俺は悲しかった…。ただ悲しかった…。儚い夢のようだった。
 あの時、あの丘の上で眠るように…、そして霧のように消えていった真琴…。心の中にぽっかり大きな穴が開いてしまった。俺がどんなに会いたいと願っても、心の底からそう願っても…、もう会えないことは分かっていた…。


真琴の家族


 俺は、いつもどおり高校の門のところで名雪が出てくるのを待っていた。名雪は、学校を卒業しても今日は部活の子達の相談に乗っていて、今日も学校へ行った。今日は後継人事や何かで遅くになるとか言っていた。午後の2時ごろから出かけて行った。
 日は長くなってきたと言うものの女の子が一人で帰るのは危ない。だから俺は、4時に家を出てこうして待っている。時計を見た。時計は5時半を指していた。
 まあ、遅刻は名雪の得意技だ。俺は待ってやることにした…。
「あっ、祐一待っててくれたの? ありがとう…」
 名雪は校舎から出て来るとそう言って微笑んだ…。
「ああ。お前がまたイチゴサンデー食べないかどうか見張っていようと思ってな。それに……、遅くに女の子一人だと危ないからな…」
「祐一……、イジワルだお〜。でも、うれしいよ…」
 名雪は頬を膨らませたかと思うと、にっこり笑ってそう言う。俺はなんだか急に恥ずかしくなって…、
「ほら、そんなところに突っ立ってないで、帰るぞ、名雪!」
「ああん、待ってよ〜。祐一〜」
 今、水瀬家は俺と名雪、そして水瀬家に引き取られたあゆ、それに秋子さんという家族構成だ。秋子さん曰く、“家族が増えて嬉しいわ…”とのことだ。まあ、秋子さんらしいといえば秋子さんらしいのだが…。
 でも、俺はもう一人の水瀬家の一員を忘れられなかった。
 そう…、それはあいつ…、沢渡真琴と呼んでいた女の子だった……。
 3月も上旬だ。北の大地はまだ暖かい春の日差しは遠いようだ…。今年の冬はいつもより長くて未だに真冬日が続いている…。俺たちは高校を卒業した。もう、四月から大学生だ。俺は名雪たちと同じ大学へ行くことにした…。
 佐祐理さんと舞は、アメリカの大学へ留学していった。もうすぐ二年が過ぎようとしている。
 栞は病気もまだ完治したとは言えないものの元気に通学している。
「あっ、祐一君と名雪さんだっ。祐一く〜ん、名雪さ〜ん!」
 俺が名雪と家路を急いでいると、後ろの方からあゆの声が聞こえた。俺たちは振り返る。そこには荷物とたいやきを持って、走ってくるあゆがいた。
 どうせ秋子さんから買い物でも頼まれて、買って帰る途中にたいやきでも買ってたんだろう…。また、秋子さんにお小遣いでも貰ったんだろうか?…。
 俺が買い物帰りに寄り道するんじゃないって言っても、秋子さんに…、
“祐一さん…。わたしがあゆちゃんにお金が余ったら好きなもの買って来ていいわよ、って言ったんです…。だから祐一さん、あゆちゃんのこと…、あまり怒らないであげてくださいね…”
 って、いつもの秋子さんポーズで言われるんだ…。はぁ、秋子さんも甘いよなぁ。俺はそう思った。
「祐一? なに見てるの? ああっ、あゆちゃんだ! お〜い、あゆちゃ〜ん」
 名雪がそう言って、嬉しそうに手を振っていた…。俺は、近づいて来たあゆのおでこに向かって…、
 ビシッ!!!!!!!!
 デコピンを食らわしてやった。
「うぐぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜。痛いよぉ〜。…もう! 何するんだよ!! 祐一君!!」
「“うぐぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜”じゃない!! お前なぁ、俺と昨日約束しただろ?! “もう、たいやきは買い物帰りには買いません”って。だいたいお前はいつもいつも…!!」
「……うぐぅ。仕方なかったんだよ〜。だってボク、たいやき大好きだったから…」
「わかる。わかるお〜。あゆちゃん。わたしもショーウィンドウのイチゴサンデー見たら、ついふらふら〜ってお店に行っちゃうもん。祐一もそれくらい許してあげなくっちゃ…」
「名雪〜。俺はな…、秋子さんのことを考えて言っているんだぞ…。はぁ…、娘のお前がそんなことでどうするんだ? ほら、あゆも…。お前も、居候なんだから秋子さんを困らせるんじゃない!!」
「「でも、でもぉ〜」」
「でもじゃない!!」
「うううぅぅ〜、祐一怒らせちゃったよ〜。あゆちゃん、怖いよぉ〜。逃げようよ…、あゆちゃん」
「うぐぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜」
 名雪とあゆはぶるぶる体を震わせて、俺の顔を見た。俺が怒っていると分かるや否や、二人は逃げ出していった。
「あっ、こら、待てっ!! 話はまだ終わってないぞー!!」
 結局、名雪とあゆには逃げられてしまった…。いつからそんなコンビネーションを身に付けたんだろう…。逃げ足だけは速いんだからな…。あいつらは…。家に帰ったらお仕置きだな。うん。


 俺は、晴れた夕焼けを見ながら、家路につこうとしていた。北の大地の夕陽は雪が反射して、朱く映えていた。都会だとこんなに綺麗には見えないだろう…。俺は両親の仕事の都合であちこち転校を余儀なくされていた。
 だけど俺は周囲と馴染めずにいつも苦い思いをしてきた。俺の母さんの妹である秋子さんに、俺を預けるといったのは去年の冬のことだ…。あれから1年、俺もやっと馴染んできたんだと思う。
 それはあいつと名雪達のおかげかもしれない…。
 家路を歩いていると、ふとあの丘に続く道に出てしまった。……。急に山に沈む夕陽が見たくなった。俺は、丘に登った。
「あっ、相沢さん…」
 俺が丘に登ると先客がいた…。俺と同じ悲しみを背負って、その悲しみに心を奪われてしまった少女、天野だ…。
「よっ、天野。……。綺麗だな…。ここから見える夕陽は…」
「ええ…。そうですね…。……。相沢さんは、なぜここに来たのですか?」
 天野は、まっすぐ夕陽を見つめたまま俺に言った。
「俺か? そうだなぁ…。天野と一緒の気持ちになったって言うのは答えにならないか?…」
「そうですね…。正解だと思います……。私もよくここに来るんですよ…。寂しくなったときとか…、辛くなったときとか…」
「相変わらず、おばさんくさいなぁ〜。天野は…」
「また失礼なことを言っていますよ…。相沢さん…。もう少し違った言い方は出来ないのですか? 例えば、物腰が優雅だとか…。大人びて見えるとか…」
「ごめん。天野…。……。それにしても、綺麗な夕焼けだな……」
「……」
 天野は黙り込んでしまった。普段あまり喋らないので、学校の方でもいじめの対象になりやすい。現に今いじめを受けていると噂ながらに聞かされていた…。
 俺はそんな天野の…、彼女の心の重荷を少しでも減らしてやりたい。そう思った…。だって、天野はあいつのことを知っているたった1人の友達、いや、家族だったから…。
「相沢さん……、今、幸せですか?……」
 山に沈む夕陽を見ながら、天野はぽつりそんなことを言った。しかしなぜ突然、天野がそんなことを言ったのか…。俺には分からなかった。天野を見た。天野はひどく疲れているような、悲しいような、そんな表情だった…。
「……さあ、もう帰りましょうか……。相沢さん……」
「うん? あっ、ああ……」
 尻についた草を払うと俺は立ち上がった。続いて天野も立ち上がる。ものみの丘……。なぜそんな名前がついたのか、俺は知らない…。ただ、あいつがこの丘で生まれて、この丘で消えていった。
 そのことだけが事実として残るだけだった。丘には、ただ冬の終わりの冷たい風が吹くだけだった…。


 私は、今日もこの丘に来ていた。いや、来てしまっていたというほうが正しい表現だろう…。あの子と出会って、そして別れたこの丘に…。あの子は相沢さんのところでは沢渡真琴という名前でいた。
 私は、相沢さんに私のような思いをさせたくないと思った。だから私は言った…。
 でも、相沢さんは強かった。私にも、そんな強い心があったなら今ごろは…、もう少し変わった人生を送れたのかもしれない……。強い心…、今でも私は欲しいと願っている。でも、私には一生かかっても無理だろう…。そう、思った…。
「なあ、天野…、お前、学校でいじめられてるんじゃないのか?」
 相沢さんがそう言った。図星だった…。私は、学校でも家でも自分からはあまり話す方じゃない。話す方じゃないと言うより話せなくなったと言う方がいいだろう…。だから、私は今いじめにあっている。
 あの子と別れる前まで、私は自分で言うのも変だけど、活発な女の子だった。
 あの子と別れて、私の性格は一変した。小学校3年の頃だ…。私は何日も何日も泣いた。そう…、涙が枯れるくらいまで…。私の涙…、今はもう枯れてしまっているのかもしれない…。
 だからどんなに苦しくても、どんなにつらくても、そして…、どんなに悲しくても、泣くことが出来なくなっていた…。感情がなくなってしまったのかもしれない…。
 いじめは、あの子と別れたときから続いている。最近では幼馴染の人達にまで、白い目で見られるようになった…。そんな私に、相沢さんや水瀬さん、水瀬さんのところに居候している月宮さん、そして美坂さんたちは優しくしてくれる。
 美坂さんとは仲のいい友達、そして今の私の唯一の理解者となってくれた。美坂さんも、美坂さんのお姉さんも相沢さんに助けてもらったんだって言って微笑んでいた。私も、もう少し早く相沢さんと出会っていれば…、変わることが出来たのかもしれない……。
「天野…、やっぱりお前…。……なあ天野、自分一人で悩んだって何も解決しないんだ。現に俺がそうだった。けどな天野、お前はもう一人じゃない。頼りないけど俺がいる。名雪がいる。栞や香里がいる。俺よりもっと頼りないけど、あゆだっているんだ…。それにな、天野…。お前の心の中にはあいつがいるじゃないか…。お前が大切に思っていたあいつが…。だからどんなことがあっても、負けるんじゃないぞ…。天野」
 帰宅時の別れ際、相沢さんは私の肩に手を置いて、優しく私の目を見つめてそう言った。私は嬉しかった。私のことをこんなにも心配してくれる相沢さんが…。あの子も…、真琴もどんなに幸せだったろう…。
 私はそう思った。私はただこくりと頭を下げて相沢さんと別れた。
 胸の中が温かかった。ただ温かかった……。
 その日の夜、私は夢を見た。あの子が、家の扉を開けて元気よく…、
「ただいまぁ〜。美汐ぉー、ボク、もうおなかペコペコだよ〜。早くご飯にしようよー」
 そう言ってにっこり微笑んで私のもとへ帰ってくる夢を……。今までの嫌なことを一瞬で消し去ってくれる、そういう夢…。その日、私は久しぶりによく眠れた。


「なあ、天野…、お前、学校でいじめられてるんじゃないのか?」
「……」
 その時の天野の顔は…、泣いていた…。涙は流れてはいなかった。だけど、泣いていた。俺には分かった。俺は天野を、彼女を励ますことしか出来なかった。現に苦しんでいるのは彼女だ。俺が言える立場じゃない。だけど俺は…。俺は、天野を助けたかった。
 彼女に本当の笑顔を取り戻させてやりたかった…。俺と同じような笑顔を…。次の日、栞と公園で待ち合わせて例の馬鹿でかい弁当を食べながら、俺は天野のことを話した。
「やっぱりそうだったんですね…。美汐ちゃん…」
「ああ…。天野はあまり自分から話す方じゃないからな…。舞とよく似てるよ…。まあ、舞には佐祐理さんがいたからな…。栞も、いろいろとしてくれてありがとな…。……。でも、何とかして天野の心を開かせることが出来ないものかな?…。なあ…、栞。お前…、天野の笑ったところなんて、あまり見たことないだろ?」
「いいえ、私も独りぼっちでしたし…。美汐ちゃんと友達になれてよかったと思っています。あっ、でも…、そうですね…。あまり見たことありませんね。美汐ちゃんのそういうとこ…。笑えばとても可愛いと思うんですけどね…」
「そうだよなぁ…」
 俺はため息混じりにそう言った。天野にも今の俺のように笑顔を取り戻して欲しかった…。あいつのことを知っている、いわば家族のような、そういう存在だった天野…。何分間か黙って一人考え込んでいると、
「あっ、そうだ! 祐一さん、明日、お祭りに行きましょうよ! 美汐ちゃんやお姉ちゃんたちも連れて一緒に…」
 栞が思い立ったように言った。昔、あゆが夢の世界へ旅立ってしまう前、何回かこの町に来たことはあった。夏祭りには何度か行ったことはあるが、冬の祭りには行っていない…。冬の祭りなんてあっただろうか…。
「祭りって、こんな寒い時期に祭りをするのか?…。俺は聞いたことがないぞ?」
「あっ。祐一さん、聞いてないんですね。今年から行なうらしいですよ? 場所はものみの丘の外れの小さな神社だそうです…。確か…、稲荷神社のお祭りだったような…。美汐ちゃん、誘ってあげたら、きっと喜ぶと思いますよ。それに、私も行ってみたいですし…」
 稲荷神社なぁ…。俺も、明日はこれと言って、別段何も予定はなかったし…。それに…、何より天野に元気になって欲しかった…。俺は言った。
「栞。じゃあ、みんなで行こう! 秋子さんや北川も連れて行ってもいいか?」
「もちろんです。やっぱりお祭りは大勢で行くほうが楽しいですよね」
「それじゃあ、お姉ちゃんには私から言っておきます。祐一さんは、名雪さんやあゆさんたちに…、それと美汐ちゃんにも、言ってあげてくださいね…」
「ああ、分かった…。でも天野はお前から言ったほうがいいんじゃないのか? 友達だろ?」
「えぅ〜。…分かってないですね…。祐一さん…。こういうものは男の子から誘ってあげるものですよ…。鈍いです。祐一さん。そういうこと言う人嫌いです…」
 栞は、拗ねるような、怒るような…、そういう顔で、俺を見ていた。なぜそんな顔をするのか? 俺にはさっぱり分からなかった。


 その日の放課後、俺は天野を待っていた。栞に、昼飯時にあれやこれやと文句を言われて…。春を目の前に日暮れは遅くなっていた。……ふと、嫌な予感がした…。
(もう少し待ってみるか…)
 もう、運動系の部活は終わっている。この学校も来ることはないのだろうなぁ〜。…と感慨深げに、校庭の方を見ていた。しかし、それにしても天野の来るのが遅い。いつもなら天野のほうが先に着ていて、俺に文句のひとつでも言っているころだ…。
 何かあったんだろうか? 俺は思った。
 ふと…、俺は天野の教室のほうを見た。教室の窓に天野とそれを囲むかのように3人の女生徒の姿があった。天野はいじめられている…。そう俺は直感した。急いで俺は、天野のクラスへ向かった。
「ちょっと…、何とか言いなさいよ!! ちょっと頭がいいからって…」
「根暗だよねぇ〜。成績は優秀なのに……」
「こんな人がいるから、私たちのクラスがじめじめ暗くなっちゃうんだわ!!」
「……」
「何? この女は…。ふんっ。あなた、あの小憎たらしい関西女にそっくりだわっ! 今思い出してもムカツクったらありゃしない!! 自分は、さもあなたたちとは違うんですぅって人を見下したような態度しちゃってさ…。ああっ、ムカツクっ!!」
「……それは、お前たちの勝手な思い込みなんじゃないのか?」
 俺はそう言って教室の中に入った。女生徒たちはあからさまに怪訝な目を俺に向けてくる。
「誰よ! あなた…」
 女生徒の一人が俺に向かって言った。水色の髪の毛の気の強そうな女子だった。んっ? こいつは確か…。ちょっと待て。聞いた覚えがあるぞ。う〜ん。どこだったかな…。確か…、藤田の…。あっ! 思い出した。
 こいつら、藤田から聞かされたいじめっ娘3人組だ!
 藤田の言ってた特長とぴったり合っている。それに、俺も何度か藤田と一緒の学校で見たことがある。確かこいつら、陰湿ないじめで藤田がいる学校を追われたんだっけ…。電話で藤田が言ってたな…。
「何か言いなさいよっ!!」
「おい、お前たち。藤田浩之って知ってるか?」
 そう俺が言ったとき、3人組の顔色が急に変わった。
「実は俺、藤田とは中学のときの先輩後輩の仲でな…。俺は高校の途中までお前らと同じところへ通ってたんだ。まあ、お前たちは知らないで当然だろうな…。藤田からは今でもちょくちょく電話がかかってくる。あっ。俺、この前卒業した相沢って言うんだけど…。…今日は天野に用があってな…。……。それで……、お前たちはここで仲良く天野とお話か…。悪いが天野は俺と約束があってな…。“楽しーい”お話の途中で申し訳ないが、天野は連れて帰る。お前たちも、早く帰れよ〜。じゃあな」
「えっ。……あっ、じゃ、じゃあ……」
「そ、それじゃあ、先輩…」
「……」
 三人三様、それぞれの挨拶をする。天野に一番食ってかかっていた水色の髪の女子は、ばつが悪そうに下を向いていた。俺は天野を連れて教室を出ようとした。すると……、
「あっ、あの。先輩?」
 水色の髪の女子が俯きながら静かに言ってきた。
「先輩…。ごっ、ごめんなさい。それに…、天野さんもごめんなさい」
「あっ? ああ…」
 そう言うや否や、ダッシュで教室を出て行った。ほかの2人も俺たちに一礼して後を追うように出て行った…。あの3人組…、藤田の名前を出したとたん、急に顔色が変わってたな…。
 藤田がまた何か言ったのか? 昔からよく問題を起こす奴だったからな…。あいつは…。今度、電話でもして聞いてみよう。
 まあ、これであの3人組も少しはおとなしくなるだろう…。あっ、そういや…、神岸とはうまくやってるのかな?
 学校の帰り、空にはちらほらと春の淡雪が舞っていた…。天野は終始無言のまま家路についていた。
「天野……」
 俺は静かに彼女の名前を呼んだ…。
「……」
「なあ、天野? 明日、祭り、行かないか?」
「えっ?……」
「いや、栞からな、祭りに誘われてな…。いや、お前が嫌ならいいんだ…。でも、みんなも楽しみにしてるしな…。まあよかったら来てくれ…。もし天野が来なかったら、栞が「美汐ちゃんと一緒じゃなきゃ、私行きません!」って駄々をこねそうだしな…。ははっ」
「はっ、はい…。ありがとうございます。相沢さん……」
 天野は深々とお辞儀をした。…お辞儀をしたまま天野は顔を上げようとはしなかった。ポタッ、と天野の下げた顔から雫が流れて新雪の上に落ちていた。雫は2滴、3滴と後から後から落ちて新雪を溶かしていく。
「うん? どうした? 天野…」
 俺は聞いた。天野は顔を上げた。天野は…、泣いていた…。あの無表情だった天野が泣いていた…。俺は驚いた。と、天野は俺の体を抱きしめて…、
「あ、あ、相沢さ〜〜〜〜〜ん。私、私、辛かった…。苦しかった…。クラスメイトの人たちにも白い目で見られて、仲の良かった友達にまで白い目で見られて…。私…、とても辛かったんです…。苦しかったんです…。ううう…」
 そう…、言った。天野が初めて感情を表に出して泣いていた。天野が初めて…、人前で泣いていた…。俺は、壊れそうなくらい脆い天野の心を助けてやりたいと改めて思った……。


 私は初めて相沢さんの前で泣いた。もう残っていないと思っていた、私の感情。泣くという感情…。その日私は涙が枯れるくらいまで泣いた。もう枯れてしまっていたと思っていた涙。その涙が次から次へと溢れてくる。ああっ…、私は泣くことが出来るんだ…。そう、思った…。
 私が泣き止むまで、相沢さんは私の肩に手を置いて私のことをじっと見つめていてくれた…。私が落ち着いたころ……、
「天野…。お前、今までじっと我慢してきたんだな……。一人で、耐えてきたんだな…。お前はいい奴だよ…。すごく…、いい奴だ…。でもな天野…、もう耐えなくていいんだ。苦しまなくて…、いいんだよ…」
 そう言って私の頭を優しくなでてくれた。ふと、相沢さんの顔を見た。相沢さんはとても…、とても優しく微笑んでいた。私は心が温かくなった。そう、それは…。根雪を溶かす温かな春の日差しのように…。
 結局、相沢さんは私を家まで送ってくれた。そして…、
「じゃあ、天野。明日迎えに来るからな…」
「はっ、はい……」
 相沢さんは、そう言うと帰っていった。私は、相沢さんの帰った方向を、いつまでもいつまでも見つめていた…。
 私は、このとき、ちょっと微笑んでいたらしい。自分では気が付かなかった。買い物帰りに私を見たお母さんが、そう言っていた。
“私は幸せだ…”
 夜寝るとき、微笑みながら私は心の中で何度も何度もそう思った。私は、ただ自分の殻に閉じこもって…、一歩でも踏み出す勇気がなかった…。今から、私は踏み出すことが出来るのだろうか? 怖い…。
 そんな私に相沢さんは温かく見守ってくれる。私は明日から生まれ変わるんだ…。
 私は、一人じゃない。そう思いながら眠りについた…。


 家路につく途中、俺は思った。天野、お前は泣くことが出来たんだ。今度は微笑むことだ…。お前の心にはいつも真琴やあいつがいるんだ…。だから、お前の笑顔を取り戻せる日は近いんだ…。だから、頑張れ。……と。俺は、そう思った。
 次の日、俺は名雪たちといっしょに天野の家に向かった。秋子さんは、「せっかくお祭りに行くんですから…」と、名雪とあゆに振り袖を着せて微笑んでいた。二人が振り袖を着ている姿を見るのは今年の正月以来だった。
 可愛いな…、よく似合ってるよ。二人とも…。俺はそう思った。
 名雪は可愛い猫のプリントがいっぱい入った振り袖、あゆはオレンジ色の明るい感じの振り袖だった。秋子さんは、正月以来久しぶりに着付けをしたのだろう…。家を出るときには昼を過ぎていた。
「祐一君、どう? 似合ってるかな?」
「ああ、よく似合ってるぞ。あゆ。でも今日は食い逃げなんてするなよ…。って今日はそんな格好だから出来る訳がないか…。ははは」
「うぐぅ…。それじゃあボクが毎日食い逃げしてるみたいじゃない…。祐一君、イジワルだよ…。うぐぅ〜!」
 あゆをからかいながら天野の家に向かう。秋子さんと名雪は微笑ましそうに俺たちのやり取りを見ていた。途中で栞たちとも出会い、俺たちは天野の家に向かった。しかし秋子さん以外全員振り袖とはな…。
「あっ、相沢さん」
 天野も、薄い桃色の振り袖だった。可愛かった。いつものおばさんくさい天野とは違って“美汐ちゃん(はぁと)”と呼ばれてもおかしくないような感じだった。でも、表情とかはいつもの天野だった…。
 ものみの丘の神社に向かっている途中、秋子さんが話しかけてきた。
「祐一さん、びっくりしましたか?」
「えっ? 何がです?」
「あゆちゃんや名雪、香里さんや栞ちゃん、それに美汐ちゃんまで振り袖だったということです…。……実は昨日の夜、わたしが皆さんのところに電話をしたんですよ…。今日は真琴のふるさとに行きますからって…。真琴…、あの子は普段は強がっていたけど、結構寂しがり屋さんでしたからね…。少しでもみんなの明るい笑顔を見せてあげたかったんですよ……」
「そうでしたね……。あいつ……」
 俺は言った。俺は、秋子さんの優しさを改めて知ったような気がした…。真琴もどんなに幸せだろう…。俺はそう感じた……。
「それにね…、祐一さん…。真琴の分の振り袖もあるんですよ…。あの子がいつでも帰ってきてもいいように…」
 秋子さんはそう言って寂しそうに微笑んだ…。真琴はもう帰ってこないことは分かってる。でも、秋子さんは真琴のことが忘れられなかった。俺だって秋子さんと同じだ。
 どんなに忘れようとしても、忘れることが出来ないでいる。天野も同じ気持ちなんだろう…。俺は思った。


 神社は色とりどりの屋台で埋め尽くされていた。ものみの丘にこんな神社があるとは知らなかった。時間も時間だ。名雪たちは早速屋台の方へ向かっていった…。香里は…、
「それじゃあ、あたしは名雪たちの監視で行ってるわね。さあ、北川君、行くわよ」
「ちょ、ちょっと、美坂ぁ〜。耳、耳を引っ張るなって…。痛い、痛いって〜」
 そう言って香里は北川を引っ張って屋台の方へと消えていった。残されたのは俺と秋子さんと天野だった。
「じゃあ、お参りに行きましょうか…。相沢さん」
 天野はそう言うと境内の方へと向かっていった……。


 私は相沢さんと水瀬さんのお母さん、お二人と一緒に神社の境内へと向かった…。境内は閑散としていた…。
「久しぶりですね……。ここに来るのは…」
 水瀬さんのお母さんは感慨深げに境内の一本の木を見つめていた。
「あっ、この木、まだあるんですね…。あの当時はこんなに小さかったのに…」
「さっきから、何を言ってるんですか? 秋子さん…」
「あっ…、ごめんなさいね。祐一さん。ここは昔、わたしにあの人がプロポーズしてくれた場所なんですよ…」
「…そうだったんですか…。俺、知りませんでしたよ…」
「ええ、あの人ったら、約束の時間に2時間も遅れて…。何をしてたの? ってわたしが聞くと、あの人ったら恥ずかしそうに…、“ちょっと、寝過ごしちゃったんだ”ですって。うふふ。名雪はきっと、あの人に似たんですね…。……こんな他愛のない昔話をしてしまって…。ごめんなさいね。祐一さん…。美汐ちゃん…」
 そう言った水瀬さんのお母さんはどことなしか寂しそうだった。水瀬さんのお母さんも、私と同じ心に傷を負っているんだ…。前に、相沢さんから水瀬さんのお父さんのことを聞かされた。私は、もし自分が水瀬さんと同じ立場だったらどうだろうかと考えた…。
 私だったら…、私だったらあの子がいてくれたとしても、いつも泣いていただろう。それなのに、水瀬さんはあんなに優しく微笑んでいる。それに比べて、私はなんて脆い人間なんだろう。なんて弱い人間なんだろう。そう、思った…。
 私たちは、お堂へと向かった。所々寂れていて、いかにも古い神社のお堂という感じだった。私たちは神様にそれぞれお祈りした。私の願い。それは…、
“強い心が欲しい”
 だった…。

「今日は楽しかったです。皆さん、ありがとうございました」
 皆さんとの別れ際、私はそう言った…。相沢さんが…、
「俺も楽しかったよ。天野…。これからも、またこうして時々は出かけような…。今度は、そうだなぁ〜。時期的にお花見とか、いいんじゃないか…。“うぐぅ”と“だお〜”と“えぅ〜”と香里と秋子さん。それにおまけの北川も一緒に…」
「うぐぅ。ボク、“うぐぅ”じゃないもん!! 祐一君のいじわる〜」
「わたし、“だお〜”じゃないお〜。祐一、イジワルだよ…。ぶ〜」
「えぅ〜。そんなこと言う祐一さん、嫌いですっ!! ぷんぷん!!」
「あ、相沢ぁ〜。俺はおまけなのかっ? ええっ!!」
 4人同時に、相沢さんに突っ込んでいた。水瀬さんのお母さんたちは、そんな4人の様子を見て微笑んでいた…。ふと、相沢さんが私の方を見た。そして…、
「天野……、今、微笑んでないか?」
 私が微笑んでいる? …今まで気がつかなかったけれど、私は確かに微笑んでいた。微笑んでいる自分。本当に私…、微笑んでいるの? 私自身、にわかには信じられなかった…。相沢さんの方を見た。相沢さんたちも、嬉しそうに微笑んでいた。
 ああっ…、私は、微笑むことが出来た。あの子と別れたあの時から…、忘れてしまっていた私の感情…。それが、やっと取り戻せた。いや、取り戻すことが出来た…。本当の笑顔を取り戻すことが出来た。そう思うと、別に悲しくもないのに涙が私の頬を伝って、ぽろぽろと零れ落ちた。
 私は、こらえきれずに相沢さんの胸に飛び込んだ。そして……、大声で泣いた。それは、そう…、子供が駄々をこねるように…。甘えるように…。相沢さんは、そんな私を優しく抱きしめてくれた……。強い心も、もうすぐ取り戻せるかもしれない…。私は、そう思った…。


 真琴…、私は、あなたに感謝しなくてはいけませんね…。それに、あの子にも…。相沢さんと出会ってなかったら…、私は、多分あのままだったと思うのですよ…。あの子達との出会い、そして別れ…。私はもう悲しむのは自分ひとりで十分だって思ったのです。
 相沢さんには私のような悲しみを背負わせたくないって…。
 だけど…、だけどそれはいつしか…、良い思い出になるのですね…。あなた達と出会って、そして別れたこと…、未来の私には良い思い出になってくれると思います…。だから私は、今を生きることにします。でも、あなた達のことは決して忘れません…。
 …そしていつか、いつかまた、出会えるような気がするのです…。だって…、ほら…。

〜FIN〜