こつこつと靴音が響く。ワタクシは今日もまた、彼女のところへと向かった。白い壁、白い天井、白い床…。すべてが白で覆われた部屋。そこには一人の悲しい目をした少女が寂しそうな瞳で外を眺めている。感情のない、ただ悲しい顔で。ワタクシは今日もその部屋へと向かっていた……。
あなたのそばにいたかった
第六章 死に至る病、後編
昨日初雪が降った道をワタクシは歩いている。もう雪そのものは解けてしまっているが、ところどころの日陰には薄っすらと昨日の雪がくっついて、まるで粉砂糖を降ったお菓子のように見えていた。今日もまた、ワタクシは彼女の元へ向かう。そう、ワタクシと同じような境遇、同じような悲しみを背負った彼女の元へと…。
静々と病院の廊下を歩く。外来の待合室を見れば楽しそうに談笑されている人を多く見かける。また退院していく人なども…。でも、ワタクシがこれから向かおうとしているところは……。ううん、考えるのはよそう。首を横に振るとまた歩き出した。窓の向こう、遠くの町並みが見える。初冬を迎えた東京の町。粉砂糖を降りかけたように初雪は日の光を浴びてきらきらと輝いている。その中…、一人ぽつんと帰る当てのない家族を待っている少女の姿が心に浮かんだ。あれはワタクシだろうか…。それとも……。
「鞠絵ちゃん。今日は林檎が安かったものですから、買ってきましたの…。今から皮を剥きますから召し上がってくださいませね?…」
「春歌さん…。今日も来て下さったのですか? こんなわたくしのために……」
今日もワタクシは彼女のもとにいた。死に至る病を胸に抱え、生きる希望を失いかけている彼女のもとに…、ワタクシと同じ境遇にある彼女のもとにいる。すべてを諦め、すべてを拒み、すべてに失望した彼女。ワタクシが来るたびに彼女はこんなことを言う。この間など…、
「…もうわたくしは生きていても価値のない人間です…。ですからどうか春歌さん、わたくしのことはもう放っておいてはくれませんか? わたくしのこの病は結核と言って、もう掛かってしまえば治らない病なのです。経口感染もしますから非常に危険なのですよ? わたくしはもう後僅かですけど、春歌さん、あなたはまだ未来があります。ですからもうここには…」
そんなことを言うと彼女は俯いてしまう。何とも言えない悲しい表情。一人ぽつんとどこかの見知らぬ地に取り残されたように少女はこう言う。もう生きることに諦め、ただ死を待っている…、そんな顔。その顔のあまりの悲しげな表情に思わず口を閉ざしてしまう。何とか口に出さなければ…、とは思うものの口から出た言葉は、
「鞠絵ちゃん…」
の一言だけだった。何かを言おうと思った。言わなければならないと思った。でもワタクシの口から出た言葉はそれだけだった。自分は彼女を助けたいと思っている。それなのに……。心を癒すことがどれだけ難しいものなのか、そのことを痛切に感じた。でもワタクシは彼女の苦しみを少しでも知ってあげたい。彼女がどんなに心を閉ざしてもそのことだけは…。そう思う。努めて明るい声を出し、ワタクシは言う。
「お医者様は清潔にしていれば大丈夫だっておっしゃっていましたわよ? ほら、こうして割烹着も持ってきましたし…、大丈夫ですよ? それに、もしかかっていたらもうとっくの昔に発病してるんですから…。ですからワタクシは大丈夫ですわ…。うふふっ…」
“結核” 掛かってしまえば二度とは治らない不治の病。ドイツでコッホ博士がツベルクリンを開発して数年。当初は結核治療の要とまで言われていたのだけれど、効果はそれほどないことが言われている。ワタクシもドイツのお祖母様にそう手紙で聞かされていた。だけど効果は薄くても多少はあることも分かっているので世界中で使われている。といってもツベルクリン自体がものすごく高価なため、ここ日本では買えないのだろう。……結局、お金持ちにしか接種できない代物なんだ。今、苦しんでいる大勢の患者、そして…、目の前の彼女には程遠い代物なんだ。そう思った。
そう思ってはっと気付く。ワタクシが弱気になってどうするの?! と…。鞠絵ちゃんが弱気になっているのにワタクシまで弱気になってどうすするの?! と…。そう思って胸をぽんと軽くたたき微笑んでそう言うワタクシ。彼女を見る。ちょっと微笑みながらワタクシを見ていた。その微笑みを見て、何て優しい微笑みなんだろうか…。、これがきっと鞠絵ちゃんの本当の微笑みなのですわ…。そう思った。と同時に彼女のこんな微笑みを見たいと思った。もっともっと見たいと思った。林檎を剥きお皿に乗せると彼女のひざ掛け机の上にことっと置く。最近は穏やかな日々が続いている。彼女もワタクシに心を開いてくれたんだろうか…。美味しそうに林檎を齧る彼女の顔を見て、ワタクシは穏やかな顔になった。このままそっとしておいてあげたい。この穏やかな顔を見るとそう思う。
…が、突然彼女は血を吐いた。“鞠絵ちゃん、鞠絵ちゃん!” と彼女の名前を呼ぶが、意識を失っているのか彼女のほうからは何の返答も返ってこない。最近は二日に一回の割合でこんな光景を目にすることが多くなってきている。ベッドに寝かしつつちょうど通りかかった看護婦さんに言ってお医者様に来てもらう。“様子を見ましょう…” 少々疲れた顔でお医者様はこう言った。なぜ彼女ばかりが…。お医者様の去った後、部屋にはワタクシと彼女の二人だけ…。眠っている彼女の顔を見れば実に儚げな…、今にも散ってしまいそうな小さな花のような感じがする。手を握る。華奢な手はまるで少女の頃よく遊んだお人形の手のようで、強く握れば今にも壊れてしまいそう…。何もせず、ただ鞠絵ちゃんの手を握り続ける。目には知らず知らずのうちに涙が溢れてくる。ポタッと彼女の手の上に雫が落ちた…。…と、コンコンと誰かが扉を叩く音が聞こえる。誰だろう? お医者様はさっき戻られたし…。彼女の手をそっと布団の中に戻し、涙を着物の袖で拭うとワタクシは扉のほうへと向かった。
静かだった……。ただ静かだった。わたくしの前では春歌さんが買ってきた林檎の皮を剥いている。実に優しそうな顔で…。まるで本当の姉上様のように優しく接してくれる。こんな社会のゴミのようなわたくしに…。その顔をまともに見ることが出来ずわたくしは横になる。どうしてこの人はこんなにも優しいんだろう。同じ愛していた兄上様に捨てられて…、傷つけられて、心もずたずたに引き裂かれたはずなのに…。なのにどうしてこの人はこんなにも優しく微笑んでいるんだろう。
答えは言わなくても分かる……。心の強さ。わたくしにはなくて彼女にはあるもの。わたくしももしあの人と別れたとき、彼女のような心の強さがあったなら、今頃はこんな裏社会の片隅で貧乏な人たちを騙し、あるいは恐喝したりしてお金を取ることはなかっただろう。心の強さ、弱い人間となってしまった今でも欲しいと思っている。でも、わたくしをお金に換えて捨てたあの人のことを思うと…、幸せに暮らしているあの人のことを思うと…。どうしてもわたくしは許すことが出来なかった。例えこの身が滅んでもあの人だけは許すことは出来ないと思った。心の底から愛していたあの人…。今は山神財閥の総帥として日本経済を牽引している。黒い噂なんてこれっぽっちも聞いたことがない。昔から誠実で潔白で人に優しく、自分には厳しい。そんな人。わたくしの愛していた兄上様。でも……。
わたくしは今でもそう思っているのだろうか…。裏切られて捨てられてもそう思っているのだろうか。自分自身が時々分からなくなる。恨んでいるのか愛しているのか……。それすらもう分からないほどこの胸の病は進行しているんだ。そう思った。あの日よりもう五年の歳月が流れている。でもわたくしにはつい昨日のことのように思えてしまう。まるで御伽話の浦島太郎のような感じ…。今日は昨日の雪が嘘のように晴れ渡って遠くのほうまで見える。眼鏡を掛けているのではっきりと見えるのだろう。そう言えば、最近は眼鏡を掛けていない日が多かったな…。そう思い、ふと前を見ると春歌さんが優しく微笑んでいた。
「さあ剥けましたわ。どうぞ召し上がってくださいな…」
「あ、ありがとうございます。春歌さん…。じゃあ頂きますね?」
そう言って林檎の一片を齧る。林檎独特の甘酸っぱい味と香りが口いっぱいに広がる。美味しい…。こんなに美味しい林檎を食べたのは2、3回目くらいだ。最初の1、2回はそう、あの人が買ってきて下さったもの…。甘酸っぱくて、でもとても美味しくて、まるでそれはあの人と食べた林檎と同じ味で…。美味しい…。そう思いながら一生懸命食べる。食べていると知らず知らず目頭が熱くなってくる。ふと気がつくと、頬に温かいものを流れていた…。春歌さんは何も言わず次々に皮を剥いてはをお皿の上に並べている。その姿を見てわたくしは自分が分からなくなる。あの人を恨んで、この社会を憎んでいる自分がなぜこんなにも切ないのか…。なぜこんなにも心が苦しくなるのか…。分からない。外を見ると東京の街が見える。あの町の片隅では、薄汚れた人たちがお金の亡者となって、罪もない人たちから今日も騙し、あるいは恐喝などをしているのだろう…。そんなことを考えると、もうこんなことはやめたいとも思う。でも……、やめてしまえばあの人への、わたくしを裏切ったあの人への復讐、こんなことが許される社会への復讐が未然に終わってしまう。わたくしの生きている存在価値がなくなってしまう。そう思った。恨み、憎しみ。負の感情がわたくしの心を支配する。それとは逆の感情も心の片隅に再びお目覚め始めようとしている。いとしさ、恋しさ…。今まで考えもしなかった感情が再び目覚めようとしている。それは五年前、あの海岸を去るときに誓った復讐を忘れてしまうのではないのだろうかと思うほど、すごい勢いでわたくしの心を満たしていく。それがわたくしには嫌だった。
半分ほど食べると急に胸が苦しくなる。 咳とともに血が口からあふれ出てくるのを感じた。とっさに口元を押さえるが、溢れ出た血はシーツを真っ赤に染めていった。気が遠くなる感覚を覚える。そして、わたくしは意識の底に沈んでいった。
私は今、病院の階段を登っている。大学病院はとても大きく設備も万全だ。千影にはいろいろと力になってもらったわね…。ありがとう。心の中でそう言う。でもこれからは私一人で頑張らなくてはならない。航さんの最愛の人に会うこと…。どう話をすればいいのか、何て詫びればいいのか…。それすら分からないけど私は彼女に会うために来たんだ。
門前払いのように会ってはくれないかもしれない。ここで死ねと言われるかもしれない…。でも私は会う。そう決めたんだ。そう思いながら、階段を一歩、また一歩と上る。雑念を振り払うように上る。でも雑念というものはどことなしか浮かんでくるもので、“雛子は今頃どうしているだろう…” とか、“私がいなくなってもちゃんと育ってくれるだろうか…” とかいろいろなことが頭に浮かんでくる。逃げたいと思った。温かい家庭、愛する人のもとへ逃げたいと思った。でも……。いや、と頭を横に振る。そんなことをすればもう一人の私が許さない。それに航さんを裏切る行為、これだけは出来ない……。これだけは…。そう一人自問自答を繰り返しながら階段を上った。
どれくらい上っただろうか…。下を見ると螺旋のようにぐるぐると階段が渦を巻いていた。5階…。初めて会う彼女のいる病棟だ。きょろきょろと辺りを見回してみる。と突然、やたらに大きな足音の一団が私の前を通り過ぎていった。きっとあれは急患が出たんだろう。そう思った。命を助けること、これほど難しいことはない。私もそれは痛切に感じている。お兄様を失ったときは本気で医者というものを恨んだ。かかってしまえば治らない死の病だ…、仕方のないことだとは思う。実際医者は一生懸命尽くしてくれた。通常1日のところを3日に命を伸ばしてくれた。お兄様とも話が出来た。でも私は恨んだ。これとないというほど逆恨みをした。お兄様の主治医の先生を殺してやりたいとさえ思った。…それを宥めてくれた人は航さんだった。“咲耶は僕が守るから…” そう言って優しく抱きしめてくれる。嬉しかった。それが偽りであるとしても…。…彼の好きな人は他にいる。分かっていたことだ…。でも、それでも私は彼に甘えた。捨てられること…、怖くてたまらなかったんだと今更ながらそう思う。“もう…、もう彼女のことは忘れて!” 何度心の中で叫んだことか。何度口からその言葉が出そうになったことか…。でも、私の口からは何も言えなかった…。
手を握る。強く強く握る。外を見ると昨日降った雪も大方融けて今では路地裏の日陰にところどころ残っている程度だった。ああ、この分だったら雪遊びは出来ないだろう…。残念そうな娘の顔が浮かんだ。こつこつと廊下を歩く靴音が聞こえる。伝染病でうつれば100%死に至ると言う恐ろしい病。うつらないためにと病院からマスクをもらった。でも私はつけないでいよう。そう思った。途中何度かすれ違った人は一応に私の顔を変な目で見つめていた。自分の身が大事ならマスクをつけているべきなのだろう。でも私はつけていない。つけることなんか出来ない。そう思った。
やがて一番奥の部屋、千影に教えてもらった航さんの最愛の彼女のいる病室の前へと来る。心臓は高鳴る。どんな顔でどんな風に入っていけばいいんだろう…。そんなことが頭をよぎった。そう思うと自然に扉を叩こうとしていた手は止まってしまう。“わざわざ死にに行くようなものじゃないの?" 私の中の悪魔が囁く。ぶんぶんと首を横に振る。今度は雛子の声が聞こえてくる。“ママ、どこか行っちゃうの?” 手は自然に下に下りる。幻想とはいえ我が娘の声を、寂しそうな声を聞いて事を起こす親がどこにいるだろう。と、そこまで考えてまたぶんぶんと首を振る。そうだ…。もう別れは済ませてきたんだ。あの子は花穂や衛たち、そして航さんが育ててくれるだろう。私がいなくなっても立派に育ってくれるだろう。何も心配はない。それに今会わなければ私は一生後悔することになる。そう思い直すと何だか勇気が沸いてくる…。さっきまでの弱気な私は私じゃない。そう思い直しもう一度手を扉に手を持っていく。コンコンと扉を静かに叩いた。
コンコンと扉を叩く音が聞こえて、ワタクシは扉へ向かう。“誰だろう…” そんなことを考えながらガチャッと扉を開けると、そこには見たこともない女の人が立っていた。年の頃からワタクシと同い年くらいだろうか。慇懃にお辞儀をするところから地位の高い人なんだろう。そう思った。
「失礼ですけど…。ここって鷺沢鞠絵さんのお部屋ですよね?」
「はい。そうですけど…。あの…、失礼な物言いなんですけど…、あなたさまはどちらさまですか?」
そう言うワタクシに無言のまま立って覗き込むように中を見る女の人。鞠絵ちゃんの寝台のほうを見ると、目が釘付けになるのが分かった。もしかして?! と思い、“失礼ですけど、山神財閥の方ですか?” と聞いてみた。少し驚いた顔になる女の人。しばらく黙っていたけれど、意を決したようにこう言う。
「ええ。そうです。私が山神財閥総帥、海神航の妻、咲耶と申します。で? あなたはもしかして…、鞠絵さん……ですか?」
「あっ、いえいえ。鞠絵ちゃんなら今しがたまた血を吐いてしまって…。今は寝台のほうに…。先ほどお医者様もお見えになられて…。最近はいつもこんな調子なのですわ……。早く元気になって欲しいとは思っているのですけど…。……あっ、自己紹介がまだでしたよね? ワタクシは事情があって鞠絵ちゃんのお世話をやらせてもらっています。後宮春歌と申します……」
そう言うと、ぺこりとお辞儀をする。そう、この人が鞠絵ちゃんから全てを奪った女性。海神咲耶さん。鞠絵ちゃんが起きていたら絶対部屋には入れないだろうな…。そう思った。咲耶さんを中へと招きいれ、椅子を勧める。自分もちょうどあった予備の椅子に座った。寝台には、一人の女性…、いや、一人の少女が眠っている。帰るあてのない家族を待っているような寂しげな瞳でこの世の中を見ている少女が眠っている。その少女の前には、少女からすべてを奪っていった女性が少女を見つめている。悲しげな、本当に悲しげな瞳をして…。
「ごめんなさい……」
血を吐いた後の青白い鞠絵ちゃんの顔を見て一言、咲耶さんはそう言った。そうして黙り込むように下を向く。じっと下を向いたまま黙り込む。何分そうしていたんだろうか…。握った手の甲にぽたぽたと雫が落ちていた。
「あなたの…、あなたの将来を奪って…、あなたの愛する人を奪って……。最後にあなたの命まで奪おうとしている…。こんなこと、許してもらえないことは分かってる。だから今日は死ぬ覚悟でここに来たんです。今更許して欲しいなんて言わない。…いや、言えない。殺されたってそれはそれで仕方のないことだって分かっていました。それなのに…、こんな死に至るような病になって…。ごめんなさい…」
意識のない鞠絵ちゃんの手を握る咲耶さん。ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちて雫は鞠絵ちゃんの手の甲に落ちる。“……ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい……” 連呼するように言う咲耶さん。最後は泣き崩れるように彼女の手に縋って泣いていた。もう何を言っているのか分からないくらい、呂律が回らなくなっていた。…でも、鞠絵ちゃんは眠ったままだった。
咲耶さんも落ち着きを取り戻した後…、咲耶さんの口から鞠絵さんのお兄さん、そして彼女の旦那様のことを聞いた。彼女は言う。
「航さん、口には出さないけど、鞠絵さんのことを本当に愛しているんだって…。いつもそばで見ているんですもの…。鞠絵さんを探すときの真剣な目、鞠絵さんを尋ねるときの真剣な口調。ああ、やっぱり彼の目には鞠絵さんしか映っていないんだって…。そう思うと私はそれが悔しかったんです。私だけを見て欲しいのに、私だけを愛して欲しいのに…。でも彼には鞠絵さんしか映っていなかった……。私を見つめる瞳の奥にはいつも鞠絵さんが…。悔しかった。もう彼女のことは忘れてって何度も言おうと思った。でも、言えなかった。もし私も鞠絵さんと同じ立場だったらって…そう思ったんです。もし私が鞠絵さんと同じ立場だったら私も同じことをしていたかもしれないって…。ううん、きっと私のほうがもっと酷いことをしていたのかも知れない…。全てをかけて愛していた人に裏切られたんですもの…。当然でしょうね…。私はそう思うんです。春歌さん……」
そう言うと咲耶さんはそっと優しく鞠絵ちゃんの手に触れる。それは優しくまるで天使がこの世のすべての人を愛で包むが如く…。そんな彼女の傍らには、一人の全ての愛に飢えた少女が眠っている。青白い顔で23歳とは思えないほどの華奢な体つきの女の子が、一人寝台の上で眠っている。優しく彼女の手を握りしめて、溜まった涙を払うと少女を見つめていた彼女は言う。
「鞠絵さん、私はあなたから全てを奪っていった女性です。今更許してもらおう何て思わない。許して下さいって命乞いもしない。あなたがここで死んで下さいって言ったら私は死にます。でも、あなたの病気だけは…、それだけは治させてくださいな…。それであなたが私のことを更に恨むことになっても、それであなたに殺されても、私はかまいません…。だから、治させて下さい…。お願いします…」
寝台の上に眠っている少女を優しい瞳で見つめている女性。涙をぽたぽた零しながら彼女は意識のない少女の手を握り締める。その目には一点の曇りも、一点の迷いもなかった…。
「では、よろしくお願いします。春歌さん。…お金のほうは私たちのほうで工面しますので…」
夕方、空はすっかり暗くなってアーク灯の灯るような時間になっていた。春歌さんと話した。彼女の生い立ち、鞠絵さんのようなつらい経験、そして今は千影のところで働いているということ…。全部話してくれた。“彼女も同じ経験をしてたのね?” 彼女のお兄様とのつらい別れ話を聞くと、鞠絵さんもそうだったんだろうと思う。私自身も、もし愛していた人に裏切られて捨てられたら絶対恨んでいたと思うし、この社会を恨んでいたと思う。でも、春歌さんは恨む気持ちよりも愛する気持ちのほうが勝っていたんだと思った。でなければ心の底から祝福するなんて出来ないもの…。同じ境遇でも違う二人。でも、私は鞠絵さんのほうが悲しいけれど世間的に合っていると思った。恨みに思い殺してやりたいという衝動に駆られる。それが人間なのではないかと…、そう思う。
「それでは、失礼しますね?」
「あ、はい…。あ、あの。 咲耶さん、こんなことを申し上げるのは酷なことかも知れないのですが、もう一度鞠絵ちゃんに会っては頂けないでしょうか? 彼女の生きている間に……」
「えっ?」
私は驚く。ドイツで新薬が開発されて実用されてるはずじゃ…。千影もそう言っていたし間違いはないと思う。少々疑問に思い春歌さんに尋ねると春歌さんは沈痛な面持ちでこう言った。
「ええ、確かにドイツではツベルクリンと言う薬が発明されて結核に対する効果は上がってきてますわ。開発された当初は結核の特効薬として期待もされていました。でも…、あれは今は結核感染者の有無を調べるための薬になってしまっている状態なのですの。ですから実際にはまだ特効薬と言うものは発明されてはおりませんわ。それでも少しは結核菌に効果があり、菌を死滅させることは出来るでしょう……。でも完全に死滅させることは出来ませんの…。ですから……」
そう言って悲しそうに鞠絵さんのほうを見る春歌さん。“千影の言ってたこと、あれは嘘だったの? この薬があれば治るってそう言ってたじゃない!” 心の中の一人の自分がそう言う。でも千影は薬学者じゃない。それも分かっている。でも…。治ると信じていたものが実際には効果の薄いものだったとは……。しばらく動けなかった。涙がはらはらと零れ落ちる。居たたまれなくなったのか、春歌さんは謝るようにこう言った。
「ワタクシはドイツに永く住んでいましたものですので…。その辺の事情も分かりますの…。でも二、三年後にはいいお薬が出来ると信じてますわ…。咲耶さん、ごめんなさいね? 本当はこんなことを言うつもりはなかったのですけれど、どうしてもあなたには今の現状を知っていて欲しくて…。鞠絵ちゃんが毎日どんな思いで暮らしているのか…。どんな思いで社会を見ているのか…。……結局、ワタクシもこの社会というものを直視することが出来なくなっているのかもしれませんね? 強い者はとことん強く、弱い者はとことん弱い。そういう社会を…」
そう言うと、外を見る春歌さん。私も釣られて見る。チラッと春歌さんのほうに目をやれば唇を噛み締めて悔しそうにじっと外の風景を見つめていた。どんな思いで見つめているのか私には分からない。でも…、少しだけ分かったような気がした。彼女もこの不条理な社会を憎んでいるのだと…。少なからず鞠絵さんと同じ気持ちなんだろうと…。
病院を後にする。空には白い月が浮かんでいた。婚約前、病院のベットの上で涙ながらに聞かされたあの話。今に思った。愛があるから恨み、憎しむ。でも愛がなければ、私がこうして生きていることはなかっただろう。例えそれが偽りの愛だったとしても…。人は自然に生まれてくるものじゃない。男と女が愛し合い、子を育むものなのではないだろうかと…。そう思う。月を見る。白い光で街や人を優しく包む。今は、今だけはその優しさに包まれたい。悲しみと深い後悔に沈んだ私の心をそっと優しく包んでくれる月の光に…。そう思った。
夢を見ていた。兄上様と一緒の頃の夢を…。思えばあの頃からわたくしは兄上様のことが好きだったのかもしれない。遠い、遠い昔の夢。帰りたいと思ったあの頃。そんな夢を…。その夢の中、ふと温かな感触がわたくしの手に添えられる。それはとても温かで、でもどことなしか寂しそうな手だった。また夢を見る。今度はあの運命の夜の夢。止める兄上様を突き飛ばし、涙を流して去っていく自分。あの時…、わたくしにも春歌さんのような心があったなら……。社会など恨むこともせず兄上様の幸せを願ってあげられた……。でも、もうすぐわたくしは地獄に落ちる。底の見えない深い闇に引きずり込まれる。それはそうだろう、わたくしから全財産を奪われ、泣く泣く身売りなどをしなけれはならなくなった者、あるいは心中しなければならなかった者…。恨みや憎しみは死んでも消えることはない。罪の意識に苛まれる。
と、突然辺りは真っ暗になる。どこをどう歩いているのかも分からない。暗い闇の中ぽつんとひとり、立っているのか座っているのか寝ているのか、それすら分からない空間に閉じ込められる。叫んでも叫んでも誰もいない。ああ…、これが死を待つ者の見る夢なのだろうか…。そう思った。何もすることも出来ずその空間を漂っている自分。これが死というものなのだろうか。と、突然一点の光が見える。眩しいとは思うもののその光のほうへ進んでいく。なぜそうしたのか自分でも分からなかった。でも、進んでいく。ただそこに何があるのか…、それが気になって…。やがて光のそばまでやってくる。そっと手を差し出す。温かな波動。身も心も落ち着ける波動。昔、寂しいと言って泣いたとき、兄上様が抱いてくださってその胸の中で眠ったときのような温かな波動。幸せな波動…。ぎゅっと、その光を掴んだ時……。
目を開ける。優しい光が部屋の中に満ち溢れていた。そばには春歌さんがわたくしの寝台に体を預けて眠っていた。ずっと看病をしてくれていたのだろうか? 顔は少しだけやつれた感があった。“ありがとう…。春歌さん” 起き上がり、壁に掛けてある厚手のコートを彼女の肩に掛ける。そうしているうち、お医者様が入ってこられた。わたくしの顔を見ると…。
「もう、大丈夫のようだね? ツベルクリンが効いたのか……」
そう言われる。ツベルクリン? 確かドイツで開発された新薬では? そう聞くとお医者様は言いづらそうな顔になる。問い詰めるとしぶしぶ話してくれた。もう三日も前のこと。ある女性がわたくしの部屋にやってきて、春歌さんとお話をしたそうだ。その後で医務局にやってきて院長先生に二百万円の小切手を渡して、“これでツベルクリンを買ってください。そしてあの505号室の患者を、どうか助けてあげてください…、お願い、お願いします!” とお願いしたそうだった。
「その女性の名前は? どちら様ですか?」
わたくしがそう聞くと、首を横に振るお医者様。言えない事情でもあるのか…。もし言えない事情なら…と考えるがその答えがなかなか見つからない。考えていると、むっくり春歌さんが起きてきた。目を擦って辺りをきょろきょろとしている。やがてわたくしの存在に気付くと、ぱあっとしぼんでいた花が一気に開いたような顔になった。
「ツベルクリンがっ! ツベルクリンが効きましたのね?! あああ…」
嬉しそうな春歌さんをよそにある疑問が浮かぶ。ツベルクリンと言えばドイツで開発された新薬、それも一つが五十万円もする薬だ。そんな高いお薬を誰が? こんな社会のゴミのようなわたくしに買って下さったのだろう…。そこまで考えて、はたと気付いた…。と同時に、あの時のことも…。
「もしかして、これは、“山神財閥”の家のお金ですか?」
そう聞く。一瞬びくっとなるけれど、春歌さんは観念したのか、こくんと首を縦に振りこう言った。
「ええ、そうです…。先日のことですわ。鞠絵ちゃん、あなたが倒れた後、すぐに咲耶さんが見えられて…。泣いていましたわ…。意識のないあなたの手を握って…。全部自分が悪いって…、あなたから最愛の人を奪ったことも、今は幸せな毎日を送っていることも、全部自分の浅はかさが原因だって…。そう言いながら…。だから自分は死ぬ覚悟でここまで来ましたって…。そう言っていましたわ。でも鞠絵ちゃん、あなたの命だけはどんなことをしても、どんなにお金が掛かっても、例えあなたに恨まれようとも助けてあげたいって…。“それであなたが私を更に恨むことになっても” ってそう言っていました」
語られる真実。わたくしは、わたくしはこれほど惨めな思いをしたことはない。わたくしの愛していた人を奪った女性からこのような恩を受けること…。これほど惨めな思いをしたことはなかった。悔しかった。生きていることがこれほどつらいと思ったことはなかった。いっそ死のうとも考えた。だけどそれは出来ない。あの人への復讐が残っている。でも…、それとは逆の感情も芽生え始めていた。五年前、あの海岸で捨て去ったと思っていた感情が…。何だか自分が自分でないような感じがした。言われるがままにツベルクリンの投与を続ける自分…。不思議な気分だった…。
そして一ヶ月後、年も改まった一月のある日、順調に回復したわたくしは大学病院を退院した…。しばらくの間は通院しなくてはならないそうだけど…。お金は全てあの人が払ってくれるそうだ。春歌さんがそう話してくれた。病院を出ると雪雲だろうか、雲が垂れ込め始めている。“今夜も雪になりますわね?” わたくしの横にいた春歌さんが一言そう言う。“ええ、そうですね…”と単簡に言ってわたくしは空を仰いだ。鉛色の空が広がっていた。春歌さんと何も話さずに歩く。最も春歌さんはお買い物をして帰っているので、今はふうふうと息をついている。“お荷物重いでしょう? お持ちしましょうか?”とお声を掛けても“いいえ、これくらいは何ともありませんわ…。うふふ…”と言うと笑顔を見せる。そんな春歌さんに心惹かれた。その屈託のない笑顔に…。今夜は春歌さんがお部屋に泊めてくれるそうだ。快気祝いのご馳走を作って祝ってくれるって…、ニコニコしながら春歌さんはそう言う。…そんな中わたくしは考える。あの気持ちは何だったのだろうか…。今でもわたくしはあの人を愛しているのだろうか…。そんなことを考えながら…。悔しさと愛しさとが複雑に絡み合いながら…。わたくしは春歌さんの家へと向かった……。
つづく…