あの青い空のように
〜 奇跡の価値 最終章 〜
後編
朝、6時半に目は覚めた。今日、いよいよ最愛の彼女・栞じゃない彼女を誘う。もちろんその時点で断ろうと思って栞の写真を見た。今日は小雨がぱらついている。そんな天気の中かどうかは知らないが、栞の写真の中の笑顔が何だか悲しく見えた。軽い朝食を済ませて用意をして家を出る。車に乗り込むとエンジンをかける。いつもと変わらない道。でも今日はいつもより人もまばらだ。雨だからと言うこともあるのだろうか? などと考えてちらっと時計を覗き込む。8時半か…。どう言って断ろう…。などと考えていると突然、キィィィィィィッ!! 言うけたたましい音と、ドンっと言う激しく何かにぶつかった音が車の後方から聞こえる。事故か! と思い後ろを見ると確かに事故だった。その時なぜかは分からないが嫌な予感がした。車のドアを開けて事故現場のほうを見るが急に雨が強くなってきたのか霧のように煙る雨で見えない。傘を差して車から降りると現場に向かう。
……一瞬、目を疑った…。ウソだろ? そう言わざるを得ない状況が目の前に広がっていた。小雨に煙る交差点の中央で俺の知ってる、いや俺と同じような境遇を持った女性が倒れている。差していた傘も放り出して駆け寄ってみる。脈を計ると動いている。相手の車の運転手は時が止まったかのようにピクリとも動かない。“救急車を!! 救急車を呼んでくれーっ!!” 俺は必死でそう言う。その声に反応したのか運転手は慌てて携帯で119と110を押したようだ。血は突然振り出した土砂降りの雨で流れる。俺は薄いジャケットを脱ぐと4つに破いて両手足の付け根に巻いて止血した。一応の応急処置だが、いつまでこんなものが持つか…。早く!! 早く来てくれ! そう祈りにも似た気持ちで必死に片瀬に語りかけた。“だ、大丈夫なんでしょうか…。こっちも相当スピードの方は出していたので…” 混乱したように言う運転手に、“俺は医者だ! こいつは看護師。だからこんなことには慣れっこだ。それにこいつは…、こいつは俺が助ける! だからあんたは落ち着け!!” そう言う。警察のパトカーが赤い赤色灯を焚いてやってくる。が肝心の救急車がまだだった。“大丈夫だからなーっ!!” 必死で声を掛け続ける。5分くらい経ってやっと遠くからけたたましいサイレンを鳴らしながら救急車はやってくる。ふと片瀬を見る。青白い顔は一刻の猶予もない顔だ。救急車の面々はよく知ったやつだった。素早く担架を出してきて落ち着いたように救急車に乗せる。乗せるとき、ありったけの大きな声でこう言った。
「大丈夫だぞ!! 片瀬!! 俺が助けてやるからな!!」
と…。救急車はまたけたたましいサイレンを鳴らして俺の病院へと向かっていく。俺は彼女の手を強く握り締めながら救急車に飛び乗っていた。酸素マスクを彼女の口に宛がいながら俺は自分を呪う。元々今回のことは俺が言い出したことだ。本来なら何の関係もなかった彼女を傷つけてしまった。後悔が頭の中をぐるぐる廻った。当たった衝撃が強かったのか見た感じでは肋骨が何本か折れて肺に刺さっているような感じがする。それに内臓の方もやられているような感じがした。“頼む! 急いでくれ…” と言う心の叫びが声に出る。やがて見慣れた景色が目に飛び込んでくる。“もう少しだからな?! 頑張れ! 片瀬!!” と言う声とともに救急車は病院へと到着した。到着してカラカラと乾いた音を立てて救急処置の出来る手術室へ片瀬を運ぶ。酸素マスク越しに片瀬を見ると顔色が真っ青だった。早く、早く手術室へ…。足は急ぐ。そんな中で、幼い声を聞いた。“あっ! 片瀬のお姉ちゃん!!” 一瞬ではあるがそんな声を聞いた。まっすぐと手術室へ向かう道。手を握り締めながら、俺は走る。でも、俺に出来るのはそこまでだった。緊急の手術の場合、他の病院はどうかは知らないが俺の病院の場合は院長には事前に連絡が入るシステムになっている。そこからそれぞれの部門に指示が入るシステムになるんだが今回は外科で救急を要することだから俺じゃない別の医師になるのだろう。所詮俺はここまでの人間なんだ。と諦めにも似た感覚が襲ってくる。看護師仲間の1人が彼女の親に連絡を取ってくれたみたいだ。すぐに駆けつけると言うことだった。またけたたましい音を放ちながら救急車が滑り込んでくる。今度は火事で火傷を負った患者らしい。…医師の資格も取った。子供たちの病気も治してきたつもりだ。なのに…、それなのに一番身近な、それこそある意味パートナー的な存在を、俺は助けられないでいる。悔しかった。普段着の上、拳を握る。思い切り握る。と同僚が慌てて駆け寄ってくる。何だ? もしかして!!…。 と一瞬最悪なことを考えてしまったがどうやら違うらしい。何だ? と思い事情を聞くとどうやら手術を変わってくれないかと言う話だった。と言うのも向こうの患者の方がよほど容態が悪いらしく応援に行かなければならないらしいとのことだ。俺は即座に了承する。早速手術着に着替えようと、急ぎ足で医務準備室へ向かっていると、入院している子供たちが駆け寄ってきた。口々に“片瀬のお姉ちゃん、どうしちゃったの?” と心配そうに聞いてくる。そうか…。さっき聞こえた声はこの子たちの誰かが片瀬が担架で運ばれてい行くのを見ていたんだな? だとしたら、ウソを言っても無駄だろう。そう思って、腰をかがめて簡潔に起こった出来事と今の状態を話した。一応に泣きべそをかく子供たち。俺はそんな子供たちの顔を見つつこう言う。
「先生が、先生が助けるから、キミたちは祈っていて欲しい。お願いしていてほしい。お姉ちゃんが治りますようにってね?」
そう言う。みんな一応にうんと頷く。“いい子たちだね? じゃあ先生、助けに行ってくるよ?” そう言ってにっこり微笑むと屈めていた体を起して医務準備室へと向かう。あの子たちのためにも頑張らなければと思うと、それまでの後ろ向きだった気持ちが変わっていくような感じがした。手術着に着替えてふと窓の外を見ると子供たちが誰ともなしに祈っている姿を見た。俺は手に力を込めると手術室へ向かう。しっかりと手術用の手袋をはめて手術室の門をくぐった。早速看護師たちに指示を出して手術の準備に取り掛かる。細かい事柄を手術用の看護師から聞く。この看護師も片瀬とは友達なのだそうだ。レントゲンを見る。相当の衝撃だったのだろう。あばら骨が数本折れて肺の方に刺さっていた。MRIにはもっと鮮明な画像が映ってある。この状態だと頭の方にもダメージがあるだろう。と思って頭蓋骨のレントゲンとMRIを見たが、異常はどこにも見られなかった。多分咄嗟に頭を守ったんだろうな? あの時の意識のしっかりした様は、それを如実に表していたんだろう。そう思った。もう一度片瀬を見る。“待ってろ、片瀬…。俺が助けてやるからな?” 酸素マスクをつけられて痛々しく横たわっている小さな体は、俺の最愛の彼女、そしてもうこの世にはいない彼女、栞と同じような感じがした。
手術が始まる。早速胸を切開してみるが、相当に酷かった。あばら骨が肺に刺さっているのはもちろんのこと、肝臓が3分の1ほど壊死していた。手や足の重複骨折等も見られたが骨折はもともと整形外科に入るので俺の管轄下ではない。まずは肺に刺さったあばら骨と壊死した肝臓を何とかしなければならない。脈拍も血圧も弱く動いている。おおよそ俺が経験した中ではダメな部類に入る。だが、それでも彼女は生きている。いや、生きようとしている。一緒に病室を回っているときに見せるあの可愛らしい微笑みをもう一度見たいと思った。ぷぅ〜っとした少々怒ったような表情で俺の顔を見遣っていた。その顔がとても可愛くて…、もう一度見たいと思った。他にも子供たちを相手にしている時の優しいまなざしを見たいと思った。そんな俺は今、そんな彼女の手術をしている。メスを握る手に力が入る。何としても助けたい。その一心だった。
肝臓の壊死した部分の切り取りと肺に刺さったあばら骨の処置等で悠に4時間くらいはかかったが何とか無事に手術は終わる。やっぱり若いからか、こんな大手術にも耐え切れたんだろう。そう思った。骨折した部分は骨が体の外部に飛び出していない限りはギブスで固定して治すことになる。まあその辺は前述の通り整形外科の範疇になるので一般外科が本職な俺にはてんで分からないんだけどな? でも、何であの時、俺は彼女の笑顔が見たいと思ったのだろう…。術後、手術着を脱ぎながら自分の手を見てそう思った。一瞬ではあるが俺は最愛の彼女のことを、栞のことを忘れていた。俺はあいつに栞の幻想を見ていたのか、それとも俺は1人の女の子としてあいつを見ていたのか…。分からない。分からないが彼女の手術をしたことには変わりはない。そう思った。
ICU・集中治療室は手術室を出てすぐのエレベーターの1階下、ナースセンターの隣りにある。俺も患者さんの家族に今の状況を説明するため良く訪れているところだ。50代前半ぐらいの男性が俺の顔を見遣ると、慇懃に頭を下げてくる。多分この人が片瀬のお義父さんなんだろう。そう思っていると、“あのう…、娘は? 片瀬雪希はどうなりましたか?” と聞いてくる。“ああ、やっぱりそうか。この人が…” と思いつつ、俺はこう言う。
「主治医の相沢です。この度は…。一応手術の方ですが、成功しました。肝臓の方が3分の1ほど壊死していたので切除しました。それとあばら骨が数本折れて肺の方に刺さっていたのでそれも治療を施しました。が、未だ予断を許さない状況です…。あと、手足の重複骨折が見受けられますが、これは私のほうでは少しばかり管轄外なものですので……。でも娘さんには済まないことをしました。もともと、私がお誘いしたばかりに…」
そう言ってここに至った詳しい経緯を話した。元々誘ったのは俺だ。だから殴られるか罵声を浴びせられるのは覚悟の上だった。どこの親でも、それがたとえ義理の親でも一緒に何十年と暮らしてきた親子だったら尚のことだ。現に何人か、そうして来た人たちを見てきた俺だ。そう思って目を瞑る。が、頬に感じるはずの痛みも罵る声も一切なかった。ただ、“頑張っておくれ…。私を1人にしないでおくれ…。雪希…” と言う祈りにも似た声が辺りに響く。それを見た時、俺にはこの親子の絆はどんな家族よりも強いと思った。そう、実の娘のように、いいや、実の娘以上に深く強い絆が片瀬と片瀬のお義父さんにはある。そう思った。
手術から3日後、麻酔が切れたのか、ようやく片瀬が目を覚ましたと別の看護師に聞き、急いで集中治療室へと向かった。ぎぃ〜っと重い扉を開けると、まだ痛々しい姿の看護師・片瀬雪希が点滴の落ちるのをやや重い目で見つめていた。幸い感染症などの疑いはない。だが、精神的には相当なダメージがあるのだろう。そう思いつつそっと横に座る。おもむろにこちらを見る目にはいつもの精気は感じられない。術後3日目だから仕方ないのだろう…。そう思い、“早く元気になってくれよ? 片瀬…” と言いながら頭を撫でる。しばらく撫でているとおもむろに酸素マスク越しの唇が動く。それは、片瀬の思いを表した言葉だった。
「……お兄ちゃん……」
弱々しい、本当に弱々しい声だった。今まで彼女を見てきた俺だが、こんな彼女を見たのは初めてだった。そう言った彼女の顔を見る。多分俺と彼女の兄との区別がつかないのだろう。悲しいことを心の奥底に封印してしまうと、瀕死の重傷を負ったとき、逆にそれが出てきてしまうと言う論文をどこかで読んだことがあるのだが、今の片瀬にはそれがぴったり当てはまるように思った。俺は椅子に座りなおして優しく何度も何度も彼女の頭を撫でてやる。少し安心したのかそのまままた寝入ってしまった。顔を見ると来た時とは打って変わって精気が感じられる顔になっていた。
集中治療室を出て医師の休憩所へ戻ろうと廊下を歩く。と“先生”、と後ろから声を掛けられる。“何だ? またか、片瀬” と思って後ろを見ると片瀬じゃない別の看護師が立っていた。ああ、そうだ。今しがた片瀬のところに行ってたんだっけ? そう思うと、俺は自分の半身を失ったような感じになる。いつもそばにいて、あれやこれやと話しかけてくれる存在を失うと人間はこうも脆いものなのか…。そう思った。“先生、もうそろそろ診察の時間ですので…” と言うと看護師は去っていく。その後ろ姿に片瀬を重ね合わせる俺がいた。
寄宿舎に帰ると留守電が1本入っていた。その前に携帯の方に電話が2本ほどあったんだっけ…。そう思い携帯を開くと案の定2本入っていた。1本目は香里からだ。どこで聞いたんだろうか、片瀬のことを言っていた。一般病棟に移ったらまたお見舞いに行くから…、とのことらしい。2本目は椎名さんからだった。こちらも病状のこととかを教えてほしいとのことだった。携帯上に名前を載せてあるので分かったんで、早速携帯に電話をかけた。まあ、香里からは案の定と言うかなんと言うか文句を散々に言われて、最後には泣かれたことは言うまでもない。椎名さんはとても心配していた。妹のような存在だから心配するなと言うほうが無理だろう…。そう思った。どちらとも落ち着いたら連絡をくれとのことだったので、一般病棟に移ったら連絡すると言って切った。切ってしばらくぼ〜っとなる。天井を見上げる。瞼が重くなる…。
夢か現か分からない世界の中で、固定電話が鳴った…。電話のほうに向かいガチャッと受話器を取ると、そこから何故か懐かしい曲の旋律が聞こえてくる。そうそれは9年前、天国の妹から、独りぼっちの姉に贈ったプレゼント曲。…全てを悟ったような感じがした。栞も心配しているのかと思った。やっぱりお前天国へ行っても俺のことを心配してくれているんだな? でも俺は…。
そう思っていると突然場面が変わる。女の子が泣いている。俺はその子を知っているはずだが名前が出てこない。だけどその子は泣いていた。また場面は変わる。今日の手術の様子だった。俺は片瀬を助けようと必死になっている。そう言う姿を俺自身の視点ではなく、第三者のあたかも手術中の俺の顔を映しているような感じだ。必死になっている自分の顔。俺はこう言う顔をしていたのか…。と思った。
また場面は変わる。何もない草原の道の中程に俺は1人立っていた。暖かな日差しの中で寝転がる。と俺を呼ぶ声が聞こえる。体を起こすと、少女が1人立っていた。見覚えのある顔だが何故か名前が思い出せない。その少女は指をさす。おそらく向こうへ行こうと言うことなんだろう。そう思って立ち上がるとついていく。やがて丘に来る。丘の上には小さなチャペルがあった。結婚式でもしているのだろうか幸せそうな人たちの姿が見える。とブーケがその少女のところへ飛んでくる。少女はそれを受け取る俺のほうにまるで、“受け取ってください” と言う顔でこっちをにこにこ顔で見つめて差し出してくる。 受け取るとにこっとまた微笑んで、少女は呟く。俺にしか聞こえないような小さな声でこう言った声が聞こえた。“幸せになって下さいね?…” と…。
ふっと目が開く。もう朝の日差しが差し込んでいた。いつの間にか眠っていたのか、夢を見た。はっきりしたことは分からない。だけど最後の場面だけは強烈に覚えている。でもあの少女はいったい誰だったんだろう…。そう思いながら1週間が過ぎ、2週間が過ぎた。片瀬もやっと回復したんだろう、一般病棟に移される。香里たちや椎名さんたちに連絡すると早速やって来てあれやこれやと言うものだから正直疲れた。特に香里は俺に難癖をつけてきて、あわあわとなってしまった。最後には香里に泣かれて北川に“俺の嫁さんを泣かすな〜っ!!” と怒られたことは言うまでもない。そんな俺を片瀬はにっこり微笑みながら見つめている。骨折のほうも完璧には治っていないものの徐々にいい方向へと向かっている。もっともこれからが正念場だろう。そう思う。重複骨折の場合に限らず、骨折の場合は骨が接合したら今度は筋肉を元に戻さなければならない。宇宙から帰って来た人が筋肉を鍛えるのと同じように元通りに戻るまでリハビリを続けなければならないらしいと言うことだった。肺と肝臓のほうは良好だ。内臓の方はもうこれで大丈夫だろう。そう思う。子供たちは毎日のように片瀬のもとにやってくる。今日もやってきてはあれこれと相手をしていたっけか…。そう思いつつ今日も彼女の部屋に足を向ける。
コンコンと部屋の前、ノックをすると“はい” といつも通りの声が聞こえる。今日はちょとした土産があるのだ。そう思って片手を隠して中へと入る。不思議そうに俺のほうを見つめながら彼女は、“先生、後ろに隠した物っていったい何なのですか?” と尋ねてくる。おもむろに隠し持っていたものを取り出すと片瀬の前に置く。見た片瀬の方を見るとびっくりしたような顔になったかと思うと、急に涙顔に変わる。何だったのか…。そう、それは…、弁当箱。あの事故のときに鞄の中に入っていた弁当箱。あの事故のときに奇跡的に無事だった弁当箱。片瀬の兄の形見の品だったと椎名さんから聞かされて、俺を激しく後悔させたあの弁当箱。だけどその弁当箱は今、片瀬の腕の中、しっかりと抱きしめられている。
「お兄ちゃんのお弁当箱…」
小さく呟くと顔を下に向けて肩をぶるぶる震わせていた。よほどこの弁当箱に思い入れがあったんだろうな? そう思った。ごしごしと服の袖で涙を拭うと少々赤い目をして、でもにっこり微笑んで彼女は俺の顔を見てこう言う。
「…私は今までお兄ちゃんの面影を追ってきました。先生、どことなしかお兄ちゃんに似ている気がしてたんですよ? でも先生はお兄ちゃんなんかじゃないって…。分かってはいたんです。でも、やっぱりお兄ちゃんの面影を必死で探していたんですね? だからあの日…。私はお兄ちゃんのお弁当箱にお弁当を詰めて持っていこうって、そう思ったんです。昔そうして来たように…。馬鹿みたいですよね? お兄ちゃんはもういないって分かっているのにお兄ちゃんの面影を追って…。こんなこと小学生、ううん、幼稚園児にだって分かるじゃないですか…。でも、でも…」
そう言うとまた彼女は俯いてしまう。ごしごしと涙を拭う。でも拭っても拭っても涙は彼女の瞳から溢れてきてしまいぽたぽたと布団の上にしみを作っていた。俺はそんな彼女の頭を優しく撫でながらこう言う。
「いや、俺も同じだから…。と言うより俺の方が悪いのかもしれない。初めから俺が行こうなんて言わなければこう言うことにもならなかったんだしな? でもどことなしか似ている気がしたんだ。栞に…。いつも付き合わされて分かったんだけどな? もちろん雰囲気とか容姿とか言動とかはまるで違うけど何となくその存在感って言うのか、そう言うのが栞に似ていた。でもお前はお前だ。栞なんかじゃない。俺はあのときの、事故の時に駆け寄った際のお前が10年前の栞と同じような気がした。でも手術室で見たお前はお前であって栞なんかじゃない。そう感じた。それに夢を見たんだ…」
そう言って俺はあの夢のことを話した。片瀬は何も言わず聞いている。俺は自分の解釈でこう言付け加える。目の前にいる俺の彼女にそっくりの、でも全然違う彼女に向かって…。
「俺にはあの少女が天国の、いや、天国からのメッセージなんじゃないかと思うんだ。俺の大好きだった彼女からの…。大好きだった彼女だ。心の中で生きている彼女だ。それを忘れろと言うのはあまりに酷だとは思う。でも、それでも夢の中の彼女は“幸せになって下さいね?” って言っていた。だからもうそろそろ俺自身も夢から覚めないといけないと思うんだ。後釜なんかじゃない新しい彼女を見つけなくてはと…。俺はそう思う。そして今、俺には気になる女の子がいる…。背は小さくて、でもいつも元気で…。子供たちの面倒を見てくれて、たまに怒って頬を膨らませる…。そんな感じの女の子だ…」
そう言うと真剣な眼差しで俺は彼女を見つめる。言った意味の本質が分かったんだろうか、彼女は顔を真っ赤にしながら俯いた。しばらく黙っていた彼女はこう言う。
「…私も実は大好きな人が出来ました。その人はどことなしかお兄ちゃんに似ていて、ちょっとおっちょこちょいで、少しイジワルで、でもとても優しくて…。人のためなら身を粉にしてまで助けてくれる人です。でもどことなしか違っていて…。そういうのを恋って言うのかどうか分かりません。でも私はその人に恋をしているんだと思います。だってその人を前にすると胸がどきどきするんですもの…。 ……今も…」
俯き加減にそう言い終わると顔を上げる彼女。人は1人では生きられないとは言ったものだと今更ながらそう思う。気がつくと俺たちはお互いを確かめ合うように抱きしめあっていた。“前を見て…” と言う香里の言葉が何となくだが分かった気がする。過去に縛られてちゃいけない。自分でも分かっていたはずなのに…。それも出来ずにただふわふわ浮いていた自分。それがやっと地面に足をつけることが出来た。それもあの夢の女の子、いいや、あれは俺の最愛の彼女の最後の伝言だったのかもな? そう思いつつ窓の向こうの空を見つめる。空は青くどこまでも澄み切っていた。
エピローグへ続く