うぐぅ〜。祐一君、イジワルだよ。
 だって、ボクのこと子供っぽいとか、男の子っぽいとか言って来るんだもん…。ボクだって…、ボクだって女の子なのに…。うぐぅ〜。いいもんいいもん。
 じゃあ、ボクが女の子だって言うところを見せてあげるよ!! そして、祐一君を見返してやるんだっ!!


素敵になりたい


「ああ、今日はいい天気だなぁ」
 日差しは初夏を思わせるような季節。俺は校門を出た途端、そう呟いた。
 もう5月も中旬だ。この町にも初夏がやって来たようだ…。
 名雪は今日も部活だ。フェンス越しに、陸上部の練習風景が見える。俺は高校3年になった。もう1ヶ月が過ぎようとしている。舞と佐祐理さんは近くの大学に通っている。
 真琴はどういう訳か元通りに治って、今ではもう水瀬家の一員だ。栞の病気は完全に治ったもののもう一度一年生だ。
 名雪の進級はかなり危なかったものの、香里がスパルタでビシビシやったおかげで何とか進級できた。
“お前はいつも寝てばかりいるから危なかったんだ! もうちょっと自分に自覚を持て!!”
 俺がそう言うと…、
「うう…、ひどいよぉ〜。祐一…」
 と涙目になる。俺は名雪の涙には弱い。俺はやっぱり名雪には勝てないのか?
「ちぇっ、わ、わかったよ…。俺が悪かったよ。謝るよ。このとおり、ごめん…」
「うふふ、わかればいいんだよ〜。祐一」
 はぁ……、名雪には逆らえないな…。俺はそう思った。


 今日も今日とて、名雪に泣かれ、香里にはどやされ、散々な一日だった。
「はぁ…」
 思わずため息が出てくる。やっぱり父さんの言うことを聞いて、帰ったほうが良かったのか…。でもなぁ……。一人夕焼けの中、そう思いながら帰ろうとする。と突然、後ろから…、
「どいてどいてどいてぇぇぇ〜」
 ドンッ!!
「うぐぅ…。鼻が痛いよぉ〜」
 俺は、ある物体の攻撃をかわした。と思ったが、その物体は俺の避けた方向に向かって勢いよくぶつかってきた。
 そしてその物体に真正面からぶつかってしまった。なぜだ?…、と思った。真正面からの攻撃は俺の予想を遥かに超えたものだった。思いっきり痛い…。
「避けそこねた?……。ちくしょう……」
「うぐぅ〜…。…避けてって言ったのにぃ〜。……あっ、ゆ、祐一君?」
 その物体をよく見てみると、いつもの“たいやきうぐぅ”だった。
「うぐぅ。ボク“たいやきうぐぅ”じゃないもん…」
「また口に出してたのか? 俺は…。はぁ…。癖とはいえ直さなきゃいけないな…。おい、あゆ。いやいや、お前は正真正銘の“たいやきうぐぅ”だったな。これは俺の全人生を賭けてもいいぞ!!」
「訳わかんないよっ!! それに…、全人生って何のことだよっ!!」
「言葉どおりだ…。それよりあゆ…、お前、また食い逃げか?」
「うぐぅ〜。食い逃げじゃないもん。祐一君の姿が見えたから、嬉しくて飛びついただけだもん!!」
 あゆは青いオーバーオールに、短めの髪、髪留めに見える赤いカチューシャ、そのカチューシャを隠すように被っている訳のわからない帽子という、いかにも男の子っぽい服装で立っていた。
 他の人から見れば小学校5年生くらいの男の子に見間違えられるくらいだろう…。現に俺はそう思った。
「嬉しくて飛びついた? おい、あゆ。人はそれをタックルって言うんだぞ?! はあ…、お前は嬉しかったらタックルをしてくるのか? ええっ? 少しはタックルされる俺の身にもなってくれ! ……それにしても…、うぷぷ…、どこからどう見ても、小学生の男の子だなっ。ええっ? あゆあゆ」
「うぐぅ。ひどいや、祐一君…。ボクはただ嬉しくて飛びついただけなのに…。この帽子だって、祐一君がプレゼントしてくれたものなのに…。それにボクだって女の子だよ!! あゆあゆじゃないよっ!! ひどいよ! 祐一君…」
「じゃあ、その“ボク”って言う言葉は止めることだな。“わたし”って言ってみろよ。女の子らしくなってみろよ…。おしとやかに。そうだな…。佐祐理さんか天野みたいになってみろよ。まあ、天野はおしとやかを通り越して、ちょっとおばさんくさいけどな…。まぁ、どっちにしても、“わたし”って言ってみろよ。女の子らしい仕草で思わず俺を“ギョッ?!”って驚かすくらいになってみろよ…。そしたらお前が女の子だって認めてやる。それが出来るまで、お前は小学生の男の子だっ!! 名前もあゆあゆだっ!!」
「うぐぅ。祐一君、イジワルだよー。いいもん。今度祐一君の背中にこっそり羽付けてやるんだから。いいもん」
「だから…、それが小学校の男の子だって言うんだよ…」
「うぐぅ〜…。いいもんいいもん。ふんだっ。次に出会うときは祐一君が驚くくらい女の子らしくなって、見返してやるんだからー!! べーっ、だっ!!」
 俺に向かってあかんべーをすると、あゆは家と逆方向の町の喧騒に消えていった。いつまでたっても子供なんだからな、あいつは…。って、あいつの家は水瀬家じゃないか!!


「うぐぅ……。ひどいやひどいや。祐一君。ボクだって気にしてるのにぃ〜」
 ボクは、夕闇の中、一人歩いていた。
 ボクの家はない。お父さん、お母さんはボクが小さい頃に天国へ行ってしまった。だからボクは今、秋子さんの所に居候させてもらっている。秋子さんは本当のお母さんのように優しい。
 名雪さんや真琴ちゃんとは本当の姉妹のような感じで、よくボクの相談相手になってくれる。
 それに…、イジワルな祐一君も一緒だ…。祐一君は本当にイジワルなんだよ…。
 だってボクの大好きなたいやきを一人で全部食べちゃったこともあったし、ボクが大好きなテレビを、祐一君…、他のにかえちゃって最後まで見せてくれなかったことだってあったし、デートに行ってもボクがお化けとか嫌いなのに怖い映画に無理矢理連れて行かされたことだってあったし、ボクが男の子っぽいと言うだけで銭湯も男湯のほうに連れて行かされそうになったこともあったし、北川君には「俺の弟だ」って紹介するし…。
 うぐぅ…。でも、その時は名雪さんの「お母さんのジャムだおー」の一言で、祐一君、顔が真っ青になってたけどね…。うふふ。
 でも、その他にもいろいろイジワルされてる…。
 真琴ちゃんには優しくなったのに、何でボクにだけイジワルして来るんだろ…。はぁ〜。ボクってそんなに魅力がないのかなぁ…。
 それとも……、祐一君、ボクのこと…、嫌い? なのかな?…。
 ううん。考えるの、よそう…。祐一君、とってもイジワルだけど、ボクのこと好きだって言ってくれたんだもん。
 でもイジワルなのは変わらない…。うぐぅ…。
 …よし!! もうこうなったら、何が何でもボクが女の子だって言う証拠を絶対に祐一君に見せてやるんだ!! そして女の子らしくなったボクを祐一君に見せて祐一君を見返してやるんだっ!!
 ボクは一番星にそう誓った。
 でも、これからどうしよう。
 秋子さんのところへ帰って祐一君にまたイジワルされるのは嫌だし…。それに暗くなるし…、暗くなったらボクの大嫌いな…、ぶるぶる…。
 思い出すだけでも、ううん、考えるだけでも嫌だよ〜。怖いよ〜。ボクがあれこれ考えているところへ…、
「あれ? あゆさん。どうしたんですか? こんなところで…」
「あゆちゃん、どうかしたの?…」
 栞ちゃんと香里さんが、そう尋ねてきた。
 栞ちゃんと香里さんは、ボク達の友達だ。栞ちゃんとはボクが夢の中にいるときに出会ったんだ。ちょうど祐一君がこの町に来たときだね…。
 そして、祐一君は数々の奇跡を起こしてくれたんだよね…。そして、ボクたちはここにいることが出来たんだ…。
 そういうところは祐一君に感謝しなくちゃいけないね…。ボクは独りぼっちだったから…。ずっと独りぼっちだったから…。
 栞ちゃんと香里さんがうらやましいなぁ。ボクも名雪さんや真琴ちゃんと、もっと仲良くなりたいなぁ〜。ボクはそう思った。
 それで……。あっ、そうだ。ボク、いいこと思いついちゃったよ。うふふ。祐一君…、もう、ボクのこと男の子っぽいって言わせないからね! 枕を高くして寝られるのも今のうちだよっ!
 ボクは栞ちゃんたちに相談してみることにした。
「そうです。それは祐一さんが悪いです! 私には“アイスクリーム女”だとか言ってくるし…。ひどいですっ。祐一さん…。そんなこと言う人嫌いですっ! 許せません! お姉ちゃんもそう思うよねっ! ねっ、お姉ちゃん?」
「そうね…。そう……、そうだわ! 相沢君が悪いと思うわ! 最近、お金が掛かるからって、あたしの大事な栞をほったらかしにするのよ。許せない…、許せないわ! 相沢君!!」
「それで、お願いがあるんだよ! ボクを立派な女の子にしてほしいんだ。可愛くて上品で、祐一君が見たらびっくりするくらいな女の子になりたいんだよ!!」
「ええ。協力するわ。いや、協力させてちょうだい。栞、ついでにあんたもやるのよ。あんた、これから男の人と付き合って、そんなことじゃあ、嫌われるのが目に見えてるわ…。…あゆちゃん…、ついでに栞もお願いできるかしら?」
「うん、ボクはいいよ。友達がいるのは心強いし…」
「えっ? わ、私もするの?! えぅ〜…。私は、お姉ちゃんからいっぱい教えてもらってるのに…」
「えっ? あ、そ、そうだったわね…。あゆちゃん、ごめんね…。栞はあたしがビシビシ教えてるから…」
 そう言う香里さんはどことなく残念そうだった。
 ボクもちょっと残念だった。仲間がいないのはちょっと…、ううん、とても心細いなぁ…。
 香里さんの教え方が怖いって言うことは名雪さんの進級試験の時にまざまざと見せてもらっていた。ボクにもあんな教え方をするのかなぁ…。
 うぐぅ〜…。ボクが心配そうな顔をしていると、栞ちゃんが……。
「大丈夫ですよ。お姉ちゃんが厳しいのは多分私や名雪さんや、本当に危ないと思われる人にだけだと思いますから…。それに、憎むべきは祐一さんです! 私だって、いろいろ言われて…。許せません! あゆさん…、頑張って下さいね! そして、大人の“月宮あゆ”を祐一さんに見せてやってください!!」
「うん、ありがとう。栞ちゃん! ボク、頑張るよっ!!」
「残念ね……。でも、まあいいわ…。栞はあとであたしがみ〜っちり教えてあげるから…。うふふ…。今はあゆちゃんよね…。じゃあ、“あゆちゃんを女の子らしくする化”計画をここに発足するわっ!! でも、あたしが教えることには限りがあるから…、あっ、そうだ。あたしの友達にそういうことのスペシャリストが二人ほどいるのよ。一人はちょっと外国へ行っちゃってるけどね…。まあ、もう一人とあたしとで何とかなるでしょ。ちょっとそこで待っててね…」
「えっ? えぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
香里さんがそう言うと、栞ちゃんは顔を真っ青にして、そう叫んだ……。


「あ、こんにちは〜。栞ちゃん、久しぶり〜。病気…、治ってよかったね。おめでとう!! 私も心配してたんだよ…。……あっ、あなたがあゆちゃんだね。私、神岸あかりだよっ! よろしくねっ!」
「あっ、あかりさん、お久しぶりですっ! ありがとうございますっ。えへっ」
 ボクと同い年くらいの女の子が、優しく微笑んでボクたちの方を見ていた。栞ちゃんは昔からの知り合いなんだろう…。あかりさんと言う人と目が合った瞬間、嬉しそうに微笑んでいた…。
 あかりさんは、すごく家庭的な温かい感じがした。だからボクは自然にあかりさんと打ち解けた。
「よろしくお願いします。あかりさん」
「うん。よろしくね。あゆちゃん」
「あっ、あかりさん。聞いて下さい。お姉ちゃんったら酷いんですっ。妹である私のこと、“アイスクリーム女”だとか、“アイスクリームばかり食べてると、祐一さんに嫌われるわよ〜”とか、私の嫌がることばっかり言って来るんですよ?!」
「香里…、ちょっと言い過ぎだよ。栞ちゃんが元気になったからって…」
「はぁ〜。…あんたに言われるとやっぱりこたえるわ…。栞…、ごめん」
「分かればいいんですっ!! お姉ちゃんも普段からこういう風に素直になればいいのに……。ぶつぶつ」
 香里さんはあかりさんに頭が上がらないらしかった。ボクはそんな香里さんたちの方を見つめていた。
「あっ、そうそう、あかり。藤田君とはうまくいってるの? あんたたち見てるとなんかこっちまでほのぼのしてくるのよね。藤田君もこっちに来ればいいのに…」
「浩之ちゃんはいつも通りだよ。私が3・4日こっちに来るって言ったら、“それじゃあ、オレもそっちに行こうかな。あっ、あかり。ちょうど学校も創立記念で休みだからマルチたちも連れて行ってもいいか? あっ、でもオレ、休み中はちょっと勉強しねーと…、なっ。へへっ。すまねぇな。あかり。まあ…、香里たちにはよろしく言っといてくれや…”だって…。あっ、それと志保がたまにはこっちにも遊びに来てって言ってたよ」
「藤田君も相変わらずねぇ〜。それと…、志保がねぇ〜。またあたしにノート写させて〜っとか言って来るんじゃないでしょうね〜。まったく…。ぶつぶつ」
 あかりさんは、香里さんの方を優しそうな瞳で見つめていた。そして……、
「変わってないね…。香里も、栞ちゃんも……」
 そう言ってにっこり微笑んだ。ボクはそう言ったあかりさんの優しそうな微笑みを、ただぼーっと見とれていた。あかりさんはそんなボクに気づいたんだろう…。
「どうしたの? あゆちゃん?」
「えっ、えーっと。あかりさんが優しそうに微笑んでるから、ボク、つい見とれちゃったんだ。ごめんなさい…」
「えっ? そ、そうかな? えへへ、なんだか照れちゃうよ…」
 あかりさんはそう言うと、照れ隠しみたいに頬をぽりぽりと掻いていた。と、香里さんが…、
「ほーら、あゆちゃんも、あかりも…。大事なことを忘れてるんじゃないの? 栞〜? あんたも、いつまでも膨れてないで…。……じゃあ、あかり。後は頼んだわ…」
「うん。わかったよ。香里…。それじゃあ、あゆちゃん。早速始めよっか?」
「うんっ!」
 そうしてボクの修行が始まった。


 俺は、水瀬家に帰ってきた。夜も7時を回ったところだ。
 秋子さんは名雪と一緒に、夕食の準備だ。真琴とあゆは2階だろう。
 俺は“ただいま”と一言言うとすぐに2階へ上がった。さすがに今日はちょっと言い過ぎたので、あゆの好物のたいやきを買って謝ろうと思ったところだ。
 手にはほかほかのたいやきがある。12個ほど買ってきた。これを見たらあゆは大喜びするだろうな…。そう思いながら、俺はあゆと真琴の部屋の前に来た。
 コンコンとノックする。
「誰よぅ。今いいとこなのに……」
 そう言ってドアを開けたのは真琴だった。
「あれっ? 真琴…。あゆは? あゆはまだ帰ってきてないのか?……」
「あっ! 祐一ぃ〜。あゆになんかしたんでしょ〜?! さっき、あゆから電話があって…、“ボク、しばらく香里さんのところに厄介になることにしたんだ。3・4日は帰って来れないと思うんだよ…。ごめんね…。……あっ、そうそう。イジワルな祐一君に伝えておいてね”だって〜。拗ねると厄介だからね〜。あゆは……」
「お前が言うな……。お前が……」
「なによぅ〜」
 真琴と何分か言い合っているうちに、階下の方から秋子さんの声が聞こえてきた。
「祐一さ〜ん、真琴〜。夕食の準備が出来ましたよ〜」
「今行きま〜す。ほら、真琴。行くぞ!」
「あぅっ、ま、待ってよぅ」
 夕食時、俺は違和感を覚えた。
 あゆの席がぽっかり空いていて…。いつも微笑んでくれるあいつがいなくて…。俺の好きなあいつがいなくて…。あいつがいなくなるだけで、こんなに寂しいものだったとは…。
「いつもからかってるヤツがいないと…、なんだか寂しいな…」
 ため息をつきながら俺は強がりを言った。名雪は俺が強がりを言ってることが分かったように、また俺をからかうように…、
「祐一が、イジワルばっかりするからだよ〜? あゆちゃんもかわいそうに……。あゆちゃんがこのまま香里のところから帰ってこなくても、わたし知らないよ〜?」
「なっ、名雪? じょ…、冗談言うなよ?…」
「祐一に愛想尽かして出て行ったのかもしれないわよぅ。あ〜あ、かわいそうな祐一〜」
 真琴までもがそう言った。
 二人にやり込められている俺を見て、秋子さんはくすくす笑っている。俺は今、ちょっと後悔し始めていた。なぜあんなにからかったんだろうと……。食事が終わり…、
「秋子さん……。俺、今から香里のところにあゆを迎えに行ってきます」
 俺はそう言って玄関へ行こうとする。すると秋子さんが…、
「祐一さん。今、祐一さんが迎えに行ったって、あゆちゃんは多分帰らないと思いますよ……」
 いつものポーズでそう言った。
「なっ、何でですか?」
「それは、女の子のひ・み・つ、ですよ。ふふっ…。でもただ一つ言える事は、あゆちゃんが帰ってきたとき、祐一さん…、びっくりするんじゃないかしら? うふふっ。3・4日の辛抱ですよ。祐一さん…。ちょっと家の方は寂しくなりますけどね……」
 秋子さんは、そう言うと寂しそうに微笑んでいた…。
 夜中、俺は自分の部屋にいた…。腕枕を組んでぼーっと天井を見上げる。
 秋子さんの言っていたことを反芻してみる。そもそも、何であゆは出て行ったのだろうか…。俺のことが嫌いになったのだろうか…。
 ……嫌だ…。今までからかってはいたが、俺はあゆのことが好きだ…。
 ただ…。ただ、あゆに直接言いにくいだけなんだ…。
 愛情の裏返しでからかってしまうだけなんだ…。本当は俺…、あゆが大好きなんだ…。あゆが帰ってこないことは寂しい。俺の大好きな笑顔が見れないことが…。
 だけど…、たった…、たった3・4日の辛抱だ。3・4日経てば、またあの可愛い笑顔も見ることが出来る。俺の大好きなあの笑顔が…。俺はそう思った…。


 ボクが香里さんの家に来て2日が経った…。
「あゆちゃん…、今日は掃除のスペシャリストを呼んだんだよっ。ちょっと迎えに行ってくるね」
 あかりさんは、そう言うとその人を迎えに行った…。
 どんな人かなぁ? もしかしたらものすごく怖い人で、ボク…、怒られちゃうのかな?
“こんなことで掃除をしたと思ってるざ〜ますかっ? さあ、もっときれいにするざますっ! きれいに出来なかったら今晩の晩御飯は抜きざますよっ!”
 って…。ぶるぶる…。嫌だよ〜。……でも、祐一君に男の子扱いされるのはもっと嫌だ!
 ボクは祐一君にイジワルされる自分を思い浮かべながら、祐一君に必ず女の子らしくなったボクを見せてやるんだ…。改めてそう心に誓った。
「ただいまぁ。香里〜。栞ちゃ〜ん。あゆちゃ〜ん」
 ボクたちが玄関の方に言ってみると……、
「初めてお目にかかりますぅ! わたし、汎用メイドロボットのHMX−12マルチと申しますっ。今日は、あかりさんのお友達のところへわたしなんかが教えに……。あうぅぅぅぅ〜」
 そう言ってぺこりんと、マルチちゃんと言った女の子が頭を下げた。
 んっ? ボク、この子、どこかで見たことがあるよ。どこだったかな……。……あっ、思い出した。ボクがいた病院の看護婦さんだ!
 リハビリで一生懸命頑張っているボクのことを応援してくれた子だ。
 こけそうになったボクを支えてくれたり、ボクがくじけそうになった時に励ましてくれたり…。マルチちゃんがいてくれなかったら…、ボクは元気になっていたか分からない…。
 マルチちゃんはボクに気が付いたみたいで…。
「あっ!! あっ、あっ! あゆさん!! おっ、おっ、お久しぶりです〜。お元気でしたかぁ? あうう〜っ。わたしがテストで病院に入ってきたときにあゆさんの目が覚めたんですよね〜。リハビリとかで、わたし、ドジばっかりしてあゆさんにご迷惑ばかりおかけして…。申し訳ないですぅ。でも、あゆさん、「頑張って。ボクも頑張るから…」って言ってくれたんです…。わたしは、人間の皆さんのお役に立つために作られたロボットなのに…。ぐすっ……」
 マルチちゃんはそう言うとちーんと鼻水をかんだ…。
 だけど涙と鼻水は後から後から流れてくる。マルチちゃん…、やっぱりあの頃のままだね。あの優しいマルチちゃんのままだ…。
 ボクはそう思った。と、マルチちゃんは、突然思い立ったように…、
「あっ、そういえば名雪さんや真琴さんや秋子さんや祐一さんとは仲良しさんですかぁ? わたし…、もう心配で心配で……。あうぅぅ〜」
 とまた泣きそうな声でそう言う。ボクは言った。
「名雪さんたちとは仲良くやってるよ。でもね…、マルチちゃん。祐一君は最近イジワルばっかりしてくるんだよ…。うぐぅ〜…。あっ、でも昔からイジワルだったけどね…」
「そうですかぁ…。……あっ、でもわたし、浩之さんに教えてもらったことがあるんですよ〜。“好きな子には素直に好きって言えなくて、逆にイジワルしたくなるもんだぜ。オレがそうだったもんなぁ”って。だから、大丈夫ですよ…。きっと…。それに今だって、祐一さん…、心配してるかもしれませんよ〜?」
 マルチちゃんは、ボクを安心させるかのようにそう言うと微笑んだ…。
「うぐぅ〜。そ、そんなことないよ…。祐一君、イジワルだから…。とってもイジワルだから…。でも…。でもね、マルチちゃん…。ボク、祐一君のこと、大好きなんだ……。この気持ちは、誰にも負けないよ…。だから少しでも、ほんの少しでもいいから、祐一君に女の子らしいとこ見せたいんだよ…。名雪さんみたいにお料理、うまくなりたいんだよ…。真琴ちゃんみたいに可愛くなりたいんだよ…。ボクは、ボクは…、祐一君のことが大好きだから…、だから祐一君のために可愛くなりたいんだよ……」
 ボクはそう言った。
 マルチちゃんは少しの間黙っていた。香里さんたちも黙っていた。しばらく沈黙が続いた…。何分か経って、マルチちゃんは静かにこう言ったんだ……。
「……、そうですか……。じゃあ、わたしもご協力しますっ!! 精一杯頑張りますのでっ!!」
「うん!! よろしくね!! マルチちゃん!!」
 ボクはそう言うとにっこり微笑んだ。


 あかりさんとマルチちゃんには、お料理とかお洗濯とかお掃除とか、そういうものを習った。
 香里さんには身だしなみとか、そういう精神面? っていうものを習った。ほんとはもっとそういうことに詳しい人がいるらしいんだけど、今外国の方に行っちゃって、留守なんだって…。
 でも、ボクにとってはとてもためになることばかりだから、一日一日と女の子に近づいていってると思う。
 ボクの実力は確実に上がっている。もう祐一君に、“小学5年生くらいの男の子”だって言わせない自信はある。祐一君…、ボク、頑張ったよ…。女の子らしく…、なったよ……。
「あかり…、そういえば昔、藤田君によくいじめられてたわよね?」
 ボクの修行が終わる日の前の夜、香里さんの部屋でボクたちは雑談していた。
「うん。昔は、いっぱい泣かされたし、いっぱい悪戯もされたし…。今じゃ考えられないけど、私…、浩之ちゃんのこと、怖かったの……」
「そうですね〜。昔はよくお姉ちゃんのところへ泣きながら来たものですっ。私もよくあかりさんの頭を撫でて慰めてあげたものでしたよ〜。うふふっ」
「うっ…。栞ちゃん……」
 あかりさんはそう言うとちょっと涙目になる。香里さんは……、
「あらっ? 栞〜? あんただって人のこと言えないわよ? ほら、昔よく遊んだ、近所の…、あれっ? 何だったっけ? え〜っと……。……あっ、そうそう。片瀬君…。片瀬君にイジワルされて、「健ちゃんにいじめられたよ〜。うえーん」って言いながらいつも泣いて帰ってきたじゃない。えーっと、ほら、あの子。……そうそう、日和ちゃん。日和ちゃんといい勝負だったわよ…。まったく……」
 そう言って、栞ちゃんの方を見てくすくすと笑っていた。栞ちゃんは、頬を膨らませて…、
「そんな昔のこと、あゆさんやあかりさんの前で言わなくったっていいじゃないですか! そんなこと言うお姉ちゃん嫌いですっ!!!!!」
「なに言ってるのよ…。あたしは、昔のことを思い出してるだけよ。何も栞に嫌われる筋合いはないわ…」
「ううう………………………」
 栞ちゃんは、香里さんの方を悔しそうに上目遣いで見つめていた。雰囲気が険悪になってきたことを、あかりさんはボクより早く察知したみたいで…、
「まあまあ、二人とも……。それでね……、ある日、私や雅史ちゃんや浩之ちゃんやお友達でかくれんぼをすることになったの。そのとき、香里たちや名雪は旅行に行ってたんだよね?」
「ええ…、そうね」
「はい。そうです」
「それで私が鬼をすることになったの…。それで、気が付くと私だけ置いてみんないなくなっちゃって…、私、心細くなっちゃって…、泣いちゃったんだ…。そしたら、「あかりっ! こんなところにいたのか? 探したんだぞ」って、私のところまで走ってきてくれたんだよ…。右手から真っ赤な血を出して…。目を真っ赤にして…」
 あかりさんは昔を懐かしむようにそう言った。あかりさんの話は続く。ボクは聞き入った…。
「その時私、思ったの…。“浩之ちゃん…。ひょっとして、私のために…”って…。それからだよ。私が浩之ちゃんのこと、怖くなくなったのは……。そして、好きっていう感情が生まれたのは……。この感情は、浩之ちゃんのそばにいればいるほど…、話をすればするほど強くなっていくの…。でもね、私が思う気持ちは浩之ちゃんに届くのかなぁ…。そしたら、浩之ちゃんはどうなのかなぁって……、そう思ったんだ…。……私ね…、浩之ちゃんの気持ちばかり考えていたんだ。そしたら浩之ちゃん、「お前はずるい。受け身すぎる」って…、言ったんだよ…。その時、私、気付いたの…。一番大切なのは自分の気持ちなんだって…。自分が、その人のことを本当に大事に思う心なんだって…。だから、あゆちゃん。自分の気持ち…、今、あゆちゃんが思っていること全部、祐一君に言ってみなよ。祐一君にぶつけてみなよ…。祐一君だってあゆちゃんのこと、分かってくれると思うよ……」
あかりさんはそう言うとにっこり微笑んだ。ボクは……、ボクは……。


 ボクの修行も最終日を迎えた。
 まだ“わたし”とは言えないけど、ボクの普通の女の子になる道は少しずつ、でも確実にアップしてる。今まで作りたくても作れなかったご飯のおかずが作れるようになった。
 ボクの作ったおかずをあかりさんや香里さんや栞ちゃんは、おいしいと言って食べてくれた。
「あ〜っ、とってもおいしかったですぅ〜。……あゆさん、今度私に教えてくださいね!!」
 栞ちゃんは、そう言うとボクの手を取ってお願いしていた……。
「もう“碁石”なんて言われないね…」
 あかりさんはそう言って微笑んだ…。マルチちゃんも、にっこり微笑んで…、
「あゆさんなら大丈夫ですっ!」
 そう言った…。ボクは……、
「今までいろいろ教えてくれて、どうもありがとう。ボク、これからも頑張るよ…。普通の女の子に近づくために…。あかりさん、香里さん、マルチちゃん…。本当に、本当に…、ありがとう………」
 そう言って深々とお辞儀をした。香里さんは…、
「さあ、あゆちゃん。早く相沢君のところへ帰ってあげて…。相沢君、あゆちゃんのこと、心配してるから…。昨日も、学校に行ったら、彼ったらね…、“そろそろ、あゆを水瀬家に帰してくれないか? 頼む! 香里…、俺が悪かった”って、急に真面目な顏してそう言うのよ? それだけ、あゆちゃんのこと心配してるんじゃないかしら?…。あゆちゃんのこと思っているんじゃないかしら?」
 そう言うと優しい微笑みをボクにくれた。ボクは、玄関の扉に手をかけた。もう一度あかりさんたちの方を振り返る。そして……、
「ボク。それじゃあもう行くね……。ありがとう…。みんな…」
 そう言うと、ボクは香里さんの家を出た…。

「行っちゃったわね…。あゆちゃん……」
「うん。そうだね……」
 お姉ちゃんとあかりさんがそう言った。両方とも、あゆさんの消えていった方を見つめたままで……。
「さあてと…。あかりはこれからどうするの? せっかくだから名雪に会ってく?」
「うん…。でも、浩之ちゃんのことが心配だし…」
「結局そこね……、はぁ〜。藤田君も大変だわ……。世話焼きの彼女を持つと……」
「わ、私は……。うううぅぅ〜」
 お姉ちゃんにやり込められて、あかりさんはたじたじになっていた。
「じゃあ、ちょっとお茶でも飲んでいきなさいよ…。帰りの電車ってまだなんでしょ? 積もる話もあるし……」
「うん。帰りの電車はもうちょっと先だし……。それに、この4日間はお互い話らしい話はしなかったからね……。うん。それじゃ、もうちょっとだけ……」
 そう言って、あかりさんとお姉ちゃんは奥のリビングへと消えていった。私はあゆさんの駆けて行った方を見つめて…、
「あゆさん…。頑張ってください…。でも、私も負けませんからね……」
 そう言ってにっこり微笑んだ…。


 俺は、あゆが帰ってくるのを待った。
 4日間、俺はあいつのことばかり考えていた。あいつがいなくなって…、またあの涙を流して1人、あの大きな木の切り株に立っていたあいつのことを思い出して…、俺は……。
 秋子さんたちは、そんな俺に優しく接してくれた。あゆが帰ってくる前の晩などは…、
「みんなでパーティーしようよ。あゆちゃんが女の子らしくなったパーティー…」
 名雪がそう言ってくれた。真琴も、秋子さんも一つ返事で了承してくれた。
 俺は、名雪たちに内緒でアルバイト(秋子さんに紹介してもらった)をはじめていた。3日間という期限付きで…。ちょうどあゆが香里の家に行った日の次の日からだった。
 バイトの終わった日、バイト先の人に貰ったお金で俺はあるものを購入した。
 ついでに、あいつの大好きなたいやきをたくさん買ってやった。あいつは喜んでくれるだろうか? またあの可愛い笑顔を俺に見せてくれるだろうか? 俺はそう思い帰ろうとする。
 春の夕暮れ…。商店街の道や商店のガラス、すべてがオレンジ色に輝いていた。ふと見ると、向こうの方で女の子が手を振っていた。俺は駆け出す…。
「ただいま…、祐一君…」
「おかえり……。あゆ…」
 あゆ…、お前がいなくなって、たったの4日…。でも俺にはもう何年も会ってないような気がした。
 今まで、イジワルばかりして、ごめんな…。まあ、可愛い娘にはイジワルしてしまう、男の性だと思ってくれ…。これからは、もっとお前の気持ちも考えるようにするよ…。
 でも、ちょっとは許してくれ…。なっ? それから、そのカチューシャ…、何年も使ってるだろ…。
 そのカチューシャには俺の悲しい思い出が詰まっているんだ…。これからは、このカチューシャで…、楽しい思い出を築いていこう…。
 心の中でそう思いながら……。
「…ほら、あゆ。俺からのプレゼントだ……」
 そう言ってあゆに手渡した。あゆはちょっと驚いていたけど、上目遣いに…、
「開けてもいいの? 祐一君?」
 そう言った。俺は無言でこくりと頷く。あゆが、プレゼントの包装紙を開けていく。…手紙が入っていた。その手紙を丁寧に読んでいく。手紙を読み終えたあゆは目にいっぱい涙を浮かべて、そして微笑んだ…。
「あ、ありがとう、祐一君…。ボク…、ボク……、ううう」
 そう言った途端にあゆは俺を抱きしめていた。手紙に書かれていたこと…。それは…、
“俺、お前がいなくなって寂しかったんだ。ふと、あの8年前のことが目に浮かんでくるんだ…。今まで、イジワルばかりして、ごめんな…。今回、短い間だったけどお前と離れてみて気が付いたよ…。俺はお前のことが好きだ…。“ボク”や“うぐぅ”と言う口癖も含めて、月宮あゆと言う女の子のことが…、俺は…、俺は、全部好きだ……”
 だった……。それが、今の俺の正直な気持ちだった…。
 古いカチューシャをあゆの髪からそっとはずして、あゆの手に持たせる。
 そして、俺が選んだ新しいカチューシャをあゆの髪にそっとかけてやった。
 青いカチューシャ…。赤いカチューシャもいいけど、やっぱりお前には、澄み切った空色のカチューシャの方が似合うよ……。俺はそう思った…。
「こんな男の子っぽい女の子でも、いいの? ボク、料理とかあまりうまくないよ? お掃除、下手だよ? 秋子さんや名雪さんみたいに、いろんなこと…、出来ないよ? それでもいいの? 祐一君…」
「ああ、いいんだ…。何も出来なくていいんだ…。ただ、俺のそばにいて、微笑んでくれるだけでいいんだ…」
 そう言うと、俺はあゆを抱きしめた。たいやき好きの、男の子っぽい女の子。そして、俺の可愛い彼女…。
 爽やかな、5月の風が吹いていた…。空には、一番星が瞬いていた…。
 俺たちは、水瀬家へと帰っていく…。名雪と、秋子さんと、真琴が待っている水瀬家へ…。平凡な、でも、とても温かい家へ…。横には、俺の大好きな女の子が可愛く微笑んでいた…。

〜 FIN 〜