わたくしは忘れられなかった。わたくしが愛したあの人を。そして、わたくしを見捨てたあの人を…。わたくしはもうあの頃のわたくしではない。そう、わたくしは復讐の鬼となっていた……。


あなたのそばにいたかった

第三章


 私は山田くんの旧い友人だった。生まれた時からか生まれる前からの因縁だったんだろう…。西洋のタロットという占いではそう出ていた。山田くんはその八方美人な性格からか騙されやすかった…。いつも騙されては私の元へ来て相談をしにくる。まあ、正直に言うとこれも前世からの因縁か何かだろう。そう思っている。
 経済的に余裕のある私の家は川神重工。私はその家の長女だ…。だから私はその友人に経済援助をしてやっていた。妹の鈴凛くんは、発明家…。私たちも鈴凛くんの発明のおかげで日露戦争後の混乱を何とか乗り越えられた。鈴凛くんは若干19歳で東京帝国大学の講師として雇われたくらいの逸材だ…。兄の山田くんとは大違いだね…。ふふっ…。鈴凛くんと私は気が合うみたいでよく相談にのっている。鈴凛くんも、そんな私のことを実の兄よりも信頼しているようだ…。
 今回は騙された山田くんを助けるため、直接その女高利貸し、そして海神の兄くんの探している妹、鞠絵くんに会うつもりで横浜へと来た。でも、私一人では心もとない。だから法学に詳しい者を呼んでおいた。鈴凛くんたちとは鞠絵くんが待っているという料亭の前で落ち合う予定だ…。その者には伝えておいた。ちなみに海神の兄くんや咲耶くんにはこのことは言っていない……。
「待ちましたか? ごめんなさい、お姉ちゃん…。可憐、今日はピアノのお稽古だったから…」
「いや…。私も、今来たところだよ…」
 そう言ってきたのは、私の妹…。川神可憐。彼女は、18才にして法学博士という博士号をとった秀才だ。音楽にも秀でている彼女は、コンクールにもたびたび出ている。詳細は詳しくは知らないが彼女の音楽を聞きにいった友人などによると、“心が洗われるようだ…” とのことだった…。
「ねえ、お姉ちゃん…。可憐、詳しい事情がよく分からないんだけど?」
「ああ…、話すのがまだだったね…。実は、また山田くんが騙されてしまってね…。こちらとしては円滑に話し合いたいと思ってるところさ…。でもね……」
「でも?……」
「ああ……。実に言い難い事なんだが…。可憐…、海神の兄くんのことはよく知っているだろう?」
「はい…。咲耶お姉ちゃんの旦那様で、あのお優しいお兄ちゃんのことですよね?」
「ああ…。その兄くんには昔、将来を誓いあった恋人がいたんだ。その人は女学校で文学を学んでいてね…。いろいろと勉学に励んでいた。でもその人は日本の文学だけではダメだと感じていた。世界の文学を知りたいと……。海神の兄くんはその人のことを本当に愛していた。だから、何とかお金を工面してくれと、海神の叔父くんに頼んだんだ。だけど当時は日露戦争後の混乱の中だ…。そんな余裕などどこにもなかった。唯一軍事産業で莫大な富を得た咲耶くんのところしか頼むことができなかったのさ…。それで……、ね…」
「お兄ちゃんは、その人と別れたということですか……」
「ああ、そうだよ…。“もしも二月十一日の晩に雨が降ったなら、私はあなたを恨んで泣いている”と言ってね…。彼女…、鞠絵くんにとって兄くんはかけがえのない、そう…、自分の命よりも大切な存在だったんだろう…。その存在が突然自分の手の届かない所へ行ってしまったんだ…。悲しかったんだろうね…。また海神の兄くんは、何も文句の一つも言わない妹のたった一つの願い……。それを叶えさせてあげたかったんだろう…。でも、それが…。……咲耶くんが言ってたよ…。“鞠絵ちゃんは何も悪くなんてないわ…。これは、このことは全部、浅はかな私のせい……”ってね…。私は出来ることなら、鞠絵くんも、咲耶くんも、海神の兄くんも、全員救いたい…。これは私のわがままだろうけどそう思っているんだよ…、私は……。可憐…。キミも、協力してくれるかい?」
 可憐は大きく頷きこう言う…。頷いて私の顔を見つめる可憐。その顔は私に大きな勇気を与えてくれるような顔だった。
「お姉ちゃん。可憐、おバカさんだからうまく言えないけど…、海神のお兄ちゃんも、咲耶お姉ちゃんも、鞠絵さんも、助けたい!! うまく言えないけど……。可憐、そう思うの……」
「そうか……、じゃあ、行こう……」
 私は、この可憐の言葉を聞いて、なお強く思った…。鞠絵くんや、海神の兄くんたちを救いたい。と……。私たちは横浜の歓楽街にある料亭に向かった…。


「お客様がいらしたんですの…。どうしますの? 鈴凛ちゃん?」
 ここの料理長兼女将の白雪ちゃんがそう言った。横浜にある小さい料亭。アタシも横浜に来る時には使わせてもらってる。白雪ちゃんとは小学校時代からの親友だ。アタシが機械いじり、白雪ちゃんは料理という風に、趣味は違ってもなぜか気が合うみたいで、それからずっと親友だった。ここの料亭は敷地面積は小さいけど、健康に良い食材と、白雪ちゃんの独創的な味で結構有名だ。
 …で、ここの経営者は亞里亞ちゃんという八才くらいの女の子だって白雪ちゃんに聞かされた。でも実際は彼女の後見人である、長瀬さんっていう人が実質的な経営者なんだって…。アタシは会ったことはないけど…。
「うん、じゃあ通して…。白雪ちゃん……」
「はいですの。じゃあ、お料理の方は後でお持ちいたしますの…」
「ヨロシクね……」
 そう言って白雪ちゃんは、表の方へと消えていった。アタシは千影アネキに貰った書類に目を通す。アニキはと言えば…、涙を流しつつ、“助けて〜”とでも言いたそうに千影アネキの方を見ていた。はぁ〜。これがアタシのアニキかと思うと…、情けなくなっちゃう。アタシにも航さんみたいな格好良くって、頼りがいのあるアニキがいてくれたらなぁ。いつもそう思ってるんだよ?……。と、誰かの足音が響いてきた…。


 座敷には苦しそうな山田さんと山田さんの妹さんや見たこともない人がいた。わたくしは予め用意されていた座布団に座る。横にある茶碗にお茶を注いだ…。山田さんは憤ったような声で言う…。
「も、もう払えないよ。払う必要もないじゃない。ボキはも、もう、げ、原価は返したじゃないか。大体一日の利子が五円というのはあんまりじゃないのか〜?」
 わたくしは重い物を引くように声を静めてこう言った。
「わたくしは、別にあなたを困らせるの、何のと言う訳ではありません。利は下さらず、返済は出来ないと言うのであれば、それではわたくしの方が立ちません。どちらとも今日は、是非穏便に解決致したいものですわ。元より山田さん、あなたがお引き受けされる精神であれば、外の迷惑にはならないのですから、ほんの、この書類にあなたのお名前と印鑑を押してくださるだけで結構なのです。それくらいの事は、どなたでも承諾なさりそうなものですよ。つまり名義だけあればよろしいのです。わたくしの方は十分あなたを信用しているのですから……。しかしここで何か一つだけでも証拠がありませんと、わたくしも雇い主に対して言い訳が出来ません。利を受け取る訳に行かなかったから、返済をして来たと言えば、それでひとまず区切りがつくのですから、どうぞ一つお願い致します」
 山田さんはただ黙ってわたくしの言うことを聞いていた。わたくしは続けて言った。チャンスと思ったからだ。
「さあ、ここにお名前と印鑑を…」
「ダメだよ……。それは到底受け入れられない要求だ…」
 今まで山田さんの右後方に座って、黙って聞いていた人がそう言った。この人は誰だろう…。わたくしは思った。
「どちら様ですか?」
 わたくしは怪訝そうにその人の顔を見るとそう聞いた…。
「ああ、自己紹介がまだだったね…。私は川神千影…。ここにいる山田くんの旧い友人さ…。こちらは私の妹の可憐だ…。ほら、可憐……」
 千影さんの後ろで彼女の妹・可憐さんが小さく会釈していた。
「そうでしたか…」
 わたくしは、ふとひばりちゃんのことを思い出した。だけど…、それはもう昔のことだ……。わたくしは自分の心に言い聞かせる。そうでもしないと自分が壊れてしまうような……、そんな気がした…。
「話を戻しましょう…。千影さん。ダメではわたくしの方が済みませんわ。そう致しますと…、山田さんの名誉に関わるような手段も取らなければなりませんから…」
「どうしようと言うのですか?」
 今度は可憐さんが、わたくしに尋ねて来た。
「もちろん、差し押さえですわ…」
 可憐さんは少し驚いた様子でわたくしを見ていた。胸にこたえたんだろう…。少し怖い顔をしてわたくしの方を睨んでいる。と、千影さんは落ち着かせるために可憐さんの肩に手を置いて、首を横に振った。可憐さんは千影さんの自分の肩に置かれた手と、千影さんの顔を見ると、少し落ち着いたようだった。
「百円やそこらのはした金で、山田さん、あなたの名誉を傷つけて将来の出世の妨たげにもなるような事になるのではわたくしの方でも決して好ましくはないのです。けれどもこちらの請求をいれて下さられなければ止むを得ないので、事は穏便にすませた方が双方の利益です…。ですから、更にご一考をお願い致しますわ…」
「出来ない相談だといっているだろう? だいたいそんな金利がどこにあるというんだい? 通常の金利が、0.78%。君のところは10%…。これはもう金融法に明らかに違反しているじゃないのかい? 警察沙汰になればそっちが不利なことは明らかだろう…。それでも、山田くんからお金を取るつもりかい……」
「わたくしは、ただ…。お金を払って頂きたいだけですわ…。それに…、期限までに払って頂かないとこの書面に書かれた事を実行させて頂くことになるのですよ…」
 そう言ってわたくしは、契約書を見せた。そこには…、
“期限までに払わないと山田太郎の財産すべては藤田浩之に譲渡する”
 と言う内容の契約書だった。これは、藤田が山田さんを誘って飲みに行った時に泥酔した山田さんに無理やり書かせたものだ。そのときの藤田の顔…。いやらしくほくそ笑んでいた。その顔を思い出だすたびわたくしは自分自身が嫌になる。…でも、これがわたくしに出来る唯一の復讐なんだと思うことにしている…。そう、あの人への…。
「裁判所の印鑑もここにありますわ。さあ、どう致しますか? …お支払い頂けますよね?…」
「くっ! これはアニキが泥酔した時に無理矢理書かせた物じゃないのよ!! なんて卑怯なの?! アンタ、鬼よっ!! 悪魔よっ!!」
「そんなこと、どうでもいいことですわ…。さあ!! お払い下さいませ!!」
 鈴凛さんがわたくしに罵声を浴びせている。わたくしは意にも返さずそう言って、山田さんに鋭い目を浴びせた。山田さんはわたくしに恐怖を感じたんだろう…。ぶるぶると肩を震わせていた…。と、千影さんがわたくしに言った…。
「君の要求は、元金の上に借用当時から今日までの正規の利子・一年分と、今度支払うべき五円・一月分を加えて百円…。それに対する九月分の天引きが五円なにがしだ…。それと合わせて百円の証書面に書き替えろと言うのだろう…。一円だって自分が使ってもいないのに、この間五円という大金を取られなければいけないんだい? また改めて百円の証書を書かされる…。あまりにバカバカしいじゃないか……。こっちの身にもなってくれてもいいじゃないのかい…。一円も使ってもいないのに百円の証書が書けると思うのかい?」
 わたくしはうろたえて……。
「今さら、そんな事を!」
 そう言った。わたくしは悔しそうにそう言った千影さんの顔を睨みつけた。しばらく睨みつけていたわたくしではあったけれど……、
「ふふっ、まあいいですわ…。こちらとしてもそれ相応の覚悟がありますので…」
 そう言って余裕を見せた。藤田の知り合いには敏腕の者がついていた。元・帝国議会議員の人で今の日本の事情を隅から隅まで知った人らしい。藤田がそう言っていた。今、藤田がこうしていられるのもその人のおかげだろう。その人も藤田のあこぎな商売のことは知っている。それを敢えて言わないのは藤田と同じ、社会に対する恨みがあるからだ。やはり、人の心を動かすものはお金の力なんだ。わたくしはそう思った。


 山田さんも印鑑をついたときから、不測の事態が起こることは目に見えていたらしかった。それだけ山田さんは慎重だったのかもしれない。その際他の大勢の人たちにも迷惑を掛けてしまうこともある。だから断じてわたくしの請求を受け入れることは出来ないのだろう。しかしわたくしの請求する利子を即座に払う道も残ってはいる。だけど、それは彼の妹と千影さんたちが許すはずもない…。わたくしもこの場は帰ることは出来ない。このまま帰ってしまえば藤田は許してはくれないだろう。わたくしの復讐も未然に終わってしまう。何としても山田さんからお金をとらなければ……。わたくしはそう思った。
 山田さんはまるで罠にはまった獲物のようにもがき苦しむ以外はなかった。ただ今は、その身に責め苦を受けて、悩まされる不幸を恨んでいた。そうして一点の人情も無いわたくしの言葉の虐待を受ける彼の胸の内は、一体どんな心境なんだろう。わたくしはふと、そう思った……。
「第一、今日はまだ催促に来る日じゃないじゃないかー!!」
「先月の二十日に払って下さるものを、いまだに払って下さらないものですから、いつでも御催促に来るのです」
 わたくしは静々とそう言う。山田さんは拳を握ってぶるぶると震えていた。
「それじゃあ、何のために延期料を払ったのよ!」
 鈴凛さんがわたくしを睨みつけて少々怒気を含んだ声で言った。わたくしは涼しげな目で山田さんたちの顔を一瞥して言う。
「別に延期料は受け取った覚えはありませんわ。期限の日に来たのにお支払いがない…。そこで空しく帰るその日の日当、そして車代として下さったものだと思いました。ですから、もしあれに延期料と言う名をつけたのならその日の取り立てを延期すると言うのでしょう?…」
「キ、キミと言う人は! 最初に十円返そうと言ったら、“十円では受け取りません。利子の内金でなしに三日間の延期料としてなら受け取ります”と言って持って行ったじゃないかー。それからついこの間も十円……」
「はい…。それは確かに受け取りました。が、今申しました通り無駄足を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば翌日から御催促に参ってもいいのです。まあ過ぎ去った事は置いておきまして……」
「置けないよ…」
 今まで黙っていた千影さんがそう静々と言った。
「今日はその事で来たのではないのですから今日の始末をお付け下さいませ……。ではどうあってもお支払いは出来ないと仰るのですね?……」
「出来ない……」
 そう言ってる間もわたくしは眼鏡の奥の目を細めて山田さんたちの顔をじっと見ていた。わたくしの冷やかに見つめるその目の光は怪しく山田さんを襲ってわたくしに対する怒りを忘れさせたに違いない。彼の目を見てわたくしはそう思った。山田さんは我に返って……、
“なぜこんなヤツにお金を借りたんだろう?”
 と言う気持ちでいたに違いない。わたくしに対する暴言も無駄と感じたんだろう…。しばらくみんな黙っていた。
「では、いつごろ御都合が出来るのですか?」
 …機を制してわたくしは言った。
「月末まで待ってはくれないだろうか…」
 千影さんがそう言ってきた。お金が入るのであれば、藤田はいいと言っていた。だからわたくしはこう言う。
「間違いはございませんか?」
「月末に間違いなく払うよ…」
「それでは月末まで待ちましょう…。だから……」
「また延期料かい?」
「まあお聞きください。この約束手形を一枚お書き下さいませんか? それならよろしいでしょう?…」
 わたくしはそう言って手形を取り出し千影さんに見せた。千影さんは黙ってその手形を見ている。
「……」
「細かく言うところは少しもありませんわ」
「お金はないよ…」
「僅かでよろしいので、手数料として……」
 わたくしは、千影さんの顏をじっと見つめている……。横から山田さんが口を挟んできた。
「また手数料か! ボ、ボキからいくら取るつもりなんだ! この女高利貸しめっ!!」
「山田くん、押さえて……。じゃあ、一円出そうか…」
「日当、車代なども入っているのですから、五円ばかり…」
「五円なんてお金はないよ…」
「それでは…、どうしようもありませんね?…」
 わたくしはそう言うと手形用紙を鞄の中へ押し込んだ。


「……しょうがないね…。じゃあ海神の兄くんにでも借りるとしよう…。……可憐…」
「はい、なんですか? お姉ちゃん……」
 私はここで大芝居を打つ。鞠絵くんの動揺を誘うためだ。
「すまないけど…、これを航兄くんのところへ持っていってくれるかい?」
「……確か、今日は近くに来ているんですよね? お兄ちゃん…」
 可憐も私の大芝居に気付いたようだ…。口を合わせるようにそう言う。鞠絵くんの顔を見た……。鞠絵くんは驚いた顔をしていた。すかさず私は言う。
「そういえば……、昔、咲耶くんと結婚する前…、兄くんには将来を誓い合った人がいたらしいな?…。名前は、キミと同じ…、鷺沢鞠絵って言ってたっけ…。まさか、キミではないのかい?」
 鞠絵くんの顔色が変わった。今まで、どんな罵声を浴びせられても変わらなかった鞠絵くんの顔が…。
「……」
 鞠絵くんは下を向いたまま顔を上げない。私は言った。
「やっぱり、そうなのかい?……」
 鞠絵くんの過去…。あえて私は知らないふりをした。私は心に誓ったんだ。鞠絵くんに、こんなあこぎな商売からもう手を引かせようと…。いや、引かさなければならないと…。これはひばりちゃんとの約束でもあるんだ…。私はそう思った…。しばらく経って鞠絵くんは下を向いたまま、ぽつりと言った。
「……わたくしには兄上様などおりませんわ…。わたくしは父上様、母上様と死に別れ、孤児院で暮らしてきたのです…。その孤児院からも追い出され…、行くあても失い…。ついにはこのように極悪非道な、白日強盗まがいな事をするような、高利貸しになってしまいました…。自分でも嫌になりますわ……」
「じゃあ、何で高利貸しなんてやめようと思わないのよ?」
 鈴凛くんがそう言って鞠絵くんを問い詰める。鞠絵くんは…、
「そっ、それは……」
 私の予想通り、困った顏をしている。鞠絵くんの過去…。…言いたくはなかった。でも、私は鞠絵くんにこれ以上の悪事を重ねてほしくないと思った…。……私は、言った…。
「鞠絵くん……。私は知っているんだよ……。君の過去を……。昔、君は孤児院から海神家に引き取られてきたんだ…。海神の叔父くんや兄くんは、君を可愛がってくれたんだよね? そして五年前…、君は兄くんと結婚することになっていた……。それが……。悔しかったんだね。鞠絵くん……」
 鞠絵くんは悔しそうに私を見遣ると静々と話し出した…。その顔には余裕はない…。
「……なんでもお見通しというわけですか……。ふふっ。これも、今までしてきた悪業の因縁なのでしょうね……。そうですわ…。わたくしは鷺沢鞠絵。兄上様、いいえ…。海神航さんのところに居候していた鞠絵です…。病弱なわたくしにいつも優しくしてくれたあの人。こんなわたくしのことを愛していると言ってくれたあの人…。あなた方はもうご存知でしょうけど、わたくしはあの人…、わたくしの愛していた兄上様…、航さんにお金と換えられて捨てられたのです…。将来、つつましくも楽しい家庭を作ろうって約束していたあの人に!! …勉学など、どうでも良かった!! わたくしはただ…、ただあの人の…、兄上様のそばにいたかった…。それだけですわ…。でもあの人はわたくしのことを、わたくしの心を弄んだのです…。弄ぶだけ弄んでいらなくなったらゴミのように…、お捨てになられたのですわ……。これが…、このことが悔しくないとでもいうのですかっ?! そう仰ることが出来る人ならばその人は天使か神さまでしょう…。でもわたくしは人間。いいえ、今では鬼・畜生ですね…。それで今では、このようなあこぎな商売をやっていると言うわけですわ…」
 鞠絵くんは目にいっぱい涙をためて呟くようにそう言った…。
「兄くんはそんな人じゃないよ…。兄くんは君のことを本当に愛していたんだ…。愛しているから…、好きだから…、その人のために何か出来ないかと考えるのが、常というものではないのかい? 鞠絵くん。そのことだけは、分かってほしいんだ…。ねえ、鞠絵くん……」
 私は鞠絵くんの肩に手を置いて鞠絵くんの目を見つめてそう言った。だが、鞠絵くんは私の目を見つめようとはせず顏を反らして声を荒らげる。それは鞠絵くんの心の叫びのように私には聞こえた。
「わたくしには…、わたくしには分かりません!! 航さんは、あの人は…、わたくしを捨てて咲耶さんという女性と結婚した…。しかも、咲耶さんの兄上様、山神さんは四年前に肺結核で急逝したって言うじゃないですか!! 山神さんの父上様、母上様も…、もうおりませんわ…。あの莫大な財産は一人残った咲耶さんに相続されるって聞いています…。つまりは、航さんの財産になると言うことです!!…。これでお分かりでしょう?……。あの人は目先の欲に目がくらんで将来を誓いあったわたくしをお捨てになられたのです!! わたくしは忘れてはおりませんわ…。あの時の悔しさを……」
「そうじゃない! 鞠絵くん! 兄くんは君の将来のことを考えて…、ただ君に勉学をさせてやりたいと思ってやったことなんだよ…。分からないのかい? 君ほどの人が…」
「分かりたくもありませんわ…。あの人はわたくしを捨てた…。そのことだけです。事実として残るのは…。さあ!! 手形に判を押すのか押さないのか。はっきりしてくださいませ…。…うっ…。……ごほっ…、ごほっ……」
 そう言ったかと思うと、鞠絵くんは突然血を吐いた。とっさに口を両手で押さえたため、両手の手のひらが彼女の血で真っ赤に染まっていた。私はもしやと思った。鞠絵くんはあの死の病、結核にかかっているのではないかと…。私と可憐は急いで白雪くんに伝えに行くため、下の階に下りた……。


「こ、これで、ボキは自由だ〜。ふんっ、思い知ったか。この女高利貸しめっ!!」
「バカッ!! アニキ、今こんなことをやってる場合じゃないでしょ?! 人が死にそうなのよっ?!」
 鈴凛さんは、そう言うとわたくしの背中を優しく撫でてくれた。山田さんはと言うと、これ幸いという感じにわたくしの鞄から自分の借用証書を取り出しては狂喜乱舞している。鈴凛さんの言うことなど聞かずに…、
「う、うるさいっ!! この書類にはボキの将来がかかってるんだぞっ!! 鈴凛っ!! わっ! はっ、放せっ!! この女高利貸し!!」
 わたくしは、口に流れる喀血を拭こうともせず、手のひらの血も拭こうともせず、ただ山田さんの服にしがみついた。山田さんの服はわたくしの血でみるみる赤く染まっていく…。わたくしは薄れゆく意識の中、必死で言う。兄上様へ…、わたくしを裏切ったあの人へ復讐したい…。そのことを……。
「か……、返して……。返してください……。それは、航さんへの…、兄上様へのたった一つの復讐の方法なのです……。それがないとわたくしはわたくしでなくなってしまう……。どうか、どうかお願いします…。わたくしにその書類を返してください…。ごほっ…、ごほっ…」
 わたくしはそう言って喀血で染まった手で、今度は山田さんの服の袖を掴んだ……。山田さんは恐怖に顔を引きつらせながらこう言う……。
「よっ、寄るなっ!! 女高利貸し!! ボ、ボキからお金というお金を取っておいてその言い草は何だっ? かっ、かっ、返さないぞっ! 絶対に返さないぞっ!!」
 そう言いながら、書類をぎゅっと抱きとめて、わたくしの方を、恐々としながらも睨んでいる。わたくしは涙を流しながら言った……。
「お……願いします…。返し……て……、くださ……い……」
 ドタッ……。
 わたくしの意識は、そこで途絶えた……。


 千影は白雪に手車の手配をさせる。千影たちの様子を見て白雪は慌てて車屋へ連絡した…。千影たちの行きつけの大学病院への連絡には可憐に頼んだ。千影たちは意識のない鞠絵を手車に乗せて大学病院に向かった…。千影は大学病院に向かう途中、鞠絵の手をずっと握っていた……。
 その頃…、航と咲耶は、娘の雛子を連れて最愛の妹、鞠絵を探していた。どことも知れない妹の行方を必死になって探す二人が、そこにいた……。優しかった兄…。その兄を慕っていた妹…。血が繋がってはいないが確かに二人は兄妹だった。それが……。兄は、まだ知らない…。妹が高利貸しとなっていたことも、妹が彼の従姉妹と会っていたことも、そして…、妹が倒れたことも……、兄はまだ…、知らない……。

つづく…