ひらひらと雪の舞い踊る道、こんな早くに雪が降るなんてな…。そう思いながらオレは道を急いだ。鷺沢は今、高度医療に先駆とも言われる大学病院入院しているらしい。まあ、あいつは体が弱いのが難点だからな? 宮原からそう聞いてオレは思った。それにしても寒い。積もるんじゃねーのか? これ…。そう思いながら空を見上げる。…ああ、ちょうどこんな日だったな。オレのこの世でたった一人の妹、あかりが逝った日、それにあの人と別れた日は……。


あなたのそばにいたかった

第七章藤田の過去前編


 ぼろい借家郡の一角、オレの家はある。オレ一人、孤独に暮らしてきた家だ。誰もいない家。昔の楽しかった思い出が嘘のように静まり返っている。そんな家に帰っている。今でこそこうだが、昔は楽しかった家。両親と最愛の妹がいた家…。幸せだったあの頃……。…ふっ、思い出に浸っちまったぜ。ともかくも帰ろう…。こう寒くちゃ何も出来やしねえ……。 そう思いながら歩を進めた。
 オレの親父は小さな町工場の経営者だった。昔ながらの職人気質な親父と、肝っ玉の据わったお袋とおっちょこちょいでドジだが心優しい妹と、そしてこのオレと……。四人貧乏ではあるものの慎ましやかに暮らしていた。しかしオレが十五のとき、ふとした失敗から多額の借金してしまい、オレの両親は…。後で知かったことなんだが、これには大企業の圧迫があったんではないだろうか? と言うことらしい。オレが金貸しの仕事を始めて分かったことはやはり大企業の陰謀…。そう、後にオレがぶっ潰す日本有数の大企業にして侯爵家・来栖川…。それが親父とお袋を追い詰めた原因だった。葬式の時、お袋の遺骸に縋って泣き崩れるあかりの顔がオレの脳裏から未だに離れない。
 一つ年下の妹は女学校を辞めて親の借金を返すため、ある貴族の屋敷に住み込みで女中として働き始める。オレはオレで、ある大金持ちの車夫として働きだす。元々何の取り得も才能もないオレだ。こんなことくらいしか出来なかった。家に帰ると借金取りが連日のように押しかけてくる毎日。近所からは煙たがれてもいた。よくよく生きていたなと今頃になって思う。はっきり言って毎日が地獄だった。
 オレの仕事は大金持ちの家の車夫だ。住み込みではないが朝から晩まで働いた。家はただ単に寝るところと化していた。しかし毎日働いても、借金は減ることはない。むしろ増えていく一方だ。これはこっちの世界に来て知ったことだが、こう言うのを“高利貸し”と言うんだそうだ。でも当時はそんなことは知らない。知る由もない。一生懸命に働いた。
 そんなある日、オレは家の主人に頼まれある屋敷へと向かっていた。密会か知らないがその屋敷の名前は言わない。金持ちはみんなこうだ。家の外に何人も愛人を作り、密かにその愛人と深い関係になる。なぜ一人の女性だけを愛することが出来ないのだろう。今の奥様だっていい奥様じゃねーか…。とそんなことを考えつつ、持つ取っ手を深く握り、歩を進めた。
「降ろしてくれ…」
「へい……」
 オレはぽつり一言、呟くようにそう言う。もう辺りは暗がりでよくは見えなかったが相当大きな屋敷であることは分かった。主人は“2、3刻待っていてくれ…” と言って屋敷の中に入っていったが、4、5刻はかかるだろうな? そう思い待つことにする。それにしても大きな屋敷だ。きっと政界か、財界かの大物の屋敷なんだろう。と…、手持ち無沙汰で待っていると、屋敷の方から身なりのいい女性が一人、こっちに向かって歩いてくるのが分かった。よく見てみると洋装に身を包んだオレより一つ。二つばかり年上の女性だ。何だと思い動向を見ていると、どういう訳かこっちの方に歩いてくる。ついにはオレのところに立ち止まる女性。きょろきょろと辺りを見回すとその女性はぽそぽそと小さい声で話し出す。
「えっ? これに乗せてください? そ、そうは言ってもなぁ〜」
……
「運賃のことは大丈夫です? い、いやそうじゃなくてだな…。オレは保科男爵のお抱えの車夫であって…、っておい!!」
 言うが早いかもう女性は乗ってしまっていた。ちっ! しょうがねぇ…。“じゃあちょっとだけだからな?” そう言うとオレはよいしょと手車を押し始める。無言のまま座っている女性。髪の毛の一本一本がさらさらとオレの押す手車の上で揺れている。オレは美人の形容が苦手だ。だが、この女性は本当に美人だと思う。まるで真珠か金剛石のようなキラキラした輝きを放っている神々しい玉と言うか何と言うかそう言う感じに思えた。後で分かったことだが、この女性こそがオレの親父とお袋を殺した張本人であり、憎むべき来栖川侯爵家、家長の娘・芹香…。オレが恨んだ社会の上層にいた女性だった。もっとも当時はそんなことなど分かりもせず、ただ単にきれいな女性だと思っていた。元々皇族だった来栖川家は、瓦解の時に臣下に下り、今は侯爵の地位にある立派な家系。オレたち最下層の人間とは訳が違う。明日の食う物もままならないオレたち。上層の者どもはいい目をしていることに憤りを感じる。そんな中で、あの女性だけは違った。会うと必ず声をかけてくれる。仕事の帰り、屋敷の前を通ると必ずと言っていいほど、窓辺に立って優しく微笑みながら手を振ってくれる。寒い日などは、しょうが湯などを持って表に立ち何時間も待っていてくれたこともあった。何だか不思議な気持ちだった。親父とお袋を殺され憎むべきはずの相手に…。気がつくと、彼女に惹かれる自分がいた。


……
「えっ? 浩之さんはご兄弟とかはいますかって? ああ、妹が一人いやすぜ? ちょっと体が弱くて心配ですけどね?」
 そう、オレには妹が一人いる。体が弱くても、泣き言一つ言わないしっかりした妹。オレの妹にしておくにはもったいないくらいの妹だ。あまり頭は良くなくて器量もあまりないがそれでもオレにとっては可愛い妹だ。“お名前はなんと言うのですか?” とお嬢様。
「名前は“あかり”って言いやす。今は住み込みで働いてるんで心配と言っちゃあ心配なんすけどね? そう言うお嬢様はどうなんですかい?」
 とオレは聞き返す。出会いから五、六ヶ月。いつの間にか、オレはこのお嬢様と仲良くなっていた。いつも無口で何を考えているのか分からないと言うのがもっぱらの評判らしいとのことだ。そう言えば実際あまり誰も口を聞いたことを見たことがない。ただ単に口下手なだけなのか、それとももっと深い事情があるのか…とも思う。だがオレにはいろいろ話してくれる。帰り道、行き道、お嬢様の話を聞くのがオレの日課となっていた。今日も楽しそうに話していたんだが、妹の話なると突然何故か暗い顔になった。何刻か経ったか、ぽそぽそといつもの弱弱しい声ながらしっかりした口調で話し出す。オレは聞き入った。
……
「えっ? 私にも妹が一人いました? いましたって? どういうことっすかい? ……って! いけねっ、もうこんな時間じゃねーか。お嬢様、話の途中で申し訳ありやせんがあっしはこれで失礼しやすぜ…」
 ますます暗い顔になるお嬢様。まずいことでも聞いたのか? と思い時間に格好つけてその場を去ったのだが、彼女は妹を失ったのかもしれないと思った。悲しみに満ちた目がそう言っていた。これは後、来栖川財閥を潰した時に分かったことだが、彼女・芹香には一つ年下の妹がいたんだそうだ…。でも彼女が六つの時に目の前で事故に遭い……。それ以来あまり口を開くこともなくなったんだとオレのところにちょくちょく金を借りに来ていた住み込みの下女から聞いた。今になって思うんだが、彼女もつらかったんだろうなと思う。オレがあの家を潰しに行った時、最後に見せたあの涙はそのことも含まれていたんだなと思う。それももう、十年も前の話だ。


 苦しい生活。この世には神も仏もないのかと思える世の中。そんな中でも少しの幸せを見つけてはオレたち兄妹は慎ましく生きてきた。妹・あかりとは手紙のやり取りで励ましあった。妹の手紙にはつらいこと、苦しいことなどはいっさい書かれてはおらず、楽しかったこと、嬉しかったことなどが書かれてある。そして最後の件には必ず、“私、頑張るから…” という文で締め括られていた。もともと頑張り屋な妹のことだ。オレに心配掛けさせないように気丈に振舞っていたんだろう。今更ながらそう思う。
 送られてくる手紙を見ながら無茶をしなけりゃいいが…、と心配したものだ。そう思っていた矢先だった。妹・あかりは肺病に冒されてしまい3日3晩苦しんだ挙句、息を引き取ったことを知ったのは…。愕然となった。頭の中が真っ白になった。嘘だろ? と思った。でも、妹の遺体と対面した時、オレは事実を受け入れざるをえなかった…。妹の同僚に聞いた話によると、最期は一人寂しく部屋の片隅で、膝を抱えて冷たくなっていたと言う…。深い悲しみと絶望がオレの心を包む。後で妹の奉公先の主人の息子・雅史さんに聞いたところによると、食事も満足に与えられず寝る時間も少なかったらしいとのことだ。。もっとも妹はそんな雅史さんに、いろいろと助けてもらっていたらしい。妹のことが好きだったと妹の死後、位牌の前、雅史さんは涙ながらに話してくれた。妹もこの雅史さんのことが好きだったみたいで、よく手紙に書いてたっけか…。
“お兄ちゃん、お元気ですか? 私は毎日忙しく働いています。旦那様も奥様も厳しい人ですが、それは私にもうちょっとしっかりしなさいって言う態度の表われなんだと思うの…。だから私は大丈夫だよ? それにね? 坊ちゃまがよくして下さるから…”
 ってな…。今にして思う。オレがいない独り身では、雅史さんだけが妹の心の拠り所だったんだろうと…。雅史さんはあかりと同い年の優しい人だ。芯も強く我慢強い。オレなんかとは雲泥の差、将来を嘱望された身。妹もそんな人に憧れ以上なものを感じていたんだろう。また、彼も一生懸命に頑張る妹にいつしか愛情を持ってしまったと妹の死後、そう語ってくれた。
 しかしそれも身分の差から諦めざるを得なかったんだろう…。妹の墓に来るたびそう思う。彼は帝国大学に入り、家を出ることとなる。彼曰く、“あかりちゃんも一緒に連れて行ってやりたかった…” とのことだが、それも叶わず…。もともと雅史さんの家は厳格な新政府の役人の家で、瓦解の頃にめきめき頭角を現した家だったらしい。いつしか良家のお嬢様を娶り、さらに経済力を持ちいつかは政界入りを目指す。それが彼の親の陰謀だったのかもしれない。こういう家だった故に妹も苦労に苦労を重ねて、それが元で…。元々体の弱かった妹、そして誰よりも気配りのいい妹のことだ。誰にも心配は掛けさせまいと苦しくても、つらくても我慢していたんだろう…。でも最期は一人寂しく逝ってしまった。オレがついていればこんなに無理をさせたりはしなかった。と自分自身を責め苛む。最期の顔…。昔の顔とは全然違っていた。痩せこけた頬は妹の苦労を物語っていた。泣いた…。三日三晩泣き明かした。
 この世には神も仏もいないと思った。オレの近所の人たちがどう言ってたかは知らない。ただ、こそこそとオレの陰で何か話しているということだけは分かった。オレはこの通り学もなければ名誉もない。それにオレにはもう身内はいない。両親は駆け落ち同前で結婚したためオレには親戚はいない。オレも親戚がいるのかさえ分からない。この世でたった一人の血を分けた妹も、もういなくなった。天涯孤独となった。悔しかった。悔しくて悲しくて…。雅史さんさえいてくれたらと、彼を憎んだ時もあった。でも妹は、あかりはもう帰ってこない。恨んでも仕方がなかった。
 これも後で知ったことだが、雅史さんは何度も彼の親父さんの所に行って、妹を自分のところに置いておきたい、そしてゆくゆくは結婚を…、と言っていたんだそうだ。でも侯爵家のような上流家庭に憧れていたのか、両親に猛反対され妹をこの屋敷から追放すると脅されたんだと、妹の位牌の前で涙をぽろぽろ零しながら拳をぎゅっと握り締めて彼は語ってくれた。彼も悔しかったんだろうな? 今更ながらそう思う。オレは彼の肩に優しく手を置くとこう言った。
「雅史さん…。政治家になってください。そしてこの国を変えてください。オレたち貧しい者も安心して暮らせるような世界に変えてください。それがあかりの…、妹の弔いにもなるんです。オレは学はありません。才能もありません。あるのはこの身一つです。でもこの身一つでも働けば何とか暮らせる…。そんな社会に変えて欲しい。みんなが平等に暮らせるような、そんな社会に変えて欲しい。妹はもうこの世にはいませんけど、妹のような人がこれから出ないためにも、また、帝国を変えるためにも、あなたには政治家になってほしいんです。お願いします! 雅史さん…」
 そう言う。最後は涙声に変わっていた。雅史さんは、オレの肩に手を置くと、“ああ、分かったよ。浩之君…。僕が政治家になってこの国を変えてみせる。君やあかりちゃんのような人たちがもうこの日本と言う国から出ないためにもね?” 涙ながらにこう言ってくれた。オレもそう言ってくれた雅史さんのことが嬉しくて、また男泣きに泣いてしまった。


 あかりの位牌の前で約束した通り彼は帝国議会議員になった。妹が逝ってから2年後のことだ。オレはそれが嬉しかった。彼は約束を覚えてくれていたんだと思った。あかりの墓前に行き、報告をする。木のざわめきが何だか妹の声のように聞こえた。彼が帝国議会議員になった当時、日本は清国との緊張関係が続き、いつ戦争に入ってもおかしくない状態だった。現に軍は召集令状を掛け若い人材が軍によって取られるという事態になっている。オレのところにも来たが、オレはびりびりに破いて捨ててしまった。兵隊なんて真っ平ごめんだ。そう思った。隣りの家々からは“非国民!”と罵られ、いつしかオレは村八分となった。でも人が人を殺すんだぞ? そんな野蛮な行為が出来るのか? とオレは声を大にして言いたい。しかしオレのような考えはこの界隈には誰一人としていない。みんな政府に踊らされているんだと思った。気がつくとオレは完璧に孤立してしまっていた。帝国議会では雅史さんと彼の後輩で、今オレの同僚にして後ろ盾となっている矢島だけが反対の異を唱えている。戦争なんか起こすよりもっと重要なものがあるのではないか? 社会福祉の拡充を…。と言うのが雅史さんたちの主張だ。男爵は一応貴族院の議員も兼ねているのでそっち方面の話もちらほらと聞いたが、やはり戦争推進派の人だった…。上の者はみんなこうだ! 自分たちは安全なところにいてオレたちのような貧しいものほど兵隊や何かで取られてしまう。何故にこうも違うのかと思う。雅史さんはそう言うオレたち貧困層のまさに希望の星だった。しかしそれは極々少数意見であり、また富国強兵策をとっている現在の日本では、‘非国民’のレッテルを貼られてしまう危険な行為だ。
 そんな中で、彼は政府に対して公然と異を唱え続ける。オレはそんな彼を心の底から応援した。演壇に立ち政府批判をしている彼に向かい罵声や石を投げつける輩を殴りつけたこともある。それ以外にもいろいろやった。そしてオレは暴行罪と言う罪で警察に逮捕される。不当な裁判を受け10年の禁固刑を喰らいオレは刑に服する事になった。日清戦争が始まったのがちょうど刑に服してから6ヶ月が経ったころだ。雅史さんがあんなに反対していた戦争……。馬鹿げた戦争がついに始まってしまった。黄海海戦、旅順攻防戦…。日本軍の勝利を聞くと、監獄の中でもどっと沸いた。独房に閉じ込められているオレにもその声が聞こえてくる。何故殺し合うのがいいんだろう。領土を広げて一体何の得になると言うのだろう…。広げたということはそこに暮らしていた人たちを追い出したということになるんだぞ? と内心そう思う。しかも何の罪もない多くの人たちを犠牲にしてるんだ。そのことを分かっているのか? と一人一人に問い詰めてやりたかった。だがこの狭い独房ではそれも出来ない。悔しさだけが残った。


 やがて戦争は終わる。日本は勝ち朝鮮半島と台湾島を支配下に入れた。オレは恩赦という形で出獄する。ふらふらと街を彷徨い歩き自分の家の前まで来て愕然とした。オレの家は別の誰かの家になっていた。慌てて大家のところに駆け込んで、訴えるが…、
「お前さんははっきり言うとこの界隈では厄介者だ。荷物は捨てようと思ったが、捨てると費用が嵩むんでな? しようがないから納屋にまとめて置いてある。それを持ってどこかよそに行ってくれ…」
 と言って大家は相手にもしないでさっさと玄関の扉を閉めようとしていた。オレは大家の閉めよとする扉に足を引っ掛けこう言う。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 例え借家でも一応は契約を結んでいるんだ。どうしてオレがいないのをいいことに、他の人をオレの家に住まわせたりするんですか! 勝手にも程がある!!」
 そう言う。大家はふんっ! と鼻を鳴らすとさも鬱陶しそうな目つきでオレを見ながらこう言った。
「ふん! こっちは借家主なんだぞ? 借家主が住まわせる者を選ぶ権利くらいはある!! それに、お前さんは前科者で、何でも佐藤議員、いや今はもう…。ふふふ。その人の応援をしていたんじゃないかね? お前さんは…。戦争に強硬に反対して、ついには陛下に直訴なされようとしたバカなやつの……。そんなヤツをこの界隈に住まわせるということは…。お前さんもバカじゃなかったら分かるだろう? 悪いことは言わないからとっとと荷物を纏めて出て行ってくれ…」
 ええっ? 雅史さんが? う、う、嘘だ。あの雅史さんに限ってそんな…。と思い荷物もほっ散らかして、雅史さんの行方を捜しに行く。が、務所上がりなオレには今の状況が分からない。途中で立ち寄った家々の人に行方を聞いたが、みんな一応に嫌な顔をして、軽蔑とも思える目つきでオレを見ていた。考えも纏まらずふらふらと町を彷徨う。と…、ふっと思い立つ。そうだ! 雅史さんの家に行けば何か分かるかもしれない。そう思うが早いか足は雅史さんの家へと向かっていた。
 雅史さんの家の前には人だかりが出来ていた。どうやら新聞記者のようだったのでそこら辺にいた記者を捕まえて事情を聞く。記者はオレの顔を不思議そうに見つめるとこう話してくれた。
「君も知っている通り今政界は大変なことになっている。佐藤議員は単身、陛下に直訴なされて、それで今日は佐藤議員の…」
 そ、そんな……。そんな馬鹿なことがあってたまるかっ!! 新聞記者たちを押し退け押し退け進む。ふっと屋敷を見た瞬間、目から涙がぼろぼろ零れた。嘘だと思った。でも黒い馬車には真っ白な棺が納められようとしている。オレはまた生きる希望を失った……。
 ふらふらと街を彷徨い歩く。オレにはもう行くあてもない。家も追い出された。そう言えば荷物を置きっぱなしだ…。だが、もういい…。親父とお袋とあかりの位牌だけで十分だ…。どうせオレももうすぐあっちへ逝くんだからな…。そう思い辺りを覗き込むような目で見る。人や物、全てが灰色に見えた。そんなオレをあざ笑うかのよう親子連れはに楽しそうにオレの横を通り過ぎて行った。足元がふらつく。そういや昨日の夜から何も食べてねーや…。はははっ、どうやらここまでのようだな。みすぼらしいあばら家の軒下でうずくまる。意識が朦朧としてくる…。ああっ、もうだめだ…。オレももうすぐそっちへ行く…。親父、お袋…、親孝行できなくてごめんな? あかり……、何もしてあげられなくて…、ごめんな? そう思い目を瞑った。今日は寒い。明日の朝は氷の張るくらい冷え込むことだろう…。その時オレの命はもうこの世にはないだろうな…。ふと、雪を踏むサクサクという足音が聞こえる。どこの誰かは知らないが、こんなところへよく来たものだ…。そう思い、瞑っていた目を開ける。昨日から何も食べてないせいか、意識も朦朧としている。微かに見える顔。まるで天使のような優しい顔だった。静かで、優しげな声も聞こえてくる。でもオレには何を言っているのか分からなかった。オレはそこで意識を失った。


 う…、ん…。と気がつく。辺りを見回すと見たこともない絢爛豪華な装飾品が所狭しと埋め尽くされている部屋に寝かされていた。布団もオレたち庶民には到底及びもつかないほどの暖かで軽い布団だ。オレは昨日のことを思い出す。そうだ…。オレは住んでいた家を追い出され行くあても失い…。そしてぼろ家の軒下に蹲ってただ死を待っていたんだ…。なのにどうしてこんなところに寝かされているんだ? 不思議でたまらない。と、がちゃっと扉の開く音が聞こえる。オレはその方向に顔を向けた。
「お、お、お嬢様!! どうして…、それにここは?」
 芹香さんが心配そうな顔をして駆け寄ってくる。急いで身を起こそうとすると優しい手がそっとオレの体を遮った。
……
「まだお体に触りますから安静にしていて下さい? そ、そうは言っても、お嬢様…。あっしのような下賎の者を匿われては…」
 首を横に強く振るお嬢様。“浩之さんは私が守りますから……。だから今は安静にしていて下さい”  静々と、でもはっきりした口調で言うお嬢様。目を見ると強い意思が伺えた。寝ているオレのほうに寄ってきて高級そうな寝台の横に置いてある椅子にちょこんと座ると、天使のように温かく優しい手でそっとオレの頭を撫でてくれる。そう、それは昔、お袋がオレの頭を撫でてくれたように…。懐かしさと優しさ…。あの傲慢な上流階級の人間の中にもこんな優しい人もいるのかと思った。オレの目から涙が溢れてくる。気がつくと軽く嗚咽していた…。
 体はやがて元通り元気になる。オレはお嬢様の特別の計らいでこの屋敷で働かせてもらえるようになった。旦那様は、奥様ともどもあまりいい顔はしていない。それはそうだろう…。どこの馬の骨とも知らない下賎の身、そんなやつがこのような元皇族の贅の限りを尽くしたお屋敷に住まわせて頂いているのだから…。オレも居心地の悪さはあったが、でもお嬢様が良くしてくれたおかげで何とか仕事も順調だ。再びオレの中には生きる希望が沸いてくる。と同時に今までにない気持ちも生まれつつあった…。そう、それは…。お嬢様への恋焦がれる感情…。愛と言う感情がオレの心の中に生まれる。お嬢様はオレのことをどう思っているのだろう…。オレは考える。二人でいるときなどは、必ずと言っていいほど優しい目でオレの顔を見つめ、そして微笑んてくれた。失敗して落ち込んだときは頭を撫でて優しく抱きしめてくれた。少なからずお嬢様もオレのことを…。でなければあんな親身になってくれるはずがない。そう思った。
 それがまやかしであることに気づかされるようになるのは、少し先のことだ。オレはこの通り最下層の人間で学もなければ地位も名誉もない。そんなオレに学問を教えてくれたのもお嬢様。今、こうして高利貸しが出来るのもそのときの学問のおかげだ。皮肉なもんだな…。そう思う。しかし当時はとても嬉しかった。毎日がとても充実していた。出来ればあのまま……。……いや、もう十年も前のこと。と首を横に振る。所詮は人間、美しいばかりじゃない。醜い部分もあるんだ。今にしてそう思うとオレはまた歩を進めた。

後編へつづく…