生きて再び出会おうとは思わなかった。あの手の温もりはあの時のままだった。もう十数年も前に捨て去ったあの手の温もり。この間再会したときに感じたのはあの当時のままの手の温もり。そう、それは優しさも愛もすべてを捨て去ったオレを、いやオレの心を再びあの春のような温かな心で包み込むような感じだった。あの人の元から逃げて正解だったように思う。あのままあの人の目を見てしまえばオレはオレでいられなくなる。そう思いながら窓の外の細雪を少々苦々しく見つめている。そんな二月も終わる頃だった…。
あなたのそばにいたかった
第十二章、優しさの芽
あの日以来、藤田は前にも増して仕事に精を出すようになった。ある意味それはあの女性とのことを忘れんがために必死でもがいているようにも見える。怨憎会苦とは言うけれどそれはある意味今の藤田にぴったり当てはまるのかもしれない。苦しみの中で必死にもがいているようにも見えた。そしてそれは宮原にも、わたくし自身にも言えることではないのだろうか…。そう思った。優しさの芽が心の中に生まれる瞬間、その芽を摘んで、心を悪に染めて生きてきた自分。春歌さんと出会って、いろいろ良くして頂いた。それは彼女が単に世話好きだからではない彼女のつらい生い立ちや宮原の兄・蛍一郎さんとの出会い、別れ、そして彼女が毎日宮原の兄上様の墓前で涙を流して懺悔している姿を見ているわたくしが思うことではないだろうか…。宮原は何も喋らない。もちろん仕事上のことでは話はするのだけれど個人的なことに関しては最近は何も話さなくなった。話をしても恨めしく、非常に恨めしくこちらを上目遣いに見つめてくるだけ…。それでもわたくしは何も言えなかった。春歌さんが毎日どんな気持ちで蛍一郎さんお墓まで通っているのか…。話そうとは思った。けれど宮原の目を見つめているとわたくしの言うことなど決して聞いてはくれないのだろう…、そう思う。
またわたくし自身に置き換えてみれば、未だに航さんのことを許せないでいる。あの涙に曇った月に誓った“復讐”はまだ果されていない。いや、わたくしが死んで魂と呼ばれる存在になってもこの“復讐”は果すことは無理なのかもしれない。しかしそれでもわたくしはどうしてもあの人を許すことは出来ずにいる。あの五年前に負った心の傷は未だに心を蝕んでいた。春歌さんが話してくれた咲耶さんのことも、すべて嘘…。そう自分に言い聞かせる。でも、春歌さんの、あの目で見つめられるととても嘘だとは思えない。あの澄んだ真っ直ぐな瞳はわたくしの心の中の純真無垢だった頃を見通しているように思えた。そう思えば思うほど自分が分からなくなってくる。忘れよう…。全て忘れてしまえば考えなくなるだろう。そう思い仕事に精を出した。けれど、忘れようとすればするほどわたくしの脳裏にはあの哀しいほどの眼光が浮かんでくるのも事実だった。忘れんがためにふるふると首を横に振ると取り立てに向かう自分がいた。取り立てに行った先では、泣く人、怒る人、睨んでくる人、そんな人が山のようにいる。意にも介さず事務的に淡々と取り立てを行なっている自分はまるでお金と言う“欲” にまみれた夜叉のよう…。そう言う自分がとてつもなく嫌だった。と、仕事に精を出して取り立ても十数件くらい回った2月も終わりかけのある日、藤田が新しく仕事を探してきたようだった。内容はいつも通り紙に書かれている。封筒を受け取って内容を見てみると、ありもしないいつもの金貸しの書状だ。いや藤田自身が直接貸したものかもしれないから、わたくしがどうのこうのとは言えることは出来ないのだけれど…。ふっと借りた人のところを見てみる。“後宮” と書かれていた。書かれてあるところ、一瞬目を疑う。まさかと思って藤田に、
「藤田さん、これってどちらの方のものなのです?」
普段このようなことには滅多に尋ねないわたくし。しかし、今日は、いやこの件に関しては尋ねざるを得なかった。一瞬嘘だと思いたかったけれど、借主のところを見てみたところが、どうもわたくしの知っているあの“後宮” の家らしかった。“後宮” と言う姓は少なくない。この姓があの女性の、わたくしと同じ境遇にありながらわたくしとは真逆の生き方をしている女性の家の物だとは俄かには信じられなかった。いや信じたくはなかったのだろう。宮原は目を爛々と輝かせて書類に目を通して口元だけを綻ばせている。“この資料はどちらから来たものなのですか?” ふっと心に留めておこうと思っていた言葉が飛び出した。と煙草を吹かしていた藤田がこちらのほうに振り向く。顔はちょうど逆光で見え難かったけれど口元ににやりと歪んだ笑みを浮かべていることだけは分かった。“どこでもいいだろう? 第一そんなことお前が一々口出しすることもねー。さっさと金を取り立てに行って来い” そう言ってまともに取り合おうとはしなかった。
前はこんな風な人ではなかった。それは職業柄か少々暗部な部分も持ち合わせてはいたのだけれど、でもこんなに人を駒のように弄ぶような感じはしなかった。それはそう…、すべてはあの日、痛々しい体で必死に藤田の名前を呼び続けていたあの女性を逃げるように去っていくときの顔、わたくしが初めて見る藤田の顔、その顔だ。いっそ言ってしまえば、怒鳴り散らしてしまえば少しは心も楽になるものだろう。しかし藤田は絶対に言わない。いや、言えないのだろう。そう思いつつ宮原のほうを見れば、何事かぶづぶつ呟きながらどろりとした瞳で書類に目を通していた。多分これは宮原が作ったものなのだろう。直感的にそう思った。でも何も言えず書類のほうは受け取ったのだけれど、それが後々わたくしの心を大きく揺り動かすことになろうとは今は知る由もなかった。
「今回の仕事はその家から金を取ることだ。この間その家の使用人って言うやつが五十銭ほど借りて行ったから二円ばかりにはなるだろう…」
いつものようにどろりとした瞳でこちらのほうを見遣ってくる藤田の顔を少々苦々しく見つつ、わたくしたちは表へと出た。わたくし自身は居たたまれない気持ちだけれど、こればかりはどうすることも出来ないと思った。もちろんわたくし一人ならばどうにかすることも出来るだろう。しかしわたくしの後ろ、最愛の兄上様を騙し、殺されたと思い込んでいる少女がこちらのほうを睨みながらついてきているのだ。そう思うと藤田のいやらしさがひしひしと伝わってくる。少女の視線が痛いほどに感じられた。もっとも少女・宮原とはあの時以来会話らしい会話は出来ていない。以前のようなあの楽しげに話す宮原の姿は今、わたくしの後ろでわたくしのことを恨めしく見つめる姿へと変わってしまっていた。もちろんわたくし自身、宮原の兄上様のことは知っている。だけれど、あの春歌さんが? と思った。春歌さんの話していたことと宮原の言っていることは同じことだ。だとすれば本当のことを言ってしまえば良いのだけれど宮原はもうわたくしのことは信じてはくれないのだろう。それだけのことをわたくしはやってしまったのだから…。あの時、そう最初に春歌さんと言う女性と出会った時…、人にぶつかりさえしなければと自分自身を責め苛む。けれど、あの温かな世界にも憧れを感じてしまう自分にはちょうどいいお灸なのかもしれない。そう思った。財産を取られ、家を取られ身を売られ…、挙句に自殺をしてしまった人が何人いるだろう。現に今だって苦しんでいる人がいるのだ。そう言う人が何十人、何百人かいるだろう…。いや、何千人か…。そんな人たちの恨み憎しみを背に受けながら生きていかなければならないのに…。それなのに今更あの温かな世界に帰りたいだなんて…、度の過ぎた馬鹿だと思う。そうは思ってもあの温かな世界への憧れは、日に日に強くなっていくばかりだった。
少女は前を歩く女性・鞠絵を許せなかった。あの事件以来少女は寡黙を押し通している。それは信頼していた姉のような存在であった鞠絵の裏切りに対しての憎しみもさることながら鞠絵の心を微妙に変化させていく発端を作った、あの女性・春歌のことがどうしても許せなかったのである。もし春歌に出遭うことがあったらと常に懐には短剣を忍ばせているくらいだ。もちろんこのことは藤田にも鞠絵にも言っていない。少女だけの秘密である。仇討ち禁止令が施行されて二十数年が経ち裁判所での法廷論争が多くなった昨今ではある。しかしながら少女のような者もまだかなりいる。
“兄チャマ…。兄チャマの敵はきっと取るデス。兄チャマはこんな四葉のことはもう大嫌いデショウケド、四葉は…”
と考えて、あの女性のことを思い出す少女。瞳の奥のあの悲しい色は自分自身を映しているのかと思う。そう言えば…、彼女の新しい働き口がこの界隈にあったんだと思い直しこの仕事の帰りにでも覗いてみよう…。そう思った。そう思った瞬間に、少女の頑ななまでの心に一瞬温かな気持ちが芽生えてくる感覚を少女自身感じてしまう。ふるふるとその温かな感情を振り払うように首を横に振って、少女はまた心を悪に染めて鞠絵の後を追って行った。
駅前は人で溢れている。どこの駅でも同じ光景だけれど今日は特に人波で溢れていた。汽車に乗り込み二駅ほど進んで降りる。そこから半里ばかり行ったところが今回お金を取ろうとしている家だ。“後宮” 間違いであってほしい。そう願いにも近い面持ちでもう一度書類に目を通してみる。やはり間違いなく“後宮” と書かれていた。間違いであってほしい。改めてそう思いつつ閑静な住宅街を進む。そうしているうちにそれらしい一軒のこじんまりとした家が見えてくる。表札を見るとそこにはまごうことなく“後宮” と言う表札が立て掛けられていた。コンコンと玄関の戸を叩く。いつもならば裏口から潜入する宮原も今日に限っては一緒にいた。と、初老の女性の声で、“どちら様?” と言う声が聞こえてくる。多分この声の主が春歌さんの養母上様なのだろう。そう思った。正直逃げたいと思った。このような地獄の底にいるわたくしを再び光の世界へ引き上げようとしてくれている大いなる恩のある人の家にこのような仕打ちを与えるなんて…。と思う。わたくし一人だけならばそのまま帰って嘘でもつけばいいのだろう。けれど、この家の家人に恨みを持っている少女が一緒にいるのだ。逃げられるはずもなかった。そう考えるとあの藤田と言う男が憎らしく思う。しかしお仕事だ。そう思って何がしら言おうと思った刹那、わたくしの横の少女がおもむろに口を開いた。
「お金をもらいに来マシタ。さあさっさと払うデス!!」
そう言って初老の女性のほうににじり寄らんとする宮原。わたくしはそんな彼女の肩を持って押しとめた。恨めしそうにこちらを上目遣いに睨む宮原を尻目にわたくしはこう慇懃にお辞儀をして言う。“失礼致しました。この子はまだ初めてなもので…。で、この間そちらの使用人と仰られる方がうちの貸し金に二円ばかり借りに来た模様でして…。今日はそのご催促に上がらせて頂いた次第ですわ…” と初老の女性に言うと、少々驚いたような顔になって、“五十銭の誤りではございませんか?” と言う。確かに貸したお金は五十銭。間違いはない。しかし、借りたところは高利貸し。一日で一銭から十銭、一円に跳ね上がるようなそんなあこぎな商売。でもどうしてこんなあこぎなところからお金などを借りたのだろうと、ふっと使用人の顔が浮ぶ。どろりとした目が印象的でやけに猫背な嫌味な男だった。とすれば藤田の仲間の誰かか、若しくは違う高利貸し関係の人で藤田から依頼されてやったのかもしれない。よくよく藤田と言う男の卑怯卑劣さが滲み出ているように思う。わたくし自身、こんな卑劣な行為を何回も行なってきているのだけれど、今回に限ってはやめたいと思った。どうして五十銭が二円になるのか、またどうして“後宮” なのか…。宮原はわたくしの鞄から、約束手形を取り出して脅すようにこう言う。
「約束手形もあるんデス! …払うものを払った方が身のためデスよ〜っ? 後で裁判沙汰にナレバそっちの方が不利になるのデスカラね〜?」
発足を言う宮原。不敵に笑う横顔にわたくしは宮原の復讐心がありありと見えるような気がした。それはわたくしに対する自らの心の内を示したものか、または春歌さんと言う宮原の兄上様を殺した女性への復讐心か…。どちらかは分からない。けれどわたくしにはそのどちらもが含まれているような気がした。宮原はと言うとますます鋭い目つきで初老の女性を睨みつける。その目はまるで五年前、わたくしが月に復讐を誓ったあの目のようで、航さんを睨みつけていたあの涙に曇った目のようで…。そう考えるとわたくしは居たたまれない気持ちになった。もちろん復讐心は心の底、溶岩のようにドロドロと燃え滾っている。でも春歌さんのことを考えると…。いつも毎日のように彼のお墓に行っては涙を流している姿を知ってしまうと、あの心の中を見通すような純真な瞳で見つめられると…。なぜかは分からないけれど心清らかだったころの、あの無垢な心に戻ってしまうような感じになる。まるで航さんへの復讐などなかったような穏やかな心持ちになってしまう。それがとても嫌だったわけではあるのだけれど、宮原の兄上様のお話を聞いたとき一気に氷解した。今ではあのころに帰りたいと思うほどだもの…。いっそのこと宮原にも言おうと思ったことも何度かある。でも宮原はわたくしの言うことなんて決して信じようとはしないだろう。よしんば信じたところでどうすることも出来ない。航さんのように生きている人でもない。もう亡くなってしまった人だ。そう考えると宮原の孤独なまでな心が痛々しく感じられた。
「払うか払わないかはっきりしたらどうデス? 後宮サン…」
そう言うと恨みにも似た眼で春歌さんの養母上様を睨みつけながらこう言う宮原…。“しゅ、主人と相談してみないことには…” と少し困ったように春歌さんの養母上様は言う。この辺が潮時だろう。そう思い宮原の肩を叩くものの宮原は頑として動こうとはしない。それどころか逆ににじり寄らんばかりな勢いでわたくしの手を振りほどこうとしている。“払うデス、払うデスっ!!” と言う宮原の声はまるで、“兄チャマを、兄チャマを返してクダサイっ!!” と訴えかけているようで、それはわたくしへのあの激情の言葉のようにも聞こえた。と、ふと辺りを見る。遠めにわたくしたちを蔑むような視線があちらこちらから感じられた。少々乱暴ではあるものの宮原の手を引くように、“また後日伺わせて頂きますわ…” こう言うとわたくしはその場を後にした。しばらく歩く。宮原の手がわたくしの手を振りほどかんばかりに揺すぶっていたけれど、わたくしはギュッと宮原の手を掴んで離さなかった。離してしまえばきっと宮原は春歌さんの養母上様の元に行ってしまうだろう。もしかしたら最悪のケースになりうる可能性だってある。そう思いつつ何分か歩き半里ばかり来たところで宮原がわたくしの手を振りほどいた。ふと彼女のほうを見ると実に怖い目つきでわたくしの顔を恨めしく見つめてくる。
「やっぱり、やっぱり鞠絵チャマはあの女に、四葉の大好きだった兄チャマを殺したあの女に!! 恨むデス…。鞠絵チャマ…。出来ないのは分かってるデスケド一思いに殺してやりたいデス…。鞠絵チャマもあの女も…。四葉の大好きな人を奪ったあの女も…、そしてそんな女の息がかかってしまった鞠絵チャマも…。ねえ! どうして? どうしてあんな女と会ったんデス? どうしてあんな女に看病されていたんデス?」
そう言って上目遣いに睨むと宮原は力無げにわたくしの体をゆさゆさと揺する…。言ってしまえばどんなにか楽なことだろう。そう思う。けれどわたくしには言えなかった。春歌さんが毎日どんな思いで過ごしているのか、どんな思いで宮原の兄上様の墓前で十字を切っているのか…。言うのは言える。だけれど宮原がわたくしの言うことを素直に信じてくれることはもうない。そう思いつつふとあの女性のことが頭をよぎった。今日もあの女性、春歌さんは行っていることだろう。今目の前で涙に暮れた瞳で恨めしくわたくしの顔を上目遣いに睨んでいる少女の大好きだった兄上様の下に…。そう思いつつわたくしはまた宮原の罵声嘆願を聞いていた。
汽車に乗るころには昼も盛りを過ぎたころだった。あの後、宮原は一人ふらふらとどこかへ行ってしまった。何も言わずにただただ上目遣いに睨んでくる少女の瞳、その瞳の奥にはこの不条理な社会への恨みが、そしてそんな不条理な社会を作った原因である春歌さんに対する恨みが、そしてそのもっとも奥の隠された部分には彼女の兄上様への真っ直ぐな愛が隠されているのだと思った。それはわたくしにも言えることなのかも知れない。いいえ、あの男・藤田もそうなのだろう。そう思う。汽車は元来た駅に止まる。降りて改札口を出るころにはもう夕陽が眩しく映るころだった。ごった返す人波の中を歩く。いろいろな人の顔が見える。だけれどどんな人の顔も明日に希望を持ったような明るい顔だ。わたくしのように絶望して明日を恨み憎むような顔なんて見られない。居心地が悪い。そう思って足早にごった返す人波の中を進んだ。
しばらく歩くと大分捌けてきたのか歩きやすくなった。事務所が遠くに見えてくる。いつもの殺風景な場所が見えてくる。こつこつと石畳で舗装された道を歩く靴音と時々吐き出されるわたくし自身の息遣いと、それからまだ遠くで聞こえている喧騒と…、それだけしか聞こえない。だけれどそれがやけに落ち着く。普段あんな人波の中を歩いたことがないのですもの…。当然でしょうね? そう思ってもう一度来た道を振り返るわたくし。街路灯が点きはじめていた。カンカンカンカンと鉄製の階段を上るといつもの扉の前に着く。取っ手に指を絡ませて一気に引いて中へと入る。仄暗い部屋の奥、手燭を前に書類を見つめている藤田の顔が見えた。と藤田がこちらに気づく。
「帰ったのか?」
目だけをこちらに一瞬向けるとまた元通り書類のほうに向ける藤田。“はい…” と単簡に一言だけ答えるとわたくしは自分の机に向かう。椅子に座ろうと思い椅子を引いた刹那、普段業務のことだけしか口を開かない藤田がこう言った。“あいつは? 宮原はどうした?” と…。駅のほうで別れた由を伝えると、妙な顔になる。“何で一緒に帰ってこなかったんだ。あいつが激情に走りやすいって言うことはお前だって分かっていることだろう?” そう言ってわたくしの顔を睨む顔は滅多に見られない焦った顔だ。宮原が直情的だと言うこと、それはわたくし自身がよく知っていること。現に今日だってあった。一抹の不安が頭をよぎる。でも宮原もそんなに愚かではないはず…。そう思ってこう言う。
「そんなに心配なさらずとも、宮原だってこの世界のことはよく分かっているはずですわ。表に知られて行き場を失った人たちがどうなったのか…。そう言うこともよく知っていると思います。それに藤田さんが毎日仰っているではありませんか。自分たちは裏で生きる者。すなわち闇だって。闇が光に触れたときには他の闇に消える。これが裏社会の掟だって…。そう仰られていらっしゃるではありませんか…」
問いただすようにそう聞くわたくし。それは自分自身への問いでもあった。裏の薄汚い闇社会で生きてきた者が今更どんな顔をして表のあの温かな光の世界へ戻ることが出来よう。戻れない。もし戻ったとして犯した罪は数え切れないほどある。償おうと思って償いきれる数ではない。死ぬのは一度きりだからわたくし自身そんなに怖くはないのだけれど、死んでも死に切れなかった人だってわたくしが行った先で見ている。そう言う人を前に自分だけ光の世界に戻りたいだなんてそんな都合のいい話がどこの世界にあるだろう。でもそう思えば思うほど、願えれば願えるほど、憧れは強く激しくなってきているのも事実だった。
「そうだったな? 確かにお前の言った通りだ。問いただしてすまん」
そう言うと椅子に座りなおす藤田。顔を見ればさっきの焦った顔はいつもの顔、あの憎憎しいまでの済ました顔に戻っている。でもわたくしはそんな顔の裏を知っている。そう、それはあの家畜同然のように鎖で繋がれて体中に痛々しい痣を作って、それでも眼は透き通っていた女性。藤田が一生に一度愛していたであろう女性。愛があるから憎しみが生まれる。でも憎しみの根底には深い愛があるのだ。それはあの時の藤田の顔をみればよく分かる。そう思うとわたくしの心にもあの人への愛があるのだろうか。わたくしを捨てたあの人への愛が今でもあるのだろうか…。分からない。だけれど春歌さんに言ったことは紛れもないわたくしの本心だった。“じゃあ今日はもう上がれ” と藤田が言う。“ではこれで…” そう言うとそそくさと荷物を纏めて玄関の前に立つ。気づかれないようにそっと藤田のほうを見れば、回転椅子をわたくしとは逆にしてぼ〜っと外を眺めている。その背中が小刻みに震えているような気がした。
あの人と出会ってしまってからオレは何かに取り憑かれるように必死で金にしがみついていた。前なら貧乏人の金の貸付先には手は出さなかったのに、今ではほとんど毎日のように金持ち、貧乏人の両を問わずに取り立てに行く。矢島は、“あんた…。この前の娼館のときから変わったな?” とこの前出会ったときにオレの顔をまじまじと見つめてそう言う。オレ自身変わっちまったな? とは思う。でもそれがあの手の温もりを忘れさせてくれる唯一の方法なんだと思う。しかし、どんなに悪に染まってもあの手の温もりはオレの脳裏から離れることはなかった。汚れきった手を見つめる。もうほとんど金の亡者になってしまった手を……。ふっと笑みが零れる。乾ききった笑みの中、目から何かが零れるのを感じた。ふと手で顔を覆い、離してその手を見た。…濡れていた。そのとき、初めて自分が泣いていることに気付かされる。十年来憎くて憎くてたまらなかった相手、そして愛していた人のあの変容はなぜかオレの心に“憐れみ”を芽吹かせていた。その心が次第に“愛情”へと変わってしまうことも分かっていた。しかし、オレはふるふると頭を横に振る。“今更愛情なんかねえ! オレに残されたものはあの人への復讐だけなんだ!!” と思いつつ立ち上がり濡れた眼を服の袖で一気に拭った。しかし心のどこかで、必死で“やめてくれ” と叫ぶ自分もいた。
北側の窓には今日も月が昇っていた。とは言えぼやっと月の輪郭だけしか見えないのだけれど…。ほとんど生まれた姿のまま、私は今日も男性の欲望のはけ口となっていた。あの時、私の最愛の人と再会した。再会したとき、私の両の瞼からこみ上げてくるものを感じた。それはある意味私の贖罪の心だったのだろう。謝っても謝りきれないことがいっぱいあった。償っても償いきれないことだっていっぱいあった。ただただ謝りたい。償いたい…。そう思いながらあの人の手を掴もうとした刹那、あの人は私の手を振り払い去っていった。去っていく姿は、あの時の屋敷を差し押さえに来たときの、いや、あの雪の日の時の私の手を振りほどき去っていくあの姿のまま。それは私の心に深い傷となって今も残っている。今現在も私はとある娼館の娼婦として働いていた。ここは前の娼館みたく扱いは酷くはないものの、それでも主人はあまりいい顔はしていない。それは私が元・皇族のいい暮らしをしていたことを恨んでいる故なのだろう。そう思う。暴力は主人の手付きの者から毎日のように振るわれるものの、それでも前のところと比べるとまだましなほうだ。そう考えてもう汚れてしまった手をじっと見ていると、何だか冷たいものが流れてくるのが分かった。冷たい床に身をよたえてじっと堪える。しかし生まれたままの姿では、とても寒くて、冷たくて…。でも、それでも唇を噛み締め必死で堪える。しかし一端流れ出たものを止めることなんて出来るわけもなく…、気がつくと小さく嗚咽している自分がいた。
泣き疲れて流れ出る涙を拭うことすら出来ずにそのまま眠ってしまう…。これが私のここ最近の日課と言うにはあまりに馬鹿げたものだけど、そうなってしまっていた。とあの人たちはどうしているのだろう。と前の娼館にいたときに私を苛めていたあの娼婦たちのことを思い出す。ほとんど毎日のように酷い苛めを受けていたのに…、とは思うけれど結局そうさせてしまったのは元の私たちの家、すなわち“上流社会” の人たちの所為だ。そう考えると自分が許せない。あの人たち、そして浩之さんが恨み憎んでいた気持ちが今の私には痛いほど分かる。と、ふとあの少女のことを思い出す。あの子の目。どことなくあの人の、浩之さんの目に似ていた。今頃どこで何をやっているのか…。あの娼館の帳簿類を持っていたから、あまりいい仕事をしていないことは分かっている。そうは思ってもあの前の主人に捕まえられ、泣き叫びながら私と同じような運命になる姿だけは想像したくはなかった。そう思うとあの時の私の行為は正解だったのかと思う。疲れ切った体を少しだけ起こす。霞んだ空にぼやっとした月が見える。そう、それは償っても償いきれない罪を犯してしまった私の心のように見えた…。
少女は一人、女性の新しい住処となっている娼館へと向かっていた。それは少女自身の行動規範では理解出来ないほどだった。けれども、あの女性の目を見つめるとどことなく懐かしさを覚えてしまうのである。そう、兄を見捨てて挙句に死に追いやった女性、後宮春歌のことも一瞬忘れるくらいの温かな心を…。いつものように屋根伝いに薄暗い北向きの部屋を見る。女性がほぼ生まれたままの姿で蹲りながら眠っていた。どうやらここでもいいようには扱われてはいないらしい。その姿になぜか哀れみを感じた少女はそっとその女性の部屋の前のバルコニーへと降りる。住環境は前の娼館よりいくらかは改善されてはいるようだが、それでも身ぐるみを剥がされている姿を見れば、ここの主人も前の主人と同じようなものかと思う。
「まだ寒いデスのに…」
そう呟くように言う少女。女性の体を見ると真新しい痣がいくつか出来ている。やはりここでも日常的に暴力を振るわれているのか…、と思う。そっと気付かれないようにバルコニーの扉を開けると中へと入る少女。おもむろに上着である厚手のコートを脱ぐと、少女は生まれたままの姿の女性の体に優しくかけてやった。その時一瞬鞠絵の看病を懸命に行なっていたあの女性の姿が脳裏に浮かぶ。あの姿は今、自分がやっているこの行為と同じではないのか…。“同じな…、同じなわけがないデス。あの女は、あの女は四葉の大好きだった兄チャマを見捨てて、殺した女なんデスよ?” そう思うとふるふると首を横に振る少女。しかし、この女性と出会ったときから少女の心にはある感情が芽吹き始めていた。そう、それは、“優しさ” と言う感情。兄を捨てた女性への復讐を誓ったときに捨て去ったと思われていた温かな感情。それは一瞬ではあるもののあの恨んでいる女性“後宮春歌”のことを忘れてしまうような感覚。そう言う感覚がこの女性といるだけで、この女性を見るだけで感じてしまう。しかも、もう二度と来るもんかと思ってもいつの間にか来てしまう。少女自身不思議でたまらなかった。それだけ愛に飢えていたのであろう。
疲れきった体でほとんど息も絶え絶えに眠る女性の横で少女はふと窓の向こうの空を見上げた。この部屋の狭い空からいつしか広く雄大な空を見させてやりたい…。何故かそう純粋に少女は思ってしまう。おもむろに懐中時計を取り出す。見ると午前3時を悠に回っていた。もうすぐ夜明けだ。そう思い元来たバルコニーへと出るとそっと扉を閉める。“じゃあまた来るデス” そう独り言のように呟くと少女は元来た道を帰っていった。ただ一つ、来たときに身につけていた少女の厚手のコートは、帰るときにはもうなかった……。
つづく…