あの青い空のように
〜 奇跡の価値 最終章 〜
中編
香里が北川との子供を連れてやってきた。診察室で診る。特に異常は見受けられない。この間ハイハイしてたと思ってたらもう歩いていて子供の成長は早いもんだなぁ〜っと思った。午後の診察は5時からだ。一応俺の病院は3交代制となっている。2時から5時までは同僚になるため、その間は暇だ。いつもなら病室の見回りがあるのだが、今回は片瀬たち看護師に言いくるめられて、香里たちとテラスに出る。世間話にしばらく耳を傾ける。と言っても子供のことばかりなんだけどな。ふと、彼女が生きていたらと思うこともある。ここにいる姉に似たような顔でぷぅ〜っと頬を膨らませながら、でも最後は可愛い笑顔で俺の顔を見てくれるんだろうか…。そう思うこともある。夜1人でアパートに戻ると片付け物でもしているんだろうか、誰もいないはずの部屋なのに妙に懐かしいような感じがする。そう言う気配がする。やっぱり最愛の彼女は俺の心の中で生き続けているんだと思うとなぜか涙が溢れてくることもしばしばある。俺も今年で28になる。親からはそろそろ結婚をと言われる。実際縁談はいくつかあったが、俺はすべて断った。俺自身、もう結婚していると思っていたからだ。そう10年前。あの病院の一室で、今、向かい側に座っている彼女の姉を仲人として…。細く折れそうな指にはめようとすると微笑みながら制していたっけ。でも俺は指輪を贈ったんだ。生涯でたった一人愛している女の子に…。
そう感慨深く思っているとふと言葉を掛けられた。掛けられた先を見ると香里がこっちを見つめていた。何か言いたいことでもあるのだろうか…。そんな目で、じっと俺の顔を見つめている。俺は前を見る。広い中庭に片瀬と、あと他の看護師が子供たちを連れて出ている。横の香里も同じように見ていたがそれもつかの間で、また何か言いたげに俺の顔を見つめている。横目に香里の視線を窺いながら片瀬たちのほうを見る俺。そんな俺に香里がこんなことを言い出してきた。
「ねえ、相沢君。今でも栞のこと、好き?……」
「ああ、俺の生涯でたった一人の最愛の彼女だからな? って毎回言ってるだろ。何を今更そんなことを聞くんだ?」
そう言って香里のほうを見る。何を今更な感もある。俺が愛する女の子はたった一人だけだ。今までも、そしてこれからもずっとそうでありたい。そう思いながら香里の言葉を待った。沈黙が流れる。何分そうしていただろうか、いや、正確には10秒くらいしか経っていないのだが今の俺にはそう感じた。香里がまた口を開く。それはある意味俺を夢の世界から現実の世界へ引き戻そうとする言葉だった。
「相沢君、もう栞のことは忘れて?…。お願いだから…。正直に言うとね、あたしは今のあなたは見ていられないのよ…。だって前に進もうでもなく、かと言って後ろに下がるわけでもない。そんなあなたを見ていられないのよ…。栞のことをそこまで愛してくれていること、それは感謝してもし足りないくらいよ。でもね? これからは自分の幸せのことも考えるべきだとあたしは思うの。栞だって好きだった人には幸せになってもらいたいって思ってるはずに違いないもの…。それに…、それにあたしも同じだから。相沢君には幸せになってもらいたいって思うのは…。栞のときよりももっと幸せになってもらいたい。それがたった16年しか生きられなかったあたしの妹への最高のプレゼントだって思う。それに潤も心配してたわ、“相沢は一生このままなんだろうか…。だとしたら、こんなに悲しいことってないよな?” って…。いいえ潤だけじゃない、鞠絵ちゃんや航君、名雪や秋子さんたちみんな、相沢君のことを心配してるのよ?」
思いがけない言葉だった。栞のことを、愛してやまなかった俺の彼女のことを、忘れろと言うのか? あんなに頑張って生きた16年をそれこそ無に帰してしまうのじゃないか? そう思う。香里の顔を今度は真正面に見る。目が真剣だった。返答に困った。だけど俺は言う。
「栞は本当にそう思っているのか? いや、俺にはそうは思えない。あの感覚が、栞を抱いた時の感覚が10年経った今でも俺の心に沁みついているんだ。だから今更そんなことは出来ないし、しようとも思わない…。俺のことを心配してくれてるみんなに言っておいてくれ…。“ありがとう” って。でも俺は大丈夫だから。思い出はここにいっぱいあるから…」
胸を叩きながら笑顔で言う。でも、実際は砂上の楼閣と変わりはない。どんなに会いたいと思っても会えない。会えるのはただ写真の中だけだ。声も聞けない。姿もない。それでも俺は彼女を愛したい。世界を、いやこの世のすべてを敵に回したとしても、俺は彼女を愛したい。代わりはいくらでもいる? バカを言うものじゃない。俺の愛した人はたった一人だけだ。そう思った。
「な、何で? 何でわからないのよ…。相沢君のその言葉、栞が聞いたらきっと悲しむに違いないわ。思い出として生きるよりもちゃんと実体を持った“ヒト”、いえ“1人の女の子”としてあの子は生きたかったはずよ? 16年って言う短い生涯だったけど、あの子は生きていた。あたしはあなたに感謝してるのよ? もうほとんど壊れていたあたしたち姉妹の絆をもう一度繋げてくれたし、それに短い間だったけどあの子の笑顔も見ることが出来た。悲しみに暮れた目でいつも外ばかり眺めていたあの子に希望の灯をくれた。それだけでも、それだけでも十分だったはずよ? だからもう栞のことは忘れて?…。それがあたしの妹への、栞への一番の贈り物となるはずだから…」
そう言うと俺に背を向けて歩き出す香里。もう話すことがなくなったのか、あるいは俺の心に愛想をつかしたのか…。まあどう見たって今回は後者のほうだろうな…。そう思いつつ無言で香里を見送る俺。入れ違いざま、片瀬が出てくる。俺の顔を見るや、“先生、香里先生と何かあったんですか? いつもなら挨拶の一つもして頂けるのに…。今しがた通りかかったら俯き加減で私が挨拶しても何も仰られずに行ってしまわれましたけど?…” とさも不思議そうに俺の顔を見るとこんなことを言う。俺は静かに首を振った。空を見る。曇天模様の空だ。これなら雨も近いのだろう。俺は知らず知らずのうちに隣りでいるだろう片瀬に尋ねていた。
「なあ、片瀬…。俺は彼女のことを忘れたほうがいいのか? 新しい彼女を見つけたほうがいいのか? だんだん分からなくなってくる…」
そう言うと小さな手が俺の手に置かれていた。置かれた先を見る。案の定片瀬だった。“先生……。先生が暗い顔になってどうするんですか! そんな顔だと患者さんたちが心配しちゃいますよ? もっと明るく明るく〜” そう言ってにっこり微笑む。そういやあの時から、いつもそうしてくれるよな? 俺が軽く落ち込んだときとかには…。片瀬は俺と同期に入ってきて、どう言う訳か俺たちはペアで一緒に行動することが多いんだが、その最初のときに聞かれたことがある。“先生は好きな人はいますか?” って…。そのときに俺は栞のことを話したんだが、片瀬も話してくれたっけ? 俺によく似た兄の話を…。そのときは、“ああ、同じ境遇のやつもいるんだな?” と思ったんだが、改めて思い直してみると、彼女の方が俺よりもっと苦労してきたんだな? と思う。家のことは詳しくは知らないが、義理の兄妹であることは前々から聞かされていたし、片瀬の家に入ってきた当初はいろいろ気苦労が絶えなかったことも知っている。そんな中で彼女がその兄のことを好きになっていったことも聞かされた……。もう6年も前のことなのに今でも彼女の悲しそうに話している顔は俺の心に残っている。と、片瀬がまた俺の顔を見遣るとこう言ってくる。ちょっと拗ねたような顔は俺の彼女と同じような顔だった。
「もう! 先生。何回も言うようですけどそんな暗い顔しないでください。…何か香里先生とあったんですか?」
「いや、何もないよ。心配するな…。それよか、時間の方は大丈夫か? 確か午後の検診時間がもうすぐ始まるんだよな? じゃあお先に行くぞ? ……と、なあ、片瀬。次の休みのとき、俺に付き合ってくれないか? 最近しょっちゅう迷惑かけてるお詫びと言っては何だけど、どこか連れて行ってやろうと思ってな? って、あっ…」
ぷぅ〜っと膨れた顔を見ると何だか栞を思い出して咄嗟にこんなことを言ってしまう。彼女は栞じゃないのに、時々栞のように思えてしまう。俺は幻想でも見ているのか? だとしたら幻想から覚めてくれ!! と言う心の声が静寂の音として体中に走っていく。でも、すべては口に出した後。彼女のほうを見るとにっこり微笑んで、“先生…。は、はい。喜んでお供させていただきます。あ、あの、私、お料理作っていきますね?” と少々どぎまぎも入りながらも嬉しそうにそう言う。その顔がまるで退院していく子供たちの笑顔のように、いや、10年前の栞の笑顔のように俺は感じた。
先生に“どこか連れて行ってやろうと思ってな?” と言われた。私は咄嗟に行くと言ってしまったけれど、先生の驚いた表情は多分私を栞さんと間違えてしまったんだろう。そう思った。でもどうして私も“行く” と言ってしまったんだろうか…。先生にお兄ちゃんの面影を見ていたんだろうか? そう思うと分からなくなる。いっそのこと、断ってしまおうかとも考えたけどそう言うことも言えずに日はだんだん近くなっていった。
「お兄ちゃん…。私、どうしたらいいと思う? 先生は多分私に栞さんの面影を見たと思うの…。私であって私じゃないただの面影。それは私にも言えることだけど…。先生にお兄ちゃんの面影を勝手に映して…。先生と初めて会ったときから私は勝手にお兄ちゃんの面影を先生に映していたんだよ? ……よく考えたら私のほうが酷いよね? 先生は何も知らなくて、私が勝手に…」
約束の日を明日に控えた夜。仏壇の前、私はそうお兄ちゃんの写真に向かって言っていた。先生と初めて出会ったときのことは今でもよく覚えている。院長先生から紹介されて、ぺこっとお辞儀をしたときナースキャップが外れてしまって他のみんなからくすくす笑われて顔が真っ赤になって俯く私に、“ドジだなぁ〜、お前って…” と言いながら落ちていたナースキャップを取ってくれた。そして、“まあ俺も人のことは言えないけどな?” って言って微笑んでくれた。その顔を見て私は一瞬ドキッとなる。その仕草や立ち振る舞いがお兄ちゃんによく似ていたから…。それは先生とお仕事を一緒にするようになって如実に現れてくる。そして今日…、私は結局先生の言われたことを断ることが出来なかった。断ろうと思って何回か言おうとしたんだけど言えなかった。言えば、“そうか…” で終わる。だけど私には言えなくて…。やっぱり私は酷い子だよ…。あの時もそうだった。日和お姉ちゃんはお兄ちゃんのために一生懸命、指輪と交換するためにヨーヨーを取って“けんちゃんに手渡しておいてね〜” って頼まれていたのに私はそれが日和お姉ちゃんのだって言えなくて…。結局お兄ちゃんから日和お姉ちゃんがもらうはずだった指輪をもらって、自分に嘘をついて…。やっぱり私は酷い子だよ…。そう心の中で呟きながら、お兄ちゃんの写真を手に取る。
「私に断れる勇気をください。お兄ちゃん…」
そう言って写真を元の場所に置いて立ち上がると部屋の電話へ向かう。受話器を取る。番号を押していく。でも、最後の番号を押そうと思ったとき、あの寂しそうな笑顔が私の脳裏を掠めていく。何度も何度も挑戦した。だけど最後の番号がどうしても押せなかった。私はまた“酷い子”を繰り返すことになった。何度となく嫌な経験はある。でもこれほど嫌な経験をしたことはない。ああ、いっそのこと明日行かなければ…とは思う。でも先生はいつまでも待っていることだろう。約束は絶対守る人だもの…。3年前の鞠絵ちゃんの手術のときがいい例だ。他にも子供たちとの約束事は必ず守っている。きっと私が行かなくても先生は絶対待っている。そう思うと、私も行かなくちゃいけなくなる。そう考えるとなぜあの最初のときに断っておかなかったんだろう…、と思った。後悔の念が縄のように私の体を締め付ける。結局その日の夜は眠れずに当日の朝を迎えてしまった…。もぞもぞと布団から這い出ると時計を見る。6時半。いつもと同じ時間だ。洗面台の鏡で自分の顔を見る。なんて酷い顔…。そのままバシャバシャ顔を洗う。少しはましになったかな? そう思ってまた自分の顔を映してみる。でもやっぱり酷い顔のままだった。お弁当を用意する。昨日買っておいたウインナーやミートボール、それtから玉子焼きやサラダなんかを用意した。
後はこれをお弁当箱に詰めていくだけだ。私のお弁当箱は乾燥機の中にある。じゃあ先生のは? と考えてみるけどうちにはそんな男物のお弁当箱なんてない。いや…、でも1つだけある。思い出のいっぱい詰まったお弁当箱。お兄ちゃんのお弁当箱。捨てようと思ってもなかなか捨てられないお弁当箱。お昼休みにお兄ちゃんと一緒に食べたときにいつも使ってくれていたお弁当箱。私のお料理を美味しそうに食べてくれたあの笑顔は私の心に深く焼きついている。棚の奥からそっと取り出してみるとあの当時のまま、お兄ちゃんと楽しくも慎ましやかに生活していた時の光景が私の脳裏に浮かんできて、そして、あの忌まわしい事故の光景も浮かんできて涙がこみ上げてくる。手のひらで落ちる涙を掬うように拭くと、他のものを探してみる。どうしてもお兄ちゃんのお弁当箱は使いたくなかった。でも方々探したけれどお弁当箱はお兄ちゃんのそのお弁当箱だけでその他には見つからない。時計を見ると悠に1時間は過ぎていた。約束の時間は9時半。今からだと1時間少々しかない。
“ごめんね? お兄ちゃん。お兄ちゃんのお弁当箱、使わせてもらうね?”
そう心の中で謝るように言うとお弁当箱を詰めていく。色とりどりのものが入ったお弁当箱は喜んでいるように見える。それはまるでお兄ちゃんのいた頃、いつも作っていたあのお弁当のように…。服を着替えて表へ出る。少し小雨がぱらついていた。傘を持っていったほうがいいかな? そう思いいつも使う傘を持って外へ出る。梅雨のない北海道とは言うけど実際には道南の私たちの住んでる街にはあるみたいで、今もしとしとと降っている。白い傘はちょっとお気に入りの傘だ。交差点に差し掛かる。狭い路地の一見普通の交差点だけど、事故が多い。ここから運ばれてくる患者さんも多く見ている。と急に雨足が強くなる。私の傘は少し大き目の傘だから多少は大丈夫。そう思って信号が変わるのを待つ。ふっと腕時計を見ると約束の時間の5分前だった。“うん。間に合ったね?” そう独り言を言いながら信号機が青になるのを待った。やがて信号機は青になる。大き目の傘を片手に歩き出す。
と、突然ドンっと言う音とともに鈍い衝撃が私の体を襲った。提げていた鞄からお弁当箱が飛び出す。一瞬のことだった。訳が分からないまま立ち上がろうと思うけど体に力が入らない。辺りを見る。軽の乗用車が私の横に止まっていた。そこでようやく気がつく。“私、はねられたんだね?” と…。運転していた人が呼んだんだろう救急車が来る音が聞こえる。いつも耳にする音だもの。間違いはない。ああ、お兄ちゃんもこうだったんだね? と思いながら担架で運ばれていく私。意識もだんだん遠くなりかけたとき私のよく知っている男の人の声が聞こえてくる。
「大丈夫だぞ!! 片瀬!! 俺が助けてやるからな!!」
ぎゅっと掴まれた手。感覚のなくなりつつある手。そんな私の手を温かな手がぎゅっと掴んでいる。そして…、その手を通して温もりが伝わってくる。顔を見ると先生だった。何で? 何で先生がここにいるんですか? 問いただしたいけど猛烈な痛みと少しの眠気に襲われて聞くことが出来ない。救急車は私の通っている病院へと向かっているんだろう。私自身いつも通っている道だから分かる。もう誰かは分からないけど、私の意識を切れさせまいと一生懸命に語りかけてくれる人がいる。それはまるで昔、私が寂しく泣いていたときわざと大きな声で歌を歌ってくれたお兄ちゃんのように……。
俺は片瀬に栞の面影を見ていたんだろうか? あの可愛い笑顔の裏の寂しさと悲しみを…。だとしたら俺は取り返しのつかないことを言ってしまったんじゃないだろうか…。そう思う。でも俺は言えなかった。今更“なかったことにしてくれ…” 何て言えるはずもない。それに元々俺が誘ったものだ。言えるはずがない。もし言えば彼女は笑って承諾してくれるだろう。でもその寂しそうに微笑む顔は俺の最愛の彼女のような気がして…。その日は1日中そのことで頭がいっぱいだった。チャンスはいくらでもあった。でも、あの笑顔を見ると言えなくなってしまう。こんなときズバッと言える香里が正直羨ましいと思う。今日も言おうと思い何気なしに片瀬を見ると、にこにこ微笑んだまま子供たちの相手をしていた。その悲しいまでに明るい笑顔を見ると、言う気が失せていく。俺自身、訳が分からなくなっていた。
「なあ、栞…。俺はあいつのこと…、片瀬雪希って言う1人の女の子のことを不幸にさせている気がするんだ…。あいつはあいつのお兄さんと俺とを重ねて見ているように思う。いや、それはそれで構わない。あいつはお兄さんと何年も暮らしてきて、それこそ本当の兄妹のように過ごしてきたんだ。それが一瞬にして奪われてしまった。だから俺をあいつのお兄さんに見誤ってしまうのはある意味仕方のないことなのかもしれない。むしろ問題なのは俺の心のほうだ…。俺はあいつを、片瀬雪希をお前の代わりにしようとしているんだ。あいつも薄々ながら気づいてるんだろうな? 時々寂しそうな微笑みを俺に向けてくる。その笑顔が何だかお前に似ているんだ…。あの初めて出会った学校裏の雪の上で一人ぽつんと立っていたお前と重なるんだ…。栞……、俺はどうしたらいいと思う? 約束の日は明日。あいつは多分、いや、間違いなくやってくる。ってこんなところで一人考えてたって仕方ないよな?…」
いよいよ約束の日を明日に控えて、俺はまたここにいた。生きていたら何て言うだろう。と言うより拗ねられるか…。“祐一さん!! ほかの女の子に手を出して!! そんなことする人嫌いですっ!!” とか何とか言ってぷぅ〜っと頬を膨らませるんだろうなぁ〜。で行くが行くまで文句を言われて、帰ってきてからも膨れて…。でも最後は必ず許してくれる。そんな、あるはずのない光景を俺は見つめていた。ふっと気がつくとそこは栞の墓の前。目を瞑っていたせいかいらない幻が見えた。ふるふると首を横に振り立ち上がり線香の燃えかす等を片づけて、いつものように桶と柄杓を境内に返しに行こうと思ってふっと辺りを見る。片瀬の兄だろう墓の前、女性が1人佇んでいた。髪は長いから片瀬じゃないことは明らかだった。とその女性がこっちに気がつく。不思議そうな瞳で俺の顔を見ていたが、“あっ!!” と思い出したのだろうか、こっちに向かって慇懃にお辞儀をする。俺もお辞儀をして早々に立ち去ろうと思っていたが、何だか気が引けた。これから参るのだろう。手には水の入った桶を持っていた。
「雪希ちゃんの病院の先生ですよね? わたし、雪希ちゃんとけんちゃんの幼馴染みの椎名日和です。ってこの場合旧姓で言ったほうが良かったんでしたっけ? 旧姓は早坂って言います…。お噂は兼々聞かせてもらっています。とっても優しい、まるでけんちゃんみたいな人だって…」
そう言うとにこっと微笑む女性。まだあどけなさの残るような顔は片瀬と同じ感じがする。俺も挨拶をした。“椎名さんはどうしてここに?” と俺が尋ねると、“ええ…、この5日前がちょうどけんちゃんの命日でしたから…。わたしはちょうど用事が入ってしまってこられなかったものですから今日来ました…。って雪希ちゃんから聞きませんでした?” そう言って驚いたような顔をする。5日前…。ちょうど俺が香里たちと会っていたときだ。片瀬が2、3時間ほど抜けていたって言うことは知っている。俺も敢えて聞かなかった。と言うか聞かなくてもあの悲しい顔を見れば誰だって気づく。でも、そうか…。彼女の兄も俺の彼女の命日と近いんだな? そう思って片瀬の兄の墓の前、静かに手を合わせる椎名さんを見る。肩がぶるぶる震えていた。何分間そうしていたんだろう、いや現実には1分少々しか経っていないが俺には長い時間のように感じられる。目頭を持ってきていたハンカチで拭いながら立ち上がる。
「ここにくるといつもこうなっちゃうんですよ…。おかしいですよね? 10年も前のことなのに…」
「いえ、俺もあなたと同じですから…。さすがにもう、涙のほうは出ませんけどね?…」
そう言い合って、境内の住職のところへ桶と柄杓を返しに行く。住職は何も言わずに受け取った。“少しお話をしませんか?” 帰り道、俺はそう言う。片瀬のことをもう少し知っておきたい…。そう思ったからだ。彼女の了解も取り車を滑らせて近くの喫茶店に立ち寄った。北海道とはいえ夏は暑い。道南は特にそうだろう。汗を拭う彼女を見てそう思う。彼女は東京からはるばるやって来たんだそうだ。今日の最終の飛行機でまた帰るらしかった。片瀬に会っていけばいいのに…とは思う。でも会って話をしても結局は片瀬の兄の話になってしまうんだろう。それに彼女にも子供がいるそうなので、そうそう長い時間は空けられないんだろうな? 彼女と話をしてそう思った。
「雪希ちゃん、元気そうに見えて結構寂しがり屋さんですから…。お家にいるときはいつも泣いていると思うんです…」
彼女と話をしているうちに“片瀬雪希”と言う女性の素顔が分かる。彼女の兄は彼女を庇って事故に遭い……。相手の人も心臓に持病があってその日は病院に月に一度の診察に向かう途中だったんだそうだ。葬式のとき、兄の棺に縋り付くように泣いていた光景を聞くと10年前の香里と同じような感じがした。そして今でも彼女は兄の幻を追い続けている。俺が栞の幻を追い続けているように…。椎名さんは言う。
「わたしも、わたしのお友達も雪希ちゃんの心の傷を癒そうと努力はしているんですけど…。けんちゃんの事故から1年経ったある日のラジオを聴いてからは少しは明るさを取り戻したんですよ?…。でもそれだけだった…。普段は明るくしていても心のどこか…、ううん、心の中ではいつもあの事故のことが頭から離れないでいると思うんです。だからけんちゃんのことを少しでも忘れられるように北海道に来たんだと、わたしやわたしのお友達は思ってます。墓地を北海道に移したのは多分おじさんが雪希ちゃんのことを心配したんじゃないのかなって…。詳しくはわたしも分かりません。でもこの2、3年くらい前から雪希ちゃん明るくなってきたんですよ? けんちゃんと一緒に過ごしていた頃みたいに…。この前も電話をしたら、“楽しい” って言っていましたし。だから雪希ちゃんも元の明るい雪希ちゃんに戻りつつあるんだなぁ〜って思っていたんです。先生のお話を聞くまでは…」
そう言ってハンカチを目頭に当てる椎名さん。俺は最近の片瀬のことを彼女に話す。でも明日のことは言えない。もし言えば微笑みながら“雪希ちゃんのことよろしくお願いします” と言われるに違いないと思った。俺は自分自身が分からない。が言えることはただ一つ。“俺には最愛の彼女がいる” と言うことだけだ。椎名さんもその辺は片瀬から聞いているんだろう。何も言わなかった。ただ、俺の顔を寂しい笑顔で見ているのが印象的だった。椎名さんを空港まで送り家に戻る。空港に送る途中後部座席の彼女に“片瀬に会わなくていいのかな?…”、と聞くと、“ええ。電話でいつも声は聞いてますし、それに会っちゃうと雪希ちゃん、いつも悲しいくらいの笑顔で元気そうにしますから…。本当は悲しくて仕方がないのに、わたしに気を使って努めて明るく振舞おうとしてるんです。わたしはそんな雪希ちゃんに会うのがつらいですから…” そう言って俯く彼女に俺は何も言えなかった。
家に着く。玄関のカギを開けて中に入る。いつものように写真の中の彼女にただいまと心の中で言う。俺が1人いつもそうしてきたことだ。だけどその日は考えもまとまらずいつもの習慣ともなっていたことも忘れて机の上ウイスキーを呷りながら考える俺がいる。正直片瀬には悪いがこの話はなかったことにしてもらいたい。そう思った。でも先刻の早坂さんの話を聞くと、断れない自分もいる。寝てしまおう。そう思ってウイスキーも散々に床に就くが寝られない。考え込んでしまう。もちろん考えることは俺の最愛の彼女のこと、そして寂しく微笑む片瀬雪希と言う看護師のこと…。俺と境遇も似ていて非なる。そんな彼女のことを延々と考える。実際寝付いたのは深夜2時を廻った頃だった。
後編へ続く