僕は走った。迷いを振り払うかのように必死に走った。先刻の春歌さんの悲しげな表情はもう僕の愛してやまなかった妹の、最愛の女性のもう長くはないであろう命の弱弱しく揺らめく灯火のことを知っている。胸が張り裂けんばかりに痛む。すべてはあの時、僕の浅はかな考えがこんなことになってしまったんだと思う。そう思えば思うほど僕は自分がなんて浅はかで思慮の浅い人間だったのかがよく分かった。だから走る。最愛の妹を連れ戻す、その一心で…。
あなたのそばにいたかった
第十六章、それぞれの再会、後編
わたくしにはもう何も残っていなかった。藤田はもういない。藤田の盟友と呼べる矢島と言う人物ももういなくなってしまっている。わたくしと宮原で藤田の残した“お金” をどうしろと言うのだろう。藤田の最期の顔、まるで憑き物が落ちたような、そんな顔だった。その顔はまるであの心清らかな頃のわたくし自身に見えて…。海神の家にいた頃の、兄上様を慕っていた自分のように見えて。恋しさと寂しさと憎しみとが交差するような感覚に陥ってしまう。ともかくも忘れてしまうのが一番いい。そう思って荼毘に付されて骨となった藤田の遺骨をさも大事そうに持ちながら、何度も何度もお辞儀をする芹香さんを尻目に藤田の菩提寺を後にした。芹香さんは藤田の最期の言葉で、“愛していた” と言う文言を聞いて涙をぽろぽろ零し死に逝く藤田の体をしっかりと抱きしめていた。そんな彼女の姿が哀れに思い、今までの凄惨ないじめに堪えてきた体に一種の哀れみを感じてしまい、わたくしが彼女を買い取ると言う形で自由の身にさせた。それがわたくしが出来る唯一の罪滅ぼしなのだと思う。藤田が世を去り矢島と言う人物もいない世界でわたくしと宮原だけがこうして生き残っている。この不条理に満ちた世界に復讐しようと誓った人を二人も亡くしてしまった。残される者の悲しみは六年前の日露戦争に出征して骨になって帰ってきた兵士の家族にも似たような気持ちなのだろう。あるいはわたくしたちに財産を奪われて一家で心中を図るものの一人だけ助かってしまった少女の悲痛な叫びにも似ているのかも知れない。そう思いながら彼女に別れを告げ、わたくしはまた社会の闇の中へと歩を進めた。
家へと戻ってきたのはその日の夜遅くだった。明日から二人になる。言い知れぬ不安がわたくしの心を覆う。今までは藤田もいたから何もされずに済んでいた。だけれど藤田がなくなった今となっては彼女の愛してやまなかった兄上様を裏切って果ては死なせてしまったと彼女自身が思い込んでいる女性、春歌さん。その女性と知り合いのわたくしは彼女にとっては恨み憎しみの対象の的でしかない。ふと彼女の言っていた言葉が脳裏を掠める。“許さないデス! あの女も! 鞠絵チャマも!!” そう言ってわたくしの顔を憎々しげに、そしてそれ以上に悲しげな瞳で見遣っていた少女のことを考えると会うのがとても恐ろしく思う。でも、会わなければ…、会って藤田の最期を伝えなければならない。そう考えつつ、髪を梳き紅を落とす。鏡で見るとあの頃の、心清らかだった頃の自分に戻ってしまう。懐かしい…と思うとともにあの別れのシーンまでもが脳裏に蘇ってくる。今までそんなことなんて一つも考えていなかったことなのに…と考えれば、やっぱり藤田と言う心の支えを失った自分自身の弱さなのか、と思った。何故かは分からないけれど涙が溢れて止まらない。藤田と言う男は嫌いだった。あのやけに落ち着いた表情と冷たい目が嫌だった。お金のことだけにしか執着しないところも嫌いだった。わたくしたちを機械のように扱うさまも嫌いだった。…だけれど、心のどこかでは慕っていたのかもしれない。そう考えると涙が溢れて止まらなくなる。もう眠ってしまおう。そう思い頭から布団をかぶり身と縮こませる。でも、頭の中はそのことばかりが駆け巡って結局眠りについたのは目覚める三時間ほど前だった。
朝はやはりつらかった。据え置きの鏡で自分の顔を見ると案の定酷い顔があった。それでも行かなければと思い起きる。途端に眩暈を感じですとんと布団の上、尻餅をついてしまう。最近こんなことがよく起こる。それは仕事中にでも起こりそうになって慌ててふるふると首を横に振って何とか抑え込んでいるのだけれど…。幼少から病気をしがちだったわたくし。当然のことながら朝は苦手だ。だからそんなことだろうと思う。寝間着を脱ぎ捨てる。ふと裸身を姿見で見ると、心穏やかだったあの頃の自分を見ているかのようで嫌になった。服に着替え唇に赤い紅を塗り、鞄を持ち生活感も何もない部屋を後にする。貧民街の喧騒が今日もわたくしの耳に木霊する。それは喧嘩だったり、罵声だったり、泣き声だったり…。その中にはわたくしたちに財産を奪われ家も取られてしまった人の声もあるいは聞こえているのかもしれない。今まで考えもしなかったのだけれど、今日初めてそんなことを思った。ともかくも急ごう。あまりここにはいたくない。そう思っていつもの事務所へと歩を進めた。藤田が亡くなったと言う記事は新聞の端に載った。だけれど、誰もそんな男の最期のことなんて見向きもしないことだろう。よしんば知っている人はみんな手を叩いて喜んでいることだろう。芹香さんの手の中で荼毘に付されて骨となった藤田。そんな藤田が何となく哀れに思った。
コツコツと石畳の道に靴音が鳴る。遠くのほうに事務所が見えてくる。と、道すがら通り過ぎた男性が二人新聞を見ながら話をしている光景が目に見えるまた政治の話か戦争の話か。…と思い通り過ぎた。とそうこうしているうちに事務所に着く。いつものようにカンカンカンカンと階段を上り間借りしている事務所の玄関の前に立った。はっきり言うと玄関を開けるのが怖い。彼女にどう説明すればいいのか。彼女がわたくしの話を聞いてくれるのか。それでもわたくしは伝えなければいけない。藤田の死を…。そう思い待っているであろう事務所の扉を開ける。中を見ると閑散としていた。いつもならもうとっくに来ているはずの宮原の姿はない。どうしたのだろう。お風邪でも引いたのかしら? そう考えつつ荷物の整理などを行なう。藤田の書類に目を通す。どこどこに何十円、どこどこに五円三十銭…などと細かく貸したお金のことが書かれていた。これも藤田の意地だったんだ…。愛する人に裏切られて捨てられたことへの復讐の意地…。でももう藤田はいない。わたくしと宮原だけではどうすることも出来ない。こんな病弱な女なんて頬に一発打たれたらおしまい。それは宮原だって同じだろう。改めてわたくしが藤田を頼りにしていることがよく分かった。と、そしてそれは同時にそんな彼を失ったことの重大さが分かる。その日は結局夕方まで待っていたけれど宮原は現れず仕舞いだった。わたくしは表の仕事であちこち行っているけれど、宮原は完全な裏方だ。だからこうして合わないときだって普段からある。明日は来るのだろう。そう思い書き置きだけを残してその日は帰った。
翌日、翌々日、そのまた次の日…といつまで経っても宮原は姿を現さない。もしかして! と一瞬嫌な想像に駆られたけれどふるふると首を横に振った。まさかとは思う。宮原だって人を傷つけたくはないはず…。だけど、恨み憎しみの心はいつどこで心を覆うか分からない。しかも彼女はまだ十四歳だ。まだまだ衝動に駆られてつい人を傷つけてしまうことだってあり得る。そう思うと居ても立ってもいられずにわたくしは宮原の住む家へと向かった。わたくしの家から五駅向こう、宮原の家の近くの駅で降りる。そこから半里ばかり歩くと宮原の住む家がある。一回宮原の家に来たことのあるわたくしは朧げながらに道を進む。やがてそれらしい一件の木造のあばら家が見えた。部屋番号は確か…と思い出しその部屋に着く。コンコンと扉を叩く。けれど一向に出てくる気配はない。と、隣りに住んでいる人がガチャッと扉を開けてわたくしの顔を訝しげに見ながらこう言われる。“隣りの人ならいないよ…” と…。“どこに行かれたかご存知ですか?” と聞くと、“さあねぇ〜? 分かんねえや…” そう言ってすっと扉を閉めた。行くあてなんてここか事務所かわたくしの家くらいしかないのに…。どこに行ってしまったの? そう思い宮原の行きそうな場所を回った。小川の河川敷などはもっともいそうな場所だと思って念入りに調べたけれど、やっぱり宮原はいなかった。一日中駆け回っていて当然息も上がる。
だけれどわたくしは探し続けた。なぜそうするのか自分でも分からない。けれども今日ほど一人になりたくない日はなかった。誰かにそばにいてほしかった。それが例えわたくしを恨んで憎んでいる少女だったとしても…。そう思いふっと町の喧騒に耳を傾ける。その喧騒の中、こんな話が耳に通る。“十四歳の女高利貸しだってよ…”、“その女高利貸しがどうしたって?”、“何でも人を刺して警察に捕まったとか何とか…” 一瞬耳を疑った。さらに喧騒の中、話は進む。“名前はなんて言うんだ?”、“え〜っと、宮原某とか言う女だってよ。まあこのご時世そんなあこぎなことでもやらなきゃ食っていけんわけだが、もう少し何とかならんもんかねぇ〜? あ〜、くわばらくわばら…” わたくしは動けない。ドンッと体を押され倒される。“邪魔だ! どけっ!!” と言う言葉が横のほうから聞こえてくるけれど、そんな声など耳には入らなかった。まさか春歌さんを? と思いその辺に落ちている新聞を取って見る。詳しいことは分からないけれど見出しには“十四歳の女高利貸し逮捕” とか、“被害者は女性” などと書かれてあった。先程の喧騒の中の声と、この新聞の記事…。間違いない。宮原が春歌さんを、あの毎日宮原の兄上様の墓前で涙を流して祈っている、そんな心優しい女性を…。そう思うと居ても立ってもいられずお見舞いへ行こうと思った。だけれど…、一回春歌さんのお宅へお金の取り立てに行ったことのあるわたくしだ。春歌さんの養母上様には顔は割れているはず。追い返されるに違いない。とは思うものの、やっぱり今まで何かとお世話をして頂いて、かつ、こんな社会の毒のようなわたくしのことをいつも気にかけてもらった恩もある。行こう! そう決めて新聞に記されていた病院へと足を向けるわたくしがいた。
春歌さんから聞いた妹の住所を頼りに僕は歩いている。あの浜辺で別れてから六年、思い続けていた妹にやっと会える。そう考えると僕の胸は張り裂けんばかりに高鳴った。もちろん妹から拒絶されることは分かりきっている。殺されることだって覚悟の上だ。だけど、僕にとって最愛の彼女でありまた最愛の妹の、命の灯火は確実に減ってきている。春歌さんが言っていた。“鞠絵ちゃんを救ってあげてください。命のある時に…” と。彼女の目を見つめて僕は改めて決意する。“鞠絵…。僕が必ず助けてあげるから、だからそれまで待っていておくれ” そう思いながら春歌さんに教えてもらった道を急いだ。汽車に一駅ほど乗って三十分ぐらいは歩いただろうか、街の明かりが怪しく灯るような場所へとやって来る。ここは日雇いなどで生活する貧しい人たちが生活する町の一角だ。そのやや奥まった一軒の借家の前、僕は立った。磨りガラス越しの扉の向こうには妹の姿が今にも現れてくるような感じがして緊張が入る。コンコンと扉を軽く叩いてみる。だけど、誰も出てこない。いないのか? そう思ってふと後ろを振り返ると遠巻きに怪訝そうな目をした人たちが僕のほうを見ていたかと思うと一斉に余所を向いたり家の中に入ったりする。やはりここでも畏怖の対象になっているのかと思うと少しばかり切なくなった。とにかく話がしたい。そう思って余所を向いている人に声を掛けるものの、“し、ししし知りません。後生ですからその手を放してください〜っ!” といつの間にか掴んでしまっていた手を振り解こうと必死になっている男性。バッと手を振り解くと、“ひぃ〜っ!!” と言う言葉を残してそのまま走って逃げていってしまった。他の家の者は皆一応に僕のほうを怪訝そうに少し開けた扉から様子を窺がうように見つめている。その目はどれも恐怖と怒りと悲しみと言う負の感情しかなかった。沈痛な面持ちのままそのまま妹の家を去ろうかと言うとき、“少しいいかい?” ととある壮年の男性に声を掛けられる。振り返ると一人の屈強な体つきの男性が僕のほうを見遣っていた。
「ええ、構いませんが…」
そう言うとその男性はすっと後ろを向き歩き出す。まるで自分について来いと言わんばかりな感じに途中何度も振り返り僕のほうを見つめている。急いで鞄を引っ手繰ってその人の後をつけた。やがてそれなりの家の前に着く。壮年の男性はその中へと入っていった。僕もその後に続いて入る。居間に通されて待っていると着替えてきたのか随分とゆったりとした着物に替わっていた。“お前さん、見た感じ随分といい身分だとみるが…。何であの家に立っていた? あそこは泣く子も黙る高利貸しの女の家だって言うのに…” そう言って鋭い眼を僕に向けてくる。“はい、あの家の女性は…” と僕は六年前の出来事から順を追って話した。途中涙に詰まる部分もあった。だけど全部話した。話が終わると男性は、“そうかい…” と一言呟くように言う。しばらく沈黙が流れる。と男性が静かにこう言った。
「…悪いがお前さんとあの女とはもう住む世界が違うんだ。こんな俺が言うのもおかしな話だが、もうそっとしといてやんな? あんただって妻子がいるじゃないか。だからあの女のことは忘れたほうがいいんだよ。もうこの世にはいないって思ったほうが身のためだ。……でも、でもどうしても忘れられないって言うなら好きにしな。会って殺されても俺は一向に知らんし関わりもない。まあそう言うこった。あっ、ここで話したことは忘れてくんな」
僕のほうをちらっと見てそう言うと男性は頬をぽりぽりと掻きながら徐に外を見る。僕も連られて見た。今日は満月だったのか…。そう言えばあの日もこんな月のきれいな夜だったな。涙に濡れた瞳を憎々しげに、そしてそれ以上に悲しげな瞳を僕に向けて去っていく妹の姿は目を閉じると鮮明に思い出す。知らず知らずのうちに涙が出ていたのか頬が濡れていた。服の袖で一気に拭う。そんな僕を男性がどう見ていたのかは分からない。だけど僕は妹を、最愛の人を連れ戻す。例え傷つけられても、殺されても構わない! ただ闇の底から救い出してやりたい。心の中はそのことばかりだった。
「では帰ります」
と玄関先で僕は言う。男性は、“まあ一応は忠告はしたからな。でも…。あの女もお前さんも馬鹿って言うかなんて言うか…” そう言って頬をぽりぽりと掻いていた。この人は案外悪い人ではないのかも知れない。彼の仕草を見ていてそう思った。こつこつとまた歩き出す。ふと妹の家を見る。まだ帰っていないのか灯かりは灯っていなかった。それから毎日ここを訪れる。だけど妹・鞠絵の姿は一向に見えなかった。そんな僕を咲耶がどう見ていたのか、僕は知っている。だけど僕には自分でもどうすることも出来ないほどの深い悔悟と懺悔と、そして何より妹を、最愛の妹を救いたいと言う思いがあった。でも会えない日々は続く。そんなある夜のことだった…。
こつこつと歩く靴音が石畳の上に響く。春歌さんの入院していると言う病院の前、ようやく辿り着いた。新聞ではどこの病院に入院したのかは書いてはなくて、新聞社に出向いて問い合わせてみるものの、“親御さんから公表は差し控えさせてくれ、と仰っていらっしゃいますので、こちらとしても対応致しかねます。それともご関係者の方か何かですか?” と訝しげにわたくしのほうを見つめてくる。関係者と言えばそうだろう。でも、“あっ、いいえ。ちょっと新聞で拝見して、大変そうだと思って何かお手伝いでもと思って…” と咄嗟に嘘を吐くわたくし。新聞社を出るとまた歩く。宮原は近々裁判にかけられるのだそうだ。警察は背後関係などを詳しく調べるとか新聞には書いてあったけれど、それは無理だろうと思う。だってもう実態がないのだから…。それにわたくしはまだ捕まっていない。こんな社会の毒でしかないわたくしを捕まえることなんて警察は容易いはずだ。だけれども、わたくしはこうして歩いている。少し不思議な感覚に陥ってしまう。何故? とも思う。でもわたくし自身、捕まらずにこうやって歩いていけていることはありがたいと感じることも少なからずある。…と同時に罪の意識に苛まれることだってある。最近はそれが如実に現れるようになった。夜には眠れないほどの幻覚や幻視を見ることが多くなった。何れもわたくしに家や財産を奪われ、一家離散や心中をさせられた人たち。怨念と憎悪がこのような幻覚になって現れるのだろう。そう思った。死んでしまえばどれほどか楽になれるだろうか? そう思うこともある。でも、まだ死ぬわけにはいかない。第一、あの人への復讐も残っている。…最近ではその復讐が重荷に感じてしまうこともあるのだけれど。でもあの日のことは今でも鮮明に記憶の奥底に残っている。お優しくて、お強い心の持ち主だったあの人。山神の家に入ってからも咲耶さんだけを愛されていると聞いている。悪い噂なんてこれっぽっちも聞かない。そう考えるとやっぱりわたくしの愛していた人は清廉潔白を地で行くような人だったんだと思い馳せられる。いっそ復讐なんてやめてしまおうと思ったことだって幾度となくある。でもあの浜辺で告げられた別れの言葉がどうしてもわたくしには許せなかった。そんなことをのつのつと考えながら歩いて、春歌さんの入院していると言う病院を探す毎日が続いた。
そして今日。とうとう春歌さんの病院を探し当てたわたくし。果物を入れた籠を片手に病室までの階段を一歩、また一歩と昇る。二階まで来た頃だろうか、一人の老女が怪訝そうな眼差しをちらっとこちらに向けてくる。その顔を見てわたくしは驚くと同時に自分の悪業の因縁か…とも思った。その顔はまさしくあの時の、お金の亡者の成り果てて催促に向かった先、宮原が今はなき兄上様を返せとせがんだ先にいた春歌さんの養母上様だったから。咄嗟に顔を隠すように後ろを向くわたくし。そんなわたくしに、“もし、そこのあなた” と養母上様の呼び止める声。こちらに来る足音が怖かった。このまま逃げてしまえばどんなに楽だろう。でも春歌さんには良くして頂いた恩義もある。そう考えて覚悟を決めて振り返る。と、じっとわたくしの顔を見つめる春歌さんの養母上様。と、あっと思い出したのか、狼狽するかのように後ろへ下がって、“う、うちにはそ、そそそんなお金はありません! 第一借りてもいませんのにどうやって返す必要があるのです? だ、誰か来て〜っ!!” と大きな声で助けを呼んだ。わらわらと集まってくる人々。その中にはわたくしからお金を取られた人もいたことだろう。がやがやと煩いまでの喧騒に包まれた。“詐欺師”、“悪魔”、“鬼畜生”、いろいろな罵声が聞こえてくる。更には胸倉まで掴もうと必死に手を伸ばしてくる人も見受けられた。頬を叩かれそうになる。身の危険を感じてその場を後にするわたくし。表へと逃げだす。そんなわたくしの後ろ、追いかけて来て石を投げてくる人々の中心に、ぐっとこちらを睨みつける春歌さんの養母上様の姿があった。果物の籠もない。あの騒動の中、落としてしまったのだろう。そう思って徐に顔を上げ未だこちらを睨んでいる養母上様のほうを見る。投げ捨てられてぐしゃりと潰された果物籠があった。それを見ると、わたくし自身何故だか分からないけれど、涙が込み上げてきてしまう。恨みと言うものはこんな些細な物にまで当たってしまうものなのかと、ぐしゃぐしゃに潰された果物籠を只見ることしか出来なかった。と同時にもう春歌さんとは一生会うことはないだろうな? そう思った。一言だけ、一言だけでも今までのご恩に返礼をしたかった。だけれど、それも叶わない願いなのだと思った。所詮は住むところの違う人間なのだ。もう二度と会うことも出来ない。いや、させてはくれないだろう。そう考えながら病院を後にするわたくし。しばらく歩く。もう病院は遠くに見えるだけとなる。深々とお辞儀をする。また涙が込み上げて眼鏡の上、小さな水たまりを作った。
入院生活にも慣れてきたころ、ワタクシは一人の女性、ううん、一人の少女のことを考えていた。あの丸眼鏡と長い髪に少々痩せた頬の少女。鞠絵ちゃん。鞠絵ちゃんの兄君さまにもお会いして鞠絵ちゃんの現状を伝えた。まっすぐにワタクシのほうを見つめる鞠絵ちゃんの兄君さまの顔は、真剣そのものだった。如何に鞠絵ちゃんを大事に思って、愛しているのかがよく分かる、そんなお顔だった。この人にならば、あの地獄の底でもがき苦しんでいる一人の少女を助け出してくれる! そう信じて彼女に誰にも口外しないと誓った住所を教えた。彼女は決してワタクシを許してはくれないだろう。でも、ワタクシにはもう彼女にこれ以上悪事を重ねてほしくはないと思った。四葉さんには悪いとは思うけれど、ワタクシ自身の姿を鞠絵ちゃんに重ねてみているのかも知れない。そこにもう一人の自分がいるような気がして、心の奥底の嫌な自分を見ているような気がして…、そんな浅ましい自分の心の葛藤を鞠絵ちゃんの姿に重ね合わせていた。でも、もうすぐそのような鞠絵ちゃんの心を、頑なな彼女の心を温かく包み込んでくれる存在に出会えるのだ。そう思うとワタクソの心は晴れやかになる。
そう思って日一日を病室のベットの上で送っている。それにしても今日はやけに外が騒がしいのですわね? そう思って通りかかった看護婦さんに聞いてみると何やら呼ばれてもいない人がのこのこ病院まで来たので皆で追い返したそうだ。まあここは様々な人生の劇場と言うべき物語が渦巻いている場所だ。波乱万丈な人生を送ってきた人だっているだろう。そう言う人の声、あるいは叫びに近いものなのだろうな? そうその時のワタクシは思った。それが自分に向けられたものであると気付かされたのはその騒動の一日後だ。養母君さまから話を聞く。…目の前が真っ暗になった。愕然とした。と同時にこの自分の身体を呪う。養母君さまはワタクシが鞠絵ちゃんと親交があることは知らない。だからお見舞いに来た鞠絵ちゃんをお金を取りに来た高利貸しと勘違いなされたのだろう。ワタクシが表を見ていれば、ううん、それ以前に鞠絵ちゃんのことを養母君さまにお話しておけば今回のようなことはなかった。でもそんなことを言えるはずがない。ワタクシがそんな闇社会の人間と繋がりを持っていると知られればきっとワタクシは表には出してはくれないだろう。彼女と会うことだえ出来なくなるのだ。そう考えると自分がなんて浅はかだったのかがよく分かる。伝え歩きで窓まで来ると窓の外を見る。“鞠絵ちゃん…” と彼女の名前を呟くように言うと、涙が溢れてきた。助けてあげたいとは思う。絶望の淵から救い出してあげたいと思う。でも動くのもやっとなこんな体ではどうすることも出来ない。もどかしさと苛立ちだけがワタクシの心に残る。気がつくと軽く嗚咽しているワタクシがいた。
何も残ってはいなかった。春歌さんに一言のお詫びとたくさんのお礼と感謝を伝えたかった。それなのにその言葉も言うことも出来ず、遠くのほうからお辞儀しかできないわたくしはなんて滑稽で惨めなのだろう。そう思いつつ何もない自分の家へと急ぐ。こんな日は何もせず寝てしまった方がいい。そう思う。一人が、こんなに怖くて寂しいものだなんて今まで気づかなかったけれど今は強く思う。でも、わたくしは泣く子も黙る女高利貸し。誰もわたくしには見向きもしない。こういう家業に就いていると人々の裏の本心と言うものが見えてきて時々恐ろしくなることがある。それは呪怨だったり怨嗟だったりと言う人の負の側面ばかりだけれど、今日だけは聞きたくないと強く強く思って耳を塞ぎ目を瞑り、必死で走る。と、とん! と何かにぶつかる。思わずよろめきそうになる。と大きな手がよろめいたわたくしの体を支えてくれた。界隈の人は遠目に見ているだけ。決して助けてくれないことはわたくし自身よく分かっている。では誰? そう思い顔を上げた。驚いた。心臓が口から飛び出るほどに驚いた。そこにいた人…。恨んで憎んでこの社会への復讐を誓った発端となった人…。そして誰よりも何よりも愛していた人…。航さんだったからだ…。
「六年間…探したよ。鞠絵…」
あのお優しい顔のままわたくしの顔を見つめている。その澄んだ瞳に心まで見透かされているような気がして咄嗟に後ろを向いてしまった。逃げたい! こんな惨めな姿を見られたくない! そう思い咄嗟に手を振り払うと逃げるわたくし。航さんは追いかけてくる。夜の闇にアーク灯の灯る橋の袂、あの人の温かい手がわたくしの冷たく冷めた手を掴んでいた。後ろ手にしっかりと握られた手にはあの六年前の温かさがしっかりと残っていた。いや、それ以上に温かい手があった。わたくしの冷たく冷めた手に覆い被さるようにあの人の温かな手が掴んでいる。あの人が静かにこう言う。
「六年間、毎日探した。毎日お前の行方を探し続けてたんだよ。鞠絵…。お前は六年間片時も忘れることが出来ず、お前を裏切って咲耶と結婚した僕を恨んで憎んで暮らしてきたんだろうね…。そのことを今更許して欲しいだなんて僕はこれぽっちも思っていない。もしお前がここで僕に死んで詫びろと言えば死んで詫びるつもりだ。…ただ、ただ僕はお前に謝りたかった。すべてはあの時、僕の浅はかな考えが全ての元凶なのだから…」
あの人の発した声が徐々に涙声に替わっていく。そっとあの人がわたくしの肩に顔をつけた。肩越しにあの人の涙が流れているのが分かった。“航さん…” 久しく呼んでなかった名前を呼ぶ。後ろ手に置かれた温かな手に触れた。眼鏡越しにちらっと見る。わたくしの肩に顔をつけてあの人は泣いている。藤田も矢島もいない。宮原は警察に…。もうわたくし一人だけが残っているだけだ。そのわたくしにもいつ警察の手が伸びてくるか分からない。それに航さんだって家族を守らないといけない。こんな薄汚れた社会の毒でしかないわたくしを守っても何の得にもならない。むしろ害になるばかりだろう。だからもうわたくしのことは忘れて欲しい。そう言う気持ちがむくむくと沸き立ってくる。憎んで恨んでいた先にある気持ちはこう言う気持ちなのか? と自分でも驚かされるほどに今のわたくしの気持ちはそう言う気持ちだった。涅槃寂静とは言うけれどそう言う心持ちでわたくしは言う。
「もうわたくしとあなたとでは住む世界が違い過ぎるのですよ…。わたくしがどんなにあなたの住む世界に行きたいと願っても行けません。それにわたくしはもう変わってしまいました。あなたの知っている鞠絵ではないのです。卑劣で冷酷な女高利貸し、それがわたくしの今の姿なのです。そんな女をまだ愛しているだなんて…。うふふっ。……いえ、すみません。とにかくもうわたくしのことは、あなたの知っている鞠絵と言う人間は死んだものだと思ってお忘れください。おじ上様、おば上様にもそうお伝えください。お願い致します…」
静かに呟くように言うわたくし。笑みが零れる。でもなぜか涙も溢れて来てしまう。ぽたぽたと大粒の涙が零れ落ちた。眼鏡を持ち上げ一気に拭う。でも涙は止めどなく流れてしまって…、まだこんな社会の毒となっても、人の財産を貪りつくす悪魔となっても、こんな純真な心が残っていることにとてつもない罪悪感を覚えてしまった。そんなわたくしに背中越しの彼は言う。
「忘れることなんて…、忘れることなんて出来ないよ…。僕は鞠絵、お前のことをずっと探してきたんだよ? それを忘れろだなんて…出来るわけないじゃないか! …お願いだ。僕と一緒に海神の家に帰って来ておくれ。父さんも母さんも、それにひばりちゃんだって待ってるんだよ? 特にひばりちゃんは六年間ずっとお前の帰りを待っているんだよ? だから僕と一緒に帰って来ておくれ。お願いだよ…、鞠絵」
そう言う彼。ひばりちゃん…。懐かしい名前。こんなみなしごのわたくしのことを“姉さん” と言って慕ってくれた。あの時の光景がわたくしの脳裏に一瞬にして蘇る。そして六年経っても変わらずこんなわたくしのことを探してくれているなんて思いもよらなかった。だから尚更帰られない。こんなあこぎな商売に身を染めて他人の弱みに付け込んでお金を騙し取ると言う一番醜い商売をやって来たわたくしがどんな顔をして彼女の前に立てられると言うのか…。もちろんあの光の世界に帰りたいと言う気持ちは藤田の逝った日から日に日に強くなっている。でも、それは絶対に出来ないことだ。どんなにわたくしが帰りたいと願っても今までの悪業の因縁からは逃れられないと思う。あの地獄の底から毎夜毎夜聞こえてくる怨嗟の声…。そんな人の恨み・憎しみを買って生きてきたわたくしが今更光ある世界に戻れるわけがない。でも家も知られてしまった。航さんはわたくしを連れ戻すまで何度でも通ってくるだろう。いっそのこと警察に自首しようか…とも考えたけれど、その勇気は今のわたくしにはなかった。そう思うと自分はなんて弱い人間だろう、まだ宮原のほうがましではないの? と考えてしまう。航さんは背中越ししっかりわたくしの体を抱き止めている。嘘を言い、人を騙し生活してきたわたくしではあるのだけれど、航さんだけには嘘は言っていないし言えない。いや、言いたくはなかった、でも彼の生活を守るために今日が最初で最後の嘘をつく。意を決してこう言った。
「…分かりました。では明日の朝、こちらにお越し頂けますか? 今から荷物の整理とかを致しますので…」
そう言ってくるりと体を反転させて正面に航さんの顔を見るわたくし。六年間経ってもあの当時のままの澄んだ瞳が見える。何もかもあの当時のままだった。見る見るうちにぱあっと明るい笑顔に変わる航さん。その顔に多大な罪悪感が残った。けれど、こうでも言わなければ、彼は諦めてくれないだろう。そう思った。うんうんと首を縦に振るあの人の心の底からの笑顔が胸を突く。“具体的な話は明日の朝決めよう。今日は今から帰って咲耶に話をして…” と言うあの人の心の底からの喜びに罪悪感がひしひしと沸き立ってくる。“じゃあ明日必ず迎えに来るから! 待っていておくれ! 絶対だよ!!” そう言ってあの人は自分の家に帰っていく。後ろ姿を見遣りつつ、“ごめんなさい…” と一言呟くわたくしがいた。
航さんが喜び勇んで帰ってくる。多分鞠絵さんにお会いしたのだろう。そう思っていつも通り迎えに行くと、“咲耶、君には随分と苦労をかけてしまったね? すまない。でもそんな日々とも明日で終わるんだ。妹が、鞠絵が帰ってきてくれるって! 僕の元に帰ってきてくれるって!” そう喜びを爆発させるように言う。航さんにしてみれば長年探し続けていた最愛の人が帰ってきてくれること、どんなにか嬉しいことだろうと思う。私も素直に嬉しいとは思う。でも心のどこかでは、“そんな人のことは忘れて!” と思う気持ちもあった。“仮初でも幸せな家庭だったじゃない。それなのにどうして? どうして航さんは鞠絵さんばかり見ているの? 私や娘はあなたと一緒にいたいだけなのに…。もう彼女のことなんて忘れて本当の幸せな家庭を築きましょうよ。ねぇ!” と願う気持ちもあった。でもこんなことは口が裂けても言えない。言えるはずもない。本来ならば私のいる位置は彼女の位置だったのだから…。それを無理矢理奪った私には何も言えない。心からそう思った。彼が寝静まった後、役所から秘かに貰った一通の離婚届を引き出しから出す。娘の親権は航さんになる。鞠絵さんが娘を見て私の敵と思って苛めたりしないだろうか? …いや、と首を横に振った。あの心優しそうな寝顔だった彼女のことだ。きっと娘のことも可愛がってくれるはず…。そう思い離婚届の欄に自分の名前を書こうとする。けれど途中で名前を書く手が何度も止まりかける。必死の思いで書いた。判を押す頃には涙で前もよく見えなかった。後は彼が名前を書いて判を押し、役所に持って行けば離婚は成立する。六年…か。長いようで短い期間だったわね。彼のベッド一緒に入る。背中越ししがみつくように彼の背中に体を預ける私。もうこれで最後…。そう思うとまた涙が溢れて流れ出す。声に出さず軽く嗚咽する私がいた。
鞠絵が、僕の最愛の妹が、帰って来てくれる。そのことで僕の心は浮足立った。六年間会いたくて会いたくて仕方のなかった妹。その妹に会えたと言う喜びで僕の心は張り裂けんばかりだった。眼鏡をかけたあの顔は化粧をしていてもあの懐かしい日々のままだ。思えばあの日の夜から、後悔と懺悔とを繰り返してきた。妹は僕への憎しみ、そして恨みの心を持って生きてきたのだろう。でも今日会ったときにはそんな素振りは一切見せなかった。何故だろう? 一抹の不安が僕の頭を過ぎる。しかし、浮き立つ心は止められない。鞠絵の今までの苦しみや悲しみを吹き飛ばすくらいの喜びや愛で包み込んであげよう。そう思い家へと戻る。咲耶は素直に喜んでくれた。娘もにこにこ顔で、“早く会いたいな?” と言ってくれる。“明日には会えるよ” そう言って僕は娘の頭を一撫でに撫でた。そう、もうすぐ。もうすぐだ…。自分の心に言い聞かせるように僕は何度も何度も反芻するように“会える” と言う言葉を頭の中で繰り返すように思った。
次の日はいの一番に目が覚めた。今日、やっと六年間の思いが叶う。汽車と徒歩で妹の家に向かう。もちろんひばりちゃんも咲耶も一緒だ。咲耶が何か言いたそうにしていたけど、今の僕はそれどころではないことは分かっていたんだろう。僕の顔を見遣ると一瞬何かを言いたげにしながらもそれを誤魔化すように微笑みを作っていた。その微笑みの意味を僕は知っている。でも今はやっぱり言えない。いや、言わないでおこう。そう思った。ひばりちゃんは探し続けていた姉の行方がようやく分かって安堵したのか昨日連絡を入れると飛んで来て僕の胸に縋り付いて、“やっと、やっと会えるんですね? 兄さん…” そう言って涙を流していた。“そうだよ、ひばりちゃん! やっと君の願いが叶うんだよ!” そう言ってハンカチで涙を拭ってあげる僕がいた。貧民街を行く。人々は物珍しそうに僕たちを見ている。そう言う視線には目もくれず僕たちはただ前を向いて歩いた。やがて妹の住む家が見えてくる。胸の鼓動が高鳴る。やがて目の前、妹の玄関先足は止まった。ノックを数回してみた。“鞠絵” と呼んでみた。が、出てくる気配がない。ここで嫌な予感が頭を過ぎって力任せに引き戸を開ける。鍵は掛けられてなく簡単に開いた。中へと入ると何もない。ただ一通手紙が机の上、認められていた。震える手で手紙を取る。中を開く。中にはこう書かれていた。
“前略。航さんへ…、今頃は驚いていることだろうと思います。六年間ずっとわたくしを探して下さったこと、あなたが思い変わらずわたくしのことを思っていてくださったことは感謝してもしつくしません。本当にありがとうございます。しかし今までのことを考えますと、やっぱりあなたとわたくしとでは住む世界が違い過ぎることが昨日あなたとお話ししてよく分かりました。それにわたくしの手は汚れに汚れきってしまっております。そんなわたくしが今更どんな顔をして戻られましょうか…。あなたはそんなわたくしでもいいと仰ってくれることは分かっておりますけれど、わたくし自身の心が許せません。そう考えますと、わたくしはやっぱりあなたの前から消えるべき存在であることを確信しました。咲耶さんと末永い幸せをお祈り致しております。…思えばこの言葉を六年前のあの時になぜ言えなかったのかと思いますけれど、その辺はお許し頂けれありがたいです。ひばりちゃんもいつもわたくしのことを思ってくれてありがとう。そしてこんな意気地のない姉の勝手を許して下さいね。おじ上様・おば上様初め皆々様のご多幸をお祈り致しておりますとともに、わたくしのことは早くお忘れ願いますように思う次第です。最後になりましたが、咲耶さん、わたくしの愛した兄上様のこと、これからも末永くよろしくお願い致します…。 かしこ”
目の前が真っ暗になる。一瞬思考が止まって、はらはらと手から手紙が落ちた。咲耶かひばりちゃんが拾い上げたんだろう。拾い上げる音が聞こえた。置いてある机に手をつく僕。涙が溢れて止まらない。“何故…、何故? 昨日約束したじゃないか。うんって首を振ってくれたじゃないか。どうして、どうして…こんな手紙一枚だけを残してまた僕の前から消えてしまうんだ? 鞠絵…” そう思いながら机に両手をついてしまった。涙が止めどなく僕の頬を伝っていく。咲耶と一緒に手紙を読んでいたんだろうひばりちゃんが、“姉さん…” と消え入るような声で呟いていた。と手紙を一緒に読んでいた咲耶がこう言う。“まだ間に合います! 探しましょう。航さん” と…。そう言ってトンと優しく背中を叩いてくれた。そこではっとなると起き上がった。そうだ、まだ間に合う。いや、間に合わせてみせる。そう思い直し、咲耶もひばりちゃんも置いて、僕は妹・鞠絵を探しに出掛けた。咲耶もひばりちゃんも後を追いかけてきているのだろう。僕の靴音の後、二つの靴音が聞こえていた。手には昨日の夜に触れた最愛の妹の手の温もりを感じつつ、僕は走った。妹の行きそうな場所、ほうぼう捜した。けれど見つからない。
駅か? と直感的に思い横浜駅まで走る。途中ふぅふぅと息が上がって立ち止まったけれどまた走る。もう咲耶もひばりちゃんももう追いかけてはこない。やがて横浜の駅舎が見えてくる。走る速度は緩めず、一気に駅舎の中に入った。その辺にいた駅員に妹のことを尋ねてみるものの一応に皆首を横に振った。濛々と煙を吐く汽車の立ち並ぶ構内を必死の思いで捜す。と一つの汽車の乗客の中、俯いている女性が見えた。その横顔は正しく僕の妹・鞠絵の横顔だった。大きな声を出して妹の名前を呼ぶ。だけどその声は人々の歩く靴音、あるいは喧噪でかき消されてしまう。ならばと思い人の波が押し寄せる中必死で妹のいる汽車へと行こうとする。そんな僕をあざ笑うかのように人の波は僕と妹を引き離すかのように遠くへ遠くへと押し遣った。やがて無情にもピーッと言う汽笛を鳴らし汽車はゆっくり走り出してしまう。妹は最後まで俯いたままだった。そして残煙を残し汽車の出た後、僕は静まり返った構内に立っていた。止めどなく涙を流して…。清掃に来た人が僕のほうを訝しげに見遣っているのにも気に留めず、僕は涙を累々と流していた。…また妹は僕の前から姿を消してしまった。鞠絵、お前はどこに行くんだ? こんな泣き虫の頼りない兄を一人残して、どこに行くつもりなんだ?…。打ち払うかのように涙を袖で一気に拭う。手を力いっぱい握りしめる。“僕は…、僕は諦めないよ。諦めるつもりもない! 今度は必ず見つけ出してみせるから。何年掛かろうとも必ず見つけ出してみせるから…。そして叱ってでも連れて帰ってみせるから…。それまで元気でいておくれ、鞠絵…” そんなことを考えながら僕は妹の去った駅舎から止めどなく流れる涙を拭うこともせず、朧気に見えるこの広い大空を見つめていた。
つづく…