少女は今日も兄の墓前に来ていた。心から慕っていた兄、その兄を亡くしてからもう五年が来ようとしている。兄を捨てたあの女、“後宮春歌” への恨みはこの五年、一度たりとも忘れてはいない。むしろ憎悪は激しくなるばかりだ。懐中に潜めてある短剣を擦る。少女の冷えた心をますます冷えさせる。と、ふとあの娼館の女性のことを思い出す。寂しげに見つめる目には、どことなしか温かさもあるような感じがして…。あの兄と一緒にいた純真無垢だったころの少女自身を思い出させるような感じがして、それが少女自身にはとてつもなく嫌だった。ふるふると首を横に振る。なぜあんな薄汚れた女性のことだけが頭から離れないのか…。少女自身不思議でたまらない。しかし、あの女性のところには毎朝行くのが日課になっている。少女は今日も足をその女性のいる娼館に向けていた。
あなたのそばにいたかった
第十四章、それぞれの再会、前編
横浜のとある一角、その娼館はある。足しげく通っている少女にとってはもう迷うことはなくなっていた。レンガ造りの倉庫を抜けいつもの入り組んだ路地を通ると立っている家屋にまるで軽業師のようにひょいひょいと壁伝いに駆け上がる。見晴らしのいい樹の上へ着くとそこに見えてきた部屋。その中には今日もあの女性が寒さを堪えつつ蹲りながら眠っているのだろう。そう思い部屋のほうを覗きこむと案の定肌掛け一枚の寒々しい姿で身を丸くしながら件の女性が眠っていた。生傷は前のところよりはましになってきているもののまだまだ残っている。何より新しい傷も窺えた。やはりここでも理不尽な暴力に耐えているのか…。そう思うと何故か悲しくなる少女。しかし、なぜにかの女性のことが気になるのか少女自身分からなかった。境遇も知らず、生い立ちも知らない、そんな女性になぜこうも心を動かされるのか…。少女自身理解不能だった。ただあの哀しい目はどことなく少女自身の心の奥底にある自分の心を映し出していたのだろうか。そう考えてふるふると首を横に振った。“ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ気になっただけデス…。それにあの女に出会うまでは、ううん、あの女に兄チャマの無念を晴らさせるまでは…” そう思いつつ娼館を後にする少女。朝日に照らされたその影は何故だか哀しく映っていた。
兄の墓へも立ち寄る。と、今日もきれいな白百合の花が手向けられていた。きっと心根の優しい誰かが花を手向けてくれているのだろう。そう思い今日も掃除をする。少女がこの孤児院を飛び出してから毎朝欠かさずやって来た習慣だった。掃除をし終え手で十字を切ると手を組んで祈る。兄の冥福と、そして少女自身の復讐の成就とを。もちろん兄がこんなことを望んでいないことは少女自身十分すぎるほど分かっている。しかし、大好きだった、心の底から慕っていた兄への恋慕にも近い感情が少女自身の心を痛めつけ、そしてそれは兄を死へと追いやったあの女・後宮春歌への憎悪へと変化していった。この数日前、あの女の養父のところに少女の雇い主である藤田から借用書をもらった時の少女の顔は復讐に燃えている顔だった。それが…。鞠絵に引っ張られて元来た道を戻らされていく。少女自身これほど悔しく思ったことはなかっただろう。鞠絵を傷つけてでも…と言う気持ちもあった。だが長年パートナーとして、ときには姉と思って慕ってきた鞠絵を傷つけることなんて出来るわけがない。少女自身、歯痒い気持ちでいっぱいだったのだろうか、鞠絵に恨みのこもった言葉を投げかける。鞠絵はそんな少女をしっかりと抱きとめていた。やがてふらふらと鞠絵から離れた少女は家のほうに向かう。鞠絵はあとを追いかけようとしていた。そんな彼女を一瞥するかのように、“ついてこないでクダサイっ!!” そう言ってふらふらしながら家路の道を行く少女。悔しくてたまらない顔にはいつの間にか涙が溢れている。が涙を袖で拭うとまた歩き出す。べそをかきつつ周りの者から少々奇異の目で見られつつも気にせず歩いた。泣くものか! とは思っていてもまだあどけなさの残る心には身は重たすぎた。いつの間にか涙をぽろぽろ零し、小さく嗚咽している少女がいる。でも誰一人少女を構うものはいない。熾烈を極めた日露戦争が終わって六年、国民は戦費超過による重税とこれから起こりうるであろう戦争への備えと言う二重苦に苦しめられて、とても街角で泣いているこの少女のことなど構っていられなかったのである。
家の玄関、開けると同時に涙が込み上げてきた。必死で耐えようとするものの、ぽろぽろと少女の両の目からは大粒の涙が零れ落ちる。もういい。このまま泣いてしまおう。そう思いベットに身を横たえるとシーツを頭まで被って嗚咽しながら少女は泣いた。ベットの温かさはもちろんある。しかし少女にはとても冷たく感じられる。それは姉と慕っていた鞠絵の裏切りにも似た行為に対する激しい激情と兄を死に追いやったあの女・後宮春歌への恨み、憎しみとがあたかも波が引いては押し寄せるような感覚とが入り混じり、とめどなく涙が溢れてきて…。それだけ兄に対する慕情が深かったのだ。その日も泣き疲れて眠くなるまで涙を零し続ける少女がいた。
あの人のお墓の前、ワタクシは今日も立っていた。着物を膝の後ろですっと折ると中腰になる。十字を切ると彼の冥福を祈った。いつものように涙が溢れてくる。そっと小袖で拭うとまた祈った。ふとお墓の周りを見てみると誰かが綺麗にしてくれているのか掃除されていた。心優しい誰かがいつも掃除してくれているのだろう。そう思いまた祈る。持ってきたお花を昨日のお花と替える。といつもの牧師様が出てこられる。“今日もお早いのですね?” と仰られる牧師様。中の礼拝堂からは子供たちの優しい歌声が聞こえていた。おそらく讃美歌なのではないかと思う。ワタクシ自身はドイツ生まれではあるものの今は日本人として生きている。だから当然仏教徒なのでキリスト教の習慣はここへ通い始めるまでは全くの無知だった。それにしても綺麗な歌。こんな歌を彼も、彼の妹さんも歌っていたのかと思うと自分自身の罪悪感が心の底から沸き上がってくるような感じがした。
もう少し早く彼と出会って思いを告げることが出来ていたのなら、彼の妹さんは行方知れずにならずに済んだのかも知れない。そして愛してやまなかった彼女の兄君さまを失わずに済んだのかも知れない。そう思うといつもながらにワタクシ自身が大馬鹿者の愚者のように感じてしまう。悔悟する日々は彼の葬列を遠くに見た日、あの日から毎日のようにワタクシの心の中に根付いている。毎日ここにきて祈るのも一種の贖罪なのかも知れない。もっともこんなことをしたところでワタクシの心の罪は消えることはない。むしろ罪悪感でいっぱいになる。あの初めて出会った夏の雨の夕暮れ時、あの時にもう少しワタクシの心の整理が出来ていたのなら、彼を死に至らしめることもなかっただろうし、彼の妹さんも行方知れずにならずに済んだのだろう。でももうすべては後の祭り…。どんなに祈ってみたところで彼が生き返るわけでもない。虚無感…、と言うのは少し違うかもしれないけれど、そう言う気持ちがワタクシの心の中にあった。今はただ、彼の冥福を祈るばかりだった。
いつものように牧師様に誘われて教会の中に通される。孤児院も兼ねている教会の朝はとても忙しそうに見えた。“何かお手伝いでも?” とワタクシは言う。牧師様は十字を切ると、“あなたの御心に感謝致します。それでしたら…” と配膳のほうを頼まれた。忙しそうにあちこちと駆け回る人たちの見様見真似で配膳の準備を整える。“よろしければあなたも一緒にどうです?” と若い牧師様に言われたけれど、ワタクシは断って教会を後にした。あまりここには長くいたくはなかった。それにワタクシが一人増えればその分孤児院の子供たちのお食事は減らされる。寄付金収入が主だと人づてに聞いていて経営上難しいことも分かっていた。日露戦争も終わって六年も経とうかと言う時期。未だに報われない子供たちも多くいる。そんな中でその子供たちのお食事まで取って食べようなどと言う考えはワタクシにはない。いや、世間一般の事足りた家庭に住む人ならば誰しも思うだろう。そう思いつつ、足早に教会を後にするワタクシ。ふと何気なく後ろを振り返れば、もう教会は遠くに見えるだけになっていた。
いったん家に帰って軽めの朝食を済ませると、働き口へと向かう。ワタクシは川神重工と言う会社で主に給仕として働いている。そこではいろいろな人がいて、ワタクシを嫁に欲しいと言って求婚してくる人もいれば、肌の色を訝しんで差別的な文言を言う人まで様々だ。もっともそう言う文言を言ってくる人は極々僅かではあるのだけれど…。実質的な責任者である千影さんは今時にしては珍しい人種差別撤廃主義の方で、社内の風紀にも厳しく厳格に取り組まれている。ワタクシが元々ドイツ人であることを見越してここを紹介して頂いた父君さまの親友で今のワタクシの住む長屋の御主人様には非常に感謝している。今日も給仕に忙しく働く。と、話が聞こえてくる。
「最近なぁ〜、藤田とか言うアイスに借りた金が急に膨らんじまって…。返済期限も迫ってるんだ。はぁ〜。給料にはまだまだ間があるし…。このままじゃあおまんまの食い上げどころか一家で首括ることになるかもしんねーぜ…。ったく、あ〜っ!! 何であんなとこから借りたのかねぇ〜…」
「まあそうカリカリしなさんなって! 第一そんな怪しいとこから借りるおめぇがわりぃんだからな? まあ俺は独り身だし金も食えるだけありゃいいから何だったら手伝だってやんぜ?」
話がした方に振り向くと、よれよれの作業着を着た人が二人、お食事をとりながらこう話されていた。まさかとは思う。でも聞いてみることにしよう。そう思って、お茶を汲みに行くのを口実にその人たちのほうに向かった。“あの…、お茶如何です?” そう言うワタクシに、“悪いねぇ〜、いつも…” そう言いながら茶碗を差し出したのは慰めていたほうの人だ。“何か大きなお声でお話されていたみたいですけれど…” と給仕をしながら訊くワタクシに、“いやぁ〜、そんな大声で喋ってました?” とあははと笑うと急に真面目な顔になって、事の次第を話してくれた。事の起こりは一週間少し前、酒代の足しにと何気なく借りたお金が一昨日の督促状で五倍に膨れ上がっていて、昨日眼鏡を掛けた女性がやって来てあれやこれや小難しい法律の話を持ち出して来たんだとか…。“明日までにご返還頂けませんとこちらとしても困ってしまいますので…。その辺のところよろしくお願い致します” そう言うと踵を返して帰って行ったのだそうだ。話を聞いて、“鞠絵ちゃん…” と一人の女性、…ううん、一人の少女のことを思い浮かべる。ワタクシと同じ孤児で、同じように孤児院で暮らしていて、同じように温かい家庭に引き取られて、そして、同じように兄君さまがいて…。ぐるぐるそんなことを考えていたワタクシ。“ちょっとちょっとお姉ちゃん! 茶が零れる!” と言う声に驚いて見ると茶碗に盛られたお茶が今にも零れ落ちそうになみなみと注がれていた。“す、すみません” と謝ると、“お姉ちゃん、いくら俺が格好いいからって見惚れてちゃ駄目だぜ?” と笑って許してくれた。
仕事は交代制なワタクシの会社。今日は早上がりと言うことで早めに帰ってくる。先ほど聞かされた話。これまでも何回かはそんな話を聞いたけれど、実際ワタクシの会社の中で聞こうとは思わなかった。嘘だと思った。でも話されていた人はワタクシのことを特に軽蔑の眼で見ることなく気軽に話してくれる人。そんな人があのような嘘をつくとは到底思えない。だとすると…。心がずきずきと痛んだ。と同時に彼女の心の傷はどれだけ奥深いものなのかを知らされた気分になる。それだけ彼女の兄君さまに対する恋慕の気持ちが強かったのだろう。強ければ強いほどその反動は大きくなる。それが証拠にと今先程聞かせて頂いた話を思い浮かべた。まるで機械的に淡々とこなしていく目はまるで生気の感じられない死んだような目なのだろう。そう思うといても立ってもいられなくなる。探しに行こう。行って少々強引ではあるのだけれど、引っ張って連れて帰らなければ…。とは思うけれどこの広い地でどこをどう探せばいいのか…。
そう考えるとワタクシは自身の無力さに押しつぶされそうになった。彼女の家は知っている。でも実際には行ったことはただの一度もない。もし仮に行ったとしても彼女がすんなりと家の中に入れてくれることは甚だ疑問だった。だから行っていない。でも一度お伺いしなければいけないと思った。彼女に会ってもう一度、“このようなあこぎな商売は止めて!” と言おうと思った。…でも、そうせざるを得なかった彼女の気持ちもワタクシには痛いほど分かっている。だけれどこのようなあこぎな商売からは手を引かさなければならないとワタクシは思った。それこそワタクシの命に代えてでも…。そう思いつつ今日の夕餉の買い物などをしつつ半里ばかり歩いて家の前までやってくる。一人の紳士がワタクシの家の前にいて悲しそうな顔で誰か人を待っているかのようにきょろきょろと辺りを見ている。声を掛けた。
「あの…、何か悲しいことでもおありになられたのですか? 何かとてもおつらそうになさっておいでのようですから…」
と…。彼が顔を上げてこちらに向く。どことなく面影がワタクシの兄君さまに似ていた。彼は涙を流していたんだろうか? 服の袖で一気に涙を拭うとこう言ってきた。“あっ、いえ。すみません。このような場所で…。少し昔のことを思い出していただけですから…” と。そのとき気がついた。この人はもしかして鞠絵ちゃんの…、と。確信は持てないけれど…。ワタクシの兄君さまにも似ていた。ワタクシはこう聞かずにはいられない。
「失礼を承知でお伺い致しますが貴方様はひょっとして鞠絵ちゃんの兄君さまではございませんか?」
と…。そうワタクシが尋ねると、彼はワタクシの肩に手を掛けて、“鞠絵は? 鞠絵は今どこに? いや、そんな問題じゃない! 鞠絵はあとどれくらい生きられるんですか? 鞠絵は、鞠絵は…” と早口にそう言う。やっぱりこの人が鞠絵ちゃんの恨んで憎んで、それにもまして愛している人…。航さん。咲耶さんの旦那様で今の日本を牽引なさっている山神財閥の総帥でいらっしゃる方。掴まれた肩に少し痛みを感じてしまってちょっとばかり顔をゆがめてしまう。と、そんなワタクシに気がついたのか、“す、すみません。気が動転してしまって…” そう謝ると彼はワタクシの肩から手を引いてくれた。こんな形で出会うことになるなんて思ってもみなかった。と同時に、鞠絵ちゃんを助けてくれる人はやっぱり彼しかいない。優しげな顔と、その奥底に眠っている思いと言うか、信念と言うか、そう言う気持ちが溢れているような感じがした。“こんなところで立ち話も何ですから中へ入っていらして下さいな…” そう言うとワタクシは家の戸を開けて彼を中へと勧める。彼はワタクシの勧めに応じて中へと入った。
少女は鞠絵の兄の後をつけていた。横浜の一等地に居を構える鞠絵の兄。写真で少しだけしか窺ってはいたものの実際には見たのは初めてであった。初めて見る鞠絵の兄、その顔は少女の兄とは似てはいない。似てはいないがどことなく少女の兄と同じような感じがする。思うに少女の兄の面影を鞠絵の兄に映していのだろう。正直鞠絵の兄のことは知らない少女ではあったもののどこへ向かうのかがふと気になった。同じ孤児だろうか、小さな少女から花を買うところを陰ながらに窺う。その顔に何故だか温かさのようなものを感じてしまい、少女はふるふると首を横に振る。横浜の駅舎の中、濛々と煙を吐きながら車列を延々と連ねている汽車の群がある。その一つに飛び乗る鞠絵の兄。少女もそれに続く。汽笛を鳴らすとゆっくりと汽車は動き出した。そうして汽車に揺られること一時間半、汽車は帝都東京に着く。すっと降車し改札をくぐる鞠絵の兄に続く少女。昼近くになる。鞠絵の兄は蕎麦屋へと入っていった。
持ってきていた携帯食であるパンをもしゃもしゃ食べながら少女は兄が出てくるのを待った。実のところ今日はとあるところへ潜入し帳簿をとってこいと彼女の雇い主である藤田に命令されてきたわけなのだが、少女にとっての関心事が鞠絵の兄に移ってしまった。それは少女自身にも不思議なことではあった。“何故? 何故なのデス? 四葉には関係のないコトなのに…” 少女の心の中は疑問符で埋め尽くされている。それが激しい憎悪と殺意に変わるにはそう時間はかからなかった。見間違えることはない。十年来憎くて憎くて仕方のなかった相手・後宮春歌が向こうの大通りから歩いてきているのが見えたからだ。今にも飛び出して刺し殺したい、兄の無念を晴らしたいと言う衝動に駆られるも、ぐっと堪えつつ懐中の短剣をしまう。
「やっと、やっとあの女のところまで来たデス。五年デスか…。長かったデス。鞠絵チャマも全然教えてくれなかったデスカラもう諦めかけていたところデシタ。しかしあの女がこんな長屋に住んでいたナンテ…。クフフッ。これで鞠絵チャマにも邪魔されずに兄チャマの無念を晴らすことが出来マス。兄チャマ、四葉のこと絶対許してはくれないデショウネ? でも四葉はあの女を許すことなんて出来ない! 出来ないんデス…」
そう一人呟くように言う少女の眼には激しい憎悪と殺意と言う感情とともに何故だか悲しみが溢れていた。
ワタクシの話に必死に耳を傾ける鞠絵ちゃんの兄君さま。その姿はワタクシの兄君さまにも似通っていたところもあった。それにあの人にも…。ワタクシのことを必死になって、それこそ死ぬ寸前まで探してくれていたあの人。お墓の前で何度も何度も謝ったけれど謝りつくせなかった。あの人の妹さんはいまだに行方知れずらしい。もう五年も経つのだけれど、彼女が牧師様に言った最後の言葉がワタクシの耳から離れない。“四葉は絶対にあの女を許さないデス!!” それはそうだろう。自分の唯一の肉親を見捨てられた上に殺されたのも同じ行為をやって来たのだ。どこに許すことが出来ると言うのか…。真剣にワタクシの言葉に耳を傾けてくださる鞠絵ちゃんの兄君さまを目の前にそんなことを思った。話し終えると一呼吸置いた。鞠絵ちゃんの兄君さまを見る。本当の悲しみ・つらさ・自分自身への憎しみ…、そんな心の葛藤がありありと見えた。それはワタクシ自身の心の葛藤なのかもしれない。それに、彼女はもう長くはない。どんなに医術が発達したところで、今、治せない病がどれほどあるのだろう。そう思いながら彼の言葉を待つワタクシ。鞠絵ちゃんの今の気持ちや、病のことや、彼女から絶対に教えないでと言われている住所も教えた。彼女は絶対に許してはくれないだろうな…。そう思ったけれど、それでもワタクシは鞠絵ちゃんをこんな惨めな境遇から助け出してあげたい。その一心で目の前の彼女の兄君さまに教えた。ワタクシの話を聞くや否や、居ても立ってもいられない表情になる彼。そんな彼に深々とお辞儀をするワタクシ。その意味を理解したのか彼はワタクシの家を飛び出していった。その後ろ姿を遠くに見遣りつつ、“助けてあげて下さいな。本当に、本当に…” 心の底からの声がワタクシの口から出る。夕陽は赤い残光を残して消えていく。その夕陽に彼女の心の悲しみを重ね合わせる。すべての悲しみをこの残光が消してくれれば…とワタクシは思う。いや、あの人がきっと消してくれる。そう信じたい。彼の去って行った道を見ながら願うようにワタクシは思った。
そうだ! あの人にも報告に行こう。と思い壁に掛けられた時計を見る。夕刻の六時を少し前な時間。今から行けば七時くらいだろうか…。でもあの人にも報告しておきたい。そう思ったワタクシはさっと準備を整えると家を飛び出した。あの人には妹さんの行方と鞠絵ちゃんの改心とを常日頃から願い祈っている。今朝も行って願い祈ってきたばかりだ。いつもは仏壇に手を合わせるのが常だけれど、今日ばかりは直接行って報告と新たなる希望の道が出来たと言うことだけを言いたかった。汽車に乗る。数刻揺られていつもの駅で降りた。教会の尖塔が月明かりに照らされて非常に神秘的に輝いている。そんな中、まだやっていた花屋でいつもの白百合を買いまた歩く。見えてきた教会の荘厳な建物。会堂には信者の人だろうか、長い行列が出来ていた。その横を通りぬけて裏手の墓地へと向かうワタクシ。何かに憑かれたかのようにあの人のお墓の前までやってくる。と、後ろに人の気配を感じた。いつもの牧師様だろうか? そう思って後ろに振り返るワタクシ。そこには少女が一人、こちらをぐっと睨んで立っていた。
少女は春歌の後をつけていた。どこへ向かっているのか、そんなことすら気付かずに只々兄の復讐を果たすために一心不乱になって追いかけた。追いかけている途中、春歌が花屋に寄って花を買って出てくる。きっと男のところへでも持っていくのだろう。そう思うとますます少女の恨みは強くなる。いっそここで、と懐中にしまわれている短剣を握りしめて周りを窺った。人はまばらだがまだいる。こんなところでは刺し違えることは出来ない。そう思ってまた後をつける少女。少女にはもう何も見えず、何も聞こえないが如く前を行く春歌のことだけしか考えられないでいた。ここが一体どこか、なぜ彼女が白百合を持っているのかさえ少女には分からない。只、今は積年の恨みを晴らすまで! その気持ちが今の彼女を動かしている。暗がりの中、最早少女の眼は優しかった兄の気持ちを蔑ろにした女、後宮春歌の姿しか見えてはいなかった。彼女の後ろに立つ少女。そこが愛してやまなかった兄の墓の前だと言うことには一切気づかない。ふっと自分の気配に気がついたのか彼女が振り返る。初めて間近で見た顔は涙に濡れていた。その涙の理由も分からぬまま、“後宮春歌サンデスネ?” そう尋ねる少女。“はい、そうですけれど…。あなたは?” と彼女は尋ね返してくる。ここまできても気がつかないのか! と思うと少女の心はめらめらと怒りの炎で燃え上がった。懐中に仕舞い込んでいた短剣を取り出す。取り出したと同時にいつも肌身離さず持っていた兄の写真の入ったペンダントも落ちた。ペンダントの中には微笑んだ兄とその兄に甘えるような格好で写っている自分の姿が見えた。途端に少女の目からは大粒の涙が溢れてくる。春歌の顔を上目遣いに見遣るとペンダントの中の写真の兄の顔を見つめて一瞬驚いた顔になりつつも、すべて分かったと言うような顔になって、こう言った。
「…そうですか。あなたが…、あなたが四葉さんなのですね? 蛍一郎さんの妹さんの…。ワタクシのことは、もうお分かりになっていらっしゃいますよね…。あなたの兄君さまを見捨てて、果てに殺してしまった相手、後宮春歌です。蛍一郎さんにはもう一度お会いしてワタクシの心の内をきちんと言おうと思っておりました。でも彼は…。彼はもうおりません。だからあなたに、あなたに判断をつけてもらおうと思っておりました…」
「当たり前デス! 四葉の、四葉の大好きだった兄チャマのことを見捨てて、見捨てたことにも気づかずにノウノウと生きている…。そんな姿を見て四葉が、四葉が憎み恨む気持ちはますます後宮春歌! アナタのことを憎んで憎んで今まで生きてきたのデスッ!」
少女はそう言うと懐中の短剣を取り出す。“兄チャマ…” そう思い前にいる春歌めがけて短剣を向け歩き出す。積年の恨みとばかりに春歌の懐中へ飛び込んだ。“うっ!” と言う声が春歌の口から零れ落ちる。恨みを晴らせた。少女は思った。息も絶え絶えになりつつ蹲る春歌に止めとばかりに血に濡れた短剣を振りかざそうとした刹那、春歌をかばうように人影が飛び出した。顔を見る。優しそうな眼は少女の記憶にも思い出として残っていた。少女は思わず声を出す。“ぼ、牧師様? 牧師様が何で四葉の邪魔ばかりしてくるのデス? その女は、その女は四葉の大好きだった兄チャマを殺して、殺したことにも気づかずにノウノウと生きている女なんデスよ?” と…。春歌をかばうように出てきた初老の牧師の顔を恨みに歪んだ顔で感情のほとばしるが如く言い放つ。少女の頑なな心はより一層強くなる。と春歌を抱き留めて四葉のほうをややもびっくりした顔で見つめていた牧師はこう言った。
「殺生は主イエスの教えに反することですぞ! お止めなさい。って、あ、あなたは四葉さんではありませんか? と言うことはこの…、惨々たる光景は…。ひょっとして! な、何と言うことを! 四葉さん…、今、あなたがいるところはどこなのですか? あなたの愛してやまなかったお兄様のお墓の前ではありませんか。春歌さんは…、春歌さんはあなたのお兄様が天国へ召されてから欠かさずここにやって来ては、あなたのお兄様の冥福をお祈りしていのですよ…。悔悟の念を胸に秘めながら涙を流していらっしゃる姿には嘘も偽りもない。毎日毎日お墓の前をお掃除なされている姿には愛する者を失った悲しみ、そう、あなたと同じ悲しみがこめられていると思った。その深い愛をあなたは否定しようとしているのです。お兄様が生きていらっしゃったら何を思うでしょうか…。きっと悲しみの心に彩られるに違いありません」
牧師はそう言うと墓の前に置かれていた白百合の花を見遣る。四葉も牧師の見遣った方向に目を遣った。一瞬、理解出来なかった。もう一度よく見てみる。その花は何度となく見た花…。“じゃあ、じゃあ毎日お墓の周りをお掃除してくれていたのは?” カランカランと乾いた音ともに血に濡れた短剣が手から滑り落ちる。堪えきれず涙が溢れて堰を切ったかのように流れ出した少女の顔。その顔は彼女の中で張りつめていた糸が切れたような感じであった。へなへなと座り込む少女に春歌は息も絶え絶えになりつつも優しく声をかける。
「ワ、ワタクシは四葉さん、あなたのもっとも大切な人を死に追いやった憎い仇です。ごほっ、ごほっ。こ、これはワタクシの一生をかけて償いたい。ううん、償う義務があるのだと思うのです。ワタクシがここであなたに有無を言わさず殺められてもワタクシには何も言えない立場でした。あなたに刺されてやっと、やっとこの自分の罪の心が救われたような気がします…」
そう言って座り込んだ少女の手を力無げに、でも優しく握りしめてこう言う。“…四葉さん…。これで、これで良かったのですわ。罪を犯したワタクシにはその報いを受けなければならなかった。でも勇気がなかった。自分で死ぬ勇気がなかったの…。だから誰かに…、ごほっ、こ、殺してほしかった。それが四葉さん、あなたであってワタクシは心から良かったと思います…” と。もう何も言うことはなかった。ただ、少女は優しく春歌を抱きしめていた。短剣は流れる血の横で鈍い光を放っている。涙が累々と少女の頬から流れ落ちる。それは少女自身、今までの怨嗟の念から悔悟の念に変わったような感じがした。
「ごめんなさいデス。ごめんなさいデス。春歌サン。結局…、結局四葉は何のために復讐してきたのデスかね?…。こんなにも、こんなにも愛されていたのに、何をやっていたのデショウ…。今までずっと憎い仇だと思っていた相手が実は毎日兄チャマのお墓のお掃除をしてくれていた、懺悔してくれていた人だったナンテ…。兄チャマがいたらきっと怒られてしまいマス。ごめんなさいデス。今まで恨んで憎んで迷惑ばかりかけて…。四葉はきっと地獄行きデスよね? だって今まで何人の罪のない人たちをソレコソ地獄行きにしてきたのデスカラ…。春歌サン、もし四葉に慈悲の心があるのなら、死なないで…、死なないでクダサイ! 生きていてクダサイ。生きて罪を犯した四葉を見ていてほしいデス。そうじゃなかったら四葉は兄チャマに合わせる顔がありマセン! 目を開けて四葉の罪を見ていてほしいデス。お願いしマス。お願いしマス…」
瞼を閉じようとしている春歌の目にした光景。走り寄ってくる牧師たちとゆさゆさと力無げに体を揺する少女の姿だった。何だかとても眠い。息も絶え絶えになってくる。もうすぐ自分は死ぬ。目の前が暗く沈む。そう思った時、どこからか聞き覚えのある懐かしい声が聞こえてきた。“まだこちらへ来ては駄目です! 春歌さん!!” と…。ふっと目が開く。白い天井と白い壁、すべてが白に覆われた世界が広がっていた。自分は死んだのか、とふと横を見る。春歌の兄が横に疲れた表情で、でもどことなしか安心したかのように眠っている。胸のところには包帯が幾重にも巻かれていた。
自分は死んだはずと思いながら微かに動く左手を目の前に持ってくる。指を動かしてみると動いた。不思議な感覚が春歌の周りに漂う。と、彼女の兄が気がついたのかにっこり微笑みながら微かに動いた左手を握りしめてくれた。今まで感じた温かさを更に心に感じつつ、四葉の兄を殺した悔悟の心も胸の中に感じつつ春歌はぽつり呟くようにこう言う。“死なせては、くれなかったのですか…。蛍一郎さん…” と…。白い天井、それに兄の顔を見遣る。兄は静かに話してくれた。刺した箇所は急所を僅かばかり外していたこと。無意識に力を抑えていたのか、傷があまり深くはなかったことなどを…。“そうでしたか…” と春歌は溜め息気味に言葉を紡いだ。そう言えば四葉はどうなったのだろう。そう思い聞いてみると兄は懐中から手紙を取り出して、春歌に渡した。不思議に思いながらも広げて読んでみる。送り主は四葉からだった。
「春歌サンへ…。これを読んでいるころには四葉はもう受刑者の一人とシテ、刑を受けているころだろうと思いマス。春歌サン、本当はありがとうと言うべきことデシタのに春歌サンの体に傷をつけてしまったコト、すごく後悔していマス。もし許してくれないノデアレバ、出所後に一度お伺い致しマスから、そこで煮るなり焼くなり好きにシテクダサイ。それから、このことは鞠絵チャマには言わないでほしいデス。人一倍責任感の強い人デスカラ、絶対に四葉が捕まったことを知ったら鞠絵チャマの兄チャマへの復讐が出来なくなると思うんデス。春歌サンは止めさせようと必死になってることは四葉も十分分かってるつもりデスけど。お願いしマス。春歌サン。一回だけでいいデスから、鞠絵チャマの気持ちになって考えて欲しいのデス。それから今回のことは全部四葉のやったこととして留めて欲しいデス…。罪は甘んじて受けマス。デスカラ鞠絵チャマには…」
そう春歌に懇願するかのように手紙にはたどたどしい字で書かれていた。春歌はにこっと微笑むと、兄に頼んで病室の窓を開けてもらう。彼女の心の片隅に残っていた優しさと償いの気持ち、そして優しかった兄の記憶を再び胸に宿らせた少女の顔はまるで憑き物が取れたかのようにしっかりとした顔だっただろう。もう愛に迷うこともない。少女の瞳はキラキラと輝きを取り戻しているように思えた。入院期間も一ヶ月強を越えて退院する時を迎える。退院して少女は警察に逮捕されたことを知る。十四歳の高利貸しと言う名は新聞紙面を大いに賑わせた。のちの裁判で審院は十五年の懲役を出し少女はそれに服することになる。晴れ晴れとした顔で審院から表へ出る少女の胸に去来したものは、復讐の終焉であったのだろうか…。
四葉が春歌の命を奪おうとまさに飛び掛かろうとしていた正にその頃、鞠絵は雇い主・藤田とともにとある娼館へとやって来ていた。ここにも金と言う魔物を貸してある。彼らが復讐しようとしている社会。すなわち物質的社会におけるモノそのものだろう。そんな物質社会の魔物と精神世界の神との戦いに巻き込まれある意味犠牲となった少女のことなど、露も知らずに…。四葉が春歌の愛に触れたこと、そしてその深い愛に触れ警察への自首を決意し、自首したとの報を聞くのはそれから約半月後のことだ…。時につらく悔しい思いをし、時に一緒に泣き、時に一緒に笑った仲間、いや、妹とも呼べる存在が、今度は鞠絵を苦しめる立場になるのはもう少し後のこと…。
つづく…