こつこつと石畳の上を歩く靴音が響く。北風の吹く寒空の下、わたくしは歩いていた。横にはわたくしと同じ境遇に遭いながらも、心の強さで乗り切って今を生きているわたくしとは全く逆の女性。春歌さん。遠く異国の地で生まれ、日本に戻ってからもいろいろ苦労もあったことだろう…。それなのに彼女はいつもわたくしに微笑みかけてきてくれる。なぜなのだろう…。どうしてこんな社会の屑のようなわたくしに優しくして下さるのだろう…。そう不思議に思いながら、わたくしは彼女の後を着いていった…。


あなたのそばにいたかった

第八章春歌の過去前編


「着きましたよ? 鞠絵ちゃん。ここがワタクシの住んでいる長屋ですわ」
 入り組んだ細い路地の一角に平屋建ての住宅が何軒か並んでいた。辺りを見回すと同じような住宅が軒を連ねている。昔、海神のおじ上様に聞かせてもらった江戸の長屋のような感じだった。子供たちの元気な声も聞こえてくる。“何か春歌さんとはイメージが違いますね?” と微笑みながら言うと、
「鞠絵ちゃんはどのように想像していたのですか?」
 と微笑みながらそう尋ねてくる。わたくしは、“春歌さんの普段の立ち振る舞いとかを見ていてもっといいところにお住まいなのかと…。お、お気に障るようなことを言ってしまって申し訳ございません” そう言ってぺこりと頭を下げる。下げた顔からちらりと上目遣いに春歌さんのほうを見る。優しく微笑んだまま彼女はカラカラッと玄関の戸をを開けた。
「さあどうぞ? 汚いところで申し訳ありませんけど……」
 そう言いながらポッと顔を赤らめる春歌さん。“失礼します…” と言うと玄関の中へ入った。とても清楚な感じのするお部屋が、二つばかりある。遠くからは夕餉なんだろうお味噌汁のいい匂いが漂っていた。草履を脱ぎ、廊下の方で“さあさあ、そんなところで立ってないでお上がり下さいまし…” と言う春歌さんの声に押し切られるように、同じように靴を脱ぎ春歌さんの家に上がった。とても嬉しそうな春歌さんは、“さあ、今日は腕によりをかけてお料理お作りしますわね?” と、襷をかけて夕餉の支度に取り掛かる。わたくしは物珍しげにあちこちを見遣っていた。一応わたくしにも住んでいるところがある。間取りもちょうど春歌さんのお部屋と同じくらいだ。けれどわたくしのお部屋とは明らかに違うところがあった。
 そう、それは温かみ…。自分で言うのも何だかおかしいのだけれど、わたくしのお部屋には温かみと言うものが全くない。もちろん掃除もするし洗濯・料理などもするけれど、生活感が全く感じられないお部屋だ。それに比べて春歌さんはどうだろう。このお部屋はどうだろう……。あまりに違いすぎる。これもわたくしと彼女との心の強さの差なのか…。そう思いながらきょろきょろと見渡していると…。
「あ、あまり見渡さないで下さいませんか? 最近はお掃除とかもあまりしていないので汚れが目につくかと思うんです…」
「あっ、す、すみません。春歌さん。でも、わたくしのお部屋なんかと比べると十分きれいです。お部屋の雰囲気とかも明るい感じですし…」
 そう言うと春歌さんの顔を見るわたくし。“そんなお上手を言ったって何も出ませんわよ? うふふっ…” とにっこり微笑みつつも彼女の顔には何故か暗い影があるような感じがした。


「さあ鞠絵ちゃん、いっぱい食べて下さいませね?」
 今日は鞠絵ちゃんの退院記念日。ワタクシはそう言ってご飯をよそう。おかずはせっかく鞠絵ちゃんをうちに呼ぶのだからと今日は奮発して、鯛を買ってきた。お刺身とアラのお味噌汁と野菜の煮付け、酢の物が今日の夕餉のご馳走…。でもワタクシは知っている。鞠絵ちゃんはいつか…。ううん。考えるのはよそう。鞠絵ちゃんは元気になったのだから…。そう思って、彼女のほうを見ると一生懸命ご飯を食べていた。その姿が嬉しくてワタクシは少し涙を浮かべる。気付かれないようにそっと袖口で涙を拭うと彼女に話しかけた。
「どうですか? 鞠絵ちゃん。お口に合いますか?」
「はい、美味しいです。とっても…。でも…。逆に申し訳ない気持ちでいっぱいですわ。こんな社会のゴミのようなわたくしにここまでして下さる春歌さん、貴方様のお気持ちを察すると…」
「またそんなことを言って…」
 と少し怒ったように言うワタクシ。鞠絵ちゃんは“す、すみません” と頭を下げて上目遣いにワタクシの顔をちらっと見る。少しだけ悪戯心を覚えたワタクシ。頬を膨らましちょっと怒ったようにワタクシはこう言う。“ワタクシ怒りました。鞠絵ちゃんには何か罰を与えないといけませんわ。そうだ! 今日からワタクシが鞠絵ちゃんのお世話をさせて頂きます!”  って…。こう言うと、
「えっ? あ、あの…。は、春歌さん」
 と慌てたかのようにしどろもどろになりつつ俯く鞠絵ちゃん。“冗談ですわ” ウフフと微笑んでワタクシはこう言う。でも本当はそうしてあげたい。彼女の傷ついたあまりに痛々しい心を少しでも治してあげたい。そう思ってる。傷ついたワタクシに声を掛けてくださったあの人のように…。そう、あの梅雨時の夕暮れ、兄君さまを思って泣いていたあの時…。こんな未練がましいワタクシのことを、“好きになったのかも知れない…” って仰ってくれたあの人…。宮原螢一郎さんのように…。


 あの人とは偶然、駅の出入り口で出会った。ワタクシの兄君さまがワタクシを置いて、よその女性と結婚した間無しの頃だ。“こんなにもあなたのことをお慕い申し上げていたワタクシをどうしてお捨てになられたの? そんなにその女性の方が良かったのですか?” と心の中そう思い、…いやと首を横に振った。その女性はすごく素敵な方だ。ワタクシなんとは全然違う、気高くて美しくて、そして何よりお優しい。そんな人をお嫁様にもらうのだ。女のワタクシでさえそう思うのだから、きっと兄君さまはこれ以上とない幸せを見つけたんだろう…。そう思ってる。でも、それでも…、心の奥底では兄君さまをお慕いする気持ちがいっぱい残っていた。だから家に帰ってはそうお写真の中で微笑んでいる兄君さまに問う。でも返事は当然のことながら返ってこない。悲しくて…。まるで世界で自分だけ取り残されたような錯覚を覚えて…。…兄君さまのことが忘れられなくて…。……恋しくて…。ふらふらっと夕立の中、家を出て街を彷徨う。人々は嬉しそうに話などをしながワタクシの横を通り過ぎていく…。なのにワタクシ泣いていた。俯いた顔。涙をぽろぽろ流しながら…。元々ワタクシは鞠絵ちゃんと同じ孤児だった。兄君さまが言うには、ドイツの孤児院の前に捨てられていたんだそうだ。初夏の太陽が燦々と降り注ぐ皐月の孤児院の前に…。ある牧師様の紹介でワタクシのことを知った父君さまはこんなワタクシのことを可哀想にと思ったのだろう。ワタクシは後宮家に引き取られる。兄君さまと出会ったのもその頃だろう。もちろんワタクシには覚えはありませんでしたけど…。そう、春歌と言う名前は、兄君さまが父君さまたちと考えてつけて下さったお名前。ワタクシ自身このお名前はとても好きだ。今でも誇りに思っている。正式に養女として迎えられたのもその頃だと思う。貿易商だった父君さまはドイツでの取り引きを終え、家族を連れて日本へ帰ってくる。当然その中にはまだ赤子だったワタクシも含まれていた。日本に帰ってきて物心がつくようになってからよく肌の色の違いからいじめられたものだ。でもそんなときいつも助けてくれたのが、兄君さまだった。
「春歌、いじめられたらお兄ちゃんに言うんだよ? お兄ちゃんがやっつけてあげるから…」
 そう言って涙に汚れたワタクシの顔を拭いてくれたものだ。事業の方も順調にいって、ワタクシは有名な女学校に入学する。厳しい授業にも耐えて(時には挫けそうになったこともあったけれど)、いろいろと経験も積んだ。あの頃があったから今のワタクシがあるというものだと思う。そんなワタクシが女学校を卒業したのがちょうど七年前、ワタクシが十八歳になったばかりの頃だ。
 五つばかり年上の兄君さまはワタクシの自慢。“好き”という気持ちから“愛している”という気持ちに変化していったのもこの頃だと思う。でも…、結局言えず仕舞いだった。兄君さまがその女性を後宮の家に紹介した時だって、“何故? 何故ワタクシを…、春歌を選んでは下さらなかったのですか? 義理とはいえ兄妹だから? 兄妹だからなのですか? 兄君さま…” と心の中、そう叫ぶワタクシがいた。でも兄君さまはその女性と結婚した。
 当時を思い出すと張り裂けんばかりな心の葛藤が蘇ってくる。勿論、第一は兄君さまの幸せを祈っている。でも心のどこかでは今でも兄君さまを愛している気持ちもあった。もう六年も前の話ではあるのだけれど……。
 ちょうどそう言う頃だった。あの人に出会ったのは…。あの日、兄君さまのおうちに行った後だ。仲睦まじく微笑み合う二人を見ていると何だかとてもやるせない気持ちいっぱいになってくる。ワタクシがそこにいたのかもしれないのに…、と思うととても悔しかった。早々に兄君さまのおうちからお暇をして、ワタクシは行く当てもなくふらふらと彷徨っていた。
 駅前まで来ると雨がぽつりぽつり落ちてきた。多分夕立か何かだろう…。そう思い、予め持っていた番傘を広げる。ちょうど良かった。朝、兄君さまのおうちに行こうと思っているとどこからか“雨が降ってるぞ” って言う声を聞いたものだから外を見るとしとしとと雨が降っていた。“今日は蒸し暑くなりそうですわね?” そう思い番傘を片手に出かける。でも朝も降って夕立とは…。今年は少しおかしいですわね? そう思って傘を広げているときだった。あの人は立っていた。どことなく外国人っぽい風貌で、何となく雰囲気がさっきまで話していた兄君さまに似ていた。“兄君さま…” 愛しているという感情がそうさせたのかもしれない。自分自身訳も分からず声を掛けていた。


「あの…、傘をお忘れになられたのですか?」
 と…。ワタクシ自身自分でも訳が分からなかった。でも寂しそうに佇んでいる彼の表情はどことなく“春歌…。ごめん…” と結婚式の前夜、ワタクシにこう呟くように言った兄君さまに似ていたんだろう。そう思う。
「ええ、まあ…。でも、もうすぐ止むでしょうから…」
 そう言う彼。雨はしとしと降っている。止みそうにもない。何だか物憂げな彼の表情。ワタクシはその表情に兄君さまの面影を照らし合わせていた。何だか、ついさっきまで目の前にいた兄君さまとお話ししているような錯覚を覚える。不思議な感覚だった。
「この時期の雨はなかなか止まないものなのですわ? だから…、どうですか? 一緒に入っていかれては…」
「いや…、悪いです。それに、僕が遅くなるとすぐに迎えに妹がやって来るので…」
「あら…。そうなのですか?」
 話を進めるうちに彼の家庭環境なども見えてくる。彼はイギリスからの帰国子女で、彼にはたった一人の妹さんがいると言うこと。イギリスで父君さまを亡くし、さらには日本に帰ってきたあと、すぐに母君さまを亡くされたことなど。ワタクシは元々孤児院で赤子の頃にすぐに後宮の家に引き取られえたゆえ、ワタクシ自身そう言う経験をしていない。けれどこの人はいろいろと苦労をしているんだろうと思う。痩せた頬にはその苦労が感じられた。だからワタクシはこう言って元気よく答えた。
「そんなことを気にしていては、この国ではやっていけませんわよ? この国は昔気質の人間が多いのですから…。気にしていれば精神がおかしくなりますわ…。ですからワタクシは気にしないことにしておりますの…」
「あなたは…、強いですね…」
 そう言って彼が微笑む。その彼の笑顔がワタクシの心に深く染み入る。寂しい気持ちが…、兄君さまを思うワタクシの心が…、いいえ、この心の内のドロドロとしたものが溶岩のように溢れ出るかのように、また心の中を何かで掻き毟るかのようにその言葉が一陣の風になって吹き荒ぶ。ワタクシは言う。最後は涙声になっていた。
「ワタクシは女性ですよ? そんな…、強くなんてありませんわ……。現に今だって……泣いていたんです……
 彼の顔もまともには見れず、俯くワタクシ。そんなワタクシに彼はこう言った。
「また…、また会っては頂けませんか?…。僕はあなたに興味を持ちました。もしかすると好きになったのかもしれない…。ですから…、また会っては……」
 えっ? と一瞬驚く。彼の顔を上目遣いに見るとワタクシの顔を真剣な表情で見つめていた。そう言うところも兄君さまに似ていたのかも知れない。今更ながらそう思う。でもワタクシはこう言う。やっぱり兄君さまのことが忘れられなかったんだと、あの当時を思い出してはそう感じる。彼の顔を上目遣いに見遣るとワタクシはこう言った。
「いいえ…、いけませんわ……。ワタクシには好きな人が…、思い人がおります…。でもその人はワタクシを捨てて、ワタクシの知らない女性と結婚してしまいました…。つい先日のことです…。もう、諦めようと思いました。でも、そうは思ってもワタクシは心のどこかであの人のことを…、今でも愛しておりますの…。嬉しいことですのに…。とても嬉しいことですのに…。……我が侭を言って申し訳ございません。でも…、ワタクシの気持ちの整理がつくまで、もう少し待っては頂けませんか? しばらくそっと置いていてほしいのです……」
 と…。ここまで言って涙は頬を伝って流れ落ちる。居たたまれなくなり傘を彼に手渡すとその場を駆けていくワタクシ。と彼の叫ぶ声がワタクシの耳に届く。振り返らず立ち止まると叫ぶ彼の声をワタクシの耳に聞こえてくる。涙に濡れた頬を雨が更に濡らしていた。
「せめて…、せめてあなたのお名前を!!」
「後宮…。後宮春歌と申します…」
 何故そうしたのか、ワタクシ自身分からない。でも、雨に打たれながらワタクシは佇んでこう言った。雨は更に激しさを増しワタクシの体を容赦なく打っている。ここで我慢してきた涙は一気に溢れ出した。足が自然に動きだ出す。彼の名前を聞くこともなく、ワタクシは走り出していた。逃げたかったんだと思う。こんな未練がましく兄君さまのことを思っているワタクシ自身…、いいえ、ワタクシの弱い心から逃げたかったんだと思う。家に帰りつくと脇目も振らずに大きな声を出して泣く自分がいた…。


 あの人と出会って幾日かが立つ。今日は梅雨の中休みとばかりな青空が空一面に広がっていた。訳もなくふらふらと起き上がると化粧もせずに外へ出る。井戸の水を汲んで水鏡に自分の顔を眺めてみた。何て酷い顔。バシャバシャと顔を洗う。冷たい水が何とも心地いい…。顔を上げ持っていた手ぬぐいで顔を拭く。もう一度、水鏡に映してみた。少しはましになったけれど、まだ酷い顔のままだった。と、ふと彼の顔が頭をよぎる。何とも言えない端正な顔立ち、そして何より優しい目をしていた。あんな優しい目をして見つめられている妹さんは何て幸福なことだろう。そう思う。自然に頬が緩んだ。と同時に心に映ったあの人の痩せた頬が気になった。何故かは分からない。でもどうしても気になる。ひょっとしてワタクシはあの人に救いを求めていたのではないだろうか? そうだとしたらとんだご無礼なことを…。あの人はただワタクシの一瞬の気の迷いから呼び止めてしまった人……。何てことをしてしまったんだろう…。自分を責め苛む。とどうしてもあの人に謝りたいと思った。自分のあまりに素っ気ない態度が許せないと思った。それに何よりあの人の目は真剣だった。だからワタクシも真剣に答えなければいけない…、そう思った。
 それからというものワタクシはあの人を探した。幾日も幾日も探した。人ごみの中あの人に似た人影を見つけては声を掛ける。でもどの人も違う人だった。もうこの街にはいないのかとも思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そう感じながらワタクシは自分の家に帰る。平屋建ての長屋は江戸時代のものらしい。もっとも実家にはもっといいお部屋があるのだけれど、ワタクシ自身がどうしても一人暮らしをしたいと言ってしまったので父君さまのご友人の方が家主として住んでおられるこの長屋を周旋された。家主の方は川神重工という工業製品を通っている会社の専務らしいとのことだ。父君さまと一緒にお部屋を見に行くと家主さんが出迎えてくれる。優しい顔のおじ様だった。“春歌さん、確かあなたお仕事を探していらっしゃいましたよね? 実は私の会社の人が一人退社するので…。出来ればうちの会社で働いてみては如何です?” とまだ働き口の見つからないワタクシにそう言ってくれる。正直とても嬉しかった。それからワタクシは川神重工で工業技手として働き始める。千影さんたちを知ったのもこのころだ。もっとも向こうはワタクシのことなんてこれっぽっちも知らないでしょうけど…。そう思い出しながら家を見回す。鞠絵ちゃんとワタクシがいるこのお部屋もその当時のまま。あの人を探していたときのまま…。
 彼を探して半月ほど経ち、1ヶ月経ち3ヶ月経ち…、それでもワタクシは彼を探した。でも一向に彼の所在は分からない。“彼は気にしていないかもしれない…。もう探すのは止めたらどうです?” と言う心の中の悪魔がワタクシに囁く。それでもワタクシは彼の行方を探した。似た人がいると聞けばそこに行く。あちらにいると噂に聞けば飛んでいく。でも全部違う方だった。途方に暮れているとき、また悪魔が…、
“毎日探したんです。それこそ暑い日から嵐の日まで…。これだけ探しても見つからないんです。きっと新しい女性でも見つけられたのでしょう? 今更出ていったって彼はあなたのことなんてこれっぽっちも思っていないかもしれない…。覚えていないかもしれない…。もうこの辺で探すのは止めておいたほうがいいのでは?”
 とワタクシに囁く。首をぶんぶん横に振るとワタクシは心の中の悪魔に向かってこう言い放つ。
“いいえ、あの人は忘れていてもワタクシの心はあの人への謝りたい気持ちでいっぱいなのです! ワタクシの心の中に巣食く悪魔!! 少しはお黙りなさいませ!!”
 激しい心の闇……。一瞬でも気を抜くとすぐさまこの闇に覆われてしまう。しっかりしないと…。と思い直しまたワタクシは彼の行方を探しに行く。そんな日々が続いた。やがて季節は晩秋になる。木枯らしの吹く中、今日もあの人を探している。でもあの人の行方はようとして知れなかった。いっそのことと新聞の尋ね人の欄に投稿したこともある。それでも見つからなかった。万策も尽きふらふらと街を彷徨っていると、葬儀なんだろうか教会から一人の少女と牧師様と幾人かの男の人たちが担いでいる棺が出て行くのが見えた。可哀想に…。あの女の子、足がふらふらだった。そう思いふと周りを見る。訝しげに教会の方を伺って何やらこそこそ話している人が数人。何を話しているのだろう…。そう思いちょっとその方向に耳を傾ける。
「やれやれだよ…。あそこの孤児院の兄妹ときたら…。お兄ちゃんもあんな重い病だったら毎日出歩かなくても良さそうなもんなのにね〜? 何でも大量に血を吐いたんだそうだよ……。それで、三日三晩苦しんだんだってさ。まあもっともあたしたちにゃあ関係のないことだけどさ……。これであの妹も大人しくなるんじゃないのかね? ……何か訳の分からない言葉を言ってはうちの子のことじ〜っと見てたしさ。困ったもんだったよ、全く…」
「そうさね、これで少しは大人しくなるんじゃないだろうかね? あのじゃじゃ馬妹もさ…」
 妹? 孤児院? 確かあの人も孤児院暮らしで妹さんがいたはず…。あの日の話にも孤児院暮らしでたった一人の妹がいるって仰っていた…。嫌な予感がワタクシの心を覆った。まさかとは思う。あの人の顔を思い浮かべる。頬が少し痩せていたことも気になっていた。でも、まさか…。そう思い、少し話に割り込ませて頂いた。
「あの…、申し訳ございませんがあのお葬式は一体どなたのものなのですか?」
 と…。ワタクシがそう聞くと訝しげにこちらを見る人たち。肌の色が少々違うのが気になったのか、ぴたっと話はそこで止まる。三々五々別れていく人たちを尻目にワタクシは一番話しやすそうな四十代くらいのおばさまを捕まえて事情を聞いた。しばらくは黙ってこちらを伺っていたのだけれど、ワタクシがにこっと微笑んだのを見て安心したのかようやく重い口を開いてくれた。
「…あそこの教会は孤児院も兼ねててね? そこに十八、九くらいの外人みたいな日本人の男の子と、十くらいの女の子の兄妹ががいたんだけどさ。お兄ちゃんのほうはまあ普通だったんだけどさ。妹のほうが少々変わり者でね? お兄ちゃんの後をつけまわしたり、あたしらの子供をじ〜っと見てたり…。あの目で見られてるって言うだけでゾッとするって言ってるよ…。うちの子供は……。ああ、嫌だ嫌だ!」
「それで? あれは誰のお葬式なのですか?」
 そう聞くと、辺りを伺うと耳元でそっと話してくれた。それがワタクシを深い後悔の念に駆り立てることになることも今は知らなかった。
「ああ、あれかい? あれはそのお兄ちゃんの葬式さね。何でもお腹の中の腫れ物が破裂しちまったんだってさ。悲しかったんだろうねぇ〜。いきなり泣き声がここまで聞こえてくるもんだから、びっくりしたよ…。あのお兄ちゃんはもう手遅れだったみたいらしいよ? 聞くところによるとさ…。でも毎日、そうさね。日曜日や祭日なんかもどこかへ出かけてたみたいだったんだ。お兄ちゃんのほうは案外話しやすかったからからね? あたしゃ聞いたんだよ……。“あんた、毎日どこほっつき歩いてるんだい?” ってね? そしたらね…」
「そしたら…」
 そう鸚鵡返しのように尋ねるワタクシ。嫌な予感が…、した…。
「女の人を探して回ってるんだって言ってたもんさね…。その時ゃ“はぁ?” って思ったさ。でもその人のことが忘れられなかったんだろうね? お兄ちゃん…。あたしにもこう言ってたよ…。“もし、後宮春歌って言う人の名前を聞いたりしたら、僕のところに伝えに聞いてもらえませんか? 僕、宮原蛍一郎のところまで…” ってさ。“まあ都会はこんなに広いんだ。探したって見つかりっこないもんだよ” って言ってやったさ。でも、よっぽどそのお嬢さんのことが気に入ってたんだろうねぇ〜…。道行く人誰彼構わずに聞きまくってたからさ……。考えようによっちゃあ可哀想なもんだよ…。一目惚れの相手を探して毎日駆け回ってたんだからさ…。あの子も…、そして、あの子の妹もねぇ〜…」
 そう言うとワタクシの方をチラッと見、いそいそと立ち去るおばさま。“後宮春歌” 言葉を聞いたとき全身に物凄い電流が走った。ワタクシは動かない、いや動けなかった。あの人は死の直前までこんなワタクシのことを、あの夏の日のひと時の出来事を、ずっと覚えていてくれたのに…。そう思うと胸が張り裂けんばかりに心が揺らいだ。涙が知らず知らず溢れてくる。葬列はもう見えないほどに小さくなっていた。ワタクシも後を追おうとした。だけど足が動かない。自分では動いてと命令しているのに全く動こうとはしない。今思うと怖かったんだと思う。気がつくともう葬列は見えなくなっていた。ワタクシは罪を犯した。拭っても拭い切れない罪を犯した。もし地獄というものがあるのなら、ワタクシは未来永劫そこにいることだろう…。そう思いながらもう見えない葬列をいつまでも見つめている自分がいた。


 あれからもう四年が経つ。あの人の妹さんは行方が分からない。何でもお葬式の終わった夜、孤児院を抜け出してそのままどこへ行ったか分からず仕舞いだと言う事らしい。ワタクシは今、あの人の妹さんを探している。けれどまったく行方が掴めないでいる。自分自身何で探しているのか分からない。だけど、ただ謝りたいと思った。牧師様に聞くところによると、彼女はワタクシのことを相当恨んでいたということだ。それはそうだろう。自分の世界で一番好きだった人を蔑ろにした挙句、死なせてしまったのだから…。もしワタクシが妹さんの立場なら同じようなことを感じているはずだ。そう考えては今日もきっとこの世界のどこかでワタクシのことを恨んでいるのかと思う。
 あの人の墓前まで来ると、いつも涙でいっぱいになる。“ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい…” 後悔の念が自然と言葉になって出てくる。でもその言葉に答える声は聞こえてこない。今日も鞠絵ちゃんのところに行く前、あの人の墓前に花輪を持っていった。十字架の前に花輪を置くと冥福を祈る。とこつこつと靴音が響く。誰だろうと見ると牧師様がこちらの方に歩いて来ていた。
「やはりあなたでしたか…。ふっと人影が見えたものですから…。毎日ですか…。ここのところ…」
「ええ…」
 声を掛けてきてくれた牧師様は、静かに十字を切るとワタクシの横で佇んでいる。それにしても今日は何だか墓前がきれいになっている…。誰か掃除にでも来たのだろうか…。そう尋ねてみると、“あなたがやってくれていたのではないのですか?” ときょとんとした目でワタクシの顔を見つめていた。“いいえ。ワタクシが来たときには…” そう言うとちょっと困惑気味にワタクシは俯いてしまう。そんなワタクシに気を使ったのか牧師様はこう言うと十字を切る。
「きっと御心の深いお方が掃除をなさってくれたのでしょうね? その神の御心に感謝します…。アーメン…」
 ワタクシも同じように十字を切った。しばらくの間、牧師様とあの人の冥福を祈っていたワタクシは懐中時計を取り出した。時間を見てみる。もうそろそろ鞠絵ちゃんの退院する時間が迫っている。そう思い、牧師様とのお話も早々にワタクシはあの一人真っ暗な世界に閉じ込められた女性…、と言うより少女というような感じがしてならない。その少女を救うべく、彼女の入院している大学病院へと足を向けていた。その少女、鞠絵ちゃんの心にもう一度愛と温もりを届けるために…。凍てついた彼女の心を少しでも温めてあげたい。そう思いながら…。ワタクシの足は大学病院の前…、止まっていた…。

つづく…