私は今、大学病院へと向かっていた。これから会うある女性のことを思いながら。汽車の車窓からは、うっすらと雪の積もった東京の町々が初冬の日差しに照らされている。白い雲が黒い煙とともに果てしなく流れて行った……。
あなたのそばにいたかった
第五章、死に至る病、中編
千影の家を航さんと一緒に出る。私と千影は昔から、そう、幼稚園時代からの親友だった。昔はよくままごとなどをして遊んだものだ。でも千影が航さんの遠縁だったとは、私はちっとも知らなかった。無論、等の千影でさえ海神家の人たちの遠い親戚だということは知らなかったようだったけど…。航さんと歩いて駅のほうに向かう途中、私はふとを結婚式のときのことを思い出していた。
uいや、鞠絵のところには僕が行くよ……。今まで君にはずいぶんと無理をさせてしまってたから。もうこれ以上迷惑は掛けられないよ…。それに、これは僕が蒔いてしまった種なんだから。ねっ?……」
そう言うと首を横に振りながら航さんは下を向いた。雛子が心配して言う。
「パパ、どうしたの?」
顔を覗き込むようにして航さんの顔を見る。“何でもないよ…、雛子” そう航さんは作り笑顔で言うと雛子の頭を撫でた。気持ちよさそうに撫でられる娘の顔を見て私はまた罪悪感に苛まれる。
鞠絵さんも、きっと私が航さんと一緒になっていなかったら、私が彼を奪っていなかったらきっと今の私のように楽しくも慎ましい生活を送っていたはずだ…。私の犯した罪は大きい。一生を掛けても消せない罪だ。何度彼女に謝っても謝りつくせないほどの罪だ…。償っても償いきれないほどの罪だ……。そう思う。私は首を横に振りこう言う。
「航さん……。私は…、私は彼女を傷付けてしまったのよ? だから私は謝らなくてはいけない…。私が謝って許してくれるはずもないと思うわ。だって私はそれだけ大きな罪を犯してしまったのだから……。でも、一言だけ謝りたいの……。もしそこで彼女に罵声を浴びせられ、恨みのために殺されようとも、それは仕方のないことだわ。だって私は……、それだけのことをしたんだもの…」
「咲耶……」
不思議そうに私たちを見つめる娘。航さんは雛子の頭を撫でながら私の名前を悲しそうに呼んだ。
「だから航さん…。明日、私は鞠絵さんに会うことに決めたの…。いいえ! 会わなくてはならないの! 私は…。だから、だからお願い! 航さん……。私の好きにさせてくださいな……。彼女にあってお話がしたいの…。話をさせてくれるかどうかも分からないけど……。でも、一目会って彼女に謝りたいの……。私の、私のせいで……」
最後は呟くようにそう言うと私は声を殺して泣いた。だけど、鳴咽は声を殺した奥から湧き上がってくる。気がつくと声を出して泣いていた。娘もそんな私を見て悲しくなったのか泣き出してしまったようだ。泣いている娘の小さな体…、私は抱きしめる。優しく抱きしめる。そっと頭を撫でてやった。落ち着いたのかしばらく頭を撫でていると安心したのか娘は眠ってしまったようだ。そっと抱きかかえるとベットまで運ぶ。
「…咲耶。僕は……」
部屋を出るとき、航さんが呟くようにそう言っているのが聞こえた…。…雛子を寝かせて戻ってくると航さんが一人思案深げにソファに座っていた。私に気がつくと……。
「雛子は…、寝たのかい?」
暗い表情でこう言う。私は何も言わずにこくんと頷いた。彼を見る。彼は暗い表情のまま…、“そうか…”と一言呟くように言った。彼に寄り添い外を見る。この時期にしては珍しい雪…。初雪だ。深々と降る雪を見ながら彼と結婚した五年間を振り返ってみる。
五年間彼と生活して分かったことがある。それは、彼が鞠絵さんと同じように私も愛してくれていると言うことだ…。もし彼のことを鞠絵さんが許したのなら、私は彼と別れようと心の内にそう思っている。
本来いるべき人は私なんかじゃなく、彼女なのだから……。でもそれが分からない自分もいる。彼の妻となって、子供も出来て平和な家庭を築いている。壊したくない……、こんな幸せな家庭を壊したくない……。もうあの人のことは忘れて……。と思う自分が心のどこかにいて必死で叫んでいる。
でも、それを決めるのは私なんかじゃない。航さんだ。そう思った。でもそう思えば思うほど胸が閉めつけられる思いがした。悲しかった。心の底から悲しかった。心がまるで杭を打たれるかのようにずきずきと痛んだ…。沈黙の刻…、実際には、1、2分しか経っていないけれど、私にはすごく長い時間が流れたような気がした。
「咲耶…、僕は……」
深い沈黙を破って航さんが一言そう言う。私は何も言わず、彼の元へ駆け寄るとふるふると首を横に振った。途端に彼は泣き崩れる。声にならない声。激情と言うべき感情…。それは彼の最愛の彼女であり妹でもあった鞠絵さんに対する感情だったんだろう。彼を優しく介抱する私にはそれが痛いほどによく分かった…。
雪が降っている。淡雪が…。この時期には珍しく積もる勢いで深々と雪は降っている。明日は一面の銀世界になるだろう。私はそう思った……。
次の日の朝。起きてみると町は一面銀世界に変わっていた。昨日の雪が積もったんだろう。私の家はちょっとした高原にある。夏は涼しいが冬は寒い。雪も降って積もることも多い。だからではないがこう言う光景には慣れている。家の外に出て量ってみた。私の膝くらいまで雪が積もっている。まあ、それはそうだろう。あれだけ降ったのだから…。
そう思って家の中に入り暖炉に火を点けた。この暖炉で、妹たちと…、そしてお兄様と一緒に遊んだことを思い出す。あの頃は何も分からずに遊んでいた。懐かしさが心に沸いた…。けれど、物事の分かる頃になると妹たちとは血が繋がってないということをお兄様から聞かされる。お兄様の口からそう聞かされる。もちろんお兄様ともだ。
私は目の前は真っ暗になった。……でも、何となくだが分かっていた部分もあった。お母様もお父様も愛人がいる言うことは薄々ながら気付いていたし、何より私たちに対する愛情が微塵もなかった。仕事に追われている部分もあっただろう。でもどこの家庭にもあるはずの“団欒”というものが私の家にはなかった…。
話をするのは当時住み込みで働いていた女中の眞深美さんぐらいなものだ。彼女の家は貧しくて、ついには奉公に出されたのだと彼女からそう聞いた。彼女は私より年が2歳離れているお姉さんで、私の勉強を見てくれたり、またよく話し相手になってくれた優しい人だ。でもそれももう昔のこと…。彼女はお兄様が亡くなった年の冬、不慮の事故で…。
よく働く娘だった、惜しいことをした…。と亡くなったお父様もそう言っていた。私も実のお姉様を失ったように悲しくて…、大好きだったお兄様を失ったときと同じくらい悲しくて……、彼女の遺骸に縋って泣いてしまった。
そう、あれからもう五年が過ぎたんだわ。私たちが結ばれた年…、そして航さんが彼女と別れた同じ年だから…。とそう頭の中で回顧しながら暖炉に火を点ける。槙をくべると赤々と炎が上がった。同時に部屋の中も温かくなる。炎を見つめてほっと笑みを漏らすと料理に取りかかった。
しばらく料理をしていると航さんが起きてくる。雛子も起きてくる。いつもの光景。そんな光景も今日で最期になるかも知れないんだわ…。そう思いながら朝食の用意をする。玉葱を切る真似をしながら密かに泣いた…。
「パパ! 雪が積もってるよ? 今日はヒナ、雪遊びがしたいな!」
「ああ、そうだね。でも、パパはお仕事があるからダメなんだよ…。ごめんね? 雛子」
パパのことが大好きな雛子はちょっと悲しそうな顔をする。航さんは今日も仕事で忙しい。幸い今日は日曜日。衛や花穂たちが帰ってくるだろう。この間の手紙で、そう書いてあった。書かれてある内容は向こうの生活やら友達のことなど…。読んでいると心が温かくなってくる。血は繋がっていなくてもやっぱり私たちは姉妹なんだと送られてくる手紙を読むと、いつもそう思う。私は雛子の元へ行き腰をかがめてこう言った。
「雛子…。パパはお仕事があって忙しいの…。だからおうちでお留守番してましょう? 今度一緒に遊んでくれるって…。それに今日は衛おねえたまたちが来てくれるんじゃなかったのかなぁ?」
私はそう言って雛子の頭を優しく撫でる。雛子はさびしそうな顔をしていたが衛たちの事を聞くと途端に嬉しそうに微笑んだ。航さんは私とは違う方向から雛子の頭を撫でる。優しく撫でられる雛子を見ていると私は鞠絵さんに会うことを躊躇させられそうになった。でも会わなければならない。会わなければ…。ふるふると心の中で首を振った。
「じゃあ、行ってくるね…。咲耶…」
航さんはそういうと仕事場に向かって行った。彼は山上財閥の最高責任者としての顔もある。二年前、お父様が亡くなる寸前、航さんを枕元に呼んで言ったんだそうだ…。
“俺の代わりに君が財閥を率いてくれ。頼む……”
と…。お父様は仕事は出来る人だった。お父様の仕事姿を幼い頃から見てきた私が言うのだから間違いはない。航さんは何も言わずこくんと頷いた。それを見て安心したのかお父様は…。以来二年間、彼は最高責任者として働いてくれている。私にはそれが嬉しかった。
航さんの私を見る目がどことなく寂しそうだった。彼は責任を感じているんだろう。去り際のあの目が印象的だった。
しばらくして私も準備を始める。彼女、鞠絵さんに会うための準備を…。雛子は不思議そうに私を見つめるとこう言った。
「ママ? ママもお出掛けしちゃうの? ヒナ、サビシイサビシイ病になっちゃうよ? ママ…」
「ママね。これから大切な人に会わなくちゃいけないの……。パパとママの大切な人…、雛子もパパやママと一緒に探しに行ったことがあるでしょ? その人なの…。だから今日は衛おねえたまたちとお留守番してて? ねっ? 雛子…」
私は雛子の目線にまで体を下げる。愛しい我が子の頭を優しく撫でながらそう言った。と、こんこんとドアをノックする音が聞こえる。多分妹たちが来たのだろう。そう思い私は雛子の頭を撫でるのを止めて玄関へと向かった。
「ヤッホー。あねぇ。遊びに来たよ。…って、あねぇ、これからどこか行くの?」
玄関先で待っていた私の妹たちに手短かに用件を伝える。妹たちも分かったように頷くと…、
「うん、雛子ちゃんのことは花穂と衛ちゃんに任せておいて? ねっ? お姉ちゃま…」
そう言うと、にっこり微笑んで妹たちは雛子のところへ向かって行く。雛子のところへ行くと後ろから目隠しをする花穂。目隠しをはずすと途端に嬉しそうな声を上げる我が子に私は少し安心した。
準備を整えると雛子を呼ぶ。にこにこ顔で雛子はやってくる。私の前にやってきた娘をそっと抱きしめる。優しく抱きしめる。もう帰ってこれないかもしれない。そう思いながら優しく抱きしめる。
「じゃあ、ママ行ってくるね? 雛子? いい子でお留守番してるのよ? おねえたまたちの言うこと、ちゃんと聞いてね…。ねっ? 雛子……」
「ママ? どうしたの?」
不思議そうな顔で娘は私の顔を見つめている。私はそれ以上は何も言えなかった。妹たちも何も言わなかった。私がどういう覚悟で行くのか…。それを、その意味を知っていたんだろう。私はそう思った…。雛子からそっと手を離して立ち上がる。張り裂けんばかりな心。ぐっとこらえて努めて明るい声で言った。
「じゃあ、行ってきます……」
と……。
白い壁、白い部屋、白い寝台。すべてが白で覆われた部屋にわたくしはいる。ただ、死を待っている。虚ろな空間。虚ろな時…。何もかもがどうでもいいような、そう言う錯覚に襲われる。もう、死んでしまうわたくしだ。今さらあの人を恨んだところでどうしようもない。霊魂というものがこの世にあって、わたくしが霊魂という存在になったとしてわたくしに何が出来よう…。
あの人を呪う事くらいしか出来はしない。あの人たちの幸せな様子を陰で見つめて、羨んでいるしかない。そう思うと何もかもが空虚に見えてくる。ああ、これが死を待つ人の心境なのでしょうね……。わたくしはそう思いながら今日も小さな窓に映る小さな世界を見て過ごしている。
藤田はどうなったか知らない。あの男のことだ…。新しいあこぎな商売を考えているに違いない。隠密の宮原四葉を使って…。彼女もわたくしと同じみなしごだった。元は大英帝国の起業家の娘だったと聞いている。でも、どう言ういきさつで彼女がこういう闇社会に来たのか分からなかった…。でも今わたくしは彼女と組んでいる。彼女の情報収集能力はすごいものがある。藤田でさえ圧巻させられるものだ。そんな四葉とわたくしで取ったお金が、だいたい百万円くらいなものだろうか…。わたくしはそう思った……。
春歌さんは毎日のようにお見舞いに来てくれる。わたくしが邪険に扱っても彼女は一日たりともお見舞いを欠かしたことはない。今日も彼女はやってくるだろう。そう思いながら寝台越しに映る街の風景を見る。白く覆われた街。雪が降ったんだろう。
「このような時期に……。珍しいこともあるものですね…。ごほっ、ごほっ……」
咳とともに真っ赤な血が口のはたから流れ落ちる。置いてあったハンカチで口のはたの血を拭く。近くにあった水を含み、また近くに置いてある洗面器に吐くと洗面器は真っ赤に染まっていた。白い洗面器に真っ赤な血…。何も出来ずにこの身を横たえると自然と涙が溢れてくる。泣きたい。泣いてしまいたい……。
でも、わたくしは泣かなかった。いや、泣けなかった。泣いてしまえばこの嘘ばかりな社会に負けたことになる。そう、この偽りと利欲と嘘の社会に…。あの人に、わたくしが一生を捧げようとしていたあの人に負けたことになる。涙をぐっとこらえ唇を噛んで必死に耐える。
でも……、わたくしがどんなにこらえても涙は溢れて、やがて痩せた頬を伝い流れ出てしまう。わたくしはまた負けてしまった。あの慎ましくも幸せだったあの頃に…。あの人の笑顔に……。悔しかった…。優しかったあの人の温かい温もりが五年も経った今でもわたくしの心の中に残っている。
気が付くと、わあと声を出して泣いていた……。
「駅に向かってちょうだいな」
待たせておいた人力車の車夫に私はそう言う。車夫は“へい、分かりやした”、一言そう言うと人力車を押していく。高台から下る坂道を降りていくと横浜の町の風景が一望できる。昨日雪が降ったのが分かるようにどの家の屋根も新雪で白く輝いていた。
市街地まで来ると、屋根に積もっていた雪が所々溶けだして、軒先からぽたりぽたりと雫となって落ちてきている。この分だと昼頃には全部溶けるだろう…、そう思いながら街の風景を見ていく。普段と変わらない人の群れがいつも通りの町並みに溶け込んでいた。
しばらく見ていると駅が見えてくる。レンガ作りの重厚な建物は、かの東京駅と同じ感じがした。やがて人力車は駅に到着する。私は車夫にお礼を言うと人力車を降りた。駅構内に入る。朝の通勤時間を少しばかり過ぎたんだろうか。構内はがらんと静まり返っていた。
時計は合ってるのかしら? そう思い懐中時計をもっていた手提げ鞄の中から取り出して構内にある柱時計を見る。2分ほど進んでいた。慌てて時間を直し確かめる。正確な時間だ。納得するように鞄に入れなおすと改札口へと向かった。
途中、小さな女の子が花を売っている光景を見かける。裸足だった。可哀想に、靴も買えないんだろう。声を失っているのだろうか。女の子は手に花を持つとその場を右往左往するばかりだった。こんなご時世だ。得をするものは得をして、損をする者はとことん損をする。そう言うご時世だ。寒そうに足を擦り合わせると一生懸命花を売っている。けど誰もその女の子に気付く人はいない。私は声をかける。
「お花…、一つ貰えないかな?」
私は花売りの女の子にそう言う。女の子はにこっと微笑むと花を一輪花籠から取り出した。足を見る。悴んでいるのか素足の女の子の足は赤ぎれで酷かった。財布からお金を取り出すと花を受け取る。女の子はぺこっとお辞儀をすると、また花を取り出して売っていた。
あの子の親はどうしたんだろう…。片親だろうか…。それにしては身なりが貧相すぎる。片親であっても履物くらいはきちんと揃えてくれるはず。どんなに貧しくても温かい家庭なら。そう考えてふと気付く。“そうだ…、生活が…”と…。日露戦争も終わって六年も経つが国民は多大な赤字債務に苦しんでいるのだったことを…。私のところはそのとき軍需産業で莫大な富を得ていたから……。これも全部私たちのせいなのね…。そう思うと後ろを振り返る。
片親かみなしごか分からない女の子に向かって心の中で何度も何度も謝る自分がいた。
改札で東京行きの切符を買う。次の列車にはまだ余裕がある。椅子に座って待っていよう…。そう思いホームの近くの椅子に腰掛けた。空を見ながら彼女のことを考える。だけど、考えれば考えるほどに彼女への罪悪感で頭はいっぱいになる。会って、何を話せばいいんだろう…。とも思う。彼女に会いたくない自分が心の中で暴れているのが分かった。
でも、私は彼女に会う。会うことに決めたんだ。たとえどんな結果になろうとも私は彼女に会わなければいけないんだ。でも正直に言うと彼女に会うのが怖かった…。勇気を振り絞って立ち上がると同時に汽車の汽笛が聞こえてくる。駅に汽車が入ってくる。車列をえんえんと連ねて。もう一度汽笛を鳴らすと汽車は静かに止まった。駅員が開閉扉を開けると乗客がぞろぞろと降りてきた。肩掛け鞄を持つと座っていた椅子から立ち上がる。てくてくと歩いて汽車に乗り込んだ。
客車はところどころ空席もあるが全体的には満席に近かった。私はちょうど空いていた窓際の席に座る。後からお客が入ってきたようだ。私の隣には3歳くらいだろうか、小さな女の子が座った。 ふと前を見ると、私と同じくらいだろうか、それくらいの女性が乳飲み子を抱いて座っている。多分この女の子の弟か妹なんだろう。そう思った。
ピーっという笛の音を合図に汽車は駅を離れていく。東京駅まで約一時間と言ったところだろうか…。しばらく景色を見ていると、
「お母さーん、おなかすいたよー…」
「もう少し待っててね? もうすぐ終点だからね…。終点に着いたら何か食べよ? ねっ、愛佳…」
「うん、じゃあもうちょっと我慢するね?…。お母さん…」
微笑ましい光景。私は優しい目でその親子のやり取りを見つめる。愛佳ちゃんという女の子は外の風景を眺めている。窓際のほうが見えやすいかな? そう思い私は言う。
「ねえ、お嬢ちゃん…、おばさんと、席代わろっか?」
「えっ? いいの?」
とは言ったものの女の子は急に遠慮しつつこう言った。
「でも、いいよ? おばさん…。愛佳、もう五つだもん。郁乃のお姉ちゃんだもん」
微笑むその顔には無理をしているということがありありと見えた。母親はと見ると、疲れていたんだろうかこっくりこっくり舟を漕いでいた。女の子はその様子を気の毒そうに眺めている。私は言う。
「おばさんなら大きいから窓際じゃなくてもよく見えるよ?」
そう言うと安心したのか女の子は、ありがとうとにっこり笑って言う。私は席を立って女の子を私の席に座らせると女の子が元座っていた席に座り直した。
ガタゴトと列車は揺れる。女の子は眠くなったのかいつしか母親と同じように舟を漕いでいた。その寝顔を見つめて我が子のことを思い出す。衛や花穂たちの言うこと、ちゃんと聞いているのだろうか…。わがまま言ったりしてないだろうか…。私がいなくなっても素直に育ってくれるのだろうか……。
私の横ですやすやと気持ちよさそうに眠る女の子を見つめながらそう思う。私の瞳から温かいものが溢れて、落ちた…。
東京駅に着く。女の子は手を振って嬉しそうにお母さんと昇降口へと降りていった。青い髪留めが晩秋の冷たい風に負けないくらい、元気良く揺れていた。私は微笑みながら手を振り返す。彼女の手が昇降口から見えなくなるまで降り返す。やがて誰もいなくなる。気がつくと、静まり返ったホームに一人佇んでいた。
改札口を出る。非常な勢いで進化する街の風景がそこにあった。ぶるっと首を一振りして歩き出した。大学病院はこの駅の通りをまっすぐ北に半里ほど行ったところにあるらしい。千影から貰った地図を見ながら歩く。やがてそれらしい建物が見えてくる。胸の高鳴りを抑えつつ歩く……。そして…、彼の妹、いいえ、最愛の彼女が入院している病院の前、私は足を止めた……。
つづく…