小雪の舞う寒い日、僕は今日も妹の姿を求めて街を探す。愛してやまなかった僕の最愛の妹は、この小雪の舞う空のどこかで今日も僕を恨んでいるのだろう。遠い親戚である千影ちゃんに紹介してもらった大学病院にも行ってみた。でも妹・鞠絵の退院後の行方はようとして知れない。妹の大切にしていた眼鏡、あの浜辺で落としていった眼鏡…、今、僕の鞄の中、お守り代わりに入れている。ねえ鞠絵…、もしも、もう一度会えるなら僕は殺されたって構わない。ただ、鞠絵に謝りたい…。そう思いつつ、今日も僕はあてのない街を探している。心の中で謝っても謝りつくせないほどの後悔を胸に秘めながら…、僕は街を彷徨っていた。
あなたのそばにいたかった
第十三章 心の拠り所
妻である咲耶が帰って来た晩、僕は妹・鞠絵の様子を聞いた。昔から体の弱かった僕の妹。無理は体に毒だと毎回言っていたのに…。それでも、妹は高利貸しを止めようとはしなかったんだ。そう考えると僕は自分を責め苛む。あの時、僕が咲耶のところに行かなければこう言うことにはならなかったのかも知れない。だけど、どうしても僕は咲耶を見捨てることが出来なかった。優しさはある意味残酷だと人は言う。現に今の僕がその通りなのかもしれない。僕は…、いや、僕の心は揺れている。仕事に疲れて帰ってきて、妻の咲耶や娘の雛子のにこにこした笑顔を見ると張りつめていた気持ちが一瞬ではあるものの解れる。一瞬ではあるものの妹のことを忘れるくらいの安らぎを感じることもあった。でも僕にとってあのことは忘れてはならないことだと思う。たくさんの涙と心に深い、それこそ心がずたずたに引き裂かれる思いをしながら去って行った、僕の最愛の…、いや、最愛の妹のことを考えると…。
妹が退院したと聞かされたのは、一月の下旬。僕が大学病院へ多額のお金を振り込んでから約三週間経った日のことだ。医学の先進国・ドイツから輸入した新薬が効いたのかと思い、ほっと息をつく。咲耶は何か言いたげに僕のほうをちらっと見つめていたけふぉ、すぐに元の顔に戻って何も言わず微笑んでくれた。その寂しげな笑顔に“何かあるのでは?” とは思った。だけど言えなかった。言ってしまえば必ず咲耶は答える。悲しげに微笑みながら。そんな咲耶の顔は見たくはない。父と母と兄と、そして姉と呼べる存在を失い、妹二人は種違いが腹違い…。しかも今は女学校に通っていて寮生活だ。この世に本当に咲耶と言う女性のことを知っているのは僕一人だけ…。そう考えると、どうしても僕は咲耶を見捨てることが出来なかった。それは最愛の妹・鞠絵と境遇が似ているからなんだろう。そう思う。
悪徳な、それこそ人殺しにも似たような高利貸しとなってしまった妹。今もどこかで罪もない人々からお金を騙しては取っているのかと思うと、ここまで無理をしてまで社会に、いや、僕に復讐したかったのかと思った。裏を返せばそれだけこんなにも僕のことを愛していたんだろう。そう思う。ふと、あの月夜の晩に言った妹の一言が一瞬にして僕の脳裏に鮮明によみがえってくる。
“鞠絵は生きながら悪魔になってあなたのような人たちの肉を食べてやるつもりです!!”
涙でくぐもった眼鏡越しの瞳で僕の顔を見遣りながら、本当に憎々しげにそう言っていた妹の顔を僕は一生忘れないだろう。きっと今も鞠絵はこの言葉を胸に秘めながら悪徳で冷淡な高利貸しという仕事に、いや、僕が鞠絵を見捨てた代わりにもらった“お金” と言う魔物に必死になって喰らいついているんだろう。そう思うと僕のこの行為は一体なんだったのか? と突き詰まされる。咲耶とは、慰みの気持ちで一緒になり今は表面上は幸せな家庭を築いてはいる。だけど僕の本心は咲耶も分かっている。それを分かっていてなおかつついて来てくれているのだ。済まないと言う気持ちは結婚した時より、今のほうがずっと重く感じている。また、最愛の彼女であり妹でもある鞠絵。将来僕と一緒になることをどんなに待ち焦がれていたのか…。その約束を反故にして咲耶と一緒になると聞かされた時の鞠絵の心情と言うものは、突然真っ暗な地獄に突き落とされ、決して這い上がれることのない最下層のさらに下の部分にまで落とされ喘ぎ苦しむ魂そのものなのではないのか…。そう考えると今このように何の不自由もなくのうのうと生きている自分は何なのか……。そう感じる。
退院したと聞かされて約一ヶ月強。もうそんなに経つものの、妹・鞠絵の行方はようとして知れない。咲耶は妹の行方のことを知っているのだろう。だけど、僕にはどうしても聞くことが出来なかった。聞けば咲耶は必ず答える。寂しそうな、本当に寂しそうな笑顔で…。そんな咲耶の顔は見たくないと思った。優しく微笑んでいてほしいと思った。…そして今日も僕は妹の行方を捜している。道行く人は誰ひとりそんな女性のことなんて知らないとばかりに通り過ぎていく。結局今日も見つからず肩を落として家へと帰る。門を開け三月にしては珍しく雪の積もった道を歩く。途中、娘が作ったんだろう雪うさぎが一つ、寂しそうに置いてあった。
「ただいま、今帰ったよ…」
そういって羽織っていたコートを脱ぐ。真っ先に駆け付けた娘に預けると嬉しそうに妻のところへ持っていった。暖炉のところで今夜の夕食だろう煮物を作っていた妻が僕に、“お帰りなさい。航さん” といつもの笑顔で言う。その笑顔がなぜかいつも寂しく見えるのは気のせいだろうか。そんな僕たちのことに知ってか知らずか娘は天真爛漫な笑顔を向けて言う。
「今日はヒナ、お外で雪のうさぎさん作ってたんだよ?」
“そっかぁ〜。でも冷たくなかったかい?” 娘を膝の上に座らせて聞く僕に、ううんと首を横に振ると、“ううん、冷たくなかったよ? パパも今度一緒にしようね?” そう言う。“ああ、今度ね?” そう言って僕は娘の頭を優しく撫でる。気持ち良さそうに撫でられる娘の顔を眺めていると、ふと妹のことを思い出した。昔、寂しくて寝付けないと決まって僕のところへやって来ては一緒に寝ていたっけ? こうして頭を撫でてあげるといつの間にかすやすやと寝息を立てて寝ているんだ。その安心しきった顔を見てはにっこり微笑む僕がいた。そう言うことを今、もし僕が鞠絵と一緒になっていたら、こう言うことは最愛の彼女と出来ていたんだ。そう考えると僕の罪は重い。あの月夜の晩の出来事、もう今年で六年目になる。六年目になるのに僕にはつい昨日のことのように思えてならない。それだけ妹の、いや、最愛の女性と思っているんだと今更ながら思った。ただ今は、僕の心の中には“罪”と言う言葉があるだけだった。
咲耶は言葉に出しては決して言わないけど、きっと離れたくないという思いとともに、鞠絵から愛する人を奪ったと言う自責の念もあるのだろう。僕の顔を見つめる瞳にはありありと咲耶の心の声が聞こえてくる。それは僕自身の心の中、鏡に映したかのような感覚がある。鞠絵のことはもう忘れて今のこの生活を…、と言う気持ちが心のどこかにあってうねうね蠢いているような、そんな感覚もある。それは今現在こうして娘を抱いて妻の料理を作る姿を眺めているとき…。仮初ながらも幸せだと思うとき、そんな感覚に襲われる。一体僕と言う人間はどれだけ卑怯なのか、どれだけ卑劣なのかがよく分かる。そんな自分を許せなくなる。愛想尽きたくなる。なるほど、あの浜辺で言っていた妹の言葉が身に染みて分かったような気がした。
夕食を頂き、娘を寝かしつけた後、咲耶と話をする。これは僕たちが結婚してからずっとそうして来たことだ。今日一日あった出来事や何かお願いしたいことなど、ありとあらゆることをお互いに話す。ずっと僕たちが結婚してきてからのことなのに、咲耶はなぜか最近つらそうな表情をすることが多くなった。それは鞠絵のところに行った後から…。なぜ? とは思う。そう思いながら咲耶の顔を眺めていると僕に気付いたのか咲耶は顔を下に向けながらこう言う。
「二ヶ月前、大学病院に行った時のことでどうしても言わなければならないことがあるの…。今まで何度も言おうと思った。だけど、航さんの心が私から離れて行ってしまうことが怖くて…言えなかった。今まで黙っていてごめんなさい。でも、これだけは信じてほしいの。航さん、私はあなたを愛しています。この愛だけは誰にだって負けない。たとえ鞠絵さんにだって! …でも貴方を裏切る行為だけはしたくなかった。今まで言う機会はいくらでもあった。だけど言えなかった。言えばあなたは絶対に鞠絵さんの元へ行ってしまう。それが…、それが怖かった。怖かったんです…」
そう言うと咲耶は両の手で顔を覆う。泣いているのだろう。肩がぶるぶる震えていた。やがて溢れだした涙は両の手から零れ落ち、寝間着の上に小さな染みを作った。僕は何も言えなかった。もちろん鞠絵のことをいつも思っている。でも、咲耶のことも考えていた。本当に自分と言う人間は愚かで馬鹿な人間だと今更ながらに気づく。肩を優しく抱き寄せる僕に泣きながら今まで言えなかったことを詫びる咲耶。あの頃と何一つ変わっていない。初めて二人だけで話をしたあの浜辺。優しく抱き寄せている今とちっとも変ってはいなかった。そんな僕を鞠絵はどんな思いで見つめていたのだろう。あの泣き濡れた瞳で恨めしそうに僕を、いや、僕の心変わりを見つめて…。憎かったに違いない。いっそのこと殺してやりたかったに違いない。そしてそれは今も鞠絵の心の中、地獄の亡者のようにうねうねと蠢いているのだろう。そう考えると自分が少しばかり道化者のように思えてくる。いや、愚者か…。両方共が幸せになれるなどと言う甘い妄想を見て、仮初の幸福に酔いしれていた愚か者。今更ながらそんなことに気付く。咲耶は涙を手の甲で拭きつつまたこう言う。それが更に僕を否応のない現実に引き込ませた。
「それに彼女、鞠絵さんの病気は完治したわけではないの…。寧ろその逆にあるのかも知れない。鞠絵さんのお付きの女性、春歌さんと言うのだけど、その人に教えてもらいました…」
嘘だと思った。あの新薬で絶対妹の病は治ると思った。そしていつか、いつか妹は僕がやったこの行為を許してくれると信じていた。そんな僕の精一杯の償いの心はガラガラと音を立てるかのように崩れ去る。“妹は?…、鞠絵はこのことを知っているのかい?” と咄嗟に僕は咲耶に問い質す。咲耶は静かに首を横に振った。また、僕の心に深い悔悟が残った…。
私はとうとう、彼の一番大切な人のことを話してしまった。彼が一番愛している人のことを…。これでもう彼は私には見向きもしなくなる。それはそうだろう。彼はあの人を今まで探し求めていたのだから。でもこれでもう私の仮初の幸せは終わり…。そう思うと何故か幸せなこの生活を捨てたくないと思った。自分が鞠絵さんの思いを踏みにじってまで手に入れた仮初の幸せ…。ううん、私にとっては最高の幸せ。それを手放してしまうことは絶対嫌だと思った。だけど、彼の身になって考えると…。“会わないで…” なんて言えるはずもない。いっそ言ってしまえば、心の中のこのドロドロとしたこの黒い感情を一気に吐き出してしまえばどんなにいいだろうとは思う。だけど、私には言えない。言えるはずもなかった。
彼が家を出ていく。無邪気な娘は“パパ、行ってらっしゃい” と手を振っている。“行ってくるね…” そう言うと娘の頭を優しく撫でる彼。もしここで、“本当に行ってしまうんですか?” と私が言おうものなら彼は絶対行けないだろう。それは六年間生活してきた私が普段の彼のことを見ていて一番よく分かることだもの…。でも言えなかった。言ってしまえばどんなに楽なことか…。でも言えなかった…。ただ去っていく彼の後ろ姿を娘と一緒に見遣りつつ、心の中で“うそつき…” と呟くだけだった。
翌日、僕は一人東京へと出る。昨日咲耶から聞かされた後宮春歌さんと言う女性に会うためだ。会ってどうなるのかは分からない。でも直接会わないといけないと思った。会って今の妹の様子を聞きたいと思った。あの新薬が効かないと言うことは嘘だと言うことを聞きたかった。恨んでいてもいい。憎んでいてもいい。生きてさえいてくれればいいと思った。人力車の車夫は威勢のいいかけ声とともに坂道を下っていく。ふと家のほうを見ると咲耶が僕のほうを見つめていた。
横浜に着く。この辺でいいだろうと思いとある歓楽街の前で人力車から降りる。“またのご利用お待ち致しますぜ、旦那” そう言うと車夫は気風のいい掛け声をまた発して去って行った。もしかしたらと言う気がして普段ならもう少し先で降りるものを今日はここで降りた。てくてくと歓楽街を歩く。きょろきょろと辺りを見回してみるけど鞠絵は見つからない。ふぅ〜っと一つため息を吐くとまたきょろきょろと辺りを見回しながら歩く。そうして歓楽街の中を歩いている途中、僕と同じくらいの歳の女性が主人だろう店の人に叱られているのを見る。怒り顔で女性の頬を叩き上げると、主人は怒り肩で中へと入って行った。鼻血が出ているのか口が切れているのかぽたぽたと血の雫を雪の降った地面に落としている彼女。そんな彼女を助けるべくもなく通り過ぎていく人々。
それはそうなのかも知れない。未だ身分社会の残る世だ。こう言う人にはあまり近づかないほうがいいと言う一種の軽蔑、蔑視、そう言うものが残っているのだろう。そんなことを考え彼女のほうをよくよく見て驚いた。彼女はまだ寒い早春の候なのに薄手の肌掛け一枚だと言う恰好だったからだ。どう考えてもあの恰好はおかしい…。主人に何か言ってやろうか。そう思いそっと助け起こす僕。無表情のままの彼女はやや間があって、“あ、ありがとうございます” と頭を下げる。しばらく黙ったまま彼女の体の傷を見ていた。そんな自分の考えが分かったのか彼女は無言のままふるふると首を横に振った。顔を見ればまるでどこかの令嬢のような美しい顔をしている。取り敢えず立ち上がらせるともう一度体のほうを見た。あちこちに生傷がある。その時僕ははっと気がつく。彼女はもしや? と言う感覚に襲われる。伏し目がちに“あまり見つめないで…”とでも言わんばかりな彼女を見て、“ああ、やっぱりそうか…” と思わざるを得なかった。そんな彼女のことが何だか可哀想に思えた。僕が体の傷を見ていることに気付いたのだろう。彼女はそれをを隠すように再びしゃがみこむ。これでは埒が明かない。そう思った僕はちょうど真向いの呉服屋で少々厚手の着物を購入し、彼女の元に戻りこう言う。
「そんな体では寒いでしょう…。さあ、これでも着て体を温めて下さい」
さあ、とばかりに僕は彼女に着物を渡そうとする。だけど、彼女は頑なに拒絶する。“ご主人様に、ご主人様に叱られてしまいます…” と、そうぽそぽそとか細い声で話しながら躊躇っている彼女を見て、社会の現実を見たような気がした。お金持ちはとことんまでお金持ちになる。逆に貧乏な人はとことんまで貧乏な暮らしだ。今の今まで何を見て、何を感じて生きたんだろう。そう思うと何だか悲しくなった。僕は努めて微笑むと、“それではここの主人に掛け合ってあげますから…。そう言うことなら文句はないでしょう?” そう一言だけ言って彼女の制止も聞かずに中へと入り主人に掛け合う。ここの主人は顔に痘痕がいっぱいあるのが特徴の主人だ。身なりのいい僕を見て、多分ここの裏の部分を使う者だと錯覚したのか、“名刺を出せ” と言う。名刺を出して見せた。途端に目を真ん丸にして、僕の顔と名刺とを見比べて、呆けた顔になった…と思ったら今度は慇懃にお辞儀をして、今までの非礼を詫びている。所詮はお金が物を言う物質社会だとある学者の先生はそう言っていたけれど、なるほどその通りだと思った。と同時にこんな時代に生まれた自分自身を呪う。口元にいやらしい笑みを浮かべている主人に部屋を使う由のないことを伝え、彼女のことをもう少し大切に扱うことを願い出し、表へと出た。と、先ほどの女性が慇懃に頭を下げてくる。掃除をしている彼女の無表情の中になぜか温かさを感じてしまう僕がいた。
色のない空が広がっている。私は今度は横浜の娼館に身を寄せていた。主人は顔に痘痕のある主人で私を安い値で引き取ったらしい。もう身はぼろぼろで、あの屋敷に住んでいた当時のようなふくよかな感じなど今はないに等しい。ただ元皇族の娘と言う名前だけの存在だった。栄養状態も悪く、日に一度腐りかけのご飯がくるだけ。それでも飢え死にしないだけましかもしれない。たまに表で行き倒れて死んでいる人を見かけるのだけれど、そのほとんどが飢えや寒さによる死だった。そんな中で、生かさせて頂いていることは非常に嬉しかった。今の主人はほとんどと言って良いほど雑用に私を使う。前の主人みたく性のはけ口に使うことはよほど忙しいか、高貴な貴族や有数の大企業の客以外には使わなくなった。あの毎日毎日犯され続けていたころとは違う日々。そんな日々が少しではあるのだけれど嬉しく思う。
叩かれることはままあるのだけれど、それでもあの地獄のような日々とは違っていて、私にはそれが嬉しかった。今日も表を掃除する。三月に入り時より春の暖かさを運ぶ風もあるのだけれど、まだまだ寒かった。それはそうだろう。だって肌掛けの薄い着物一枚なんですもの…。はぁ〜っ、はぁ〜っと手に息を掛けながら掃除をする私に、主人が“まだ終わっておらんのか! この役立たずめ!!” と叱られる。“す、すみません…” そう言って深々とお辞儀をしてまた掃除をする私に腹が立ったのか、拳で一発殴られた。理不尽かも知れないいが私はたまに殴られる。鼻血が出ているのだろう。鼻が痛い。それでもあの前の娼館よりはまし…、そう思いつつ鼻血を拭こうとした刹那、呼び止められた。
「大丈夫ですか?」
と呼び止められた方を見る。立派な恰好をした男の人がすごく優しい目をして私のほうを見つめている。その目はいつかのあの眼鏡の女の人やあの少女と同じような感じがした。差し出された手を掴み起き上がると私は“あ、ありがとうございます” そう言って頭を下げた。と彼は私の体の傷を見ているようだ。何も聞かないで…。とばかりに首を振る降る横に振った。しばらくそうして見ていた彼。ハッと気づいたかのように今度はまじまじと私の体の生傷を見ている。見られたくない! そう思って思わずしゃがみこむ私。今思うとなぜそうしたのかが分からない。だけど彼には見られたくはなかった。と彼は向かいの呉服店に入っていく。その様子をじ〜っと眺めていると彼がちらちら私のほうを見ていることに気付く。ひょっとして! と思った刹那、呉服店から出てきた彼が言う。
「そんな体では寒いでしょう…。さあ、これでも着て体を温めて下さい」
とそう言って彼は私に着物を渡そうとした。如何にも暖かそうで高価な着物。だけど、私は受け取れない。私自身の心が温かな人の心を懐疑しているのかも知れない。“ご主人様に、ご主人様に叱られてしまいます…” と、そう躊躇いながらぽそぽそとか細い声で話す私。今までもこう言うことを言って言い寄ってきては人を殺すほどの肉体的・精神的ないじめを見てきた自分にとっては少々懐疑的に見えてしまう。自分でも嫌になるのだけれど…。そんな私をどんな風に見ていたのか。彼は努めて微笑むと、“それではここの主人に掛け合ってあげますから…。そう言うことなら文句はないでしょう?” そう一言だけ言って私の制止も聞かずに中へと入って行く。中で何が話されているのか分からない。だけど、出てきた主人は慇懃にお辞儀をしていた。私も主人に見習い慇懃にお辞儀をする。去っていく後ろ姿にあの人の面影が重なった。後で主人に聞かされたところがあの人が今の日本の経済を牽引している山神財閥の総帥なのだそうだ。そんな人がなぜこんな悪意と欲望しかない場所に来るのだろう? そう、不思議に思った。
駅に着くともう汽車は来ていた。もうもうと煙を吐く姿は龍が炎を吐く姿にも似ていて何故か滑稽に見える。乗り込んで数刻経って汽車は横浜を後にした。楽しげに会話をする者、早春の暖かさを窓の日差しに感じながらうたた寝している者。そういう人たちの中、僕は未だ行方の分からない妹のことを唯一知っている人物に会いに行くのだ。咲耶から伝え聞くところによると彼女もまた僕の妹と同じような体験をしたんだそうだ。世の中と言うものは如何に面々と繋がっているのかがよく分かる。見捨てられた者の恨みや憎しみ、そしてその根底にある悲しみと言う感情は未だ心のどこかには残っているのだろう。未練なんてもう残っていないと言っている春歌さんでさえ…。そう思う。そしてそれは僕の妹にも言えることなんだ。そう思えば思うほど五年前、いや六年前のあの浜辺の出来事が僕の心の傷を深くえぐった。しかし僕にとって血の繋がりはなくてもやっぱり可愛い妹、そして将来を誓い合っていた彼女だったんだ。そう思い拳をぎゅっと握る。汽車はもうすぐ東京へ着く。ふと窓を見れば親子なのだろうか、楽しげに野の花を摘んでいる姿が車窓から見えた…。
汽車は車列を連ねて東京へと着く。下りて改札を出る。さすがは帝都東京だ。人もいっぱいいる。そんな人ごみの片隅で娘と同じくらいの女の子が花を売っている。多分孤児だろうか、親に捨てられた子供だろうか。そんなことを考えつつその女の子に近づいた。靴は履いているものの寒そうにぶるぶる体を震わせている。他にも靴磨きをしている少年やなんかをたくさん見掛けた。この子たちを見て僕は決心する。そうだ、孤児院を作ろう…、と。温かかで何者にも優しく接してあげられるようなこの不幸にも親のいないであろうこの子供たちのためにもなる。そう思って女の子から花を買う。一つ十五厘だそうだ。可愛らしい水仙の花を五つほど購入して一円札を出す。と驚いたように眼をぱちぱちさせている。頭を撫でながらこう言った。
「おじさんは君たちにいっぱいつらい思いをさせてきたんだよ…。本当はこんなお金じゃなくってもっといいことが出来るのかもしれない。だけど、今日はこれで勘弁してくれないか…」
こう言いながら心の中でこんなことくらいしかできない自分にもどかしさを感じた。女の子は目をぱちぱちさせながら僕の出した一円札を見ている。と、靴磨きの少年のところへ大慌てに走っていく。多分この靴磨きの少年は女の子の兄なのだろう。話をしている兄妹をしばらく見ていると兄なんだろう少年が、ぺこりと頭を下げる。そんな少年につられるかのように女の子も頭を下げた。僕は何も言わずにこっと微笑むとまた道を急ぐ。ちょっと行ってチラッと後ろを振り返ると少年が靴を磨いている。その横で女の子が少年のお手伝いをやっていた。そんな兄妹を改めて見ながら心の中で、“すまない…” と思う僕がいた。
咲耶からもらった地図を頼りに春歌さんの家へと向かう。ちょうど昼前だ。何か食べていこう。そう思って一軒の蕎麦屋の暖簾をくぐった。早速注文を取って待っているとこんな話を聞いた。“この間なんだけどさ、あそこの後宮さんの本家筋のところにもあの女高利貸しが来たんだってよ?”、“何で? あそこの家は極々堅実な商いしてるって言う噂だよ? …後宮さんも何か弱みを握られてしまったんかね〜?”、“怖いもんだよ。特にあの眼鏡の女高利貸しは…。うちの知り合いなんかは身ぐるみ剥がされた挙句家も失ったって聞いてるよ? うううう〜、くわばらくわばら…” ぽそぽそそんなことを話している。内容もさることながらその女高利貸しのことが気になった。何か話をしようかと思って声をかけようとした刹那、“蕎麦、お待ちっ!” 威勢のいい掛け声とともに頼んでおいた蕎麦が来てしまう。来たからには食べないといけない。急いで食べる。食べ終わって辺りを見回すとそこには僕一人だけだった。さっきの人たちは? と蕎麦屋の主人に聞くとみんな先に出ていったんだそうだ。あの人たちが言っていた“女高利貸し” についても聞いてみたけど、“生憎うちは商売始めたのはごく最近なもんでして、すまねぇこってす…” と言って主人は頭を下げた。店を出る。あの女高利貸しは間違いなく僕の探し求めている妹だ。そう思うといたたまれなくなり道を急いだ。
やがて、咲耶から教えてもらったそれらしい長屋に到着する。戸を叩くけどいないのか出てくる気配はしなかった。少し待つか…。そう思い相手が帰ってくるのを待つ。待っている間、いろいろなことを考える。でも行き着く先はいつもと同じ、そう、最愛の彼女にして妹・鞠絵のことばかりだった。この六年妹は何を思って生きてきたのか…。いや、と力無げに首を横に振る。あの月夜の晩に言った涙交じりの妹の一言が僕の胸に未だに残って離れない。
“この恨みのために鞠絵は生きながら悪魔になって、あなたのような人たちの肉を食べてやる覚悟です!!”
僕はただ鞠絵に喜んでほしかった。ただお前の喜ぶ姿が見たかったんだ。だけど、それは同時に鞠絵に耐え難い苦痛を味あわせて、果てにはこのような悪徳の極みたる高利貸しへと変貌させてしまったのだな…。そして妹はいつ爆発してもおかしくはない爆弾を胸に抱えている。そのことは妹自身は何も知らずに…。そう思うと僕の心は張り裂けんばかりにいっぱいになる。すべてはあの時、咲耶と会うと言った日から…。生涯の伴侶として一緒にいると言う約束を破ったあの日から…。僕は最愛の彼女を裏切ったんだ。そう思うと僕の両の目から涙が込み上げてくる。気が付くと頬が濡れていた。道行く人は不思議そうな瞳で僕の顔を見ながら足早に通り過ぎていく。と咲耶と同い年くらいの肌の白い女性が不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「あの…、何か悲しいことでもおありになられたのですか? 何かとてもおつらそうになさっておいでのようですから…」
「あっ、いえ。すみません。このような場所で…。少し昔のことを思い出していただけですから…」
そう言うと僕は一気に涙を拭う。そんな僕の態度にはっと気付いたのか女性はこう尋ねてくる。“失礼を承知でお伺い致しますが貴方様はひょっとして鞠絵ちゃんの兄君さまではございませんか?” と…。“鞠絵?” と言うことは、この人が!! と思った途端自分でも何が何だか分からない衝動に駆られて彼女の肩に手を掛けて、“鞠絵は? 鞠絵は今どこに? いや、そんな問題じゃない! 鞠絵はあとどれくらい生きられるんですか? 鞠絵は、鞠絵は…” とはやし立てるように言う。ふっと気がつく。彼女の肩を強く掴み過ぎていたせいか彼女がやや痛そうにしていた。“す、すみません。気が動転してしまって…” そう謝ると彼女の肩から手を引いた。“こんなところで立ち話も何ですから中へ入っていらして下さいな…” そう言うと彼女・春歌さんは家の戸を開けて僕を中へと勧めてくれた。
「先程は失礼しました。取り乱してしまって…。でも妹は、鞠絵は…」
ワタクシの前、真剣な表情の男性がそう言う。そう、この人こそ今の日本の重工業・紡績・軍需産業などを一手に担う山神財閥の総帥、そしてあの社会を恨んで憎んで…、でも心の底では愛を求めている女性・鞠絵ちゃんの兄君さま…、海神航さん。その顔はどことなしかワタクシの兄君さまにも似ていた。ワタクシの素性はもう咲耶さんから聞いて知っているのだろう。肌の色などには一切触れない。ワタクシはワタクシの知りうる限りのことをお話しする。この六年彼女がどれだけ悔しい思いで、憎い思いで航さんを思ってきたのか…。どれだけ愛していたのか……。そう言うことを。そうそれは自分にも言えることだ。待っていてくれた…。死の直前まで待っていてくれたあの人。普通ならば忘れてしまっても当然のところをたった一回の出会いからずっとワタクシを探し続けてくれた人、宮原蛍一郎さん。宛てもないこんなちっぽけな自分のことを探してくれていた。その根底にあったのは、やっぱり愛なのだろう。そう思うと自分が腹立たしい。自分が憎い。ワタクシはそう思った。それは目の前にいる航さんも同じなのだろう。いや、ワタクシよりももっとつらいのだろう。そう思い、ワタクシは彼に詳しく話して聞かせた。彼女との出会いからここまでのこと、そして……。
「憎んでいても恨んでいても心の中ではずっと航さん、貴方様のことを誰よりもずっと思っていて、そして貴方様が鞠絵ちゃんを覆う暗闇から救って下されるとワタクシは思うのです。それに彼女はもうそんなには…。お願いです。航さん。彼女を、鞠絵ちゃんを…、助けてあげて下さい!」
そう言うとワタクシの両の瞼から涙がはらはらと流れ落ちる。もうそんなに生きられないと言う事実がワタクシの心を悲しくさせた。彼はそんなワタクシの心の中を見透かしていたのだろう。ただ一言、“鞠絵は、妹は、今どこに?” とそう優しく尋ねる。鞠絵ちゃんの住所を教えると居ても立っても入られず、ワタクシの家から荷物を纏めるやいなや飛び出していく航さん。その後ろ姿を見て、“助けてあげて下さいな。本当に、本当に…” と絞り出すように呟くワタクシがいた。
僕は走った。一目だけでもいい。鞠絵に会いたい。会って何を言えばいいのか、何て謝ればいいのかさえ分からずに…。それでも、僕は走った。心臓はもっと息をくれとばかりにどくどくと動く。はぁ、はぁ、と息も絶え絶えになりながら、それでも僕は走る。やがて小さな橋が見えてくる。この橋の近くに家があると先ほど春歌さんから教えてもらった。ふと空を見る。六年前のあの出来事を思い出させるかのように朧気に月は輝いていた。春まだ浅い三月初旬の晩、六年間、片時も忘れることが出来ず探し求めていた妹の、いや、最愛の彼女の家の近くの橋の上、一人佇む。胸の鼓動が高鳴った。もうすぐ、もうすぐ妹に…。そう思いながら待っている。僕が愛してやまなかった彼女、そして最愛の妹との再会はもうすぐ……。
つづく…