あの人の笑顔だけを見て過ごしたかった。心が荒んだとき、安らぎを与えてくれるあの人の笑顔を…。でも……。そんな日々は遠い昔の思い出したくない思い出だ。そう思い今、雪道を歩いている。雪は後から後から降り落ちて、地面を真っ白に染めていく。オレの踏みしめた足跡を消し去るように…。オレの過去を消し去るように……。
あなたのそばにいたかった
第七章、藤田の過去、後編
楽しい日々、お嬢様の笑顔を見ながら過ごす日々…、そんな日々は長くは続かなかった。時は北方の大国、露西亜が満州の権益を狙っていると言う時期だった。侯爵家は元々主戦派だったためにお嬢様のお付きの人間に戦争反対などと叫ぶ人間がいることは侯爵閣下には目障りだったんだろう。しかし先の戦争であれだけ死者を出してまで、まだ戦争を始めようとする上の人間の考え方が分からない。いや、あれは人間のすることじゃない。鬼か悪魔がする所業だ。先の清国との戦争で傷つき、また死んで遺骨となって帰ってきた人、そして残された家族を見ていると戦争というものが如何に愚かで残虐な行為かという事が良く分かる。
そう言うことを平気でする上の人間、そしてそれに踊らされる一般大衆を見ているとやるせない気持ちでいっぱいになる。昔オレのお袋がよく言っていた。“戦争なんていうもんは上の人間だけでやればいいんだよ。巻き添えを食うのはいつもあたしら一般民衆なんだから…” と…。オレのお袋は会津生まれの下級武士の出で、じいさんは瓦解の時に新政府軍と戦い死んだんだそうだ…。親父もお袋も詳しくは話してはくれなかったがそう記憶している。オレはそう言うことを聞かされて育ってきた。だからオレは戦争には反対してるんだ。この国は今、戦争をし領土を増やし罪もない人々を犠牲にしようとしている。そう言うことをお嬢様に話すと、こくっと頷いてくれた。お嬢様も少なからずオレと同じ気持ちなんだと思うと何だか嬉しかった。でも…。ある日を境にお嬢様の態度は掌を返すように豹変した。そう、それはあるどこかの侯爵家の晩餐会に行った後からだ…。
何も話してくれなくなった。微笑んでもくれなくなった。いつも何か悩み込むような仕草をしていた。そして挙句の果てには、会うことすらままならなくなった。何故だ? 不思議でたまらない。そうこうしているうちに俄かには信じられない話が伝わってくる。それはオレの想像をはるかに超えるものであり、かつオレを絶望の谷へと引き摺り込むものだった。そう、お嬢様には婚約者が出来てその婚約者ともうすぐ結婚すると言う話だったからだ。その時、オレはただ呆然としていた。オレが愛してやまなかった優しいお嬢様。微笑みと優しさをくれた女性。オレの愛した女性……。……オレの知らない遠い世界へ旅立っていくような気がした。
「ご苦労だったな? 藤田君。初めて君がここに来た時は、芹香もまあ良くこのような者を連れてきたもんだと思っていたが、君の一生懸命な態度を見て気も変わったよ…。これは少しばかりだが餞別だ。受け取ってくれたまえ…」
侯爵閣下はそう言ってオレに金を握らせる。十万円。一生遊んで暮らせるような金だ。手切れ金みたいなものだろう…。そう思い侯爵閣下の顔を見る。実に悲しそうな顔でオレの顔を見ている。嘘をつくな! あんたたち上流階級の者どもはオレたち最下層の人間をまるでゴミのような目で見ていたじゃないか! 今さらそんな顔をしてもオレの心は騙されん! それにこんな下層の人々から絞れるだけ絞り取った金が欲しくてオレは生きてきたんじゃない。オレはお嬢様の、あの人の優しい笑顔が見たくて…、小さいながらもあの透き通った声が聞きたくて今日まで頑張ってきたんだ!! 愛して……、いたんだ…。そう叫びたかった。強く強く叫びたかった。でも…。
「……へい。今日まで、どうもありがとうございやした……」
そう静かに言った。“愛している” そのたった一言が言えなかった。言ってしまえばどんなに楽なことだろう…。……でも言えなかった。心の奥底から出てくる言葉と実際喋った言葉、こうも違うものなのかと自分自身驚かされる。少ない衣類と親父やお袋、あかりの位牌などを風呂敷に入れる。また独りぼっち…、いや今度こそ本当の独りぼっちになったな…。自嘲気味に笑った。
玄関を出ると珍しく雪が降っていた。大きな庭園の道をゆっくり歩く。ああ、ここでオレの他愛ない話をさも面白そうに聞いてくださっていたっけ…。そう思いながら歩く。出口はまだ遠い。静々と歩いていく。雪は後から後から降り落ちて積もっていく。まるでオレとお嬢様との思い出を消し去っていくように…。半分まで来ると雪は路面をまるで白い絨毯を敷くかのように飾っていた。と、向こうのほうからかけてくる足音が聞こえる。振り返らず歩く。“待って! 待ってください! 浩之さん!!” そう言う声が聞こえてくる。優しい声…。でもオレは歩く。追いついたのかガバッと飛びつくかのようにオレの背中に優しい感触…。“離してくだせえ。あっしはもう…” そう言うとオレはお嬢様の手を振りほどき、また歩き出す。
「待って! 待って下さい!! 違う…、違うんですっ!! 私は婚約なんてしていません! 話しかけられなかったのは相手方の人との断り方を考えていたため! 微笑んであげられなかったのもそう! 私は不器用な人間です! あなたのことが好きなのに一言も言えなかった! だから、今日言いますっ! 私は、私は……、浩之さんのことが大好きですっ!! 心から愛してますっ!! だから…。私を独りぼっちにしないで…。お願い…。お願い……」
そう言うと、またオレの背中に温かい感触がある。雪の舞う空…。見上げながらオレは静かに話す。
「違う…。何度もそう考えた。あっし、いや、オレはお嬢様のことが好きだった。心の底から愛していた。でも身分が違いすぎる。お嬢様、あなたはそこらに生えている雑草を食べたことはありますか? 栄養も何もない、ただ腹が膨れるだけのものを…。一つ一銭五厘の鰯の丸干しを四人で分け合って食べたことはありますか? お金持ちの侯爵一家様には、こんなまねは出来ないでしょう…。あなたも心のどこかで思っていたはず…。自分は金持ちだって…。金があるから何でも出来るって…。心から愛している? 嘘だ!! 第一、あんなに話かけてきてくれた人があの日を境にこっちが話しかけても素知らぬ顔で通り過ぎて行ったじゃないか! あれだけ優しい微笑をくれた人が、あの日を境に微笑みをくれなくなったじゃないか! 最初はオレもそんなはずはないと思っていた。心優しいあなたに限ってそんなことはないだろうと……。だが、案の定この有様だ!! あなたのお父上が何と言ったか、その真意が分かりますか? 自分はさも位が高い上の人間で、オレたちは屑同然だ! とでも言わんばかりなことを言ったりそういった態度を取り続けていたのですよ? ……同じ人間であるにも関わらず…。戦争では必ずと言っていいほどオレたち最下層の人間から徴兵に出されるんだ…。上の人間はのん気に紅茶なんぞを飲んでくつろいでいるだけでオレたち最下層の人間のことなどこれっぽっちも考えていない!! お嬢様、あなたもそうでしょう? あなたもオレたちを社会の屑のように見ていたのでしょう? うわべだけはさも貧乏なオレたち最下層の人間に優しく接しているだけで、実のところは…。こんな…、こんなバカな話があるものか!! …オレは出て行く。上の人間の薄汚い金の亡者どもから金という金を毟り取ってやる!! さあ、その金にまみれた汚い手を放せっ!!」
バッとオレの腹に回したお嬢様の手を振りほどく。“あっ”と言う声とともに、どさっと倒れる音がした。でもオレは振り返らず、またゆっくり足を踏みしめながら歩き出した。お嬢様は動かない。いや、動けなかったんだろう…。そう思いまた無言のまま歩いた。そうして門の前、使用人の戸をあけて表へ出ようとするとき、ふっと後ろを振り返った。もう雪で何も見えなかったが微かに積もった雪の間に蹲る人影が見えた。オレはそのままそっと扉を閉めた。と同時にオレの心の扉も閉まった…。
絶望の淵で、オレはこんな社会すべてを憎み、そして恨んだ。そしてオレは来栖川から貰った十万円を元手に金貸しの仕事を始める。中産階級、上流階級といろいろなところから借りにくる。すべては私欲のため。愛人に貢いだりしてちょっと金が足らなくなったやつ、また事業に失敗したやつ。そんなやつがごろごろとやってくる。社会の毒の中、そんなやつらは絶好のカモだ。高い金利を要求しても、大抵は素直に頭を縦に振る。中には振らないやつもいたが、そんなやつは財産すべてを差し押さえてやった。世知辛い世の中だとはつくづくそう思う。そんなオレの相棒と言うとおかしいが、そう言う関係にあるのが、かつて雅史さんと一緒に戦争に強行に反対していた元帝国議会議員、矢島だ…。彼は雅史さんの死後も政府に対しての糾弾を辞めようとはせず、ついには不敬罪の罪を問われ禁固三年を言い渡され務所暮らしを強いられていたんだという。罪の種類こそ違うが言わばオレと同じようなわけだ。彼は元政治家と言うこともあり、政治の裏を知り尽くした人物で、今のオレにとっては最高の相棒だ。
オレがこの世界に入って約二年経ったころ、いよいよと日本と露西亜の関係化悪化の一途をたどっていた。そんな頃、かつてオレが仕えていた来栖川家から怪しげな金の流れがあることを矢島から知らされる。時は露西亜との大戦が迫る頃だ。そんなに資金の豊富でない日本では侯爵だけでは食べていけなくなったのか、オレたちのような闇社会の金にまで手をつけたんだろう……。
侯爵家ともあろうお方が…。なんと惨めなことだろう。オレはそう思った。使用人はついにはオレたちの職場まで訪れる。“もうすぐ戦争が始まるでしょう? ですから我々も大変なんですよ…” と下卑な笑いを浮かべて言う使用人。こんなやつには、金も貸したくないとは思ったが、これも仕事だ。三十円ばかり貸してやった。使用人はぺこりとお辞儀をすると出て行こうとした。“ちょっと待て” 出て行こうとする使用人を呼び止める。
「はい? 何でございましょう?」
少々はてな顔になりながら使用人はこっちに戻ってくる。オレは口を開きこう聞いた…。
「確か、あんたの家の家長の娘に芹香って言う名前の娘がいたと思うんだが…。どうしてる?」
「ええ、いますよ? もっとも誰ともお話にならないので私らは何を考えてるのか分かりませんがね? まるで人形のように黙りこくってるんで今じゃ誰もまともにお話しする方はいらっしゃらないかと思うんですけど…。最近じゃあ旦那様、奥様まで毛嫌いする有様でしてね…。今は養子で来た方を溺愛していらっしゃいます。でも、何でそんなことをお聞きになるんです?」
不思議そうな顔をして使用人はそう聞いてくる。“いや、少し気になっただけだ…” そう言うと、オレは使用人に十銭渡す。“これで何か好きなものでも買って帰れ…” そう言うと使用人はぺこぺこ頭を下げて急ぎ足で去っていった。あの人はもう、誰にも相手にされずに…。と一瞬思って首を振る。あの人はオレを捨てたんだ。そう思った。
やがて戦争が始まる。オレは仕事に追われる毎日だ。旅順攻防戦での戦死者の遺骨が帰ってくるたびにオレの上流家庭への憎しみも増した。新聞は連日のように“日本軍勝利” と書きまくっているが、その裏では何人もの罪もない人々が死んでるんだと思う。そう思えば思うほどオレの上層社会に対する恨みも増してくる。
そう考えていた矢先、矢島の電報が出張先の伊豆から届いた。何々と電報を見てみる。“来栖川侯爵家に扱く不明瞭な金の出入りあり、調べたし…” 電報にはそう書かれてあった。オレは置いてあった黒色のコートを羽織ると表へ出て行く。こつこつと歩く靴音が響く。まずは裏を取ろう…。そう思い銀行へと向かった。銀行に入る。ちょっとした知り合いの松原に聞くと銀行でも金を借りまくっていたと言うことだ。やはり資金繰りに苦しくなりこっちの方にまで手をつけてきたんだな…。なまじ贅沢な暮らしをしている者は得てしてオレたちのような生活は出来ないと聞くが全くその通りだな? そう思う。あの人もそうなのか?…。と一瞬、寂しそうな顔が頭をよぎった。そうしているうちにも来栖川の使用人はますますオレのところへ金を借りに来る。高利だけで十万は下らなくなっていた。
戦争は二ヶ月を過ぎて膠着状態に陥っていた。与謝野晶子が詩集、“君死に給ふことなかれ” を発表してちょっとした騒動になったことが今は遠い昔のように感じられる。その間も来栖川の使用人は入れ代わり立ち代わりオレのところへ来ては、十円、二十円と借りていった。そうして、塵も積もれば山となり…、ついには高利もあいまって二十万円と言う大金になる。他のところからも借りていたらしいので総額は六十万円という途方もない金額になっていた。
金はいくらでもある。別に二十万円なんぞに気に掛けることもなかったが、オレを裏切ったあの人への復讐か、はたまた上流家庭への嫉妬か、どうしても金を取ってしまいたいという衝動に駆られて裁判所に行き手続きをする。侯爵家ということもあり無理かとも思っていたが、案外と手続きは素直に通った。なぜだと不思議に思っていると、裁判所の書記官の姫川なる人物から、こんな噂を聞いた。
「何でも資金繰りの悪化した爵位拝領家は取り潰すって言う噂がありましてね? 国家財政の厳しい今、上の方もいろいろと大変らしいですよ? …特にあの来栖川侯爵家はねぇ〜…」
「あの来栖川? どう言うことだ?」
不思議に思ってそう聞くと、姫川と言う書記官は辺りを伺うように見てこっそり耳元で話してくれた。
「いえね? あの来栖川侯爵家なんですけどね? 何でも旦那様はある侯爵様の御婦人様と不倫の関係のようでしてね? それで家庭内不和が生じて大変だとか…。まあ、あそこの旦那様は女ったらしで有名ですが、奥様も奥様で負けず劣らずの男ったらしで有名でしてね…。奥様は毎日お屋敷を抜け出されては、あっちの男、こっちの男と…。旦那様は旦那様で、ご長男様はその御婦人様との間に出来た子をわざわざ養子にしたとか…。まあ上流家庭のことですからねぇ〜。私たち下々の人間には分かりませんよ…。って、もうすぐ上流家庭じゃなくなるのか…」
そう言うと手続き書のほうに判子を押して渡してくれる。“ありがとう…” 一言そう言うと表へ出た。道を歩く。あの家を出てから何年が経つのだろう…。そう考えながらオレは来栖川邸へと歩を進めた。そうこうしているうちに屋敷が見えてくる。裁判所からの正規な差し押さえ手続き書の入った鞄を見ると、何故か悲しくなった。
ギィ〜ッと錆び付いた扉を再び開ける。オレが閉めた扉。扉の向こう、中を見ると荒れ放題に荒れ果てていた。オレがあの人と語り合っていた中庭の庭園には雑草が所狭しと生い茂っていた。無残だな…。そう思いまた歩く。そうして屋敷の玄関へと辿り着く。昔は女中や下男下女が何人もいて活気に溢れていた屋敷が、今ではまるで廃墟のように静まり返っている。コンコンと獅子の顔をした取っ手を叩くが誰も出てくる気配がなかった。仕方がない…。入るか…。そう思い玄関の扉を開ける。中を覗くといたるところに差し押さえの文字が目に付いた。高級家具も、絵画もすべて差し押さえられていた。残ったのはこの屋敷だけか…。でもそれも今日、オレが差し押さえる。と向こうの方で微かに話し声が聞こえてくる。耳を傾けた。
「もう終わりだ……。財産の全てを差し押さえられたとあってはな…。これも貴様が男遊びに夢中になるからだ!! どうしてくれるっ!!」
「人のことがいえるかしらねっ?! あなたも同じことをしていたくせにっ!! なおかつ、私に男の子が出来ないばかりに他の女に産ませるなんて!! 私よりあなたの方が悪いんじゃなくって?!」
旦那様と奥様の会話か…。ふっ、どこの上流階級も同じだ。愛人を何人も作り金を貢ぎ、そうしてばれればこうやって言い争う。いい加減にしてくれ…。そうやってる間も、貧しくて飢えて死んでいく子供たちが多勢いるんだぞ? 自殺していく人もいるんだぞ? なぜそんなことが分からない!! …いや、こんな奴らに何を言っても無駄だ…。そう思い、割り込むように部屋の中へ入る。
「閣下、お久しゅうございます」
慇懃にお辞儀をするオレ。少々はてな顔になりながらも、“あっ!” と思い出したのか、侯爵閣下はオレの顔をまじまじと見つめてこう言った。
「貴様はあの時の!! 何をしに来たか!!」
「ほほう、私めのような下賎の身のことをよく覚えておいで下さいましたな…。昔は顔も見ずにすたすた歩いて行っていらっしゃった御仁が…。光栄に存じ上げますよ? おっと失礼をば…。先日うちにそちらの使用人の方が見えられましてね? なんでもお金が足らないから貸してくれ、とか……。私めのほうでも何とかご都合をつけて二十万円ほどご融資させて頂いていたのですが、一向にご返済のお見積もりを下さりませんので私めが直々に参上致した次第にございます…」
侯爵閣下は憎々しそうにこっちを睨みつける。がオレは涼しい顔でこう言った。
「それで、お話の途中誠に申し上げにくいことなのではございますが、このお屋敷は私めが差し押さえさせて頂きました。裁判所の方からの証書もこの通りございますから侯爵閣下ご一家におかれましてはどこか別な場所へお移り下さいませんでしょうか?」
そう言って鞄を見せる。もちろん中には証書が入っている。わなわなと震える手…。憎しみに満ちた目を旦那様、奥様ともどもオレの方へと向けてくる。旦那様は少々声を詰まらせながら、こう反論してくる。
「じゃ、じゃあ、そそそ、その裁判所の証書を、みみ見せてみろ!!」
“ええ、構いませんが?” そう言って鞄を開き証書を見せてやる。愕然と机に手をつく侯爵閣下。婦人は顔を真っ青にして、“ねえ、あなた。お願いだから、この家だけは、この家だけは持って行かないで頂戴な? あなただってかつてここに住んでいた人じゃない!! お願いだから…。お願いだから…” とオレの肩を持って力無げに揺すった。ふっ、どこもどどのつまりは情に訴えてくる。オレは冷笑しながらこう言った。
「ご夫人様? 確かあなたは、私めがこの屋敷に連れて来られたとき、実に汚らしい目で私めをお見になさっておられましたが…。あれは私めの目の錯覚でしたでしょうか?」
冷たい瞳を夫人に向ける。オレの目の奥の憎しみを見透かしたのだろうか…。そのまま泣き崩れてしまった。閣下は怒りの炎をめらめら燃やしつつ、口から泡を飛ばしてこう言った。
「き、貴様!! この家が来栖川家と知っての狼藉か! 警察へ突き出してやるから大人しく待っておれ!!」
「ええ、どうぞご自由に。私めは逃げも隠れも致しません。…しかしよろしいのですか? 五爵位の頂点、しかも名門の来栖川が、まさかこのような汚らしい高利貸しに金を借りていたなどと言うことが世間一般にばれることになりますよ? そんなことを国民が知るところとなれば…。あなたもバカじゃない。それくらいお分かりでしょう?…」
そう言うとぐうの音も出なくなったのか、侯爵閣下は床にひれ伏した。オレが味わった絶望はこんなもんじゃねーんだぞ!! と言ってやりたい。が、もう後の祭りだ…。そう思い荷物をまとめて帰ろうとする。と…、後ろの大きな階段の踊り場からオレの名前を呼ぶ声がする。ふっと振り返るとかつてオレが愛した人が、立っていた。
「浩之さん?」
当時のままの声だった。あの心に響く声だった。しかしオレは何も言わない。こんなところとは早くおさらばしたかった。愛情と憎悪にまみれたこの家を一刻も早く出たかった…。玄関の扉を開ける。あの人が走ってくるのが分かったが、オレはあの時と同じように扉を閉めた。
中庭を歩く。もうこの家はオレの物になった。いや、この家だけじゃない。この広大な土地全てがオレの物だ。オレは復讐できたのか? と自問自答する。答えは見つからない。見つけようにも見つける術がなかった。妹はもういない。雅史さんもいない。愛する人には散々尽くした挙句裏切られて、この様だ…。最早オレに残っているのは金だけか……。滑稽じゃねーか…。へへっ。乾いた笑いを浮かべつつ出口へと進む。と、何かがオレの背中に飛びついた。何だ? と思い首だけを後ろを振り向ける。……あの人だった…。
「ま、待って下さい!! 話を…、話を聞いて…」
「今更話すことなんて何もねえっ!! それにこの屋敷は今日からオレのものだっ!! 早々に荷物をまとめて出て行け。それとも何か? お前さんが働いて返すとでも言うのか? はっ! 何も知らぬお嬢様育ちのお前さんに何が出来る!! せいぜい慰み者が関の山だっ!! それにそんなところに誰も好き勝手に行こうなどとは思わん!! お前さんもそうだろう?」
元のように真っ直ぐ首を戻すと、そうオレはあの人を問い詰める。少しの沈黙。やはりそうだ。誰も好き勝手にそんなところへは行かない。ましてや、元・皇族の娘と言う高貴な血が許さないだろう。そう思ってオレは手を振りほどき去ろうとする。と、あの人は言った。
「……私が、私が働いて返します!! だから浩之さん、こっちを…、こっちを向いてくださいっ!! 私に顔を見せて…。ねえっ!! お願い…、お願いだから!!」
バカな…、慰み者になるんだぞ? 汚い男どもの餌食になるんだぞ? 分かって言っているのか? と思った。オレは何も言わずにそのまま立ちう去ろうとする。が、あの人は追いかけてくる。追いつきあの人の柔らかい手がオレの腕を掴む。しっかりと掴む。あの人がオレの前に立つ。オレの目の前、あの人の瞳がオレの顔を見つめていた。
「やっと……、やっと謝ることができる。あの雪の日、あなたが去っていく姿を見ながら何度も何度も謝ったけれど、謝りつくせなかった。あなたのいない部屋はまるで火が消えたような静けさで…。あなたと通ったこの道も一人で通ると風景画の中に一人迷い込んだようで…。寂しくて、いっそのことと鋏を首筋にあてがった時さえあった。でも、結局は出来なかった。今更許してもらおうなんて思いません。でもこれだけは言わせて…。私は…」
「……うるさい……」
オレは目をそらすと呟くようにそう言った。“えっ?” とあの人は一瞬声を失う。オレはあの人の温もりを胸に感じつつそれを拒絶するかのように冷たく言い放った。
「うるさいと言っているんだ。何を言われようとオレの心は変わらん!! 妹も親父もお袋もみんな死んだ。そんなオレの唯一の希望だったお前さんでさえ見捨てた…。オレの心の中にはもう一片の愛や情けなどの感情は残っていない! あの日…、お前さんがオレを捨てたあの日…。あの日にみんな捨て去った! あるのはただこの不条理な世の上流階級への恨みだけだ!! 慰み者になりたければなるがいい…。それでお前さんの心が救われるのならそれもいいだろう…。しかしオレの心は変わらん……。どんなことがあってもな?!」
そう言うとオレはあの人を突き飛ばす。よろめいて尻餅をつくとあの人の目から涙が零れ落ちるのが分かった。オレは何も言わずそのまま彼女を置いて去る。あの人の嗚咽がオレの耳に、いや、心に聞こえてくる。それでもオレは歩いた。これがオレとオレが愛した女性、来栖川芹香との今生の別れだった。
その後、半月を待たずして来栖川侯爵家は取り潰しの憂き目にあった。旦那様は、奥様ともども発狂して今ではどこかの精神病院へ入れられているらしい。あの人はどこかの場末の娼婦たちの住む館で娼婦として働いているらしかった。オレも詳しいことは分からん…。だが毎月のオレの銀行口座に五円ずつ振り込まれてくるところを見ればどこかで暮らしているのだろう。そう思う。…そういえば、宮原と鷺沢を拾ったのもこの時期だ…。
宮原は橋の欄干の横でうずくまっているところに声を掛けた。鷺沢は街を彷徨い歩いている時、声を掛けた。“オレと一緒に社会に復讐してみないか?”と…。どうして声を掛けたのか…。正直言ってオレにも分からん。ただオレを見つめる目が、昔の何もかもに絶望していた頃のオレの目に似ていたんだろう。今にして考えるとそう思う。宮原は何でもイギリスからの帰国子女らしいとのことだ。そう言えばあいつは時々訳の分からぬ単語を口走っているよな? イギリスにいた頃に身につけた探偵のような技能を持ち、あいつはあちこちと情報を集めてくる、言わばオレの影のような役割だ。鷺沢は鷺沢で、今の日本の経済界を背負って立つ山上財閥の総帥・海神航の家に居候をしていた身。ついでを言うと表向きの仕事はすべてこいつに任せている。女には興味をなくしたオレが言うのもなんだが、鷺沢は端正な顔づきで金貸しにしておくのにはもったいないくらいの美貌を持っている。あいつの端正な顔立ちに騙されてくるやつも多い。まあオレはそれで儲かっているわけだけどな? 宮原も鷺沢には劣るものの可愛い顔をしている。オレのような薄汚ねぇ金貸しになるより新しい恋人でも見つけたほうが幸せだったんじゃないだろうかと、声を掛けておきながら言うのもおかしな話だがそう思う。でも今はオレの部下…。いや、この不条理な社会に復讐するために一緒に戦う同志だろう。そう思う。と借家郡のおんぼろな一角、オレの家が見えてきた。いろいろ考えながら歩いたから着くのが随分と遅くなっちまったぜ。ふうっとため息を吐くと鍵を開けて中へと入ろうとして、何気なくふっと空を見た。雪は後から後から降ってくる。この分だと明日は積もって銀世界に変わってるんだろうな…。そう思いながら静かに玄関の扉を閉めた…。
つづく…