今、ワタクシの目の前、一生懸命にワタクシの作った夕餉を食べている女性、ううん、女性と言うよりは少女だろうか…。入院していた大学病院から退院して、また薄汚れた社会の毒の中へ戻ろうとしている少女…。“もうこんなことは止めにして下さいませんか?” 会うたびにそんなことを何度も何度も言っている。けれど彼女はワタクシの言うことなどには耳を貸さない。よほどこの社会が嫌なのか…、愛していた人に裏切られ捨てられたことへの復讐心が強いのか…。と思う。逆に言えば、裏切られた人への恋慕心が強いのだろう。そう思う。出来ることなら彼女にもう一度“愛”を教えてあげたい。復讐なんてやめてほしい。彼女の顔を見るたびそう思っている。今、前で夕餉を一生懸命に食べる彼女を見て改めてそう思った。でも……。彼女はワタクシの言うことなんて聞いてくれないことも分かっている。どうすればいいですか? 蛍一郎さん。そう思いワタクシは仏壇のほうを見る。もちろん彼は何も言わない。でも…。
あなたのそばにいたかった
第九章、春歌の過去、後編
春歌さんは小さな仏壇のほうをじっと見つめている。そういえば春歌さんの養父上様、母上様は今も元気でいるということだ。だったらあの仏壇はなんなのだろう。実の父上様たちの弔いか何かだろうか? それにしたって会ったこともない人の弔いなんてできるはずがない。現にわたくしがそうだもの…。では誰のものだろう。そう思いわたくしは夕餉を頂いていた箸を止めじっと仏壇のほうを見ている春歌さんに聞いてみることにする。
「あの…。さっきから何を仏壇のほうを見つめていらっしゃるのです?」
と…。ちょっとびっくりしたような感じになる春歌さん。こちらの方に振り向くと、“ちょっと昔のことを思い出していただけですわ…” そう言うとにこっと笑顔を見せる。わたくしはその笑顔の裏に深い悲しみがあることに薄々ながら気付く。この人もわたくしと同じ兄上様に捨てられた身だ。幸せを祈っていると言っても心のどこかでは、憎しみ、悲しみ…。そう言ったものが渦巻いているに違いない。そう思った。それはわたくしのあの人への思いと同じではないだろうか…。そう思うとまたわたくしは夕餉を頂く。春歌さんはじっと仏壇のほうを見つめたままだった。
「寝床をご用意させて頂きますから、先に銭湯でも行って来てはいかがですか? ワタクシも後から追いかけますから…」
にっこり微笑むと春歌さんはわたくしに着替えとその他諸々を渡してくれる。もうお暇しようと思っていたわたくしの心を読んでいたのかもしれない。一度はお断りをしたのだけれど、“またそんな他人行儀なことを仰って!!” と少し怒ったように言う春歌さんにわたくしは何も言えず、春歌さんの長屋を出る。外へ出るとさすがに寒い。冬ですもの…。当然でしょうね? そう思いながら銭湯へと向かう。今まで一人ではよく通っていたけれど、こうやって誰かのおうちから通うことはなかったから、わたくし自身とてもびっくりしている。と、
「鞠絵ちゃ〜ん」
とわたくしを呼ぶ声が聞こえてくる。立ち止まり後ろを振り返ると、案の定声の主・春歌さんが走ってきていた。わたくしに追いつき、ふうふうと乱れた息を整える春歌さん。“結構足が速いんですのね? 鞠絵ちゃんって…” そう言うとにこっと微笑む。わたくしはそれほど歩くのは早い方ではない。かといって遅い部類にも入らない。並々だ。“もしかして春歌さんって運動は苦手な方ですか?” ちょっと意地悪をしてみたくなったわたくしはそう春歌さんに尋ねてみる。途端に少し頬を膨らませる春歌さん。普段見せない表情に一瞬驚きつつもあまりの子供っぽさにうふふっと頬が緩む。ますます頬を膨らませる春歌さん。そうしているうちに目的地が見えてくる。がらがらっと戸を開けて中に入ると、いつも見ているような光景があった。服を脱ぐ。ふと横を見ると春歌さんも同じように着物を脱いでいた。眼鏡をはずすと何も見えないわたくしの手を取ってゆっくりと湯船のほうに歩いていく。バシャッと湯を一掛け掛けると湯船に腰を落ち着ける。判然とは分からないもののにっこり微笑んでいるんだろう、春歌さんは一日の疲れを癒すかのようにこうわたくしに言う。
「ふぅ〜、いいお湯ですわね〜。鞠絵ちゃん」
「ええ、そうですね?」
そう言うわたくし。二人で湯船に浸かる。湯加減もちょうどいい。目を瞑っているとまるであの頃を思い出すかのように、心懐かしくて…。そして今の自分がとても惨めで…。知らず知らずのうちに涙が溢れて来てしまう。ばしゃばしゃと顔に湯をかけるふりをしてその場は何とかごまかしたけれど…。春歌さんは分かっていたのかもしれない。すごく優しい目でわたくしの顔を見つめているような感じがしたんですもの…。
銭湯から出る頃には夜もいい時間となっていた。所々濡れた髪がわたくしの顔に纏わりつくけれど、それもこの乾いた冬の風に吹かれていれば元通りのさらさらとした髪に戻るだろう…。そう思い上気した頬も顕わに春歌さんのおうちへと戻るわたくし達。横では春歌さんがにっこり微笑みながら、わたくしの手を優しく握って下さる。温かい手…。わたくしとは違う手…。自分の手を見つめる。薄汚れて汚い手…。今までどれだけこの手で多くの人たちに地獄の苦しみを味合わせて来たんだろう…。そう思うとわたくし自身、自分が許せなくってくる。そんなこと今まで考えもしなかったのだけれど、こうやって春歌さんと二人歩いているとそんなことを考えてしまう。ふと春歌さんのほうを見ると心配そうにわたくしのほうを見つめていた。
ううん、と首を横に振り、にこっと作り笑いを浮かべるわたくし。春歌さんのほうを見れば本当に嬉しそうに微笑んでいる。彼女の心の強さが身に染みて分かったような感じがした。
春歌さんの家に着く。ガラガラと玄関の戸を開けると春歌さんが“ちょっと寒いですから湯たんぽの準備をしてきますわね?”と言うと、やかんを持って表の井戸まで出ていく。わたくしは一人佇んでいたけれど、ふと先ほどの仏壇のことが気になり居間の奥の仏壇のほうを見た。仏壇にはきれいなお花や菓子などが並べられている。一体誰のものだろうか…。ドイツで生き別れた本当の父上様・母上様のものだろうか…。それにしたって生きているかもしれない人たちに向かってそのような無作法なことをする人のようには見えないのだけれど…。では誰の? と考えあぐねているうちに春歌さんが戻ってきたみたいで…、
「まあ、鞠絵ちゃん。まだ上がっていらっしゃらなかったのですか? さあさあ、そんなところでいつまでも立っていると体が冷えてしまいますわ。すぐにお湯を沸かしますから布団にでも入っていてくださいな…」
そう言うとわたくしの肩を押して居間に敷かれた布団のほうに連れてくる。居間の奥には例の仏壇がある。春歌さんはと言うと、マッチに火をつけて予め用意してあったんだろうか薪をくべているかまどに入れて火を起こしている。別に変わり映えのしない光景だと思って視線を逸らそうと一瞬春歌さんのほうを見て驚く。後ろ姿しか見えないから判然とは分からない。でもわたくしには、春歌さんが泣いているように見えた。目が悪いのでよくは見えなかったけれど、春歌さんの肩がぷるぷる震えているように見えた。煙が目に入ったのか…、それとも春歌さんの兄上様のことを思い出したのかわたくしには分からない。けれど春歌さんの肩は震えているように見えた。
寝間着に着替える。わたくしにはちょっとだけ大きい寝間着。これも春歌さんのお手製なのだそうだ。わたくしが着替えに手間取っている途中で、もう寝間着に着替えた春歌さんはうふふと微笑みながらわたくしの着替えを手伝ってくれた。わたくしが着替え終わるとふぅ〜っとわざと大きなため息をついて、ペロッと舌を出す春歌さん。そのあまりに少女的なところにわたくしは苦笑い…。と突然思い出したかのように“あっ、夜のお勤めを致しませんと…” そう言って例の仏壇のほうに向かう。わたくしは何も言わず見ていた。もちろん春歌さんも何も言わない。一瞬静寂の時が流れる…。仏壇に手をわせている春歌さんを見つめているわたくし…。酷く時間が流れたような気がしたけれど実際には三分少々しか時間は流れてはいない。けれど、わたくしには長い長い時間が流れていったような感じがした。
「鞠絵ちゃん……、少しワタクシのお話を聞いて下さいますか?」
夜の帳も下り、すっかり辺りも静かになった頃、ランプの灯った薄暗いお部屋で春歌さんはわたくしの方に向かってそう言った。眼鏡をはずすと見えないわたくし。判然とは分からないもののぼやけた視界の先には春歌さんのお顔が朧気ながら見える。その悲しそうなお顔は今までわたくしが見たこともないようなおl顔だった。いつも気丈で気高く弱いところは一切見せない春歌さんの表情にちょっと驚く。春歌さんは静々と語りだす。そう、それはまるで自分がしてきたことへの懺悔のように…。
「…実は、あそこの小さな仏壇はあの人の、いえ、あの人への罪を忘れないための、ワタクシのいわば十字架のようなものなのです…」
そう言うとこちらまっすぐ見つめる。判然とは分からないけれど春歌さんの目には光るものがあった。はじめて聞く春歌さんの過去。わたくしとは違うものの彼女も心に傷を負っているんだと思った。被害者と加害者、その両方の傷…。わたくしも春歌さんと同じだろうか?…。いや、わたくしの傷はただ愛していた人に裏切られて捨てられただけ…。春歌さんはわたくしと同じ愛していた人に裏切られて捨てられ、なおかつ自分も同じようなことをやってしまったということ…。被害者よりも加害者と言う心のほうが強いのだろう。今まで彼女と接してきたわたくしが言うのだから…。ゆっくりゆっくり言葉を紡ぐように話す春歌さん。その顔はあの海岸でのわたくしに懺悔する兄上様に似ていた。
「ワタクシが彼を探したように、彼もワタクシのことを探していた。もう少し、もう少し早く出会っていたのなら、ワタクシはあの人に謝ることが出来たのかもしれません。でも…あの人は逝ってしまっていました。お墓の前…。何度謝ったのか分かりません。ですけれどワタクシは謝っても謝り切れない…、そう言う罪をワタクシは犯してしまったのです…」
そう言うと春歌さんは布団に潜り込むようにガバッと頭から布団をかぶった。普段気丈に振舞っている春歌さんのことだ。弱いところなんて見せたくはなかったのだろう。そう思う。わたくしと同じ…、いやわたくしより何倍も苦労をしている春歌さん。しばらくそっとしておいてあげよう…。そう思うとわたくしは布団をかぶり横を向く。あの人のことを思い出す。幼かった頃、体の弱いわたくしに自分も体が弱いくせにわたくしのことを気遣ってくれた優しいわたくしの愛していた人…。外国への渡航費用のために咲耶さんと結婚なさってそのお金でわたくしを外国へ行かせてやろうと…。でもわたくしはお金なんかあってもなくても良かった。外国には、ちょっとは行きたいとは思っていたけれど、あの人のそばにいたいと言う気持ちのほうが強かった。それなのに…。あの月夜の晩の出来事は、わたくしの心に大きな傷として残っている。それこそ修復は不可能と言うくらいに深く深く残っている。わたくしがこうして毎日毎日罪もない人たちからお金を騙し取るようになったのもその傷を埋めるためのものだもの…。でも傷は埋まるどころか逆にどんどん広がっていくばかりだ…。これが日本の現実なの? と、考えているちょうどそんな頃だったかしら…。今、わたくしの横で布団をかぶって泣いているんだろうわたくしより心の強い女性…、春歌さんと出会ったのは…。
五年前、わたくしが藤田に雇われて間無しの頃だったように思う。その日も宮原からの情報をもとにある富裕層の人からお金を騙して取って藤田の事務所に戻る途中だった。街中を歩いているとドンと男の人らしいがぶつかってくる。この間新調したばかりの眼鏡がぶつかった拍子にどこかへ飛んでいってしまった。眼鏡がないと世界がぼやけたように見えるわたくしは飛んでいった眼鏡を探す。そんなわたくしを尻目に男の人はそのまま行ってしまった。多分わたくしにぶつかったことなど気がつかれてないのだろう…。それとも気付いていたけれど面倒事にはご免被りたくってそのまま行かれたのか…。日露戦争も終わって5年も経つのに、いまだ不況の続く日本。世知辛い世の中だとは思う。そんな中でわたくしは、この世を、この社会を恨んで生きている。唇を噛み締め、必死で飛んでいった眼鏡を探すわたくし。そんなわたくしに、
「あの…、何をしていらっしゃるのですか?」
とわたくしの後ろ、女の人の声が聞こえてくる。ふと振り返る。判然とは分からないものの女の人がわたくしの後ろ立っていた。“ええ、ちょっと眼鏡を落としてしまいまして…” と、自分でも分からないけれどそう返答してしまう。普段なら無視してしまうところだったのにこの日に限ってそう返答してしまった。彼女は、“まあそれはお気の毒に…” と言うと、気配を消す。まあこのようなご時世だ。困っているのはわたくし一人じゃない。大勢の日本の国の貧困層の人々が困っているんだ。そう思う。黙々と探し続ける。確かこちらの方に飛んでいたはずではなかったのかしら…。それとも向こう? 向こう側は確か草むらのはず…。そんなところに飛んでいってしまったとなればまずもって見つからない。藤田に言って新しい眼鏡を買ってもらうしかないだろう。そう思って三十分くらいねばって探した現場を立ち去ろうとすると、
「ちょっとお待ちくださいまし〜っ!」
と言う声が聞こえてくる。誰だろう…。そう思って言われた方に振り返る。さっきの女の人だった。もう夕暮れに近い時なので判然とは分からないけれど、手に何か持っている。何だろう。そう思い立ち止まるわたくし。
「これではありませんか? 眼鏡…」
そう言うとわたくしの手に渡してくれる。触った感覚がいつも触っているわたくしの眼鏡。念のため掛けてみる。ああ、やっぱりそうだ。そう思った。と、声の主の顔も見える。外国人っぽい顔立ち、背もわたくしなんかとは違って高くてスタイルもいい。そんな人が着物なんかを着ているのだから少々不審に思う。そんなわたくしの心を読んでいたのか、その人はこう言った。
「ワタクシは生まれはドイツですけれど、今は日本人ですの…。皆さんが陰でワタクシのことをどう言っているのかも知っているつもりですわ。でもワタクシは気にしないことにしてます。気にしていたら表なんて歩けませんものね?」
そう言うとその人はにこっとわたくしの方に向かって微笑んだ。微笑んだ顔、何となく宮原に似ていた。それが今わたくしの横、布団をすっぽりかぶっている女性、春歌さんとの出会いだった。
「…鞠絵ちゃん」
布団の中からくぐもった声。わたくしは横を向いたまま“何ですか?” と言う。がばっと布団を持ち上がるような音が聞こえる。しばらく静寂が辺りを包む。ふと横を見ると、春歌さんが仏壇のほうを見ながら座っていた。目にたくさんの涙を溜めて…。何故かは分からない。だけどその顔に思わず魅入ってしまうわたくしがいた。しばらくの沈黙ののち、春歌さんは話しだす。それはわたくしの心の壁を取り壊すかのように…。
「鞠絵ちゃん、明日ワタクシと一緒に、あの人のお墓についてきてはくれませんか? いやだと仰るならそれはそれで構いません。でも一度ワタクシの罪と言うものを鞠絵ちゃんにも見て頂きたくって…。あの人…、宮原蛍一郎さんを死に追いやってしまったワタクシの罪と言うものを…」
一瞬息が止まりそうになる。ミヤハラケイイチロウ? 確か宮原四葉の兄の名前が同じだったはず。宮原自身がそう言っていたから間違いはない。それに、先程聞いた背景描写も宮原の言っていたこととぴったり合う。この女性が…。この優しい女性が宮原のこの社会への恨みを作った張本人だというの? 信じられない…。…でも、辻褄は合う。宮原から聞いたことと、今春歌さんが話してくれたこととを照合してみると、少々おかしな点もあるけれど、同じなように思う。でも敢えて知らないふりをしよう…。人一倍気遣いの良い春歌さんのことだ。こんなことを話せば、すぐにでも飛んでいってしまうに決まっている。そう思ってこくっと頷くわたくしがいた。
「今日も来てしまいマシタ。兄チャマ……」
少女が一人、教会の墓地に立っている。そばかすが頬にあり八重歯が1本出ているが可愛い顔の少女…。名前を四葉と言う。墓には彼女の最愛の兄が眠っている。朝も早い時間、毎日のお祈りは兄が亡くなってから彼女が藤田浩之と言う金貸しのところに厄介になり今に至るまで、欠かしたことはない。それだけ大切な存在だったんだろう。
「兄チャマ…。普段から“ケンカはよくないからやめよう? 四葉…” って言ってた兄チャマは絶対許さないと思いマスケド、四葉には、四葉にはどうしてもあの女が許せマセン。恨んでも恨み足りないくらい許せないんデス…。いつか出会うことがあったなら四葉はあの女に地獄の苦しみを与えようと思ってマス。そう、死ぬことよりも苦しい地獄を…。兄チャマ…、こんな四葉をどう思ってマスカ? ううん、言わなくても分かるデス。“そんな四葉なんか嫌いだ” って言うに決まってマスモンネ? でも、でも四葉には許せナイ! あの女…、後宮春歌を…」
そう言うと、彼女は毎日の日課である掃除をする。兄が亡くなってからと言うもの、毎朝欠かさずにやってきた。ふと彼の墓の前、目が止まる。ここ四、五年前からか、よくお花が置いてある。誰が置いたのか全く見当はつかないが、心優しい誰かが置いてくれたのだろう。四葉はそう思った。
掃除も終わり、ふぅ〜っとため息を吐く。もう一度目を閉じて手を組み、十字を切ると、“じゃあ兄チャマ、また来るデス” 心の中でそう言うと少女はその場を離れていく。社会の毒に身を染めながら…。心を悪に染めながら……。
朝もやの中、わたくしは春歌さんに連れられてある小さな教会へと赴いていた。汽車に十分ほど揺られて、目的地近くの駅を降りる。そこから二、三分ほど歩くと、教会の屋根が見えてくる。ここはプロテスタントと言う教派の教会らしい。キリスト教はどれも同じだと思っていたわたくしにはとても新鮮だった。墓地に着くと、春歌さんは掃除を始める。だけどきれいに掃除されているので二、三分程で掃除は終わった。十字を切ってお祈りをする。わたくしも見様見真似でお祈りをした。しばらくお祈りをしていた春歌さんは、わたくしの方に振り向くとこう言う。
「毎回誰かが掃除してくださっているのです。有り難いことですわ…」
そう言うと春歌さんはにっこり微笑む。わたくしもつられるかのように微笑んだけれど、“ひょっとして宮原が?” と内心そう思わざるを得なかった。彼女はまだ十六歳。まだまだ甘えたい時期でもある。兄上様のことが好きだったのなら尚更のはず…。そう思っていると、向こうのほうから教会の関係者の方だろうか一人の初老の方が、こちらに向かって歩いてくるのが分かった。春歌さんも気がついたのだろう。軽く会釈した。
「今日はお一人ではないのですね?」
と言われる初老の方。後で春歌さんに聞くとこの人が宮原の兄上様の葬儀を担当なさった牧師様なのだそうだ。“ええ…” と単簡に答える春歌さん。“まあ、ここではなんですから、教会の中へでも入りませんか?” そう言うとにっこり微笑む牧師様。春歌さんも、“そうですわね? 鞠絵ちゃん、ご好意に甘えましょう?” そう言うとわたくしの手を持って引っ張っていく。引っ張られながらも宮原の育った場所を見てみたいと思った。春歌さんの後について教会の中へ入る。天井を見上げる。建物の構造上そうなのかもしれないけれど高い。窓にはきらきらきれいな色つきの硝子がはめられている。こう言うところで育ったのか…。宮原は…。そう思って辺りをきょろきょろ見回していると、“そんなに珍しいですかな?” と牧師様。わたくしの顔が真っ赤になるのは言うまでもなかった。教会の応接室へ通されるわたくしたち。遠くから孤児院の子供たちの歌声なんだろう、優しそうな歌が聞こえていた。牧師様はちょっと温めの紅茶を飲みながらこう言う。
「あなたも大変でしょう? 毎日このような辺鄙なところまでいらっしゃる…。やはり、忘れられぬのですね…」
「……ええ、それがワタクシに出来る唯一の彼への償いだと思っておりますから…」
春歌さんは膝の上に置いた拳をぎゅっと握る。わたくしはそんな彼女がとても可哀想と言うか哀れでならなかった。被害者と加害者その両方を背負って何を考え、何を思いながら毎日このようなところへ通ってきたのだろう…。とそこまで考えてわたくし自身と置き換えてみる。わたくしは兄上様に捨てられた身。そしていろいろな人の心の闇を見てきた。中には罵声を浴びせてくる人や泣いて詫びてくる人なども…。毎日毎日そのような光景を見てきていると感覚が麻痺してきてしまうのだけれど、一日春歌さんと一緒にいて気付かされる。人の心は、脆く儚いものなんだって……。わたくしと同じなんだって…。もう一度、見回してみる。宮原も春歌さんも、そしてわたくしも、みんな同じなんだ。この心の孤独は同じなんだって…。遠くに見える礼拝堂の十字架はわたくしたちの心の闇を写す鏡ではないだろうかと…。わたくしはそう思った…。
「やっぱり戻られるのですか? 鞠絵ちゃん…」
「……ええ。春歌さん。昨日はこのような社会の毒でしかないわたくしなんかを泊めて頂いてありがとうございました。…出来ればわたくしもあのような生活をしてみたいと思いました。それでもわたくしは戻ります。戻ってしまえばもうこちら側には戻れないことは分かっておりますわ。それでも…、それでもわたくしは…」
春歌さんと1日生活を共にして、わたくしも彼女のようになりたいとは思った。でも、でもわたくしは戻る。いや、戻らなければならない。わたくしのような社会の毒に春歌さんを巻き込みたくはなかったから…。だから戻る。春歌さんから離れるわたくし。こつこつと靴音が舗装された道路の上に響いた。そう、それはわたくしの心の叫びのように…。わたくしの涙のように……。と、後から追いかけてくる靴音がわたくしの耳に響く。ガバッと温かい体がわたくしの背中に、いや、心に届く。
「……ワタクシ、待っておりますわ……」
一言、だった一言だったけれどわたくしの心にその言葉は深く心の奥底に響いてくる。自分自身でも何故そうしたのか、分からない。分からないけれどわたくしは“こくん” と頷いていた。薄汚れた社会の毒と憎悪と…。そして愛に満ちた世界と…。その狭間の中でわたくしの心は揺れ始めていた。
つづく…