僕は咲耶と一緒に鞠絵を探し続けていた。ようとして知れない僕の最愛の妹を…。時には娘の雛子を連れて一生懸命に探した。でも見つからない。落胆して家の戸を開ける。そんな毎日だった。だけど、今日は違っていた……。
あなたのそばにいたかった
第四章、死に至る病、前編
明日は女学校の創立記念日で、明後日は法定休日だ。そんなこともあって、ここ横浜の家に花穂ちゃんと衛ちゃん、それにひばりちゃんが来ている。しばらく会っていなかったんだ。いつもなら話が弾むはずだった。だけど今日は違っていた…。
「兄さん。咲耶さん…。姉さんが…、姉さんが生きていました…」
「えっ? 鞠絵さんが?」
「そ、それは! それは本当かい?! ひばりちゃん!!」
咲耶がそう聞いた。僕もひばりちゃんに尋ねる。ひばりちゃんはそう一言言うと俯いてしまった。なぜだろう…。とても嬉しいことなのに……。花穂ちゃんは雛子の面倒を見てくれる。今も雛子のお人形遊びの相手だ。
「うん…。今日、汽車でここに帰ってくるときに千影あねぇに会ったんだ…。そしたら…」
衛ちゃんが状況を詳しく話してくれる。僕はその話に驚愕した。僕の…、僕のたった一人の妹が…。あの優しかった鞠絵が…、法外な賃金を騙し取る高利貸しなどになろうとは……。
信じられなかった…。五年前、僕の前からたくさんの涙と心に深い傷を残して去って行った最愛の妹は、五年の後、悪徳な高利貸しとなってしまっていた…。五年前の記憶が僕の脳裏に一瞬にして蘇る。
“鞠絵は生きながら悪魔になって、あなたのような人たちの肉を食べてやる覚悟です!!”
僕は愕然となる。頭が真っ白になった…。しばらく放心状態だった僕は首を横に振る。ふと横を見る。咲耶が悲しそうに僕の顔を見つめていた……。
明くる日、僕たちは雛子を衛ちゃんたちに預けて千影ちゃんの家へと向かう。ひばりちゃんは僕たちと一緒に行きたいと言った。僕は悩んだ。正直僕はひばりちゃんにはあまり一緒に着いてきてほしくはない。鞠絵のことを本当の姉だと思っている彼女には、あまりに残酷なことを告げるような気がして…。でも…、
「航兄さん。わたし、覚悟は出来ています。でも、今の姉のことを唯一知っているあの人に、千影さんにお話を伺いたいんです…。今、姉がどうしているのか…。この五年、姉は何をしていたのかを……」
彼女は真剣な目でそう言った。僕はそんな彼女に首を横に振ることは出来なかった。僕は言う。
「分かったよ…。ひばりちゃん。僕と一緒に行こう…」
「は、はい。ありがとうございます…。航兄さん…」
咲耶のほうを見ると、何も言わず頷いていた。僕たちは横浜の郊外にある千影ちゃんの家へと向かった…。
「千影ちゃん!! そ、それは本当かい?」
僕は息を呑み目を見開いてそう聞いた。聞かされた話があまりに悲しく…、そして驚きの内容だったからだ……。
「ああ……。彼女、鞠絵くんは今うちの知り合いがやっている大学病院にいるんだ…。兄くん…、この五年ずっとキミは鞠絵くんを探していたんだろう? でも、見つからない…。無理もないのだろうね?…。だって鞠絵くんは…」
千影ちゃんは、そこで一呼吸置く。僕たちをじっと見つめた。僕たちも千影ちゃんを見る。何分くらいそうしていたんだろう…。実際には一分も経っていないが、僕には一時間か、それ以上…、非常に長い時が流れたような気がした。千影ちゃんがまた話し出す。僕たちは耳を傾けた…。その内容に……。
「だって鞠絵くんは……、闇の社会で生きていたんだからね…。そう、兄くんと別れたあの日から…。鞠絵くんは見捨てられたと思っていたんだろうね…。己の身…。それよりも深く愛していた、兄くんに…。でも、兄くんは咲耶くんと結婚して今は幸せな家庭を築いている。裏切られたものにしてみればこれほど惨めで悔しいものはないだろう…。ひばりちゃんに会って話は聞かせてもらったよ…。ねえ、ひばりちゃん?…。それで私は何とかして彼女の心を開かせてやりたいと思った。これは今でも思っていることなんだけどね。……でも、あそこまで心を閉ざしていると……」
そう言うと千影ちゃんはかぶりを振る。僕は思った…。
“もう私の手には負えないよ……”
千影ちゃんが言いたいことはそう言うことなんだろうと…。千影ちゃんはまた話し出す。それが僕と咲耶の心に深く激しい後悔の念を植え付けることになろうとは…。ひばりちゃんはただ目を見開いたまま何も言わず千影ちゃんの方を見つめていた…。
「それに彼女…、鞠絵くんは肺を冒されている…。一応私の知り合いの医者に診てもらったんだが…。良くはないらしいよ……。ヨーロッパの方ではいい薬が発明されたらしいんだが…、とても高価なものらしくてね…。お金が掛かる物なんだ。そう…、鞠絵くんの嫌いな“お金”がね?…」
お金…。その言葉が僕に大きな枷となって苦しめる。でも、僕は……、僕は妹を、この世でたった一人の大切な妹を助けてやりたい。それがさらに彼女が僕を恨むことになっても…。そう思い僕が口を開こうとした時…、
「千影!! お願い。鞠絵さんを助けて…。もともと鞠絵さんを苦しめたのも、私が…。私が航さんを奪ってしまったのが原因なんだから…。だから、ねえ千影……。お願いだから鞠絵さんを助けて…」
「千影さん! わたしからもお願いします…。姉さんも本当はもう復讐なんてしたくないはずです!! わたしには…、わたしには分かるんです!! 姉さんはもうこんなことを…、こんなことをしたくないって言うことが…。だからお願いします! わたしの…、わたしの姉を助けてください!!」
咲耶が…、ひばりちゃんが…、千影ちゃんを真剣な眼差しで見つめてそう言った。僕は、咲耶とひばりちゃんのその真剣な眼差しを見つめながら、頭を下げる。
「千影ちゃん。お願いだ…。僕の、僕のたった一人の妹を…。血は繋がっていないけど、鞠絵は、鞠絵は僕のたった一人の妹なんだ…。治してやってくれないか? 元はと言えば……僕が、僕があの時、鞠絵を……」
僕は息が詰まった。咲耶はそんな僕の背中を優しく撫でてくれた。ひばりちゃんはそう言った僕を悲しそうに見つめている。しばらく沈黙の後、咲耶は言った。
「ねえ千影…、お金ならいくらでも出すわ…。だから鞠絵さんの病気を治してちょうだいな…。それで鞠絵さんが更に私を恨むことになってもそれは仕方ないことだわ…。だって私は……、それだけのことをしたのだから…」
千影ちゃんはそんな僕たちを見つめて…、
「ああ…、分かったよ……。大学病院の方には私から言っておくから…」
そう言ってにこっと微笑んだ。鞠絵…。お前が生きていると分かって、僕は……。
「……ここは? どこ……ですか?……」
わたくしは目を覚ます。白い壁…、白い廊下…、白い天井…。しばらく辺りを見回した。昨日のことを思い出す…。昨日、わたくしは山田さんの取り立てに向かって、そこで兄上様…、いいえ、航さんの遠い親戚である千影さんたちと出会って…。それで…。それでわたくしは?…。と、ふと昨日のことを思い出した…。自分が血を吐いて倒れたということを…。山田さんの取り立てに向かって、そこで倒れて…。そう…、あの人と別れた五年前…。五年前から、わたくしは肺の病であることを知っていた…。あの人と別れ、街を彷徨い、そして藤田と出会った。その時から体の異変には気づいていた…。今までも、何回か血を吐いたことはあった。でも、今度のようにあんな大量の血を吐いたことはなかった…。
「鞠絵ちゃん!! 気がついたのですか?」
ふと、わたくしを呼ぶ声がしてそちらの方に振り向く。ぼうっとした頭を回転させるわたくし。目が悪いため判然とは分からない。でもその声に聞き覚えがあった。
「……春歌さん…ですか?…」
「ええ…。鞠絵ちゃん。あなたが倒れたと、風の便りで聞いて急いでやってきてみれば…」
春歌さんは目頭を抑えてそう言う。よほど心配していたのだろうか……。ふと、疑問に思ったわたくしは尋ねてみることにした。
“誰かに聞いてきたのですか?”
と…。実はわたくしは春歌さんの素性をよく知らない。ただわたくしと同じようなことを経験してきたということだけしか聞いてはいなかった。春歌さんは静々と話してくれた。
「ワタクシ…、実は川神重工…。いえ…、こう言えばよろしいのでしょうか…。千影さんのところで働いているって…。まあ、千影さんはワタクシのことなんて知らないでしょうけど…。……風の噂で、あなたが倒れたということを聞いて…」
「そうでしたか……」
世間というものは広いようで狭いものですね…。そう思うとわたくしは自嘲気味に笑う。春歌さんはそんなわたくしを見て不思議そうにこう尋ねた……。
「鞠絵ちゃん?…。何がそんなに可笑しいのですか?」
「いえ……、春歌さん…。あなたが千影さんのところで働いていると聞いて、世間とは広いようで狭いですね…。と…。そう思って…。うふふっ……」
そう言うと、何気なくわたくしは病室の窓から映る風景を見た。晩秋の冷たい木枯らしが窓ガラスを叩き、横浜の工場群の煙突のような、大きな楠の木の葉を振り落として行く。西日はわたくしの肩にそして頬にあたって起き上がったわたくしの体を赤く染めていた。と、こんこんと扉を軽く叩く音が聞こえる。お医者様が来たようだ…。春歌さんはそっとわたくしの体を横にさせて扉へと向かった。
「先生…。鞠絵ちゃんの容体は?」
「……」
お医者様は春歌さんの顔を見ると、何も言わず表へ出て行った。よほどわたくしのこの胸の病が酷いのだろう…。春歌さんはわたくしの方に向き直って…、
「鞠絵ちゃん……、ワタクシ、ちょっと先生とお話をしてきますけれど…」
「ええ…。わたくしなら平気です…。早く行ってくださいな…。先生だって待っていてくれているのでしょう?」
「それじゃあ、鞠絵ちゃん。少しの間、待っていてくださいませね?…」
そう言うと春歌さんは静々と、わたくしの病室を出て行った…。わたくしには…。わたくしには分かっていた。この胸の病がなんであるのかということが…。それは……。どこかの本で読んだのだけれど、わたくしのこの病は“結核”という名前の病らしい。そう……。一度かかってしまえば死ぬまで治らない不治の病…。わたくしは自分のこの体を呪った。あの人に…、わたくしを捨てたあの人に…、航さんに復讐も出来ずに逝ってしまうこのわたくしの体を…。
そう思うとわたくしは、わたくしを捨てたあの人が憎くて…。こんな体が悔しくて…。わたくしを捨てて、わたくしの知らないよその女性・咲耶さんと一緒になってのうのうと平和に暮らしているあの人が羨ましくて…。わたくしの両の瞼からぽろぽろと涙が零れ落ちた…。そのまま布団を頭までかぶると、わたくしはぶるぶると身を震わせて泣いた……。
「そ、それは…?。それはどういうことなのですか?!」
ワタクシはそうお医者様に問い正した。お医者様は、ゆっくりと頷いてこう言う…。
「ええ…。鷺沢鞠絵さんの病気はうちじゃあどうにも……。ドイツの方では医術も発達していて何でも、“ツベルクリン”なんて言う新薬が発明されて光明が見え始めているらしいんですがね…。日本は今、日露戦争の後始末でそんなに財政的に余裕もないですし…。第一、こんなしがない一大学病院に、高価な新薬を買えるだけのお金もありませんしね…」
こう言うと、お医者様は疲れた表情でワタクシに一礼するとその場を後にした。ワタクシは何も言えずその場に立ち止まっている。そんな…、そんなどうして?…。ワタクシは鞠絵ちゃんがあまりに惨めで…、可哀想でならなかった。ワタクシの目から涙が一雫、流れ落ちた…。…と、ワタクシは思い直す。ここでワタクシが鞠絵ちゃんの傍についてあげなければと…。でも、ツベルクリン? ドイツの孤児院のシスター、ワタクシは御祖母さまと呼んでいる人のお手紙ではあれは大して効果がないという話だったけれど?…。この日本ではまだそこまで伝わっていないのですね? そう思うと鞠絵ちゃんがとても…。
…ワタクシが傍にいても彼女はワタクシのことを邪険に扱うだけだろう。でも同じ悲しみを知っている間柄だ。ワタクシで彼女の悲しみの十分の一でも、いいえそれ以下でも共有してあげたい。そう思った。再び鞠絵ちゃんの病室へ入る。病室の中はもう薄暗かった。
“そうですわね…。だって“釣瓶落としの秋の夕暮れ”って言うぐらいですもの…”
そう心の中で独り言を呟いて、鞠絵ちゃんの病床の片隅にあるランプに火を点すと、ワタクシは椅子に腰掛ける。鞠絵ちゃんを見ると布団を頭からかぶって横になっていた。泣いているのだろうか…。小刻みに布団が揺れていた……。
「さあ、鞠絵ちゃん。何か食べないと体も元気になりませんわよ?」
出来うる限りの明るい声でワタクシはそう言ってみる。だけれども……。
「……」
鞠絵ちゃんは何も言わない。布団から顔を出してもくれない…。見ると布団がぶるぶる震えていた。ワタクシは何も言えなかった。ただ優しく彼女の布団越しの背中を撫でてやることしか出来なかった。ワタクシはそんな自分をもどかしく思った。
「…春歌さん……、ありがとうございます……」
しばらく布団越しの彼女の背中を撫でていると、布団の中から小さく弱弱しい彼女の声が聞こえてきた。それは本当に弱弱しい声で…。ワタクシはそんな彼女の背中を優しく撫でながら…、
「どうですか? 鞠絵ちゃん。気持ちいいでしょう? ワタクシも病気になったとき、よくこうして頂いたものですわ…。ドイツの御祖母さまに…」
「そう…なのですか……」
鞠絵ちゃんは小さな声で、今にも消えてしまいそうな、まるで蝋燭の残り火のような小さな声でそう言った。その声がとても哀れで、ワタクシは思わず言い淀む。そんなワタクシのことを見ていたのだろうか…。鞠絵ちゃんは弱弱しくこう言った。
「…昔はこうしてあの人に背中をさすって頂いたものです…。出来ることならあの頃に帰りたい。つつましくも幸せだったあの頃に…。でも、今は出来ません。わたくしはあの人を許すことなんて出来ませんわ……。わたくしの心の中にはあの人への恨みだけしかないのです。わたくしは、いずれこの病で死んでしまうでしょうね…。でも…、でもあの人だけは許せない! 許すことが出来ないのです…。わたくしは…、わたくしはただあの人の…、航さんのそばにいたかっただけなのですよ?……。それなのに…、それなのにあの人は目先の欲に目が眩んで…。今までだって忘れようとしました。でも忘れることなんて出来なかった。あの人が平和にのうのうと暮らしている陰で、わたくしは…。そう思うと胸が張り裂けそうになるくらいの悔しさが…。あの時の悲しみが…。わたくしの脳裏に浮んできてしまうのです…。ごほっ、ごほっ…」
ワタクシは慌てて布団をまくる。病室の寝台の敷布団の上には小さな血溜まりが出来ていた。その横で儚げな顔で気を失った女性を…。いえ、女性というよりは少女のような…、まるで、家庭の温かさや温もりを忘れて、すべての愛に飢えた女の子が一人で、寂しそうに帰ることのない家族の帰りを待っているかのようだった……。
病院からさほど遠くない建物に、少女が一人いた。今の時代には高価で珍しい“双眼鏡”というものを持って…。少女は探す…。何かを…、そう、それは獲物を探すかの如く…。やがて…、
「見〜つけたっ!! 鞠絵チャマ…。発見デス…。クフフ」
そう言ってその少女は、双眼鏡を覗き込みながらニヤッと笑った。ひとしきり笑った後、隣に座る女性を見て、少女は少々驚いた声を出してこう言った。
「ムッ? あ、あれは? ちょっと待ってクダサイ? え〜っと、え〜っと…。あっ! ありマシタ!!」
少女は、一つの古めかしい写真を取り出す。もうセピア色に変化してしまっているが、彼女にとっては思い出の品だった。少女はそれを懐かしげに…、愛しげに眺めた。そして…、双眼鏡の向こうを憎憎しげに見遣ると…。
「生きて…、生きていたんデスネ?…。あの女…。兄チャマを…、四葉の大好きだった兄チャマを、死に追いやった女…。後宮春歌!!」
その少女…、宮原四葉はこう言うと、今は亡き兄の面影をセピア色の写真に見ながら、憎憎しげに鞠絵の横に座る女性…、春歌の顔を見つめた…。四葉は大英帝国の生まれだった。彼女の父は英国の外交官、母は日本人の踊り子だった。父は外交官という仕事柄、日本にはよく訪れていた。そこで出会ったのが当時よく、父のお座敷に呼ばれていた母だ。
それから出会いを重ねていくうちに愛し合うようになり、やがて二人は結ばれた。外交官という仕事柄か彼は英国へと帰路に着いた。もちろん愛する妻を連れて…。英国の暮らしはそれほど裕福ではなかったが、それでも二人は幸せだった。やがて身篭った彼女は男の子、その五年後には女の子を産んだ。それが四葉と、彼女の兄“蛍一郎”であった。
しかし、そんな幸せな暮らしも長くは続かなかった…。流行り病で父が急逝すると、家は傾き始める。母は逃げるように英国を去り、故郷の地を踏んだ。その無理が祟ったのか、日本に着くと彼女はすぐに息を引き取った。四葉は、母を亡くした。そこは四葉と兄には初めての土地だ。幸い二人は英国の父の知り合いにいた牧師の紹介で孤児院に入ることが決まったのではあるが、今まで先進技術の大国にいた二人のことだ。
四十年ぐらい前まで、髷を結い、裃・袴などを着ていた国の文化の遅れにはついてはいけなかった。悶々とした日々が続いた。そんな時だった。その日は夕刻から雨が降った。兄・蛍一郎は傘を忘れて駅に佇んでいる。どうしよう…。このまま雨が止むのを待つか、それともずぶ濡れ覚悟で走るか…。あれこれ考えていると後ろから声をかけられる。ふと振り向くと、十八、九くらいの女性が立っていた…。
「あの…、傘をお忘れになられたのですか?」
「ええ、まあ…。でも、もうすぐ止むでしょうから…」
しとしとと雨は降っている。状況からして止むようには思えない。女性は、兄・蛍一郎のことを見越したかのようにうふふと微笑むとこう言った。
「この時期の雨はなかなか止まないものなのですわ? だから…、どうですか? 一緒に入っていかれては…」
「いや…、悪いです。それに、僕が遅くなるとすぐに迎えに妹がやって来るので…」
「あら…。そうなのですか?」
しばらくその女性と話し込む。話し込んでいるうちに彼女のことも分かってきた。どうやら彼女も帰国子女らしい。ただ自分と違う所は、彼女は望むべくして帰ってきたという点だ。自分は…、自分たちは望まざる帰国者だ。劣等感が彼を襲った。だが…、
「そんなことを気にしていては、この国ではやっていけませんわよ? この国は昔気質の人間が多いのですから…。気にしていれば精神がおかしくなりますわ…。ですからワタクシは気にしないことにしておりますの…」
「あなたは…、強いですね…」
「ワタクシは女性ですよ? そんな…、強くなんてありませんわ……。現に今だって……泣いていたんです……」
女性はそう言うと下を向いた。言葉の最後の方はうまく聞き取れなかった…。蛍一郎はちょっとだけ不思議に思った。なぜ彼女が悲しそうに項垂れているのだろうかと…。そう思った。悲しそうに項垂れる彼女の横顔を見ながら、蛍一郎はこう切り出した。
「また…、また会っては頂けませんか?…。僕はあなたに興味を持ちました。もしかすると好きになったのかもしれない…。ですから…、また会っては……」
「いいえ…、いけませんわ……。ワタクシには好きな人が…、思い人がおります…。でもその人はワタクシを捨てて、ワタクシの知らない女性と結婚してしまいました…。つい先日のことです…。もう、諦めようと思いました。でも、そうは思ってもワタクシは心のどこかであの人のことを…、今でも愛しておりますの…。嬉しいことですのに…。とても嬉しいことですのに…。……我が侭を言って申し訳ございません。でも…、ワタクシの気持ちの整理がつくまで、もう少し待っては頂けませんか? しばらくそっと置いていてほしいのです……」
女性は首を横に振る。そして顔を上げた。上げた顔には涙が一筋流れていた。涙を着物の袖でそっと拭く。その仕草がなんとも可哀想で…。蛍一郎はそう思った。一方、女性はそう言うと、蛍一郎に傘を手渡し雨の中を去って行く…。雨の町に、その濡れた瞳を残して去っていく女性。蛍一郎ははっとなるも、追いかけようとはしなかった。…いや、去っていく彼女があまりにも可哀想で……、追いかけられなかったのである。代わりに去っていくその女性に向かって大声でこう言った…。
「せめて…、せめてあなたのお名前を!!」
「後宮…。後宮春歌と申します…」
一瞬立ち止まりそう言うと、悲しそうな瞳を蛍一郎の方にそっと向けて、彼女は去っていった。蛍一郎は貰った傘を手に彼女の去って行った方を見つめるだけだった…。それからというもの、蛍一郎は毎日、彼女の行方を探した。彼女の家がわかったのはそれから九ヶ月後のことだ。やっと彼女に会える…。その時だった。彼が突然大量の血を吐いたのは…。そう、蛍一郎は胃癌に冒されていたのである。
蛍一郎の体に異変が起こり始めたのはちょうど春歌と出会う一年くらい前からだった……。はじめは胃が重たいような感じから、やがてそれがだんだんと痛くなり、やがて…。体は痩せ衰えていった。そんな兄を四葉が気付かないはずがない。すぐに兄を診療所へと向かわせる。だが、西洋医学になれていない小さな町の診療所だ。高度な医療は望めなかった…。かといって孤児院暮らしの彼ら兄妹に、高度医療の先駆である大学病院への入院は無理だったのである。
ある夜。蛍一郎は診療所に四葉を呼び出すとこう言った。
「四葉…。僕はもう駄目かもしれない…」
「何言ってるんデスか!! 兄チャマ! もう少しでよくなりマス! だから…。だから諦めちゃダメデス!!」
四葉はこの兄のことが好きだった。四葉が小さい頃は、よく兄の後を追いかけて迷子になり、この兄に探し出してもらったものだった。ちょうどコナン・ドイルの名作“シャーロックホームズの冒険”が店頭に並べられて幾年か過ぎた頃だ。
四葉の幼心には“兄は自分を探してくれる名探偵”という風に見えていたのだろう…。そんな兄の後姿を見ながら四葉は成長していった。兄は四葉のすべてだったのだ…。だから、どうしてもこの兄の気持ちを蔑ろにした、かの女性・後宮春歌を許すわけにはいかなかった…。それだけ兄のことが好きだったのである。
しかし、そんな四葉の願いも虚しく、兄は父と母の待つところへ逝ってしまった…。天涯孤独になった…。そんな四葉の心の中に芽生えたもの。それは、あの女、優しかった兄を振った女…。後宮春歌に対する復讐心であった。
そして、今現在。四葉は、藤田浩之の隠密としての生活をしている。イギリスでの探偵の真似事から学んだことを生かして、藤田の影として彼女は働いている。彼女の仕事は主に情報収集と撹乱だ。鞠絵を表向きの顔とするなら、四葉は完全な裏…。人の弱みを探るということが彼女の顔である。今日もある財閥の裏金のことを風の噂で聞き、それを確かめるとともに入院中の鞠絵の様子を見てくるように藤田に言われたのである。四葉は、しばらく鞠絵の様子を伺うと独り言のように呟いた。
「なぜ? なぜ鞠絵チャマはあの女といるデスか? あっ! もしかしたら…。……ううん。鞠絵チャマに限ってあの女にたぶらかされるわけがないデス!」
首をブンブンと横に振ると四葉はまた双眼鏡を覗き込む。ちょうど春歌が医者に呼ばれて出て行くところだった。鞠絵を見るとぴくりとも体は動かなかった。いや、実際には小刻みに体は揺れていたのだが、遠くから覗いている四葉には気がつかなかったのである。双眼鏡の向こう…、鞠絵の病室を見ていた四葉は、優しい顔になると…、
「鞠絵チャマ…、早く元気になるデスよ…」
そう一言言うと、事務所へ帰っていった…。
オレは帰ってきた宮原から報告を受ける。鷺沢の様子を聞いた。鷺沢が倒れたということが分かったのは、つい先日のことだった。あいつは仕事はできるが、体が弱いのが難点だな…。オレはそう思った。
「はい…。鞠絵チャマは大丈夫そうデス。でも……」
「でも? でも…、どうした? 言うんなら早く言え…。用事がなけりゃ行くぞ…。オレは忙しいんだ…」
「……」
いつまでも黙っている宮原を尻目に、オレは部屋を出て行こうとした。ドアノブに手を掛けたとき、そっとその手に覆い被さるように別の手が伸びてくる。ふっ、とその手の先を見ると宮原が涙を流して立っていた。
「……兄チャマを…、四葉の大好きだった兄チャマを殺した女が…、今、鞠絵チャマのところにいるんデス…。四葉は…、四葉は許せマセン!! 大好きだった、四葉が世界中で一番大好きだった兄チャマを殺して、殺したことにも気付かずにノウノウと生きているあの女! 後宮春歌を!! お願いデス、藤田サン…。四葉に、兄チャマの無念を晴らさせてクダサイ!!」
「……駄目だ…。お前は感情に走りやすい…。誤ってその女を殺してでもしてみろ…。それこそ一大事だぜ? だからお前は…、オレの言うことに素直に従っておけばいいんだよ…。分かったな?」
少々怒ったような目で宮原を睨む。こいつは何だかんだと言ってもまだ子供だ。オレとしては扱いやすい。宮原は悔しそうにオレを睨んでいた。事務所の扉を開けて出て行こうとするオレに…。
「……分からない…デス…。分からないデスよぅ…、藤田サン……。四葉には…、分からないデスよぅ…。うっ、うっ、うっ……」
宮原のすすり泣く声が聞こえた。哀れだな…、こいつも…。病室のあいつも…。そして…、オレも…。オレはそう思った…。そっと事務所の扉を閉めてオレは外へ出る。
“復讐…。か……”
そう言うと自嘲気味に笑った。ふと空を見上げた。空から白いものが降りてくる。雪だ…。この時期に降ってくるなんて珍しいな…。雪は後から後から降ってくる。淡雪だからすぐに消えてなくなるんだがな…。そう思いながら誰もいない家へとオレは家路を急いだ……。
つづく…