もう何年になるのか、それすら分からなくなりつつあった。でもあの人のことは今でも心の奥底に残っている。忘れられない過去。拭っても拭い切れない過ち。そんな感情が私の心の奥底から滲み出ている。北側の屋根裏部屋にはまだこの間降った雪が残っていた。その上をさも楽しげに番いなんだろう二羽の雀が春の訪れを告げるかのようにしきりに羽をばたつかせながら鳴いている。ああ、私にも翼があればこの大空を自由に羽ばたくことが出来るのに…。彼を探しにいけるのに…。私の本当に愛していた人に謝りにいけるのに……。でも彼はもうどんなことがあっても、例え天地がひっくり返っても私のことは許してはくれないだろう。それだけのことを私はしてしまったのだから。そう思いながら何もない部屋で今日も私は生きていた。
あなたのそばにいたかった
第十一章、愛別離苦と怨憎会苦
何もなかった。あるのはただ私の身一つだけ。それでも私は感謝しなければならない。屋根裏部屋に住まわせて頂いて、残飯ではあるものの食事まで頂いている。粗末でボロボロではあるものの服まで着させて頂いている。普通ならばとうに捨てられて、妹の待つ世界へと旅立たなければならないものなのに、生かされている。それはとても有り難いと思う。何も知らぬお嬢様育ちの私に世間の厳しい現実を見させてくれたのだから…。と同時に思うことがある。それはある意味私の犯した罪の重さ、奥深さなのだと。あの窓の向こうの世界で、きっとあの人は今日も私を恨み、憎しみながら生きているんだろう。そう思えば思うほど私は自分がどんなに愚かでちっぽけな人間だったのかがよく分かる。あの日のことは私の心の奥底に、いや、この身のすべてに記憶されている。私が魂と言うあるのかないのかさえ分からない存在になっても、この深い懺悔の心は消えないだろう。それだけあの人に対して慕情があったんだと、別れてもう十年くらい経つのにそう感じる。きっとこれからもそう思い続けながら生きていくんだろう。そう思う。
あの日、一瞬の気の迷いから言ってしまった一言。実際にはほんの些細なことからだった。もう十年も経つから忘れてしまっているところもかなりあるけれど、ほんの気の迷いから“会います”と言ってしまった。それがどんなに彼を苦しめることになったのだろう。考えることはそればかりだった。断ろうと思っても断る術が分からない。第一お父様に相談したところで歯牙にも掛けず軽くあしらわれる。いつものことだ。元皇族の娘と言うレッテルを貼られて何の楽しみもない政略結婚をさせられる。そんなことを毎日毎日繰り返してきたのだ。現にお母様だってお父様とは違う相手が何人もいてお父様には内緒で会いに行っては情事に耽っていた。それはお父様も同じことだったのだけれど…。物心がついたときからそんなことを見てきた私はそれがとてつもなく嫌だった。でもその嫌なことを自分も繰り返すことになってしまった。
そう、それは私のもっともそばにいて欲しかった人、いいえ、愛していた人を奈落の底に突き落とし、果ては悪の道へと引きずり込んでしまった。その報いを今、一身に受けているんだと思う。私は自分が許せないでいる。あの雪の日に私を突き飛ばして悲しみと憎しみにくれた瞳を向けながら去っていく彼の背中が今でも私の心の奥底にある。そしてそれは私の心の中で今でも訳も分からないほどにうねうねと蠢いていた。あのことは未来永劫、私がこの世からいなくなって魂と呼ばれる存在となってもずっと消えることはない。地獄というものが本当にあって死者の魂がそこに行くということがあるのなら私の魂はその地獄のずっと奥の最下層へと落とされるのだ。そこで未来永劫苦しみもがかなければいけないのだろう。そう思う。
この娼館は私が流れに流れ着いた場所。最初のところ、もう十年も前のことだからはっきりとは分からないけれど、そこで初めて男性を知った。初めての男性、今思い出しても嫌な気分になるけれど、実にいやらしい目つきで私の体を見つめていた。でもまるで感情のない私に嫌気が差したのかよそへ売られる。売られた先の主人は最初はちやほやしていたが最後には家畜同然の扱いにまでされてまた売られる。そんなことを何度も何度も繰り返して今はこの娼館へと流れ着いた。今の主人も同じようなものだ。ただ一つ違うところがあるとするならば、それは私を日頃の鬱憤のはけ口にしていることだろうか…。今の主人に言われたことがある。
「元皇族のいい暮らしをしていたお嬢様が今じゃ何の因果か奴隷以下だもんなぁ? はっ、笑わせてくれるぜ。ったくよ〜…」
そう言うと下卑た笑いを浮かべながら持っていた竹刀で私の体を思いっきり打ち叩く。粗末な服(と言っても布切れに近いものだけど)しか着ていない私の体はみるみる竹刀で赤くなる。それが面白いのか主人は私を日頃の鬱憤のはけ口にしては毎日毎日叩きに来る。ほとんど生き地獄に近いようなことをさせられている。でも、それでも私は必死で耐える。しかしこれは完璧な裏であって普段は場末の大衆娼婦をさせられているわけだ。もちろん化粧はしない。化粧代がもったいないということなのだそうだ。しかし元皇族の女がこのような場末の娼館にいるということで男性客はあとを絶たない。現に私はそれで毎月五円ほどのお金を頂き、全額あの人の口座に送っている。その点ではこの娼館には本当に感謝をしている。あまつさえ、食べ物と着る物とお部屋まで用意して頂いているのだから言うことはない。でも…、心のどこかで、泣き叫んでいる自分もいる。華やかな上流社会。毎日の贅沢。今の自分と重ね合わせてみると雲泥の差、天と地の差があった。昔お父様が、もっとも汚らわしいとさえ言っていた最下層の人間…。その人間に自分は今、成り果ててしまった。最後まで抵抗して大広間の机に泣き叫びながらしがみついていたお母様も、ただただ呆然と事の成り行きを見つめていたお父様も今はどこかの精神病院に入れられているらしい。もうほとんど廃人状態であってあとは死を待つ身だとか…。
異父弟はあの日に別れたぎりどこへ行ったか行方は知れない。もともと他人のようではあったけれど半分は血が繋がっている弟だ。心配しないわけがない。でもその後の行方は全く分からないらしかった。と言っても私も男性客の持っていた新聞でチラッと見ただけだから詳しいことは分からないままなのだけれど。多分もう妹の待つ世界に行ってしまっているか、それともどこかの使用人として私と同じように苦労しているかどちらかだと思う。私と同じ…か。そう思って自分の体を見た。こんな汚い、男の欲望のはけ口となっているこんな体より、汗水流して働いている姿のほうがどんなにいいことだろうか。でも、異父弟は前考のようにもうこの世にはいないだろう。そう思う。やけに気取り屋で偉そぶる癖があったから、絶対に他人には頭を下げないことは明らかだし、そんな人を雇い入れるところはないと思った。よしんば雇い入れられたとしても今まで労働と言うことをやったことのない身分なのだから、すぐに解雇させられるかもしくは自分から辞めるかのどちらかに違いない。そうなるとどこかで行き倒れてそのまま…。と言うことがありえる事実だろう。そう思うと、もう死んでいることだろうと思うと、あんなに気味悪がられて嫌な思い出しか残っていないのに、なぜだか可哀想に思えて…。涙が溢れた。気がつくと泣いている自分がいた。
今、私は生きている。いや、生きなければいけないと思う。苦しいこと、またどんなにつらいことがあっても生き続けなければならないと…。そう思う。絶対に死ねない。そう思う。死ぬことより生きることの方が難しいことは今までの娼婦たちの死を見てきた私が一番よく知っている。まるで使い捨てのように扱われて、そして捨てられて、最期は孤独のうちに死んでいった娼婦たち。その多くは親の借金やら強制移住させられたりした身寄りのない人たちや、支那や朝鮮の人たち。あの人の言っていた“愚かな戦争”のいわば犠牲者たちだ。そんな人たちの中にあって元・名門のお嬢様と言ういわれもあってか話しかけてくる人はほとんどいない。逆にヒステリックになると集団心理が働くのか、他の娼婦たちに取り囲まれて殴られたり蹴られたりもした。そしてそれは今でも同じ…。口の端にはいつでも血の跡、体には無数の痣が出来ている。身を丸くして必死で耐える。それが面白いのか娼婦たちは暴行を止めようとはしない。現に今日もやられて蹲っているところへ、主人がやってきてまた殴られた。死にたくなりそうなこともある。死のうと思ったことだって何回もある。でも、それでも私には生きなければならない理由がある。
そう、それはあの人への償い。こんな無口で無愛想な私を心の底から愛して慕ってくれた人。そして、これほどと言うことのないと言うほどに心に深い、それこそどんなことをやっても修復不可能なくらいに心に傷を負わせてしまった人。その人のためだけに生きている。あの日のことは決して忘れていない。忘れられるはずもない。彼がどんな気持ちでいたのか、今の私にはそれが痛いほど分かる。でも、そのことに気付いた時にはもう何もかもが終わってしまった後だった。もう少し早く気付いてあげていればあの人があのような心を悪一色に染めることもなかっただろうに。そう思えば思うほど、私は自分と言う人間が許せなくなる。いっそのことと主人が無精髭でも剃ろうと思っていたんだろうが忘れていった剃刀を首に宛がった時さえあった。首筋に宛がうと動脈に血が流れるのが剃刀から指へ、手へ、体へ…、伝播するように伝わって来る。引けば切れる。溢れる血液の海に身も心も横たえることが出来る。この苦しみから解放される。一瞬そんなことを考えてハッと気づき剃刀を首から放した。何を考えていたんだろう。私は…。私は生きなければならないのに。生き続けなければならないのに、何を逃げるようなことを考えていたんだろう。ただ苦しみしかないこんな牢獄と同じような生活の元を作ったのは一体誰なの? と自分自身に問いかける。そう思うと、涙が込み上げてくる…。所詮人間は弱いもの。だから気持ちをしっかり持たなければこういう状況に追い込まれる。そんなことがあってからますます自分が嫌になる。そんなある日のことだ。あの可愛らしい少女と出会ったのは…。
いつものように主人から蹴られて、外に放り出されてしまう。何が楽しいのかここの主人は私のような娼婦たちを外に放り出して楽しむくせがあった。でも主にやられているのは私だけだ。羞恥心を煽りより屈辱的なものを与えようと思っているのだろう。確かにこの姿は見るものに劣情を催させるものがある。ボロボロの布切れ一枚なのだから当然だろう。今は2月も後半だ。日に日に暖かくなってきているとはいえまだまだ寒い。そんな中でボロボロの布切れ一枚の女性が倒れているのだから変に思われても仕方がない。傍を通る人たちは一応に私のほうを恥ずかしそうに見ては見ぬ振りをして通り過ぎていく。ふと窓のほうを見ると主人が下卑た笑いを浮かべてこちらをさもいやらしい目で見つめていた。起き上がろうとするものの力が入らない。歯を食いしばりながら起き上がろうとしていると私の後ろで、声がする。“大丈夫ですか?” と…。このような最下層のまだ下のほとんど家畜のような人間に話しかけてくれる人なんて…、と思い上目遣いに見遣ると眼鏡をかけた私より五、六歳ほど若い女性が手を差し伸べてくれていた。
「大丈夫です」
そう言うとやっとの思いで立ち上がる。蹴られた背中がずきずき痛む。女性はそんな私を不思議そうに見つめていた。しかしなぜこのようなところに、悪意と欲望しかないところへこんな可愛らしい女性が訪ねてくるのだろう。少しばかり疑問に思いながらその女性の方を見つめていると女性はこう尋ねてくる。“先程入られた方はここの経営者様ですよね?” と。そう言ってこちらの様子を伺うように少し俯き加減で上目遣いに私のほうを見つめていた。私はこの女性とは初めて出会う。にも関わらずなぜかあの人の最後に見た目と同じような感じがした。私は咄嗟にこう言った。“ご主人様に何かご用でしょうか? 何でしたら私がお呼び致しますが…” と…。どういう用件なのかは分からない。だけど主人には報告しなければいけない。そう思って、主人の部屋までよろよろとよろめきながらも歩いて行く。報告すると主人の血相が変わる。
「あの野郎、もう取り立てに来やがったのか…。なぜ応対した!! 主人はいませんと言えとあれほど命令しておいたはずだ!!」
そう言って私の胸倉を掴むと頬を思いっきり叩かれる。手を突いて倒れるとその手を思い切り踏まれる。ギュウギュウと音のなるくらい踏まれる。痛い…、と涙が思わず零れそうになるのを必死で耐える。私はそのことを聞いたのは今日が初耳だった。多分他の娼婦たちには言っておいたのだろう。私にだけ聞かさないようにわざと何も言わなかったのか、それとも他の娼婦たちが聞かさないように私にだけに黙っていたのか…。痛みに耐えるように立ち上がると主人の姿はもうなかった。
よろよろと立ち上がり主人の部屋を出て自分の部屋へ戻ろうとすると娼婦の一人が、“あら? またお怪我? よくお怪我をなさいますこと…” といかにも楽しそうに言ってくる。実際顔を見遣ると意地悪そうに口元だけをにやりと綻ばせている。私は声も出ないほどに涙を溜めながらでも無表情にこくんと頷いた。“けっ! 何をされても耐える女!! 一回殺すほどのことをやらかしてあげないと分からないようねっ!!” とヒステリックに私を罵ると向こうの大部屋のほうに行ってしまう。多分今夜当たりまた私に暴行を加えるための相談をしに行ったのだろう。そう思ってまた痛む頬と手を擦りながらやっと自分の部屋へと戻ってくる。もう眠ってしまいたい。そう思ってよろめきながらやっと部屋に着く。部屋の扉を閉めるや否や、倒れるかのように横になった。と途端に涙が滂沱の如く溢れて流れ、床に小さな水溜りを作った。もし私が皇族の身分でなかったらこのような仕打ちを受けることも、また村八分のような扱いをされることも、暴力を振るわれるようなこともなかっただろうに…。そう思うと自分のこの血を呪う。あの人の言ったように上下身分のないような世界があればもっと自由にいられたものを…。でも現実問題として身分制度は悉くある。最下層の人たちが恨み憎む気持ちもひしひしと伝わってくる。そんなことを考えるとまた涙が流れた。どんなに泣いても涙は枯れることはない。むしろどんどん溢れてくる。それはあの日、あの雪の日に私を突き飛ばして去っていくあの人の背中を見つめながら叫んでいた自分のように。そう思って先刻来の疲れもたまっていたのかうとうとと眠ってしまう。何刻くらい眠っていたのだろうか、人の気配がしてふっと目が覚めた。薄目を開けると人の影がある。その影はこちらをただただ見つめている。暗いので判然とは分からない。主人だろうか? ここの主人はたまにこういう風に立っていることがある。私に対して性的虐待を加えるときなどはよくこうして立っている。
「もう今日は休ませて下さいませんか? 体のほうが持ちません。お願い致します。旦那様…」
と私はそう言う。もう休みたい。いや、休ませてほしい。先ほど踏まれた手がもう紫色に変色して感覚もなくなってしまっていた。でも、こんなことを言って聞くような主人ではないことは私が一番よく知っている。でももう無理…。と、主人のいるであろう方向にやっとの思いで片肘をついて私はそう言う。こんなことは言ったところで聞いてはくれないことは分かっているし、逆に主人としてみればそんな私を虐めぬくことに快感を覚えるのだろう。と今まで黙って立っていた人影はこう言った。“よ、四葉は怪しい者ではないデス” と…。まだ幼なさの残る声が私の耳に届く。なぜだろう。その声に先程助けてもらったあの眼鏡の女の人と同じような優しさを感じてしまう。
「四葉…さん?」
と鸚鵡返しに尋ねる私がいた。目がだんだんと暗闇に慣れてくる。見てみると十三、四歳の年端もいかない見たこともない少女が“しまった!” と言うような顔をしてこちらを伺うように立っていた。誰だろうこの子は…。と思って声をかけようとした刹那、ドンドンドンドン、と乱雑に扉をたたく音が聞こえてきた。多分主人が帰って来たのだろう。そう思う。酒でも飲んだのだろうか、妙に甘い声で、“芹香ちゃ〜ん、開けてくれな〜い。ヒック…” と言っている。こういう時に限ってここの主人は非常に残虐的になることは分かっている。四葉さんと言われた少女は青ざめた顔で懐中時計を眺めていた。主人に捕まれば彼女も私と同じように蔑まれ虐められ、虐待されることは目に見えて分かっている。現に何人もそういった行為を受けて、自ら命を絶った人を見てきた私。こんな屈辱的なことは私だけでもうたくさんだ。そう思い急いで窓を開けて逃がすようにこう言う。
「ここは私が引き受けます。ですから貴方は逃げてください。あの男に捕まると貴方も私のようになってしまう。つらいのは、苦しいのは私一人で十分です。ですから早く…」
と。彼女は躊躇いながらも頷くと表へ出ていった。そう、これでいい。こんなに苦しい、ある意味死ぬことよりも苦しいことは私一人で十分…。“人が気持ちよくノックまでしてやったって言うのにこのアマは!! 今日と言う今日は許さねえぞ!” 乱雑に扉を開ける音と主人の怒り狂った顔が見えてくる。渾身の力を込めて思いっきり頬を叩かれる。バシンと鼓膜が破けそうな音がした。実際右の鼓膜はもう破けてしまっているのか聞こえにくくなっていた。馬乗りになり手燭を持つと着ていた服を破かれる。胸があらわになると、いやらしくにたりと主人は笑って蝋を胸に落とした。熱い! 思わず胸に手を当てて、恐々と主人の方を上目遣いに見つめる。そんな私に余程腹が立ったのか、今度は拳で殴られる。“お許し下さい、お許し下さい。旦那様…” と言う私に対してそれがさも楽しいのか加虐的にほくそ笑みながらそんな行為を十分ぐらい続けた。やがて飽きが来たのかお腹を渾身の力で蹴り上げて主人は私の部屋を出ていった。俯き加減に起き上がろうとすると何も食べてもいないのに吐いた。ほとんど胃液だけだけれどそれでも吐く。口の端から血が出ているのだろうか、ひりひりと痛かった。でも、そんな体の痛みも心の痛みに比べれば何倍もましだと思う。起き上がれずに息も絶え絶えに苦しそうに隅で蹲っている私。もちろん誰も助けてくれる人はいない。このまま眠ってしまおう。そう思って目を閉じようとすると、あの少女の声が聞こえてきた。
「だ、大丈夫デスか?」
びくっとしながらもふっとその方向に頭をもたげる。月明りで判然とは分からないけれどその少女の影がこちらに向かってきていた。先程主人が点けていった手燭の柔らかな灯の中、彼女の顔が見える。そばかすのあるやけに欧米人っぽい顔が印象的な少女だった。こんな少女をあの男が放っておくはずがない。そう思った私は、“そんなことはいいですから…。早くお逃げください” と心の底から言う。と彼女は持っていたハンカチーフを取り出して私の前に来ると、優しく口元に流れる血を拭いてくれる。こんな最下層のまだ下のほとんど家畜のような人間の私にそこまでしてくれる人などいない。もしいたとしてもそんなことをする人は必ず何か裏があって、人を貶めるようなことを平然とやるような人だと思う。と言うことはこの少女も? とは思う。でもこの少女は何かが違うような気がした。そう、それはあの人と同じような感じ。でももし主人に見つかって捕まるとどんな仕打ちが待っているのか知れたものではない。現にちょっとお金を盗んだ娼婦の仲間は散々にいたぶられて殺された。警察も見抜けないような巧妙な手で殺すのだ。そんな人たちを多く見てきた私。だから私はこう言う。逃げて! と…。
でも彼女は小さな手で口の端を拭いてくれる。拭いてくれている顔を上目遣いに見つめる。どことなしかあの人の顔に似ていた。あの雪が降りしきる日、社会を恨んで、私を恨んで心にそれこそ負い切れないほどの大きな傷をつけて出ていった私が愛していた人、ううん、愛している人。今もその気持ちは変わらない。そんなあの人と同じような顔で私の口の端についた血を拭いてくれている彼女。何も会話はない。でも私にはまるで天使が舞い降りたような感じがした。
やがて彼女は立ち上がる。屋根裏部屋の窓から出ていこうとする彼女に向かい私は、“どうもありがとう…。四葉さん…” 心の底からこう言った。彼女は首を小さくふるふると振ると今度こそ何も言わず出ていった。もう彼女とは出会うこともないだろう。そう思いつつ私は彼女の姿が見えなくなるまで見つめていた。なぜ見つめていたのか自分でも分からない。だけどあの一見怖そうな眼の奥の寂しさに満ち溢れた瞳は、あの人の…、浩之さんの瞳に似ていた。ふっと笑顔が出る私。こんな笑顔が出ることなんて何年振りだろう…。そう思い頬に触れてみる。濡れていた。それもつかの間のことだった。他の娼婦たちが徒党を組んで私の部屋へなだれ込むように入ってくる。先頭に立つのは先程出ていった娼婦だ。この人は貧農の出身で私を目の敵にしている。他の娼婦たちも一応に私を毛嫌いしているのだけれど。その最たるものがこの人…。今日も夜中を徹しての拷問が始まる。手燭の蝋を体中にかけられるのはもちろんのこと、縄で縛り上げられ吊るされて鞭で思いっきり叩かれたり唾や痰を吐かれたりする。最後は熱湯に近い湯を体中にかけられるのだ。ここで何か言うと面白がって同じ所作を何回も何回もやられるから歯を食いしばって耐える。でも今日は主人に最後に蹴られた場所がギシギシと痛くて声に出してしまう。それが面白いのか娼婦たちは蹴られた個所を何回も何回も膝蹴りに蹴りあげる。と、ここで乱雑に扉が開けられる。どうやら主人のようだ。
「うるせーぞ!! 貴様ら!!」
分厚い唇をへの字に曲げて主人はそう言った。と暴行もぴたりと止まる。もう動くことも出来ない私を前に主人はいやらしい目を向ける。“雌豚の調教だったのか? でもなぁ、そりゃ俺の仕事だ。貴様らがどうのこうのやる必要もねぇ…。おら! 立て!” そう言うと私の髪を持つと立たせようとする。でも立てない私を見越したのか“豚は豚らしく這っていけ!!” と言うと四つ這いで這わせるように追い立てる。他の娼婦たちも一応に罵声を浴びせる。中には唾をかける娼婦もいた。ほうほうの体で部屋に戻る頃にはもう夜も夜半を過ぎてそろそろと人々が活動し始める頃だった。頬には涙が流れ落ちる。蹴られた箇所も痛かった。でも、私はそれ以上に心が痛かった。こんなに惨めな思いをするよりは…、と衝動的に落ちていた剃刀を取って頚動脈に当てる。引けばもうこんな心の苦しみから解放される…。でも、それは出来ない。例え天地が変わったとしてもそれだけは出来ない。そう思い直して、剃刀を床に置いた。涙はとめどなく溢れて流れて、大きなしみを作っている。それはあの雪の日、あの人の去っていく後ろ姿を涙ながらに見送ったときのように…。
昨日の一件の後、少女はまだ気持ちを切り替えることが出来ずにいた。仕事仲間とはいえ、少女には姉のように映っていたのだ。その姉の突然の裏切りにも似た行為に少女は憤りを隠せずにはいられなかった。とふと昨日の女性のことが気にかかる。あの女性は自分より哀しい目をしていた。瞳の奥の哀しい色は少女自身を映したものなのか…。分からない。だけれども“会いたい!” そんな衝動的な感覚に駆られて少女は再び娼館へと足を向ける。昨日の要領で軽く屋根伝いに歩いていくと北側の窓が見える。そっと覗き込むと昨日と同じ部屋の片隅で昨日より酷くやつれた女性を見る。服もずたずたに切られてほとんど生まれたままの姿で丸くなっている。今までいろいろ見てきた少女ではあったが、これほど酷い有様は見たことがなかった。女性は少女に気づくことなく疲れ切った体を丸めて蹲るように眠っている。顔を見ると少々腫れている。体にも痣や蝋の跡が至るところにあった。
「この人は一体?…。娼婦サンデシタら、もっとよく扱われてもいいはずデスのに…」
そう独り言のように呟く少女。“いつかいいことありマスから…” そう呟くように言うと少女はその場を離れた。しかしなぜあの女性にはこんなにも優しい気持ちになれるのか、少女自身分からない。ただあの優しく悲しげな瞳はどことなしか少女の心を映しているような感じがする。少女自身不思議でたまらないがそう感じた。それからと言うもの少女はこの女性を見るのが日課となった。無論朝誰も起きていない時分にこっそり様子を伺うことだけだが、それでも少女にとっては放ってはおけなかったのである。少女の雇い主の藤田にはもちろんこのことは内緒だ。無論鞠絵にも内緒にしてある。もっとも鞠絵とはあの一件の後、一言も話をしていない。もちろん事務的な事柄については話すが雑談には全く応じようとはしなかった。ただただ上目遣いに彼女を睨んでいるのである。藤田もその辺は分かっているんだろう。なるべく少女と鞠絵とを離すように心掛けている。いざこざは起こしたくないと言う彼自身の思いなんだろうか…。と、少女はそう思った。
約半月が経つ。オレは鷺沢と一緒に娼館の前、立っていた。まあ小汚い場所ではあるがここにも金を貸し付けてある。主人は唇の分厚い太鼓腹の男だ。羽振りが悪くなったのかどうかは知らん。だが主人直々にオレの事務所にやってきて、二十五円ばかり借りていきやがったっけか…。小汚ねえ娼館ではあるものの蓄財の方はしっかり貯め込んでいるらしい。宮原が持って帰った帳簿には金が有り余るほどあった。なおかつオレのような金貸しのところに金を借りに来るのだからここの主人は相当のあこぎな商売をしているんだろう。そう思う。宮原は最近鷺沢とはあまり良い関係ではないらしい。普段の二人を見てきているオレでも何かあったのか? と思うくらい反目していた。と言っても主に宮原の方なんだが…。一回鷺沢に問いただしたことがあったがまともな答えは返ってこなかった。まあ業務には支障のない極々私的な問題だから敢えてこっちから添削しようと言う気にはならない。そう思いつつ裁判所の差し押さえの文書の入った鞄を見る。こんな小さく薄汚ねえ娼館でも政府の役人どもがしきりに足を運んでいるらしく、なかなか差し押さえの文書を手に入れることが出来なかった。矢島にはそう言ったところで非常に感謝している。あいつがいろいろ裏情報を持ってきてくれるおかげでようやくここも差し押さえ出来るようになった訳だ。一呼吸置くと鷺沢に主人を呼んできてもらう。しばらく待っていると主人が出てくる。右隣には鷺沢。そして左にはやけにみすぼらしい格好の女が一人四つ這いに這いながら出てくる。まるで家畜のように首輪に繋がれて、ボロギレ一枚身にまとった姿の女だ。劣情を催す以前に、こんな薄汚ねえ女を置いておく主人の感性を問いたい。そう思った。鎖を玄関にぐるぐる巻きに巻きつけて動けないように縛り付けるとこちらに向かいやってくる主人。慇懃にお辞儀をすると商人のように手を捏ねながら主人はこう言う。
「旦那、実はうちに上玉が入ったんでげすよ。今日はそれを差し上げますからどうぞ見逃しておくれでげす…」
分厚い唇を吊り上げていかにも下品に笑う主人。所詮男と言う生き物は女には弱いと見ていやがるのか。だが、オレには通用せん…。オレは女にはとことん愛想をつかした人間だ。そんなオレに向かいまだ女がどうとか言ってきやがる。ふっと笑みが零れる。オレはこう言う。
「悪いがオレは女には興味がなくてな? 他をあたってくれ。それからここの所有は今日からオレのものになった。悪いがあんたには出て行ってもらう」
そう言って裁判所からの証書を突きつけてやった。“へっ?” と一瞬馬鹿みたいにぽかんと口を開けて証書を見つめる主人。“分かったなら女と家財一切纏めて出て行ってくれ…” そう言うオレに、“そ、そんな無体なことをは言わずに〜。ほんとに上玉なんでげすって。元皇族の娘でげしてね? これがまた床上手で均整のとれた体つきで…。物静かで何をやらせても文句の一つも言いやがりませんでげす。どうでげしょ? 旦那…” こう言って括りつけられた女の方を見る。元皇族? 物静か? 一瞬嫌な予感がした。“一度見てもらえれば分かるかと思うでげすから…。ちょいと連れて来るでげすんで待ってておくれでげすよ…” そう言うと女のほうへ行き鎖を解いてこっちへ連れて来る。女がこっちへ向かってくる。顔は下を向いているため判然とは分からない。でもオレは背筋が凍りついた。オレにとっては思い出したくない過去。その過去が向かってきているような感じがする。夢であって欲しい。そう思いつつ逃げることも、この場を去ることも出来ずにただ座っているオレ。いよいよオレの前、女が立つ。主人が言い放つ。“ほれ! 藤田さまにご挨拶せんか。この豚!!” おもむろにぽそっと、女が喋った。
「…藤田…、浩之さん?……」
懐かしくそして澄んだ声がオレの耳に届く。十年経っても忘れられない声がオレの脳裏を掠めていく。姿を見れば実に痛々しい傷が体中にある。“やめてくれ…” オレの心がそう叫ぶ。咄嗟に下を向く。もちろん顔を見ないようにするためだ。顔を見たらきっとオレはオレでいられなくなる。そう思った。彼女はただただ“…会いたかった…” と嗚咽混じりな声でこう言う。オレは、“鷺沢、後は任せた……” そう告げて去ろうとする。もしあの人の顔を見てしまったら…、オレは正気でいられなくなる。そう思ったからだ。逃げるように去ろうとするとあの温かな柔らかい手が俺の冷たく冷え切った、そして汚れきった手を包みこむように握った。オレはその手を一振りに振りほどくとその場から逃げ出した。鷺沢は荷物を纏めてオレの後を追いかけてくる。あの人は暴れるように叫ぶ。悲鳴にも似た声でこう叫ぶ声がオレの耳に届く。“ま、待って! 待って、浩之さん!!” と…。あまりに泣き叫ぶものだから主人から手酷い一撃を喰らったんだろうバシンっ!! と言う頬を叩く大きな音と、ドカッ、ドカッと背中を蹴られる音が遠ざかっていくオレの耳に聞こえてくる。まさか、まさかあの人が…。頭をふるふると振りながらそう思った。だんだん影も遠くなる。けれども、あの声はオレの心を揺さぶった。再び生きて出会うことになろうとは思わなかった。そう思いながら四半里ばかり走るとどこぞの家の軒先に手をつく。拳を壁に一発打ち付けた。十年、憎くて憎くて仕方のなかった相手に出会ってしまう。仏教では“怨憎会苦” と言うらしいが全く今のオレがその通りだ。そう思いながら空を見上げて何故か笑ってしまった。鷺沢は不思議そうな顔で、でもすべて分かってしまったような顔でこっちを複雑そうに見つめている。ひとしきり笑った後、オレは俯いて呟くようにこう言った。
「今あったことはすべて忘れろ…。宮原にも矢島にも言うんじゃねえ…。分かったな?」
と…。鷺沢は何も言わずこくんと首を縦に振る。事務所へ帰り着く頃には陽もとっぷりと暮れた時刻だった。
あの娼館はオレが行った後幾日か経った別の日に矢島に行ってもらって土地建物すべてを差し押さえてもらった。主人は怒り狂って矢島に殴りかかろうとしていたらしいが、準備のいい矢島はコネでもあったのか、警察に予め言っておいたんだろう。警官を二、三人連れて行っていたらしく取り押さえられてあえなく縄につかされたらしい。あの人はどうなったか知らない。またどこかの場末の娼館にでも、まるで家畜を売るように売られていくんだろう。宮原か矢島にでも聞けば教えてくれるだろうがオレは正直聞きたくなかった。でも、でもまさかあの人があんな場末の娼館にいようとは思いも寄らなかった。毎月五円ばかり送られてくるのはあんな娼館で薄汚ねえ男どもの相手を毎日毎日行なっていたんだろうな。そう思うとあの日々が懐かしく思い出された。そう考えれば考えるほど、懐かしい昔の記憶が蘇ってくる。ふるふると首を振って頭を抱え込む。
もう二度と聞くことはないと思っていた声を、あの悲しげに叫ぶ声を聞いてしまった。それはあれから幾日か経った今でもオレの耳にあの声は残っている。それはあの雪の日に去っていくオレをいつまでも呼んでいたあの声、そのままだった。すべてはあの日、あの人の声を迂闊にも聞いてしまった時からだ…。そう思いつつ事務所の椅子に腰掛けた。泣き叫びながらもオレの名を呼んでいたあの人はこれからも場末の娼館で人間以下の生活を送ることになるのだろう。恨みもある。憎しみもある。しかしそれ以上に憐れみをあの人の心の中に感じてしまった。正直、オレは自分自身が分からなくなりつつあった……。
つづく…