぁ〜。あの女高利貸しに取られてしまった〜」
「もう! アニキが悪いんだよっ!! アタシがそんな怪しい所からお金は借りるなって何度も言ったのに…。アニキのバカッ!! これからどうするのよ…。アタシたちの生活…」
「ふっ……。そんな怪しげなところから三十円も借りるとは…。君もよほどのバカだね……。何もそんなところから借りなくてもいいだろうに…」
「うっ…。そう言うなよ〜。千影ちゃ〜ん。ボキにお金を貸してくれるところなんて、もうあそこしかなかったんだからさあ…」
「だからって、一日の利子が五円よ?! 払えるわけないじゃないのよ!! それで今や、利子が積もり積もって百円よ! 銀行からこれ以上の融資の断りがあったからって、そんな高利貸しにお金を借りるなんて、バカとしか言いようがないじゃないのよ! あ〜あ、明日からアタシたちの生活…、一体どうするのよ? まったく…。はぁ…。こんなバカなアニキを持った妹は一体どうすればいいの?…」
「まあまあ……。鈴凛くんも抑えて…。お金の方は、私の方で何とかしよう…。山田くんとはいい友達だからね…。これからも…。ねっ…。ふふっ…。……って、あれ?…。そこにいるのは衛くんと花穂くんじゃないのかい?…」


 そう言って、さっきまで話していた声の主の一人が、衛たちのところへやってきた。
「あっ、千影お姉ちゃま」
「あれ? 千影あねぇじゃない。こんなところで出会うなんて、奇遇だね…。あねぇたちもどこか行くの?」
「ああ……。そういう君たちは?…。これからどこか行くのかい?」
「うん。これから咲耶お姉ちゃまのところに行くんだ〜。えへへっ…」
「それは、嬉しいことだね…。私も、咲耶くんが羨ましいよ…。あんな素敵な旦那様をもってね…。ふふっ…、私もそろそろ結婚を考えた方がいいのかな……」
「千影あねぇも、いい人が見つかるといいね…」
「ありがとう。衛くん…。で、そちらの人は?」
 千影はそう言うとひばりの方に目をやった。すかさず衛が言う。
「この子は、ボクたちの親友でひばりちゃん。ちょうど休みになったから、これからみんなであねぇのところへ行こうとしてたところさ」
「そうだったのかい…。…こんばんは。ひばりちゃん。私の名前は川神千影。ここにいる衛くんと花穂くんの姉の咲耶くんの友人さ……。よろしく」
「えっ? あっ、そうだったんですか…。わたし、鴫澤ひばりって言います。よろしくお願いします。で…、あちらの方々は?……」
「ああ、あの二人は私の旧い友人でね…。何でも悪い女高利貸しに騙されたらしいんだよ…。私は、これからその女性に会って直談判するつもりさ……。名前は確か…、鷺?…、鷺沢?…。あっ…、そうそう、鷺沢鞠絵って言う名前らしい……」
「「「鷺沢?…、鞠絵?……」」」
 三人の声が重なった。千影は、その三人の驚きぶりに吃驚しつつもこう聞いた。
「鷺沢鞠絵を…、知っているのかい?…」
「「知るも知らないも……」」
 衛と花穂は顔を見合わせた。鷺沢鞠絵…。義兄と姉がずっと探している女性…。それにひばりの姉……。衛と花穂は、ひばりに一任するように目配せをしあった…。それを見たひばりは沈痛な面持ちで静々と言った。
「鷺沢鞠絵は…、鷺沢鞠絵は…、わたしの姉です…。五年前です。姉が行方知れずになったのは…」
 千影は、ひばりから鞠絵のことを聞いた。ひばりも、姉・鞠絵のことを知る人がいてくれたことに感謝し、一生懸命、自分の知りうる限りのことを千影に話した。千影はひばりの言うことに耳を傾けた。
 実のところ、川神家と海神家とは遠い親戚だった。だから千影は航のことは噂ながらには知っていた。でも、実際には会ったことはなかったのだ。逆に咲耶とは親しい友人で、昔からの付き合いだった。五年前…、ちょうど咲耶の結婚式の日に千影は初めて航と出会った…。それから航とも親交がはじまったのである…。
「確か…、航兄くんの婚約者だったと…。でも、いきさつは知らないが別れてしまったと…。航兄くんや、咲耶くんに聞かされていたが…。それも五年前…」
「はい…。航兄さんは、姉さんにもっと勉学をさせてやりたいと思って……。海外留学を。でも当時の海神の家は先の日露戦争のおかげで民間受注が低迷してしまって…。唯一、海神のおじ様のお知り合いで山神さんだけが……。それで止むなく、航兄さんは……」
「そうだったのかい…。でも、ひばりちゃん…。航兄くんのこと、恨んでいるんじゃないのかい?…」
「はじめは恨みました。なぜ姉さんと別れたりしたのかって……。姉さんは…、姉さんは文学の勉学に外国へ行きたがっていたんです。でも今の状態では無理だろうって…。そう話していました。兄さんは、そんな姉さんの願いを叶えさせるために…。兄さんにとって、それは苦渋の選択だったと思います…。最愛の人と別れるのは、誰でも嫌ですから…。姉さんと別れたことを話していた兄さんは泣いていました…。悔しかったんでしょうね…。悔しくて…、悲しくて…。自分が情けなくて…。だからわたしは兄さんのこと、もう恨んでなんかしていません。それに咲耶さんは姉さんのことを毎日探してくれているんです。今では逆に、兄さんたちには感謝しているくらいです…」
「そうか…」
 千影は一言そう言うと満天の星が瞬いた夜空を仰いだ…。ひばりの姉・鞠絵に対する気持ちを汲み取り、何としてもそんなあこぎな商売から手を引かさなければならないと千影は思った。
「鞠絵くんのことは、私に任せてくれ…」
「よろしくお願いします…。千影さん……」
 千影は、何も言わずこくりと頷いた。列車は終着駅・横浜へと向かっていった。


 あの日から五年の歳月が流れた…。五年の歳月はわたくしを大きく変えてしまった…。汽車の通る駅構内の柱の下、帽子を被りなおすその仕草には、もう五年前の、あの心清らかな頃のわたくしの仕草はなかった…。唇には赤い紅を塗り、お下げだった髪も下ろした。夜、鏡を見るたびに、わたくしは自分が自分ではないような気がした…。わたくしが兄上様の結婚を知ったのは、ちょうど行く当てもなく町を彷徨っていた頃だ…。
 その時、わたくしの目から、悲しさと猛烈な悔しさの入り混じった涙が流れ落ちた…。そんな時だった……。あの男と出会ったのは…。あの男はこう言う…。
「オレと一緒に社会に復讐してみないか?…」
 と…。その男は歪んだ笑顔をこちらに向けて、にやりと笑った。わたくしは、ただ何かを盲信するように…、何かに縋るようにその男について行った。いや…、ついて行くしかなかった…。今、わたくしは高利貸しとして、その男、藤田と一緒にいる。
 藤田は女には興味がないらしかった…。詳しい素性は知れないけれど、昔、心の底から愛していた人に裏切られたと藤田に聞かされた。藤田自身、その話をするときはとても嫌そうだったけれど…。でもその時の藤田の顔はまるで五年前のわたくしの顔のように辛く悲しく、そして悔しそうだった…。藤田もわたくしと同じだ…。わたくしはそう思った。藤田はその話をした時以来何も言わないけれど…。
 わたくしは心に誓った。わたくしを、ただお金のために捨ててお金のためによその女性と結婚した兄上様に復讐してやりたい。わたくしを捨てたあの人に…。そう…、思った。


 駅構内に立って列車の行くのを見送るのはわたくしだけではなかった。構内に集まった老若男女は皆、寂しがる人、楽しむ人、気遣う人、あるいは何も感じない人などもいる。だけど、駅に集う人たちの目的は一つだろう。わたくしは思った。何分か後に出る汽車は混雑していた…。そして数分後…。ピーッと汽笛を鳴らし汽車は駅を離れていった。汽車が出たとともに、駅に残った人たちは一人減り、二人減り、わたくしのように残っている人は少なくなっていた。
 やがて重い物を引くようにわたくしが駅を出る頃には、重なるように構内に集まっていた人はほとんどいなくなって、駅員の三、四人がほうきを取って駅構内を掃除するだけだった。しばらくその光景を見ていたわたくしは何事もなかったように歩き出す。鳳凰口から出ようと石段を上がろうとするわたくしに、待合室の中から誰かが声を懸けた。
「鞠絵ちゃん!」
 慌ててわたくしは声のした方を振り向く。と、途端に…。
「ちょっと…」
 とその人が待合室の戸口から身を乗り出した。呼ぶ声にわたくしは足を止めた。
「あっ、春歌さん…」
 その人は、後宮春歌というわたくしより一つばかり年上の女の人だった。春歌さんは、よくわたくしの面倒を見てくれる。それは一概にわたくしと境遇が似ていたせいなのだろう…。ドイツより来た春歌さんも、またわたくしと同じ境遇にあっていた…。でも彼女は強かった。わたくしとはまったく逆に彼女は彼女の兄上様とその婚約者を心から祝福していた…。
 わたくしとは、全く逆…。わたくしはこの人とは、本当はあまり会いたくはなかった…。嫌だった。彼女の微笑みがすべてを見通しているような気がして…。わたくしの弱い心を見られているような気がして…。春歌さんの優しい微笑みにもわたくしは目を逸らした。そんなわたくしに気を使ったんだろう…。春歌さんは…、
「いい所でお目にかかりましたわ。前々からお話を致したい事がありましたので…。まあ、ちょっとこちらの方へ…」
 春歌さんはそう言って待合室の中へ入っていく。わたくしもその後に付いて入った…。
「実は、あの建築会社の雛山さんの件なのですが…」
 わたくしは時計を取り出し、手早く収めつつ…、
「もう、こんな時間ですわ…。…春歌さん、どうせお昼ご飯はまだでしょう?…。わたくし、これからお仕事がありますので…。ここではお話もなんですからどちらかお食事の出来るところへでも行きませんか? ついでと言ってはなんなのですけど…」
 鞄を取り直してわたくしは立ち上がる。春歌さんも同じように立ち上がった。と不思議そうな顔で春歌さんはわたくしに尋ねてくる。
「鞠絵ちゃん…。お食事って? どちらへ?…」
「どちらへでも…。わたくしにはこの辺のお食事処なんて分かりませんから。ですから春歌さんのお好きな所へ…」
「ワタクシにも分かりませんわ…。ここのお食事処なんて…」
「まあ、そんな事おっしゃらずに…。わたくし、どちらでもいいのですよ…」
 荒布革の横長な鞄を膝の上に春歌さんはわたくしと一緒に行くことを躊躇しているように見えた。それはそうだろう。だって、わたくしは高利貸しなんですから…。と、そう思った。わたくしは立ち上がるとこう言う。
「まあ、何にしてもここを出ましょう? ここは空気があまり良くないですから…。ごほっ、ごほっ…」
「そうですわね……。大丈夫ですか? 鞠絵ちゃん?」
 わたくしは、体が弱いままだった。あの頃と…。そう、航さんと一緒にいた頃のまま…。わたくしはそんな自分の体を呪った…。春歌さんはそう言うと、わたくしのことを心配しながら待合室を出て行こうとする。出会い頭に、入って来る人がいた。わたくしはその人の足に引っ掛かりそうになった。わたくしが驚いてそちらを見れば、老紳士がいかにもすまなそうにわたくしたちのほうを見ていた。
「これは失敬。大丈夫ですかな?」
「ええ、大丈夫です。それよりすみませんでした…。ぶつかってしまって…」
「はっはっは。これくらい何ともありません。体は鍛えてありますのでな…」
 そう言うと老紳士は何もなかったかのように駅舎の中へと消えていった…。


「鞠絵ちゃん。もう、こんなことから足を洗ってくださいな…。ワタクシも、初めは兄君さまのこと…、お恨み致しました。兄君さまは何故ワタクシをお捨てになられたのかと…。悲しかった…。心が何かに押し潰されそうになるくらい悲しかった。でも、ワタクシは思いました。兄君さまは、きっと止むに止まれぬ事情でワタクシをお捨てになられたのだと…。兄君さまと別れる最後の日…、ワタクシを抱きしめて泣いていた兄君さまの目は、とても悲しそうでしたわ…。それは、鞠絵ちゃんの兄君さまだって…。そうだったのではありませんか?…。ねえ、鞠絵ちゃん! ……ワタクシの口からこう言うことを言うのはよくよくの事ですから、それに対するだけの理由を仰って?…、ワタクシの心が納得するように話して下さいませんか…。ワタクシ…、決して慰めだけでこんな事を申したのではございませんのよ?…」
 ワタクシは鞠絵ちゃんに、もうこんなあこぎなことを止めさせたい。そう思った。鞠絵ちゃんが、とても惨めで可哀想に思えたからだ…。鞠絵ちゃんに出会うたび、そして話すたびにワタクシはそう言ってきた。
“鞠絵ちゃんの兄君さまが悪いわけじゃない…”
 そのことをひたすら鞠絵ちゃんに言った。そんなワタクシの言葉を、鞠絵ちゃんは頑なに拒絶した…。もう何を言って聞かせても、鞠絵ちゃんはワタクシの言葉には耳を貸さないだろう…。ワタクシはそう思った。でも、ワタクシは諦めない…。必ず鞠絵ちゃんは、彼女の兄君さまのことを分かってやれる日が来るはずだ…。いつか、必ず…。ワタクシはそう信じている…。と…、彼女は顔を上げると…、
「もっともです…。わたくしのような者でもそんなに言って下さると思えば、決して嬉しくない事はありません…。ですから、その親切に対して包まずわたくしの考えをお話ししたいと思います。けれど、わたくしはご承知の通り、このとおりのわがままですから、人とは大いに考えが違っていますわ。春歌さんはご承知でしょうけど、元、わたくしは女学生でした…。それが中途から学問を止めて、こんな商売を始めたのは、放蕩でやり損なったものでもなければ、あえて食べ物に困った訳でもありません…。女学生が嫌で、こんな商売をやろうと言うのなら、ほかにいくらでもいい商売はあります…。なのに何を苦しんでこんな極悪非道な、白日強盗まがいな事をすると言うのか…。病人の喉口を押さえてお金を取ろうとするのか…。あるいは大事な人の名誉を奪って、そのお金を奪い取る高利貸しなどを選ぶものですか…」
 彼女は静々とそんなことを言う。ワタクシは何も言わず聞き入った。
「不正な家業と言うよりはもうこれは悪事ですね…。ふふっ……。そんなことをわたくしが、今日初めて知ったのではありません。それを知っていてこんなことに手を染めたのは、わたくしは大好きだった兄上様…。いいえ…、もうわたくしにはどうでもいいことですわ…。その人を殺して自分も死にたかった…。それくらい無念な、あまりに残酷なことがあって、すべてに失望をした事があったからです…。春歌さんには前にもお話したことがあるかもしれませんが…。その失望というのは、わたくしはその人…、航さんと将来を誓いあっていた。そういうことになっていたのを、あの人は、ふとした欲に誘われて、約束は違える…。義理は捨てる…。そうしてわたくしは見事に捨てられたのです…」
 ワタクシの顔を避けようとする鞠絵ちゃんの目の中に俄かに輝くもの…。それは……、痛恨の涙だろう…。彼女はワタクシの目に顔を逸らしつつこう言う。
「実に頼み少ない世の中で、その義理も人情も忘れて、罪もないわたくしが捨てられたのも、元はと言えば、お金…。お金からなのです。仮初にも愛する人を持ち、これから幸せを掴もうとしていた者がお金のために裏切られたかと思えば、その無念というものはわたくしは一生忘れられません…。軽薄でなければ偽り、偽りでなければ利欲…。もう愛想の尽きた世の中です…。それほど嫌な世の中なら、なぜ一思いに死んでしまわないの? と、あるいは不審に思われるかも知れません。だけどわたくしは死にたいと思っても、この無念が…。航さんに受けたこの無念が…。わたくしの心の奥に残って、死にきれないのです…。わたくしが一生を掛けて愛していた人です…。その人を苦しめるような、そんな復讐などは出来ればしたくはありません…。でも、ただ一度! 一度だけでいいから、この心を深く傷つけられた恨み! それだけは晴らさなければおけないわたくしの心を察してみてくださいな…。片時でもその恨みを忘れることの出来ないわたくしの胸中というものを察してみてくださいな…。これではまるで発狂しているようですね…。ふふっ……。それで高利貸しのような残酷な…、ほとんど人を殺す程の度胸を要する事を毎日毎日行なっているのです。感情を押し殺していなければとても耐えられません。自分で自分が嫌になる時だってありますわ。…まあ、発狂者には適当な商売ですね…。そこで、お金ゆえに身を売られる人も見れば、悔しがって罵声を浴びせてくる人もたくさん見て来ました。お金がないのも言わば無念の一つですね…。もし、わたくしにお金があったのなら、この恨みは晴れるのでしょうか……。と、それを楽しみに義理も人情も捨てて、今では名誉はなく、お金より外には何の望みも持たないのです…。またよくよく考えて見ると、人などを信じるよりお金を信じた方が間違いはありませんわ…。人よりはお金の方が遥かに頼りになりますよ…。本当に頼りにならないのは、人の心! 人の…、心です……」
 鞠絵ちゃんは空を仰いで微笑んでいた…。だけどその顏は、とても苦しそうだった。
「春歌さん…。わたくしはどうしてもあの人を許すことは出来ません…。あの人はわたくしからすべてを奪っていった…。人を慈しむ心も…、人に対する素直な心も…、そして人を愛する心も…。すべて…。残ったのはあの人…、航さんに…、そしてこの社会に対する恨み…。そして憎しみ…。あの日、そう、あの人と…、航さんと別れたあの日…。わたくしは航さん、そしてこの社会に復讐すると心に誓ったのです…。今さら何とあなたが言おうと、わたくしには無駄ですわ…。…って、あら?…、もうこんな時間…。今からお仕事がありますのでこれで失礼致しますね?…」
 そう言うと、鞠絵ちゃんはお店を出ていった…。ワタクシは、言葉が出なかった。これほど、鞠絵ちゃんの兄君さまを恨む気持ちが強いとは…。逆に言えば、それだけ兄君さまへの恋慕が強いのだろう…。そうワタクシは理解した。そして、改めて彼女をこんなあこぎなことから手を引かせたい…。そう、切に思うのだった……。

つづく…