みすぼらしい男が一人、寒風吹き荒ぶ街の一角を歩いていた。妻も子も何もかも失い、あるのは護身用にと購入した柳葉包丁と身一つ。これがこの男のすべてである。彼の眼前に広がる世界は、憎しみに彩られた世界であるのかも知れない。ただ彼は、こんな世界に自分を追いやった男、藤田浩之を憎み、この恨みをいつか絶対に晴らしてやる。そのことだけを目的に今日も帝都・東京の空の下にいた。
あなたのそばにいたかった
第十五章、それぞれの再会、中編
男の名は橋本と言う。彼が今現在、藤田を憎むようなったのにはわけがあった。元々の彼の家柄は華族である。華族であるが故、裏では色々なことをやっていた。その一つが接待業なのである。世間一般に接待業と言うのは聞こえはいいが、その半分は任侠の世界であった。そんなところにどうして彼がいたのかと言うところなのだが、彼自身の家はもともと任侠の世界の人間であった。それが瓦解のときに新政府に大いなる物的人的援助を惜しみなくし、それが元で男爵と言う爵位を拝領した爵位拝領家の一つであったのだ。彼自身、幼少の頃は何一つ不自由のない優雅な生活を送っている。青年になると華族会や政財界、更には花柳界から引く手あまたな存在になり、また父の貴族院の退院後、新たに貴族院議員として登院し、様々な諸問題に目を通していた。折りしも日清戦争の近づく中、彼は主戦派として重きをなし、後、恨みを抱くこととなる藤田の敬愛する佐藤雅史とは国会内外の犬猿の仲となっていた。そして、彼の主張が罷り通ったかのように日清戦争の火蓋が切って落とされる。勝った勝ったで街中に歓声が轟き響く。彼はその光景を馬車の中で聞きながら一人笑んでいた。勢いづく主戦派の面々の顔を佐藤雅史はがどんな表情で見ていたのか、一般の非戦派の市民層、そして藤田を含む貧民層がどんな気持ちで見つめていたのか、彼ら主戦派の面々の心には届かなかったのだろう。
そんな折だ。佐藤雅史が天皇の御馬車に直訴文を届けようとする事件があったのは…。天皇に直訴すること、すなわち死を覚悟した行動である。ほくそ笑む橋本含む主戦派の面々は直訴後の佐藤雅史の処遇に元来の通りの“死を以て償うべし” と言う主張を帝国議会に言上し、即日のうちに佐藤雅史の元に勅書として届けられる。知った佐藤雅史はその日のうちに帰らぬ人となる。ちょうど憎む藤田が刑務所から出所してくる二、三日前のことであった。
藤田の恨みはものすごいものがあった。彼は佐藤雅史の下で必死に非戦論を唱えていた議員・矢島を仲間にすると、金貸し業を興す。藤田自身元々学も何もない者だったのだが、何の因果か来栖川侯爵家に引き取られ、そこの令嬢である芹香の車夫として働いていた。と言うより付き人と言った方がよいのだろう。その芹香の指導の下、藤田はめきめきと学力を身につけていった。いつも一緒にいる小汚い下賎の者と元・皇族の地位にある芹香の父母からは良い目では見られていないことは藤田自身でも分かってはいたのだが、そのころにはもう藤田の心は芹香に心惹かれ、“愛” と言う感情が芽生えていた。芹香も芹香で藤田の恋心をしっかり受け止めている。そんな二人の目に余る光景に芹香の父は危惧し、そして一計を案じる。それが芹香の婚約話であった。芹香自身断ろうとは思っていた。だがもう父の根回しが効いていて芹香が気付いた頃にはもう断り切れなくなっていたのである。無論藤田がその話を聞かされた時にはもう後の祭り状態であった。そして…。
無理矢理にも愛する人から引き離されてしまった彼の心中は如何程ばかりであっただろう。元々から憎んでいた上流社会、そのようなことが元でより一層上流社会に恨みを持つことになったのは言う間でもない。金貸し業を始めてから半年…。時は日本と北方の大国・露西亜とが満州の権益で不穏さが高まってきていたころだ。ふとしたことから橋本が行なっていた接待業の資金繰りが悪化してくる。軍人は戦争の準備に、官僚は官僚で内政や外交に飛び回る。もちろん橋本も帝国議会に置いて主戦を主張していたのだが…、彼自身は裏の仕事である接待業のほうが気掛かりであった。そうこうしているうち、何の解決策も出ぬまま借金をすることになってしまうのである。借金など今までしたことのない身。いいように弄ばれてしまい借金に借金を重ねると言う悪循環に陥る。そうこうしているうちに、ついに藤田のところまでやってきてしまった。名前を聞く藤田に対して、さも高慢そうに、“男爵・橋本である” と言う彼。痩せても枯れても男爵の地位に固執するあまりに言ってしまった言葉なのだろうが、その時の藤田の恨みを込めた瞳には気がつかなかった。藤田は矢島から噂ながらに聞かされていた。なので、“こいつが雅史さんを殺した奴か!” と思いつつ、憤りを胸の中に抑え込み平静を装いながら、
「うちに御用事となられると言うことになりますと、もちろん言えない“お金”なのでしょうね? 一体いくらぐらいをご所望で?」
と、借用証書を机の引き出しから一枚取り出して橋本の前、持ってくる。資金繰りにもまた生活面にも困っていた橋本は、三千円と書いて藤田に手渡す。用紙を見た藤田の顔はいつも以上に冷静沈着であった。だが、その心の内はとてつもないほどに借用証書に三千円と言う大金を書いておいて、申し訳ないと言う顔も一切見せず平然として、かつ当然至極のように振る舞っている男に対する嫌悪感と、このような男を生み出した上流の社会に対する憎悪と言う感情だけだったのである。“金がなければ自分の力で汗水流して働いて稼げばいいものだ。五体満足に生まれてきたのだからそれくらい出来るだろうに…” とは思ったが、所詮は男爵家、そんな汗水流して働くこと自体無理なのだろうと思い直し事務所を出て行く橋本を苦々しく、そして嬉々としたまるで二律背反のような表情で見遣っていた。
金を借りれば利子が付く。このことすら分からぬほどに橋本は藤田のところから金を借りまくった。そして、積もり積もった金の返済は不能となってしまう。元からその気だったのだろうか藤田は金を借りれば必ず返済が待っているということは一切口には出さなかった。積もり積もった総額が五万円ほど…。とても今の男爵家には到底返せない額である。いつもの裁判所の書記官に正規の差し押さえ状をもらい男爵家に向かう藤田の心境は如何ばかりであったのであろうか…。麹町の閑静な住宅街の一角にその邸宅はあった。洒落た外観と、重厚な邸宅は当時流行っていたアール・ヌーヴォー調を意識したものだろう。限りなく贅を尽くした装飾は思わず見入ってしまうほどだが、これも貧しい者たちから限りなく搾り取った金で作ったものかと考えると、憎悪の域を遥かに超え、殺意さえ感じさせるものであることは言うまでもない。コンコンと獅子の取っ手を叩く。何も知らない夫人が出てくるとまるで汚ならしいものを見るかのような軽蔑の眼で藤田のほうをちらりと見遣りながら、“ここは貴方のような下賎の輩が来るところではございませんの。お引き取りあそばせ” そう言って扉を閉めようとする。しかしすでに扉に足を掛けていた藤田は閉まる扉を遮ってこう言う。
「おや? ご夫人様。貴方様は知らされていらっしゃらないようですね? 旦那様が裏でどのようなことをなされていらっしゃるかを…まあそのことに関しましては旦那様と夜にでもお話しあそばされては如何ですかな。私めは一向に知らぬことで、また縁遠いものではありますが…。それとも旦那様にはお聞かされあそばされてはおりませんでしたか? これはこれは失礼致しました。では私めはこの辺で今日のところはお暇させて頂きます」
そう慇懃にお辞儀をすると、引き上げようと踵を返す。二、三歩歩き思い出したかのように、こう付け加えた。“あっ、そうそう。今日旦那様がお帰りになられましたら、‘五万’ とだけお申し上げ下さい。まあそれで何のことかは察しが付くかとは思います。それでも分からぬ時には私めの名前、‘藤田’ とでもお伝え下さい。それですべて分かるかと…” そう言うと今度こそ帰っていく。夫人の心に疑念の種が蒔かれた瞬間であった。早速その夜、議会から帰って来た橋本に詰め寄って問い質してみる夫人ではあったが、“し、知らん知らん!” の一点張りで聞く耳を持とうとしない。やはりあの藤田と言う男の言うことは? そう思って、“何か‘五万’ とだけ申し上げ下さいと。それで分からぬようでしたらあの男、‘藤田’と言うお名前でしたかしら? その方の名前を言えば分かると仰っていたと思うのですけれど…” と夫人がそう言うと、橋本の顔色が変わった。これ以上となく青くなる橋本の顔に夫人の心には疑念の芽が発芽する。“やっぱり…” 夫人は日頃から留守の多い橋本に対しての疑念がとぐろを巻くかのように頭から離れなくなる。そうこうしているうちに夫人の疑念が確信へと変わるような事態が起こる。日清戦争の戦費増強と来たるべき日露戦争への準備として所謂、爵位拝領家の取り潰しと言う事態が華族内の間で持ち切りとなる。“この間はどこそこの男爵家が”、“その前はどこそこの子爵御一家が…” などと女中の間でも噂は絶えない。もちろん橋本男爵家も例外ではない。もうすぐ取り潰しになると言う噂が流れると女中は一人辞め二人辞め…、とうとう女中・下男下女とも誰一人いなくなる。橋本も必死で引き留めには走っていたが、噂と言うものは恐ろしいもので、いつしか人々は蔑む眼差しで男爵一家を見るようになった。そんな折、夫人が離縁状を持ってくる。その頃にはもう夫婦仲は冷めに冷め切ってしまい、夫人は間男なるものを数人拵えて、子供もその情夫に懐いている始末であった。“私の名前はここに書いておきましたので…” そう言うと橋本の返事も待たずに去っていく夫人の姿に呆然となる橋本。しばらく声が出なかった。やがて、“ハハ…、ハハハハハハハハハハハ!!” けたたましい彼の乾いた笑声が屋敷内に木霊する。呆気ない、あまりにも呆気ない離婚劇。これを笑わずにして何を笑うか! と言うくらいに笑う。ひとしきり笑った後よろよろと立ち上がると夫人から手渡された離婚用紙に自分の名前を書いて封を閉じる。三日後、裁判所に離婚が受理された。彼の持ち物はこの広大な屋敷のみとなってしまった。
その屋敷もすぐに引き払わねばならぬ事態になる。そう、高利貸し・藤田への借金が途方もない金額へと膨れ上がり、屋敷を売らねばならなくなってしまったのだ。“貴様! 貴様が俺から全てを毟り取っていった!! 許さんぞ! 許さんぞ藤田!! 必ず復讐してやる!! 復讐してやるからな!!” そう言いながら警官に手を引かれ屋敷の外へと連れ出される彼の眼は怒りに満ち満ちていたことは言う間でもない。そんな彼を藤田がどう見ていたのか…。それは藤田にしか分かり得ぬところであろう。
そうして彼は今、横浜の貧民街にいる。上流階級と言うことをひた隠しに隠し、その日の糧を得るため肉体労働に鞭打つ。しかし心はまだ上流階級のままである彼には仲間と呼べる存在はいない。元上流華族の誇りか、若しくは変に偉そぶる態度からか他の労働者たちからは相手にされていないらしかった。そんな彼に唯一相手をしてくれる場所がとある娼館の娼婦である。偉そうに命令しても無言で言うことを聞くような女。もちろん彼自身は女には興味はない。ただこの女を苛めぬくために通っていたのである。そうして日々の鬱憤を晴らしているのであろう。と、その女の娼館が近々なくなると言う話を風の噂で聞いた。それは彼が最も憎み恨んでいる相手、高利貸し・藤田の手によるものだと分かると彼の怒りは頂点を越えて夜叉・羅刹のような心持ちになる。“俺からすべてを奪っておいてまだ物足りぬのかっ! 藤田ぁぁぁぁぁぁぁ〜っ!!” 心の中でそう絶叫する。“殺してやる…。殺してやる!!” と殺意を天へ向けて、鉛色の空を見遣る彼の心境は如何ばかりであっただろう。それは彼自身にしか分からぬところであった。
彼が藤田の殺害を決意した日、娼館は藤田と共に社会への復讐を誓い合った矢島の手によって差し押さえられたことを人づてに聞いた。彼の心はますます藤田への恨みでいっぱいになる。とは言え、彼には藤田の行方は分からない。その日から彼の執念とも言うべきものを垣間見る。ほうぼうのごろつきや乞食に彼の居所を聞き出そうと躍起になった。だが、如何にも高圧的な物言いであることに彼らは誰一人としてまともに話そうとはしない。それが彼にとっては無性に腹が立った。と彼の中にある考えが浮かぶ。“そうだ。奴が来そうなところを巡ってりゃいいじゃないか” と…。闇雲に探すよりは効率的だと判断した彼はそれから藤田の行きそうな場所を虱潰しに当たっていく。やがて目ぼしい一軒の娼館に辿り着く。と驚いたことに男爵時代に足しげく通っていた娼館のあの女がいるではないか。相変わらず無口で何を考えているのか分からない顔をしているが、あの女であることは間違いない。彼の加虐的な性分がむくむくと沸き立つのが分かった。女が引っ込む。代わりに主人らしい男が出てくる。顔に痘痕があるやけに貧相な男だ。なけなしの金を払うと女のもとに向かう。奥の誰も使わないような豚小屋みたいな場所が彼女の今の部屋らしい。バンと勢いよく扉を開け放つと、びっくりしたように女がこっちを上目遣いに見遣っている。
「久しいな? こんなところでお前に会えるなんて思ってもみなかったぜ…」
下卑た笑いを浮かべて、布切れ状の女の衣服を剥ぎ取る。露わになった裸体は久しく見ていなかった女の裸体だ。むしゃぶりつくように事に至る彼。時には加虐的に燭台の蝋燭を女の体にかけたりして楽しんだ。それでも女は苦悶に喘いでいる。ひとしきり楽しんだ後、女の胴を思いっきりの力で蹴りつけて表へ出る。久しぶりにすっきりした晴れやかな表情のまま、彼は帰っていく。今まで抑圧されてきた加虐性が一気に解放されたのかそれから足しげくその娼館を訪れては女を弄んでいた。そう、それはまるで畜生道に落ちた人間のようにあれやこれやと因縁をつけては女を弄ぶ。憎むべき藤田のことも忘れるくらいにその女に執着する。勿論女は何も言わない。言わないが故、このような地獄のような虐待を受け続けているのだが、それでも何も言わなかった。と、とある日。その日もいつものように日取りの金で娼館に向かう彼。しかしその眼前にはあの忌々しい藤田の相棒である矢島の姿を見かける。これまで何度となくその顔を拝んでいる彼にとっては忘れ得ぬ顔となっている。と言うことは藤田も? と辺りを見回してみるがどうやら矢島一人らしい。のこのことこんなところに出てきやがった…、ほくそ笑む彼の手には護身用の柳葉包丁。手に携えると青く鈍い光を放っている。走り寄る。そして一突きに彼の背中から心臓の辺りを目掛けて一気に突く。何が起こったのかさえ分からずに矢島はうつ伏せに倒れ込んだ。馬乗りになり何度も何度も心臓の辺りを刺しピクリとも動かなくなった矢島を見て笑いが込み上げてくる。“ハハッ、こんなところを一人で歩いているからだ。ざまあ見遣がれ!” とほくそ笑みながら動かなくなった矢島の体を足蹴にし、一人言う橋本の顔は狂気に支配された顔であったことは言う間でもない。朝になり彼の亡骸が見つかる頃には橋本の姿はそこにはなかった。
ここにきて何ヶ月が経つのだろう。私は今日もあの人のことを思いながら、生きていた。主人からの暴力はある。だけれど前のところよりはまし…。そう思い今日も寒空の下、玄関を掃く。そんな私に声をかけてくれる人はいない。それは私がこういう仕事についているからか…、とやけに冷静に分析する自分がいた。そう言えば前にいた場所で、私に高級な服を下さったあの人はどうしているだろうか。誰かを探しているように見えたけれど、見つかればいいのに…。そう思いながら表を掃く。と誰かが立っている。誰だろう。そう思いふっと顔を上げて驚いた。橋本男爵。確か男爵家は取り潰しになって彼もどこに行ったのか分からないと聞いていたけれど…。そして彼こそが私が男性を知った時にいた男性。まさかまたこんな形で再会しようとは思わなかった。隠れるように自室へと向かう私の後を追いかけるように彼は私の後を追いかけてきた。バンと乱雑に開けられた扉の先、私の処女を奪った男がやけににやついた顔で立っていた。“久しいな? こんなところでお前に会えるなんて思ってもみなかったぜ…” そんなことを言うと早速私の服(とは言ってもただの布切れなのだけれど)を剥ぎ取ると、如何にも下卑た笑いを浮かべて玩具でも扱うかの如く、私の体を弄ぶ。反射的に声が出てしまう私にその男は燭台の蝋を私の体にかけて加虐的な笑みを浮かべている。何時間かそうして弄んだあと、胴を思いっきり蹴って唾を私の体に吐き捨てて、“また来るからな?” と再来を告げ出て行った。ほとんどおぞましい記憶しか残っていないあの男との記憶。身を縮み込ませるように丸くしてぶるぶる体を震わせる私。“助けて…、怖い…。助けて…誰か…” 心の中で叫ぶ。もちろん誰も助けてくれないのは分かっていた。でも今の私に出来ることはこれくらいしかなかった。
あの男は二、三日の感覚でやってくるようになった。私がここにいると言うことが分かって以来足しげく通っては私に暴力を振るうのだ。そんな彼の心の中のこの不条理な社会に対する憎悪とも呼べるものが暴力を振るう手に集められているような感じがして、私にはそれが悲しく思えた。もっとも得てして私たちのように元・爵位拝領家の人間なのだから、ろくに仕事もしたこともない、そんな人なのだろう。気取っては見せていても、今までそう言う人たちに体を預けてきた自分ならこの男がどういう生活をしているのかが分かる。そう言う人に嫌悪さえ感じてしまうのに、体は全く逆の反応を見せている。今日も縄で縛られて寝かされ、蝋や鞭などで体を虐められた。“いっそその鞭で私の首を絞めて殺してほしい…” と一瞬心の中で悪魔が私に囁く。ううん、と強く首を横に降る私。“逃げてどうするの? あの人への、浩之さんへの償いもまだ出来ていないのに!” と言う気持ちが私を奮い立たせる。そう心に思いながらぐっと唇を噛み締めて耐える。あの男の来る日はずっとこんな感じで過ごすことが多くなった。そんなある日のこと。その日も私はその男・橋本に酷い扱いを受けて、息も絶え絶えになりつつも耐えていた。身を丸めて必死で足蹴にされる身を守る。それが面白いのか、同じ所作を何度も何度も繰り返す。やがて飽きてきたのか私を立たせると腹に拳を一発お見舞いした。痙攣するほどの強い一撃が私の体を駆け巡った。とすんと尻餅をつくとそのまま前のめりに倒れる。失神しかけの体にはあの男の顔も姿も分からない。そんな私の耳に届いた声。その声は…。
矢島がつい先日、何者かに襲われてそのまま帰らぬ人となっていた。オレがその情報を掴んだのは彼が亡くなった次の日の昼頃だ。嘘だと思った。何かの冗談だろ? と思った。しかし彼の遺体と対面し初めて彼が亡くなったことに気付かされる。社会への復讐を誓い合った同志とも呼べる仲間を失いオレは静かに泣いた。彼は帝国議会を去るときに親から勘当された身だったので身寄りがない。オレの妹の墓に一緒に入れた。こんな窮屈なところで悪いが許してくれ…。そう思いながら線香の煙を見つめた。
そんなオレにとっての一番の理解者を失った二、三日の後、オレは鷺澤と一緒に貸した金の取り立てに来ていた。宮原は今日は少し用事があると言うことらしいので連れてきてはいない。矢島がいないに今となってはオレが行かなければならないわけだが…。もっともこんなところへはオレ自身来たくはなかったんだがな? そう、それはあの人の声を聞き、あの人の姿を見て、あの人の温かく優しい手に触れて、触れた途端にあの頃の懐かしくも嫌な記憶がまるで走馬灯のようにぐるぐる駆け巡っている。そんな感覚がオレの脳裏から離れてくれない。もうあれから十年は経つだろう。なのに未だにあの頃の記憶が、あの人の微笑みがオレの中に、いや、心に蘇ってくる。自分でも嫌になる。そんなときは仕事がいい。書類に目を通して貸した金の計算を行ない、取り立てに行く。普段事務所にいて内勤みたいなことをやっているオレではあったがあの一件以来外に赴くことが多くなった。あの温もりを一刻も早く忘れたかったからだ。矢島がよく言っていた。“あんた、あの時から変わったな?” と…。確かにそうかもしれない。しかし、オレ自身あの温もりを忘れてしまいたいと思った。あの人の温もり、澄んだ声、すべてなかったことにしたくて、あの一件以降、なるべくなら表へ出るようにしている。表へ出ると陰口などを叩いている連中を多く見かける。まあ今の時代、金が物を言う世の中だ。こんなことを言われて一々気にしてたらこの商売は成り立たない。そう思い前だけを向いて歩く。今日向かうところは場末の娼館らしい。鷺澤が、“藤田さん、残っていても別にいいのですよ? こんなことくらいわたくし一人でも大丈夫なのですから…” とオレを気にして言っているみたいだが、“いや、いい。もう立ち直った” とオレは言う。実際ふっきれていない部分も多々ある。しかし、こうでもしないとオレは気が狂いそうだった。裁判所の差し押さえ状の入った鞄が今のオレがオレでいられる唯一の証だ。そう思いながらふっと下から見上げる形で横浜の町を見る。小高い丘の住宅街にはさぞいい暮らしをしているやつらがいるんだろう。今度は前を見る。ゴミと薄汚れた外壁と小汚ねぇやつらが屯っている。盗みや傷害や人殺しも多い。もちろん人殺しには偉い恰好をした警官が向かうが、どれも捜査なんて言うことはせず、見聞ただけであとは無しの礫になる。そんなことが日常茶飯事で起こる街が貧民街。オレの今の仕事場だ。
オレの顔を見て慌てて逃げ出す者、目を背ける者、喧嘩を吹っかけてくる者、と様々いる。まあ喧嘩を吹っかけてくるやつは大抵がヤクザかその辺りなので軽くいなしてやると大人しくなる。喧嘩は子供のころから強かったオレなので関東一円には知れ渡っているだろう。オレも随分とやんちゃだったんだな? と思い鼻を掻いた。そうして見えてきた先には一軒の場末の娼館。よくもまあこんな薄汚れた場所にも貸し付けたもんだな? と半ば呆れつつ、鷺澤を向かわせる。大抵の男主人の場合、あいつの色香に騙されて出てくることが多い。女には平然興味をなくしたオレが言うのは滑稽に思えるんだが、男と言う生き物は女と言う生き物に弱いもんだと思う。ましてや娼館主ともなれば、まぐわい染みたことまでやっていると聞く。何がそこまで求めるのかオレには一向に分からんわけだが…。と娼館主が鷺澤の色香に騙されたのか、のこのこと出てくる。顔に痘痕のあるやけににやついた顔は一回見ただけで十分な感じだ。そんな館主を前に、オレは裁判所の差し押さえ文を出して言う。
「ここは今日付けでオレの物になった。悪いがあんたたちには出て行ってもらう。素直に出ていくのなら何もしないが、出ていく気がないのならそれなりの手を打たせてもらうが…。どうだ?」
と。“そっ、そんな殺生な〜。金ならすぐに払いますんでもう少し待っててくだせぇよ、旦那〜” と気色の悪い顔を更に気色の悪い顔にさせつつこう言う主人。ふっ、どこもかしこも度々のつまりにゃ同じことを言ってきやがる。そう思いふっと玄関のほうを見たオレは驚く。男が一人、得物を携えている。まじまじと顔を見ると忘れもせんあの男・橋本だ。“こんなところで会えるとは運がいいな? 藤田…。矢島といいお前といい、詰めが甘すぎるぜ…。よぉ? アハハハハハ…” と高笑いに笑う。やはりこいつが矢島を…。そう思い対峙する。得物は柳葉包丁一本だけか…。なら何とかなりそうだ。と思いふっと橋本の後ろ、人影が出てくるのが見えた。その人はオレがかつて愛したあの人だ。“止めて! 止めてください! その人には手を出さないで!! 私が、私が何でもしますから。お願いですから、お願いですから…” と橋本の得物を握る手に縋りついている。ぼろぼろの体で、ほとんど裸体に近い恰好で彼女は橋本の手に縋りつく。“ええい、うるせぇ!! お前から殺してやる!” と鈍い光を放つ得物が真っ直ぐあの人の胸元へ飛び込んでくる。木の葉のように倒れ、凶刃があの人の胸を射抜かれてしまう。と、オレは何故だか自分でも分からないまま、あの人の元へ走り出していた。庇うようにあの人の体に覆い被さるとオレの背中から心の臓まで激痛がオレの体を突き抜ける。と今まで心の奥底に仕舞い込んでいた記憶が蘇ってくる。あの憎しみにしかとらえられなかった懐かしい記憶。苦しくも愛に溢れていた頃。抱きしめてくれたあの温もり…。忘れていたものがオレの脳裏に溢れてきた。あの人が何か言っているのが分かる。だが何を言っているのかが分からない。危ないから逃げろ! と言おうとしたが背中の激痛で言葉にはならなかった。あの人が冷たく冷えたオレの体を抱きしめる。抱きしめられたときに感じた温もりはあの時のままだった。あの落ち込んでいたときに優しくオレの手を握りしめてくれた温かな手の温もり、そのままだった。
どさっという音が耳に響く。前を見る。得物の鈍い光が藤田の背中を突き破った瞬間だった。突然そんなことが起こると人間は動けなくなると言うのではあるけれど、今のわたくしが全くそれだった。何も出来ず、また何も考えられず立ち尽くすわたくしに最早狂人と化した橋本と言う男が襲いかからんがばかりにわたくしの胸を目掛けて鈍い光と赤い雫の滴った得物を持ち向かってくる。もう駄目! と目を閉じる瞬間、警官二人に取り押さえられた。館主か誰かが警察署に駆け込んでいたみたいだ。押さえられて身動きが取れないでいるのに、未だに橋本と言う男は、“藤田〜っ! 藤田〜っ!!” と怨嗟にも近いような声を発しながらどろりとした目を向けている。やがて手錠をかけられて派出所へと引かれていく頃には落ち着いてきたのか、“ざまぁ見やがれ藤田! お前にゃそんな死に様がお似合いだ…。フフッ、フフフフフッ、ハハハハハハハハハッ…” と不敵に微笑みながら姿があるだけだった。
力無げに藤田の体を抱きしめる女性。それは娼館で何度か見たことのあるあの悲しげな瞳の女性だった。多分この人が、元侯爵家のご令嬢・来栖川芹香さんなのだろう。そう思った。“何故? 何故?” と藤田の動かない体に問いかけるその瞳には涙が溢れぽろぽろと零れ落ちている。“浩之さん! まだ、まだ私はあなたに償いを返しきっていません! それなのに…。どうして? どうして私なんかを庇ったりしたの? 殺されても文句は言えないのに…、どうして?” と藤田の動かない体に、いや、心に問いかけている。藤田が目を開ける。ぼ〜っとどこを見ているのか分からない瞳は藤田を抱きしめている芹香さんの姿を探しているようだった。しばらくして芹香さんの顔を見つけたのか藤田が弱弱しい、本当に弱弱しい声でぽつりこう言う。“最後の最期で情が出ちまったな…。へへっ…。お嬢様、今更許してくれなんてとても言えないけど、オレは本当にあなたのことを愛していたんだ…。…本当に、愛していたんだ…。…今までつらい思いさせちまってごめんな?” と…。ふるふると首を横に振ると藤田の動かない手を自分の頬に持ってくる芹香さん。涙に濡れた頬を拭おうともせず、ただ藤田の手を頬に宛がいながら彼女は滂沱の涙を流している。“許します。全部許しますから、お願い! お願いですから、もう一度目を開けて下さい。浩之さん!” 彼女が必死で呼びかける。“…そうか…、良か…った…” 一瞬のことだったので気がつかなかったのだけれど、ようやくそこで初めて理解した。藤田はもう…。息を引き取る瞬間、今まで見たこともないような穏やかな笑顔を彼女に向けていた藤田。そんな彼の彼女を握っていた手がばたっとが離れる。わたくし自身どうしたと言うのか、またどうなったのか、訳も分からず気がつくと彼の動かない体を揺すりながら、
「目を、目を開けて…。開けて下さい。お願いですから…。いつも仰っていたではありませんか? “オレはこの不条理な社会に復讐するまでは死なん” って…。どうして? ねえ、どうして目を開けては下さらないの? ねえ、ねえ…」
そう心の底から言っていた。もちろん動かないことは分かっていた。彼は今、黄泉路へと旅立っていったからだ。でも、それでもわたくしは彼の死と言うものを理解できなかったのだろう。新たな警官が駆け付けるまでずっと冷たくなった彼の体を揺すり続けていた。それは彼女も同じだったのだろう。わたくしと同じように動かない彼の手を頬に当てて、累々と零れ落ちる涙も拭おうともせず、ただ…、ただ彼の名前を呼び続けるだけだった。
宮原が春歌さんを傷つけて警察に捕まったことを知ったのはその翌々日くらいだった。わたくしも捕まるのだろうか。そう破滅的な考えも浮かんでくる。勿論捕まりたくはない。あの人への復讐も残っている。でももうわたくしの仲間は残っていない。藤田の亡骸は藤田が生前残していた遺言で藤田の妹さんや父上様、母上様共々眠っていらっしゃるお墓のほうに入れられた。芹香さんは今までの酷い仕打ちの償いにお金を払いわたくしが身を買い取った。“自由の身になれたのですから、これからは自分のために生きて下さいな…” わたくしがそう言うとふるふると首を横に振り彼女はこう言う。
「私は今まで何度となく浩之さんに謝り続けながら生きてきました。でもこんな私を浩之さんは最期は庇って…。こんな生きていても害になるだけの私を庇って…。これから私は浩之さんの菩提を弔うためこのお寺にご厄介になろうかと思っています。御住職の方が大変良い人でこのような自分でも置いて下されると…」
と…。あと二、三、話を交わして別れた。優しげに話す口調はあの人の面影にも似ていた。そんな穏やかな世界に帰りたいとさえ思った。でも周りにはわたくしたちに身ぐるみを剥がされ、家を奪われ、家族を失い、命まで取られた人たちの怨嗟の声が聞こえてくる。“今死ね…。すぐ死ね…” と言う怨嗟の声が…。今までそのような声などには耳を塞いで堪えてきたわたくしだけれど、堪えきれないほどの苦痛が襲ってきて思わず家を飛び出すこともここのところよくある。とにかく人の多いところへ…と普段ならば絶対に行かない繁華街へと足を向けることも多くなった。人は一人になるとこんなにも堪え難い脆いものなのか…。そう思った。いっそのこと自首をして一切合財話せればどんなに楽なことだろう。そう思った。でもわたくしを裏切って咲耶さんと結婚して、幸せな家庭を築いているあの人の、わたくしが世界を敵に回してでも守りたかった航さんへの復讐が残っている。でも、本当にわたくしは復讐を望んでいるのだろうか? 藤田を失って以来そう思うようになった。陽は柔らかで暖かな風を運んでくる。そんな風とは真逆の冷たく凍て付いた心のままわたくしは今日も生きていた。この凍てついた心を溶かしてくれる存在はいないのだろうか? そんなことをふっと頭の隅に考えながら夕闇に迫った街をただ一人歩いている。わたくしの憎んで恨んで、それでも有り余るほどに愛している、そんなあの人との再会はもうすぐ……。
つづく…