雨が降っていた。鉛色の空からしとしとと雨が降っていた…。
「今年もまた雨だな…。…って、しょうがないか…。梅雨時なんだからな…。ははは…」
そう一人呟いて、今年も俺は彼女の…、俺の最愛の彼女のところへ向かう。彼女の大好きだったユリの花を持って…。そう…、俺の最愛の彼女…。美坂栞が天国に召されてから、もう八年の月日が流れていた……。
神さまの贈りもの
〜続々・奇跡の価値〜
前編
なだらかな傾斜の坂道を登っていく…。俺がこの町に帰ってきて早一年が経っていた。秋子さんや名雪や香里、そして栞との約束通り、俺は医者になり…、この町へ戻ってきた。今は町から少し離れた高原の総合病院で医者として働いている。
高原からは町が見下ろせた。栞との思い出の詰まった町…。夜ともなると町の灯りがまるで宝石箱をひっくり返したように見える。ちょうど八年前、栞と最期に見たあの景色のように町は煌めいていた。そんな町の風景だった…。
坂道を登っていく途中で、ふと大学院時代、ちょうど俺が研修医時代の時のことを思い出した。研修医時代…、栞と同じ、……いや、それ以上に可哀想な女の子の担当になった。笑った顔が可愛らしい……。あの当時の栞と同じくらいの歳の女の子だった。
その子も、栞と同じ心臓病だった。一刻の猶予もままならない…。そんな感じだった。親にも連絡はしてみたんだが、なぜか色よい返事はもらえない。何故だ? と思った。
ちょうどいた看護士に事情を聞く。看護士は静かに話してくれた…。話を聞いた後、俺はその子の親に無性に腹が立った。と、同時に彼女がとてつもなく可哀想に思えた。彼女には不思議なチカラがあるらしい。
そのせいで仲の良かった友達にも、学校の先生にも、果ては親にまで見捨てられ、あるいは気味悪がられていたらしかった。俺が彼女の診察に向かうと、瞳を真っ赤にして俺の顔を見つめてくる。
多分一人ぼっちで泣いていたんだろう。俺は栞とそんな彼女を重ね合わせて見ていた。
何だか、彼女の方が栞よりももっと可哀想に思えた…。
そんな彼女にも、唯一心の支えとなってくれる彼がいたらしい。何回かすれ違ったがぶっきらぼうな奴だった。でも何となく優しさを内に秘めているような、いわゆる“硬派”というのだろう。そんな感じの奴だった。
それからも彼は何度か彼女の病室へ足を運んでいた。早く元気になって欲しいと思ったんだろう…。
でも、彼女は…。最期の顔…、言いようのない顔だった。なぜこんな悲しい運命を背負って生まれてきたのだろうか? そう思わざるには得なかった。
彼女が天国へ召された時、彼女の体を抱きしめて彼は大声で泣いていた…。一年経った今でも、俺は彼女の体を抱きしめて号泣する彼の声が忘れられない…。
…もう少し医術が発達していれば…、あの子を助けることが出来たのかも知れないのにな…。……いや…、医術だけでは駄目だ。
人として一番大切なもの。そう…、それは栞から教えてもらった心…。どんなに苦しくても、またどんなに悲しくても、人を思い、人を慈しみ、そして人を愛するという心が必要なんだ。
そう回顧しながら、なだらかな坂道を登っていった。
坂道を登り、しばらく歩く。目的地が見えてきた。月に一回は来ているので、今ではそんなに気にすることもないが、辺りを見回してみる。
墓地の周りには森があり、森の木々には若葉が青々と茂っている。森の青と墓地の閑散とした空気…。誰一人いない、自分だけがこの世界に取り残されたような気がした。
栞の墓の前まで来る…。別段変わったところもないんだが、俺には黒い黒曜石で「美坂家之墓」と刻まれた墓石が一種異様に思えた。墓の前、中腰になり花を供え、線香に火をつける。手を合わせた。
「栞…、お前が天国に逝って、もう八年も経つのか…。早いものだな…。でも、未だに俺にはお前が生きているように思えるんだ…。なあ、栞…。お前は天国で新しい彼でも見つけて、俺のことなんか忘れてるんだろうな…。…こんなこと、いつまでも引き摺って…。自分でも情けないと思ってる。お前は天国で新しい彼でも見つけて楽しく過ごしてるって言うのにな。でも俺は今でもお前のことが好きだ…。忘れようにも忘れることなんて出来やしない…。やっぱり俺にはお前が一番だと思うから…。……って、もうこんな時間か…。じゃあ、俺…、仕事があるから…、帰るな? あっ、そうそう…、あの子とも仲良くしてやってくれよ…。って、お前のことだ。きっと仲良くなってくれてる…。俺はそう信じてるよ…」
そう言って、俺は墓地を後にする。栞に、あの子のことは話しておいた。一年前、ちょうど俺がこの町に帰ってきたときだ…。今…、栞がにっこり微笑んで頷いたような感じがした…。
「退院おめでとう…。よく頑張ったね……」
俺はそう言った。机の片隅…、もう色褪せている栞の写真を置いて、今日も俺は働いている。いや、働くというよりは、少し偉そうなことを言っているように思えるが…、命を救うといった方がいいのだろうか…。
俺は外科医になった。栞のような…、死の病と戦っている人を救いたいと思ったからだ。
今、俺がいるところは病気で長期療養が必要な子供たちが入院している総合病院だ。一応、小児科や内科の免許も取得しているので、教授にここを紹介された。北海道に行きたいという俺の意向を見越して紹介してくれたんだろう…。俺はここを紹介してくれた教授に感謝している。
最近は、ことに小児科の医師が減ってきている。少子化と言うのが原因らしい。
小児科はどこも大変だというのは分かっている。でも、小さな、かけがえのない命を救うという、聖職者じゃないのだろうか…。小児科というのは…。偉そうだが、俺は小さい子供の笑顔を見るたびにいつもそう思っている。
今日も一人、退院していく。5歳の女の子だ…。名前は千恵巳ちゃんという。千恵巳ちゃんは俺の机を不思議そうに見つめている。なんだろうか…。そう思い、俺もつられて机を見た。
机には古めかしい写真が立て掛けてあった。千恵巳ちゃんは不思議そうに言う。
「ねえ、せんせい。このかわいいおんなのこはだ―れ? せんせいのおよめさん?」
彼女にとって、写真に写っている人は誰でも恋人だと言う風な構図になっているんだろう。彼女の母親は彼女の頭を優しく撫でながら「すみません」と一言言って、頭を下げた。俺は微笑むと目線を彼女に合わせて言う。
「うん。この子が先生のお嫁さんだよ……」
「へぇ〜。かわいいな……。ちえみもおおきくなったらせんせいのおよめさんみたいになりたいな……」
えへへと笑うその顔には希望に満ちた明るいものがあった。三ヶ月前まで、死の淵を彷徨っていたとはとても思えないくらいの明るく元気な顔だった。
彼女が病院を離れていく。彼女の両親は何度も何度もこちらに向かって頭を下げていた。俺は数人の看護士、それにまだ長期療養が必要な子供たちと見送りに出た。…ある女の子が言った。
「千恵巳ちゃん…、行っちゃった……。…ぐすっ」
「奈々ちゃん…、泣かないで…。千恵巳ちゃんは元気になったんですよ…。さあ、わたくしたちも頑張って元気にならなくちゃ。千恵巳ちゃんみたいに…。ねっ? 奈々ちゃん…。それにみんなも…」
彼女と一番の友達だった女の子、奈々ちゃんは、羨ましそうに去っていく彼女の車を見つめていた。それを柔らかく諌めた少女は、鞠絵ちゃんと言った。眼鏡をかけた優しそうな面影は、どことなく栞に似ていた。
病気は彼女が一番重い。というのも栞と同じような肺の病気だからだ。それに心臓にも疾患がある。
ちなみに心臓の方が病としては肺よりも古い。彼女の体には、三年前に受けた手術の傷が生々しく残っている。そんな体なのに、彼女は健気に、進んで小さい子の面倒などを引き受けてくれる。
優しい子だな…。俺はそう思った。
あたしは、大学を出て教師の職に就いた。教師といっても、普通学校の教師じゃない。そう、あたしが選んだのは養護学校。
大学時代の友人から、「あんた、何もそんな苦労しなくてもいいじゃないの…」と言われたけど、あたしの決意は固かった。
あれから、もう三年も経つのね…。そういえばあの子が天国へ旅立って、もう八年か……。
養護学校は普通学校とは違う。そう思って大学を出るとき、決意の一環としてあたしは髪を切った。長い髪が切られていく。腰の辺りまであった髪。今では肩に届くか届かないかと言った具合だ。でも、それでいいとあたしは思った……。
あたしも変わらなくてはならない。そう、それが妹の…、栞との約束でもあるのだから…。
「はい、今日はここまで…。さあ、みんな…。帰る準備をしましょうか?」
「「「はい」」」
生徒たちが各々の鞄にその日の教科に使ったものを詰めていく。クラスは一クラスしかない。というか、同じ学年で生徒が三人くらいしかいない。あたしのクラスも例外ではなかった。もっとも、あたしが担任を任されたクラスは、障害の軽いクラスだ。
今まで、障害者とはどれも同じように思ってきたけど、そうじゃないことに気付かされる。知的障害者や精神障害者、そして今、あたしが教えている身体障害者(正確には身体障害児になるんだけど…)も含めて、障害者と言うのだそうだ。
でも、障害者とか健常者とかって区別するのはおかしいと思う。あたしにとっては同じ“人”なんだから……。
「あの…、美坂先生。僕、今週の日曜日に鞠絵に会いに行こうと思っています…。長い間顔を見ていないから鞠絵も寂しがってるんじゃないかと思って…。で、次の月曜日、お休みするかもしれません。一応は帰って来る予定ですが…」
「航君…。別に無理して来なくてもいいのよ…。あなた、一人で頑張っているんだから…。生活とかも大変でしょうに…。だから先生、何も言わないわ…。鞠絵ちゃんによろしく言っておいて…。……あっ、ついでに相沢先生にも…、ねっ?…」
「あはははは……。はい、じゃあ出会ったら伝えておきますね?…」
そう言って話してくるこの子は、海神航君。今年で17歳になる。この子は足が不自由だ。だから、いつも車椅子に乗っている。彼には父親も母親もいない。彼の両親は彼が13歳の時に事故で他界した。
あたしが大学を出てここにやって来た年が四年前だから…、もう五年も前の話だ…。
だから、彼は一人、近くの施設に住んでいる。家は今、あたしの住んでいるアパートとさほど遠い場所でもないので、あたしも休みのときとかには、航君の施設にお手伝いなどをしに行っている。
でも、このことは学校には内緒だ。別に内緒にすることもないんだけど、学校というところは、いろいろとややこしいところだから…。
補足として、鞠絵ちゃんのところに相沢君がいる。今は、外科・小児科部長として働いているということだ。無事に医大を卒業し、大学院まで出た彼は、一年前…、この町に戻ってきた。そう、あたしや名雪たち、そして天国にいる栞との約束を守って…。
あたしも何回か足を運んだこともあるが、彼は立派に医者と言う仕事をしていた。それを見て、彼はやっぱりすごい人だと思った。
「じゃあ、先生。今日はこれで………」
彼はそう言うと車椅子を押して帰っていく。途中、段差のあるところも難なく通過していく。手馴れたものね…。彼は、小学6年生のときに事故に遭い車椅子生活を余儀なくされたんだそうだ。大変だったろうに…。あたしはそう思った。
そんな彼の唯一の心の支えは、今、相沢君のところにいる妹の鞠絵ちゃんだ。彼にとっては残された唯一の家族。そして大切な妹…。彼を見ていると昔のあたし…、そう、栞と暮らしてきた頃のあたしが思い出された。
あたしはただ去っていく彼を見つめるだけだった……。
日曜日……。俺は看護士とともに朝の診察に向かう。病院を歩く靴音がこつこつと廊下に響いた。
看護士とともに診察を済ましていく。この病院は一階に病棟があり二階に手術室があるという、いたってシンプルな構造だ。北海道の大地にはちょうどいい建物だなと俺はそう思っている。
外来の診察室から奥へ入ると、前から奥へと直線的な廊下があって、左手に部屋があり、右手にはガラス張りと窓と庭に出るための扉があった。これも、患者に自然治癒力を与えるものなんだそうだ……。
「先生。奈々ちゃんがいませんけど?……。また、いつものところでしょうね……」
「ああ、そうだろうな……」
奈々ちゃんの部屋を覗いた看護士はそう言った。俺は頷くとまた診察を始めた。やがて、一番奥の部屋へとやってきたとき、部屋の中から話し声が聞こえてきた。
「奈々ちゃん…、診察を受けてお薬を飲まないと病気も良くはならないのですよ?…」
「ぐすっ……。奈々、お薬イヤなの…。あま〜いお菓子の方がいいの…」
「じゃあ、診察が終わったらお姉ちゃんがお菓子をご馳走しますね…。だから、診察は受けて? ねっ? お姉ちゃんが奈々ちゃんのお部屋まで送っていってあげるから……」
そう言う声が聞こえてくる。俺は扉をそっと開けた。案の定、部屋の中には奈々ちゃんがいた。その手を引いて立とうとする彼女も…。彼女…、鞠絵ちゃんは、びっくりしたようにこちらを見てこう言った…。
「あっ、先生…。いらっしゃってたのですか?」
奈々ちゃんは急に彼女の背中にしがみついて、こちらをオドオドと見つめている。俺は奈々ちゃんの目線まで体を下げると彼女の目を見つめてこう言った。
「ねえ…。奈々ちゃん……。奈々ちゃんだって千恵巳ちゃんや他のみんなみたいにお外で遊びたいだろ?」
「うん……。奈々…、早くみんなとお外で遊びたいの……。ぐすっ…」
「じゃあ、先生の言うようにお薬を飲んで、早く元気にならないといけないよ?…」
俺はそう言って、看護士に目配せをする。看護士も分かったように頷くと奈々ちゃんの手を引いて部屋を出ていった。看護士と奈々ちゃんが出て行くのを見て、一呼吸おいた俺は彼女の方に向き直って…、言った。
「…悪いね…。いつも君には小さな子の面倒を押し付けてしまって……」
「いいえ……、わたくしはこんなことぐらいしかお役に立てませんから……」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに下を向いた。照れているんだろうか?…。ふと、彼女の体を見た。14歳とは思えないくらい華奢な体…。両手の注射の跡が実に痛々しい、そんな体だ。…とりあえず問診をする。
「最近は眠れているかい?」
「はい……」
…問診を終え触診に入るが、俺はどうもこの触診と言うのが苦手だ…。どうしてかは知らないが、研修医時代から苦手だった。彼女の胸の真ん中には手術痕が生々しく残っている。三年前にメスを入れた痕なんだそうだが、俺はこの傷を見るたびに悲しくなってくる…。
それに古い傷もあちこちに残っている。…何度も何度も傷をつけられている彼女の体は痛々しくて、外科の手術痕を見てきた俺でも、さすがに目を背けたくなった…。だが俺も医者だ…。彼女の手術痕を見ていく。何とか触診を終え血圧を測る頃には、看護士が戻ってきていた。
奈々ちゃんは身体的には異常は見られなかったらしい。だが精神的落ち込みはかなり酷いと言うことだ。それは俺が見ても分かる。一番のお友達だった千恵巳ちゃんがいなくなったんだ。常に一緒だった二人を考えると、それは止むを得ないかもしれない。
「どうしたらいいんでしょうか?……。あんな様子じゃ……」
看護士が困った顔をする。…と、鞠絵ちゃんが俺の顔を見つめて言ってきた。
「あの…、先生…。もしよろしければ、わたくしが…。奈々ちゃんも安心するでしょうし…」
確かに、鞠絵ちゃんと一緒だったら奈々ちゃんの精神的落ち込みは軽減することだろう……。だが、彼女ばかりに押し付けてしまうということは、彼女の負担が増えるということだ。ましてや、彼女は肺と心臓に重い病を患っている。それに最近ではだんだんと悪化している…。
一体どうしたらいいのだろう…。あれこれ考え込んでいると、開けたドアから…、
「せんせい…。奈々…、一人で頑張るから…。千恵巳ちゃんと奈々が写ったお写真見てたら、奈々、何だか元気になってきたんだ…。千恵巳ちゃんが頑張ってって応援してくれてるような気がしたんだ…。だからせんせい…。わがまま言ってごめんなさい…」
「まあっ…。奈々ちゃん…。うふっ。うふふふふふっ」
「うふふっ……」
そう言うと彼女は部屋を出ていった。あまりに拍子抜けだった……。
俺は唖然としながら彼女が出ていった廊下を見つめていた…。鞠絵ちゃんはそんな俺を見て微笑んでいる。看護士も一緒になって微笑んでいた。俺は何だか恥ずかしくなって下を向いた…。
「…問題なしっと…。じゃあ、これで終わりだな…。あっ、そうそう…。鞠絵ちゃん、航君が今日、こっちに来るそうだよ?…」
俺は彼女に嘘をついた。彼女の心臓音は小さく、肺からは息をするたびに異音が聞こえていた。それでも俺は彼女に気付かれないように必死になる。ネガティブに考えてしまう彼女のこと…。このことを知られれば彼女は…。そう思った。
でも唯一、航君には…、彼には本当のことを伝えなければならない。心が痛んだ…。でも俺は努めて平静を装いながら、診察を終え道具を片付ける。
ふと、思い出した。航君がこっちに来ると言う事を……。珍しく、昨日香里から電話がかかってきて…、“航君がそっちに行くからよろしく頼むわ…”ということだった。
あいつは養護学校の教諭になった。栞と同じような、いや、それ以上に不自由な子供たちを助けたいと思ったのだろう。養護教諭になったと連絡があったのはちょうど俺が大学院に入って間無しの頃だ…。そんな彼女も最近では一端の先生らしくなってきている。
鞠絵ちゃんと航君は、仲のいい兄妹だ。俺は一人っ子だったため、兄妹の愛情というものを知らずに暮らしてきたが、鞠絵ちゃんたちを見ているとつくづく“兄妹っていいな…”と思う。
世間では、兄が弟を殺したり、またその逆もあったりといろいろ物騒なものだが、ことに、この兄妹に限って言えばそんなことはないだろう…。
ご両親を四年前に亡くされ、彼女は小さい頃から肺と心臓に爆弾を抱えている。彼は彼で、事故で車椅子生活だ…。でも、そんなことに負けず、一生懸命頑張っている。
俺は、そんな彼と彼女にエールを送りたい。心からそう思った。そんな彼に、俺は真実を伝えなければならない…。と、鞠絵ちゃんを見ると…、
「えっ? あ、兄上様が? こ…、こうしてはいられませんわ…。お部屋を片付けてお洋服に着替えないと…」
普段、落ち着いている彼女のあたふたと慌てふためく姿が滑稽であり、また可哀想でもあり…。俺たちは、ただ作り笑いを浮かべて彼女の慌てる様を見つめていた……。
「先生。いつもありがとうございます。あの…これ、皆さんでどうぞ…。いつも鞠絵がお世話になってるお礼です…」
彼はそう言って、車椅子の後ろの袋に手を伸ばすと菓子折を手に取った。ここまで来るのにも大変だったろうに…。彼を見ると、にっこり微笑んでいる。何だか切ない気持ちでいっぱいになった。
看護士が菓子折を受け取る。俺は鞠絵ちゃんの部屋の方を見て言った。
「……ああ、ありがとう…。後でみんなで頂くことにするよ…。それよりいいのかい? 鞠絵ちゃん、首を長くして待ってるんじゃないのかな?…」
「あっ!! そ、そうでしたね、。じゃあ、ちょっと行って来ます」
「ああ、行っておいで…。……あっ、ちょっと話したいこともあるから、帰りにまた俺の部屋に顔を覗かせてくれないか?……」
「……ええ…、分かりました…。それじゃあ、行って来ます」
彼はそう言うと鞠絵ちゃんの部屋へと車椅子を漕いでいく。鞠絵ちゃんの部屋に入っていく後姿がどことなく悲しく見えた……。後姿を見つめていた看護士が寂しそうに言った。
「先生……。やっぱり……言うんですか? あのこと……」
「ああ…。言った方がいいだろう……。彼のためにも……」
「……そう……、ですね……」
俺は言葉少なげに言う。看護士は、目を伏せて一言そう言うと持ち場に戻っていった…。
鞠絵ちゃんの病気は急激に悪くなっていっている。このままだと、この夏を越えられないかもしれない…。もし越えられたとしても冬には彼女の命は…。そんな状態だった。
手術をしても、成功率は20%未満……。彼女の体力では、10%にも満たない…。
最新医療をもってしても敵わないのか? また栞のような子を見てしまうのか? 俺は何のために医者になったんだ! もう栞のような子を増やしたくない! もう、涙は見たくない!! そう思って医者になったんじゃないのか…。
……無力感が俺を包んだ…。
“どうしたらいい。なあ…、栞…”
俺は彼女の写真に問い掛ける。写真の中の彼女はただ微笑んで、俺を見つめるだけだった…。
中編に続く