少女は歩いていた。心を悪に染め社会を軽蔑し、そして、愛する者を奪い去ったある女性のことを憎々しく思いながら…。吹く風はまだ冷たく感じられる。一瞬立ち止まりぶるりと肩を震わせると少女はまた歩き出す。そんな中、ある疑念が少女の頭を掠めていく。それは、今日戻ってくる女性のことだ。恨んでいる女性と密かに会っていたと言う事実。それが、少女の猜疑心を一層起こさせていた。少女の心の闇は強くなるばかりだった。


あなたのそばにいたかった

第十章四葉の心


 こつこつと石畳の道を歩く。わたくしには分からなかった。なぜ春歌さんにあのようなことを言ったのか。社会を恨みずっと背を向けてきたのに今更…、とは思う。けれどあの言った言葉は心の底から出た言葉だと思った。自分はあの温かな世界に帰りたいと思う。でももう自分は帰れない。何十、いえ何百何千という罪を犯しているんだ。ほとんど人を殺すような、そういうことを毎日毎日繰り返して、騙してきたんだ。騙されて人生の何もかもを取られた人たち。その恨みや憎しみを背負っていかなければならないと思う。そんな人間が、ずっと人を食いものにしてきたような人間が、今更あの光に包まれた世界に戻りたいだなんて。そう思うと何だか可笑しくなったわたくし。気がつくと、“うふふふふっ” と声に出して笑っていた。道行く人は少々変わった目つきでわたくしのほうを見ている。それはそうだろう。こんな寒空の下、歩きながら笑っているんですもの。そう考えながら歩を進める。
 もう二、三ヶ月近く経つんだろうか。そう思いながらくねくねと狭い路地を進む。倒れてから詳しい動向は分からないけれど、あの藤田のことだ。わたくし一人欠けたところでどうと言うこともないだろう。寧ろわたくしがいないほうが動きやすいかもしれない。そう諦めにも似た気持ちで藤田の事務所のある赤レンガ造りの建物への道を進む。やがて見慣れた建物が見えてくる。二、三ヶ月しか経っていないのに、心に中では嫌っているはずなのに、なぜか涙が溢れてくる。眼鏡を持ち上げ涙を拭うとそばにある階段へ向かう。再びわたくしの心の中の光が闇に覆われる。嫌いだった階段をこつこつ音を立てながら登る。急な階段だから登りきった時にはいつもふうふう息が上がっていたっけ? そう考えながら上へと続く階段を登った。
 やがて藤田の事務所の階が見えてくる。案の定息が上がっていた。ここまで自分の体力はないのかと思うぐらいわたくしの体力は無くなっていた。前は少々息が切れる程度で今みたいに完全に息が切れるということはなかったのに。そう考えるとこの自分自身の体を呪う。登り切り、手摺りにもたれて呼吸を整えると、事務所の前までやってくる。みすぼらしい看板はわたくしがちょうどこの事務所に来たときのままだった。
 ガチャリと扉をゆっくり開ける。音のしないように閉めてふっと中を見ると、奥のほうに回転椅子に腰掛けた藤田が向こうに向かい煙草を吹かしていた。と、わたくしの存在に気がついたんだろう。藤田がこちらに振り向く。小さく会釈するとわたくしはこれまでの経緯を話した。藤田は宮原を使ってわたくしの動向を探らせていたんだろう。すべて分かっているような感じがした。
「お前は体が弱いから気をつけてくれ…。それと今日の仕事だ。宮原を先に向かわせてあるから、後で合流すればいい」
 短くそう区切るとまた背を向けて煙草を吹かしている。差し出された書類の入っている包みをを受け取った。封を切り中を見る。いろいろとした事柄が事細かに印刷されている。場所は…、と見るとさほど遠いところでもない。歩いてでもいける場所だ。そう思って無言のまま、必要書類を鞄に詰めて出ようとすると、
「なあ、鷺沢…。オレは社会に復讐出来ていると思うか?…」
 背を向けたままの藤田がぽつりそう尋ねてくる。それはわたくしが自身に尋ねてみたい言葉。そう、あの人を恨んで、憎しんで…。でも心のどこかで愛している。春歌さんとの一日でまざまざと見せつけられたわたくしの心。逆に藤田に問うてみたい。“あなたはどう思うのです?” と。でも聞けなかった…。聞いてもきっと何も答えてはくれないだろう。そう思った。わたくしは少々ずれた眼鏡を元に戻すと、“それでは行って参ります” 事務的な言葉を言うとまた扉を開けて表へ出る。出る瞬間、ふと藤田のほうを見る。いつもと変わらないようだけれど、何だかその背中が悲しく見えたのはわたくしの思い過ごしだろうか…。


「ここでよろしいですわ。どうもありがとうございます」
 車夫にお礼を言い、人力車から降りる。お金を一銭五厘ばかり多めにあげると喜んで帰っていった。ここは…、と辺りを見回してみる。一応宿屋みたいだけれど、実は娼館も兼ねているところらしい。普通なら男が行くべきところだけれど、藤田は決して行こうとはしない。昔のことは一切話さない藤田ではあるけれど、それは女性に対しての興味を一切失っているからか…、と思った。宮原との待ち合わせはここでいいのかしら? と持っていたメモを見る。ここで間違いはないはずだ。時間は? と持っている懐中時計を出して見る、五分ほど早く来たみたい。懐中時計を仕舞いつつ宮原のことを考えていたわたくし。ちょっとそばかすがあって八重歯が可愛いそんな少女だったっけ? 宮原四葉と言う少女と初めて会ったときわたくしはそう思った。忘れもしない、わたくしが藤田と言う男と一緒に仕事をするようになって一年後、橋の欄干に蹲って泣いていた赤茶けた髪の少女。春歌さんが探している少女。そんな少女を待っている。もう四年ぐらい経つのだったっけ。と後ろのほうからこつこつと靴音が聞こえてくる。
「鞠絵チャマ、待ってたデス」
 そう言う声にふっと振り返ると二、三メートル先に立って上目遣いにこっちを見ている宮原がいた。“わたくしがいない間はどうもありがとう” と言うわたくしにただただ上目遣いにこちらを見つめるだけの宮原。“とりあえずついてくるデス。歩きながらお話しまショウ? …あっ、それとお仕事の後ちょっと話があるデスからちょっと付き合って欲しいんデスけど。いいデスか?” そう言うとわたくしに背を向けて歩き出す。何も言わずにわたくしは後に続く。沈黙したまま宮原は歩く。以前なら何か話しかけてきてくれたのに。こっちから話を振ってみよう。そう思い話しかける。
「でも、わたくしがいない間、一人で大変だったでしょう?」
 そう言うとふるふると首を横に振る。“そう、それならばいいのだけれど…” とわたくしは歯切れも悪くそう言った。何かがおかしい。そう思った。前ならばこんな他人行儀な態度は取らなかった。どうして? そう思いつつも道を進む。と古びた家屋が見えてくる。きっとそこだろう。持ってきた地図を手の中で広げて位置を確認する。うん。間違いはない。さてここからどうするか。と考える。いつもみたく四葉を屋根裏に潜ませて相手の裏を取るか、わたくしが正面から入っていって向こうの相手と直談判するか。と考えていると、
「病み上がりな鞠絵チャマにはそこまで無理はさせられマセン。デスから四葉が行ってくるデスよ…」
 まるで感情のない言葉でそんなことを言うと、宮原はわたくしから離れていく。後ろ姿を見ると小さな体が何だか悲しそうに見えた。裏を取ってきてもらうほうがこちらとしては嬉しい。病み上がりなこの体。こんな体で無茶をしてまた倒れてしまったらそれこそわたくしは行き場を失ってしまう。そんなことを考えて、“ではよろしくお願い致します…” と去りゆく背中に声をかけた。藤田からの情報を書いた紙を見る。主人は骨董が趣味だとか…。どおりで悪趣味な年代物の壺などの陶磁器が宿屋の軒下に置いてあると思った。そう思いながら様子をじっと物陰から窺う。と、泊り客だろう男が肩を怒らせながら出てくる。その後を主人とそこの下女だろう髪の長い女性がぺこぺこ頭を下げつつついて来ているのが見えた。遠くから窺っているので判然とは分からないがどうやら問題はこの髪の長い女性が関わっているということだろう。ということは…。この宿屋のもう一つの顔が原因なのかもしれない。そう直感した。
 客の男が出て行ってしばらくして、パシンッと叩くような大きな音が聞こえてくる。ふっとその方向を見れば、あの女性が道端に倒されていた。主人の姿はもうない。何か失敗でもしたのかしら。そう思って辺りを見回してみる。行き交う人々は誰も見向きもしない。それは彼女が体を売っているという証拠だろう。誰しもそんなややこしそうな身の上の女性を相手にするはずもない。絶好の機会かもしれない。そんなことが頭をよぎる。善悪の狭間の中、少しだけ心が悪に傾く。気がつくとわたくしはその女性のほうに足を向けていた。


「大丈夫ですか?」
 そう言って倒れている女性に近づくわたくしに気がついたのか、ぽそぽそとまるで湖に一滴の水の雫を落としたかのような聞こえるか聞こえないか分からないような声で、“大丈夫です” そう言うと立ち上がる。みすぼらしい格好。でも、どことなしか凛とした高貴な気配も感じられた。ペコッとお辞儀をすると中へ入ろうとする女性。憂いを帯びた瞳は、“何も聞かないで…” とでも言わんばかりな顔だった。でもそんな彼女を呼びとめるわたくし。“こんなことはしたくはない” と心のどこかでそう叫ぶ自分がいる。でもこう言うお仕事で食べてきているわたくしにとって、もう後戻りは出来なかった。いや、逃がすことは出来ただろう。でも宮原がいる。よくよく考えてみるとこれも藤田の目論見だったんだろうと、ほくそ笑む藤田の顔を思い出しては苦々しく思った。
「先程入られた方はここの経営者様ですよね?」
 知らぬ存ぜぬな態度で聞くわたくし。でも実際このような場所は知らない。わたくしが入院している間に藤田が宮原と共謀して新しくお金を貸したところなのだろう。そう思った。こくんと首を縦に振る女性。見たところ、怪我はしていないようだ。ぺこりともう一度お辞儀をして戻ろうとする女性を捕まえて根掘り葉掘り状況を聞いてみるわたくし。でも、その女性は一切語ろうとはしない。普通ならば悪口の一つや二つ出て来てもいいはずなのに…。余程このようなお仕事が好きなのか、口を割ると命の保証もないほど脅されているのか…。いや、そのどれの答えも違うもっと深い考えがあるのだろう。彼女の深い瞳を見つめながらそんなことを考えてしまう。と、ぽそぽそとか細い声で今度は彼女が尋ねてくる。
ご主人様に何かご用でしょうか? 何でしたら私がお呼び致しますが…
 深い色の瞳の奥にはどんな歴史があるのだろう。わたくしの及びもつかないような事柄なのだろうか。彼女の瞳を見つめながらそう思う。それにしても先に中へ入った主人の顔は底意地の悪そうな顔だった。このようなあこぎな商売をやっていると言うのも頷ける。そう思いつつわたくしは、
「ええ、用と言うほどのことでもないのですけれど。…強いて言えば少しばかり表の方でお話をさせて頂きたいなと」
 そう言う。いわゆる陽動と言う訳だ。その一瞬の隙をついて宮原が重要な書類などを盗み出してそれを元手に相手を脅し、取ったお金が数十万円。つくづく自分もあこぎだと思う。でもわたくしにはそれだけしかこのお金と権力で汚れきった社会への復讐は出来ないと思った。わたくしを捨てたあの人への復讐は出来ないと思った。心が深い闇に閉ざされる。と、彼女はこくりと頷くと奥へと消えていく。多分主人を呼びに行ったのだろう。そう思った。数刻後、主人が出てくる。やけに太鼓腹で分厚い唇が印象的な男だった。慇懃にお辞儀をすると、主人はこちらの考えが分かったのかこう言ってくる。
「ないものはないぞ?」
「まあ今日はそのようなことで参ったのではありませんわ。少しばかりお話でもと思いまして参った次第です。どうですか? 一杯」
 そう言うとわたくしは、お猪口にお酒を注いで飲む真似をする。ここの主人はお酒が好きだということは藤田の書類で調査済みであるので、そう言う。チラッと上目遣いに主人の顔を窺うとまんざらでもないような顔をして“酒代、そちらが持つんだったら付き合ってやらんこともないが?…” と言って下卑た笑いを浮かべている。なるほど、資料では知っていたがここまで酒に汚い男だとは思わなかった。何も言わずこくんと首を縦に振るわたくし。宮原は今、隠密活動をしているんだろう。ということはわたくしが戻ってきて二、三日もしたらここも差し押さえることになるのか…。そう思うとあの女性が気になる。またどこぞに売られていくのかと思うと何だかとても切ない気持ちになった。


「鞠絵チャマは上手く誘い出すことに成功したようデスね? さて、四葉も頑張りマショウ…」
 少女は表を持っている双眼鏡で覗き見るとそう呟く。鞠絵に対してのわだかまりはあるものの今はそんなことは言っていられない。春歌と会っていたことも胸の中に仕舞い込むと彼女は屋根裏のあばら家から忍びこもうとするが、なかなかに開いている窓はない。あちこち見遣っていると一つだけ開いている窓を見つけた。北向きの日の当たらない暗い部屋が少女の瞳に入る。しめた! そう思いつつ少女はその仄暗い部屋へと忍びこむ。判然とは分からないものの次第に目が暗闇に慣れてくる。そこは何もない部屋だった。ただ人が住んでいるという形跡だけはあるが、机もない、娼婦と言うのだから鏡とか白粉とかが置いてあっても良さそうなものなのに、それもない。驚いたことに布団さえもなかった。一畳ほどの汚らしい畳が部屋の隅っこにあるだけだった。ここの主人はまるで奴隷のように、いや、奴隷以下の扱いでこの部屋の住人を扱っているのがよく分かる。余程この部屋の住人が嫌いなのか…。と少女は思った。
 静かに主人の部屋へ移動する少女。と向こうの方から足音が聞こえてくる。慌てて闇に隠れて気配を消すと、目の前を無表情な、まるで人形のような顔の女性が今少女が来た通路を通り過ぎていく。“ああ、あの人があのあばら家の住人なんデスね?” と思いつつ目的地である主人の書斎へ向かう少女。以前一人で偵察に来た時に主人の重要な書類は書斎に置いてあることを突き止めてはいた。だがその時は鞠絵はまだ入院中であったし、藤田はもともと表立っての行動は控える傾向であるので、人手が足りなくしぶしぶ諦めたのだ。だが、鞠絵が少々おかしなような感じがするとはいえ戻ってきてくれたおかげでこうやって仕事が出来ると言うことに、彼女は一種の孤独感から抜け出せたような感じがした。
「これも違う、あれも違う…。むぅ〜、一体どこに藤田サンの言った書類があるんデスかねぇ〜?」
 とあちこちと荒探しをする少女。なかなかそのような借用書の類は巧妙に隠す傾向が強く、たんすの引き出しなどを探しても見つからない。半ばあきらめ加減にがさごそ探していると、不審な引き出しを見つける。“ムッ! これは二枚底デスか?” そう言うが早いか一枚目の底を外して中を見る。が、何のことはない個人の日記やその他もろもろの実に見慣れたものだった。“ま、まずいデスぅ〜。前に来た時もそうだったデスけど、このまま帰っちゃうと藤田サンにまた怒られちゃうデスよ〜…” そう呟きながらも必死で書類を探す少女。と、さっきの二枚底の引き出しを見つめて…、ひょっとしたらと思いもう一度詳しく調べなおす少女。そして…。
 また来た通路を気配を殺して歩く少女。少女の手には見つからないと思っていた書類がしっかりとある。“二枚底かと思ってたら、もう一段あったなんて…。でもこれで藤田サンにも怒られずに済むデスし。あとは鞠絵チャマにあの女のことを尋ねるだけデス…。鞠絵チャマは…。ううん、考えるのはよすデス!! あんな女にたぶらかされるような鞠絵チャマじゃないはずデス!!” 闇に隠れながらそう呟くと少女は元来た道を歩いた。やがて、あの北向きの屋根裏部屋のところまでやってくる。誰もいないだろう。そう思ってキィ〜っと油のさしてない扉を静かに開ける。と、
もう今日は休ませて下さいませんか? 体のほうが持ちません。お願い致します。旦那様…
 とぽそぽそとか細い声が聞こえてくる。ふとその方向を見た彼女の目に映ったもの。それは先程自分の目の前を通り過ぎて行ったあの無表情な人形のような顔をした女性だった。眠っていたのか蹲っていた華奢な体を持ち上げて片肘をつくとこちらを見つめてくる。が、目が悪いのだろうかただ単にこの暗闇に慣れてないだけなのだろうか、目を擦ったりなどしている。チャンスなのかもしれない。でも彼女は…、“よ、四葉は怪しい者ではないデス” と声に出してしまった。普段ならばこう言うとき、何も言わずすたすた言ってしまうはずなのに…。と少女自身訳も分からないまま、しまったと言う感じで立っている。
四葉…さん?
 仄暗い壁際の一畳の畳の上、無表情のままの女性はそう不思議そうに尋ねてくる。長い髪はまるで一本一本が絹糸のようにさらさらと開け放たれた窓から入り込んでくる寒い冬の終わりの風に靡いていた。そうしているうちにだんだんと目も慣れてきたんだろう。憂いを帯びた瞳が四葉を見つめてくる。ここで声を上げられては一大事だ。いっそのこと気絶してもらうか…と思い持っている天眼鏡を隠しつつ警戒しながら近づいた。が、乱暴に扉を叩く音が聞こえてくる。もう主人が帰ってきたのかと思い懐中時計を取り出して見てみると三時間は悠に越えていた。しまった! と彼女は思った。探すのに夢中になっていて時間を気にしてはいなかったんだ…と後悔の念が頭の中を駆け巡る。だが…、
ここは私が引き受けます。ですから貴方は逃げてください。あの男に捕まると貴方も私のようになってしまう。つらいのは、苦しいのは私一人で十分です。ですから早く…
 そう言って閉じてあった外側の窓を素早く開けて逃げるように促す女性。その顔には彼女の信念というものが垣間見えた。少女は言われるまま開いた窓から外へ出る。やがて乱雑に扉を開ける音と主人の怒鳴り声が聞こえてくる。バシンと叩く音とともに、“お許し下さい、お許し下さい。旦那様…” と言う弱弱しい彼女の声が聞こえてくる。十分くらい経っただろうか、その声も聞こえなくなる。少女がそ〜っと覗き見るとあの女性が息も絶え絶えに苦しそうにあばら家の隅で蹲っていた。
「だ、大丈夫デスか?」
 その方向に声を掛ける少女。少女の声に一瞬ビクッとなる女性。見ると頬が腫れている。口元には赤い血のスジが流れていた。女性は“そんなことはいいですから…。早くお逃げください” の一点張りだ。元々は自分の不始末が原因だ。この女性には何の関係もない。そう思った少女は持っていたハンカチーフを取り出して女性の前に来ると、優しく口元に流れる血を拭いた。普段そんなことは一切しない少女ではあったのだがなぜかその日に限ってはしてしまう。少女自身不思議でたまらない。なぜ自分は声を掛けたのか。捨て去ったと思っていた優しい気持ちが心の底から溢れてくるのか…。分からない。分からないがただ一つ言えることはここにいてはいけないと言うことだ。と少女は思う。
 少女は再び立ち上がるともう振り返るまいと無言のまま、出て行こうとする。そうでもしないとあの女性の温かな気に押されてしまうと思ったからだ。“どうもありがとう…。四葉さん…” 女性の声が少女の心に深く突き刺さった。それは少女の兄を見捨てた上に殺した女性・後宮春歌のことを一瞬だけれども忘れてしまいそうになるくらい、それくらいの勢いでその声は心に染み込んでいく。ふるふるともう一度激しく首を横に振ると少女は鞠絵との待ち合い場所に向かう。女性はそんな少女の姿を屋根裏部屋からいつまでも見つめていた。


「お待たせして申し訳ないデス。鞠絵チャマ…」
 主人と別れ、一人ぽつねんとしている所へ見知った声が聞こえてくる。ふっと振り返ると、案の定八重歯の可愛い少女・宮原が立っていた。手には今回の情報源だろう書類がある。これを元手にまた騙し取るんだろうと思うと何だかやるせない気持ちになった。何も言わずに歩く宮原。一体どこに行くのだろう。そう思いつつわたくしは後をついていく。汽車を乗り継ぐ。いつもなら話しかけてくる宮原だけれど、今日は一向に口を開かない。顔も下に向けているので判然とは顔色は窺えなかった。だけど、その顔をわたくしは知っている。それは四年前、橋の欄干に蹲って泣いていた時の風景。改めて思う。彼女もわたくしと同じだと言うことを…。同じ兄上様と言う大きな存在を無くし、全てに絶望してこのような薄汚い裏の闇社会へと流れついんだ。また、同じ兄上様を奪った女性を恨んでいる。そしてわたくしは、宮原の兄上様の心を奪った女性を知っている。その女性が毎日のように彼女の兄上様のお墓に行っていることも…。
 汽車は車列を延々と連ねて駅へと向かう。“ここでいいデショウ。降りマスよ? 鞠絵チャマ…” そう言うと宮原は立ち上がる。わたくしもつられるがままに立ち上がった。ピーっと汽笛を鳴らし汽車は止まる。終点の東京から二駅前の駅だった。改札口を出、また歩く。ここは初めて来る場所だからきょろきょろあたりを見回してみた。どうやらわたくしが今住んでいるところと変わり映えしない貧民街のようだった。その一角にある古びたレンガ造りの小さな建物の中へと宮原は消えていく。わたくしも後を追うように入った。こつこつとレンガ造りの壁に足音が反響する。と宮原の足が止まる。多分ここが彼女の住んでいるお部屋なのだろう。そう思った。ガチャっと鍵を開け、キィ〜っと錆びついた扉を開けて宮原が入る。入る瞬間宮原がこちらに振り向いた。多分わたくしにも入れと言うことなのだろう。そう思いわたくしも彼女の後を追うように中へ入る。
 お部屋の中はわたくしのお部屋とさほど変わりはなかった。生活感のない広い空間があるだけだった。ただ違うところはベットが置いてあるだけ…。それは彼女が半分は英国人の血が流れていることだというところだろうか…。そう思う。“どこでもいいデスから座って待っていてクダサイ” そう言うと宮原は奥へと消えていく。一人ぽつねんと待つ。改めてお部屋を見渡してみるがわたくしのお部屋と同じよう殺風景だった。ただ、引き出しの上に写真が飾られている。この写真の幼い少女は宮原本人だろう。そしてその横で微笑んでいる男の人が…。
「紅茶デスけどいいデスよね?」
「ええ…」
 紅茶を淹れたティーポットとカップを手に彼女は入ってくる。先程まで寒風の中を歩いた冷えた体にはちょうどいい。カップに注ぐと紅茶のいい香りがしてくる。“さあ、ドウゾ…” 宮原が勧める。一口飲んだ。宮原も飲む。一呼吸おいて、宮原がこう尋ねてくる。“鞠絵チャマ、鞠絵チャマの入院していた病院、四葉はこっそり見てマシタ。ごめんなさいデス。でもあの鞠絵チャマの横にいた女性は誰なんデスか? 四葉には分からないんデスけど?…” と…。上目遣いにわたくしを見つめながら、さも知らないと言った感じで言う宮原。その顔はわたくしの心の中を見透かしているようだった。
「……」
 知っているくせに…。とわたくしは心の中で呟く。忘れたくても忘れられない。そんな感情がありありと感じられる。彼女はそれほど自分に嘘はつけない性格だからか思ったことや考えたことが顔に出てしまう。これでは表の仕事は出来るまい。わたくしのようにお金を取り立てるときに見せる、あの厚顔無恥のような顔は彼女には荷が重すぎる。なるほど、藤田の考えが分かった。本当は言いたい。春歌さんのことを…。でも彼女に言ってしまったら絶対に彼女は正気ではなくなる。そう思って口を噤んだ。何分間そうしていたのか知れない。実際には一分も経っていないかも知れないけれど、わたくしには那由他の刻のように感じられた。彼女はおもむろに言ってくる。
「なぜ黙ってるんデス? 鞠絵チャマ。はっきり言えばいいんデス。四葉の大好きだった兄チャマを見捨てて、挙句の果てに殺した女に会ってたって素直に言えばいいんデス!! 鞠絵チャマのお口から言えばいいんデス!!」
 ついに隠していた感情が彼女の口から飛び出した。後は感情の赴くままわたくしへの罵声へと変わる。“裏切り者!! 詐欺師!! 悪魔!!” …いろんな言葉が飛び出した。そのどれもが今のわたくしにぴったり当てはまる。春歌さんと会っていたことはそれだけで彼女にとってみれば、裏切り者であり詐欺師であり悪魔のような所業であることは間違いはない。言われるがまま、わたくしは黙っていた。彼女はわたくしの襟元を掴んでゆさゆさと力無げに揺すっている。“鞠絵チャマ…。どうして何も答えようとはしないんデス? どうして? どうして?…” と何も答えないわたくしの心の中を悟ったのか最後は疑問符になっていた。やがて彼女は何事もなかったかのように小さく座りこむ。目には涙が滂沱のように流れて、歪んだ口からは怒涛のようにわたくしへの疑問が投げかけられる。言えば彼女の心は楽になるだろうか。正直に言えば彼女は納得するだろうか…。と考えて、静かに首を横に振った。失われたものはあまりにも大きい存在だ。わたくしの一言で彼女の心が動くはずがない。動くならばもっと前、あの春歌さんから聞いた宮原の兄、蛍一郎さんのお葬式の場面で動いていたはず…。そう考えるとこの少女がとてつもなく不憫に思えてくる。でもわたくしには何も出来なかった。抱きしめてあげることも、優しい言葉をかけてあげることも出来なかった。結局泣き疲れて眠るまで彼女の罵声嘆願を聞くしかなかった。眠った彼女の体を抱き起こすとベットまで運ぶ。力の抜けた彼女の体は普段病弱で重いものをあまり持ったことのないわたくしが持てるほどに軽かった。ベットに寝かせて薄い布団をかける。疲れきって眠った顔を見ると昔の、遠い昔の自分と重なり合うものが見えて…、悲しみが込み上げてくる。眼鏡を持ち上げて瞼を一拭きに拭いた。


 管理人に一言言うと表へ出る。言いたくても言えないもどかしさだけが心に残る。彼女はこれからどこに向かうのだろう。月も星もない夜の荒野に一人立っている。涙をこらえて、本当は怖いくせに怖くなんかないと強がりを言う。そんな殺伐とした風景が目に浮かんでくる。それはある意味わたくし自身なのかもしれないと思った。人間は強いものばかりじゃない。わたくしや彼女のように心の弱い人間も多くいる。そんなことを思いながら、冬の風に吹かれて歩く道。道端の枯れ草の中に春の新しい芽が出ていることにも気付かずに……。

つづく…