神さまの贈りもの

〜続々・奇跡の価値〜

後編


 手術日当日…。その日は朝から雨が降っていた。
 昨日の手術前の診察を元に手術の仕方をシミュレートしてみた。患部は心臓の動脈瘤(正確には胸部大動脈瘤と言う病名だ)と肺の壊疽だ。それぞれ摘出しなければならない。
 もともと鞠絵ちゃんは肺には異常はなかった。
 三年前、心臓の手術をしたときにふとした拍子で細菌が入って壊疽を起こしたんだろう…。
 肺の方は患部を切除してしまえば問題はない。問題なのは…、胸部大動脈瘤の方だった。これが破れてしまうと彼女の命も…、予断を許さない状態だ…。難しい手術になりそうだな…。そう思った…。
 航君は、香里と一緒に鞠絵ちゃんのところに行っている。香里は病院の方に来ていた。“学校の方は?” 朝、彼を自分の車に乗せて病院まで来た香里に尋ねる。
 すると彼女は平然と…、
“内緒よ…”
 そう言う。航君を車椅子に乗せて、彼女は鞠絵ちゃんのところへ行ってしまった。
 多分学校の方は無断欠勤したんだろう…。今まで、どれだけ彼女はそうしてきたのだろうか? ふと、考えてみる。航君とは高校一年生から担任をしていたらしい。鞠絵ちゃんの存在を知ったのもその頃だ…。
 それから彼女は彼の相談相手となり、時にはお姉さん代わりとなってこの兄妹を見守ってきた…。
 一部の彼と彼女を知らない親から……、
“贔屓しすぎる”
 と言う反発もあるらしい。でも香里はここに来ている。
“そうか…”
 俺はそう言うと彼女たちが消えていった廊下の方を見つめるだけだった…。
 看護士・片瀬が鞠絵ちゃんのところへ行く。彼女は愛用している眼鏡を航君に預けると…、
“行ってきます”
 そう言っていたと片瀬に聞かされた。彼は笑顔で……、
“行ってらっしゃい…”
 と彼女に言っていたそうだ。香里は何も言わず、そう挨拶する二人を見つめていた。
 片瀬は、そんな二人の姿を自分と兄に重ね合わせていたんだろう…。鞠絵ちゃんを手術室まで運んでくると、何も言わず表へ飛び出して行った。片瀬の兄は交通事故でほとんど即死の状態だったんだそうだ…。
 朝、元気よく出て行った兄が…。前に片瀬からその話を聞かされたとき、俺はやるせない気持ちでいっぱいになった。
 でも彼女ももう立派な看護士だ。こんなことで落ち込んではいけない。
“強くなれ…。片瀬…”
 俺はそう独り言のように呟くと手術着に着替えて、手術室に入った…。
 手術台には鞠絵ちゃんがいた。手術担当の看護士から細かいデータを受け取る。俺がデータを見ていると、鞠絵ちゃんが俺の目を見つめて一言言った。
「先生……。わたくし……。治りますよね?」
「ああ……、きっと治る…。治るよ…。だから君も自分を信じるんだ…。いいね?……」
「はい……」
 そう言うと彼女は俺に可愛く微笑んで…、目を閉じる。瘴気ガスを彼女の口元に持っていって吸わせると彼女は眠るように意識を失った…。いろいろな器具を彼女の体に取り付ける。
 もっとも、人工心肺だけは後だ…。今、最終チェックを終えて準備が整ったところだ。
“いよいよ……。いよいよだ……。栞…。鞠絵ちゃんを見守ってやっていてくれ…。”
 俺は心の中でそう思った。俺は言う……。
「今から、手術を開始する………」
 鞠絵ちゃんの命を賭けた手術が…、今、始まった……。


 あたしは航君と手術室の前に座っていた。時計を見る。午前十時三十分。もうそろそろかしら……。そう思い手術室の上の赤いランプを見てみる。まだランプは点いていない。
 学校には無断で休みを取って病院に来ている。もちろん彼にはこのことは内緒だ。
 今までにも何回かはこんなことは出来た。校長は存外あたしの話を分かってくれる人で、あたしがボランティアで航君のところへ行っていることは知っている…。でも教頭とPTAはそんなあたしの行動を許さなかった。
 ある生徒ばかり贔屓して他の生徒はほったらかし…、それが教頭たちの言い分だった。それはあたしも分かる。あたしも航君に構いすぎてる部分も多々ある。
 でも彼には両親がいないのよ…。彼を守ってくれるはずの両親が…。妹さんは病気で病院に…。あなたたちに、何が…、何が分かるって言うの? あたしは思った。
 今度勝手なことをすれば教頭とPTAに懲戒処分教師として校長に上奏されるらしい。校長もPTAに言われると首を縦に振るしかない。あたしは覚悟を決める。今日ここに来る前に辞表をしたためてきた。
 鞠絵ちゃんの手術が終わったらあたしはその足で学校に向かい辞表を提出するつもりだ…。
 と、横にいた航君が独り言のように呟いた…。
「あっ、ランプが点いた………」
 あたしもつられて見た。手術中というランプが点いていた。航君がまた独り言のように呟く…。
「鞠絵……、頑張っておくれ……。生きて……、生きて帰ってきておくれ……」
 彼は祈るように手を組んだ…。あたしは心の中で言う……。
“栞……、彼女を…、鞠絵ちゃんを……助けてあげて……”
 と……。手術中というランプは、ただ煌々と点いているだけだった……。


 メスを握る。鞠絵ちゃんの小さな体の真ん中には痛々しい手術痕があった。俺は慎重にその手術痕を追うようにメスを滑らせる。医学用語ではこれを開心術と言う。開心術が終わり、患部が見えてくる。
 まずは、血液を鞠絵ちゃんの体から人工心肺の方に送らなければならない。
 人工心肺は心臓の外科手術の時にはなくてはならない機器だ。まずは心臓の大静脈へカテーテルを差し込み、続いて足の付け根にある大動脈へカテーテルを差し込んだ。
 こうしておいて人工心肺のスイッチを入れる。規則よく血液が人工心肺を通過して行くのが分かった。
 そのときドライアイスで心肺に流れてきた血液を冷やす。これは、低体温法という方法で、もともとは冬眠する動物からヒントを得たものらしい。
 低体温にすると臓器や全身の酸素要求が少なくなり、手術中にもし条件が悪くなっても、比較的長時間にわたって安全に手術を行うことが可能だ。
 人工心肺を見る。順調よく血液が人工心肺の方を通り、また彼女の体へと戻っていく……。俺はほっとマスク越しに息を漏らした。第一段階は成功だ…。
ふと、心拍数計を見た。60…。血圧計も見た。130と80…。いずれも正常だ…。
 まず、壊死している肺の組織を切り取らなければならない。三日前の彼女の体をボリウムスキャンした際の画像を元に、切除していく。広範囲に壊死している部分があるので、一つずつ丁寧に切り取っていった。
「血圧は!?」
「128の79。正常です!!」
 そばにいた看護士に尋ねる。素早く鞠絵ちゃんの血圧を見た看護士はそう答えた。違う看護士が、俺の額の汗を拭いてくれた。壁掛時計を見る。一時間半が過ぎていた。
“早くしなくては…”
 焦る気持ちを尻目に時間だけが過ぎてゆく…。
 患部を全部切り取った頃には三時間を悠に過ぎていた…。


 あたしはただ祈っていた。天国にいる妹に…、そして、神に……。
 航君は手術室の赤いランプをじっと見つめていた。心配そうに彼女が消えていった扉を見つめて…。
 彼は拳を握りしめる。ぽつり、独り言を呟いた……。
「…どうしてなんだろう? どうして鞠絵ばかりがこんなに苦しまなくっちゃいけないんだろう? 僕は、何も出来ないのか…。…ここでこうして待つことだけしか出来ないのか?」
 あたしは彼の握った拳に手を置いて、ふるふると首を横に振って言う。
「焦っては駄目よ…。航君……。あなたが焦っても現状は変わらないわ…。彼を…、相沢君を信じましょう…」
「で、でも!! 美坂先生!!」
 彼の顔には明らかに焦りの色が伺えた。それはそうだろう…。もう手術から五時間も経っているのに、何の情報もないのだから…。
 だけど焦ったところで解決なんてしない。あたしは言った。
「航君、あなたの気持ちは分かるわ…。でも、あなたが焦ったところで現状は何も変わらないのよ……。あたしも…。あたしも昔…そうだったわ…。でも現状は何も変わらなかった…。あたしが何かを言えば妹の病気が治るわけでもない…。結局、医者に任せるしかなかった…。……今は、彼に任せるしかないのよ…」
 彼は悔しそうに手術中という赤いランプを見つめていた。そう言ったあたしだったが内心は焦っていた。
 鞠絵ちゃんの体力では早々長くは持たない。早くしないと彼女の命は…。助けて……。
 あたしは空を仰いだ…。


 いよいよ、心臓・右心房にある動脈瘤の切除に取り掛かろうとする。
 メスを動脈瘤に持っていこうとした、その時……。何か嫌な感覚を覚えた。
 隣にいた看護士が慌てて言った…。
「たっ、大変です、先生!! 血圧が…。だんだん血圧が落ちています!! 心拍数も50…、あっ…、今、40を切りました!!」
「何っ!!」
 俺は一瞬耳を疑った。機械が故障しているわけでもないのに彼女の血圧が落ちている。
 …やはり、体力が持たなかったのか? 彼女の命の灯火はここで消されてしまうのか? 駄目なのか? 彼女はまだこれからなんだぞ…。
 楽しいことや嬉しいことがたくさんあるって言うのに…。航君も待っているって言うのに…。
 ……栞…、お願いだ…。鞠絵ちゃんを助けてくれ…。彼女はまだ14歳なんだ…。栞が見れなかったいろいろな世界を見せてやりたいんだ…。栞が行けなかった世界に行かせてやりたいんだ!! 頼む……。栞……。彼女を…、助けてくれ……。
 俺は天井を仰いだ。ライトが眩しかった。こうしている間にも鞠絵ちゃんの血圧・心拍数は下がっていく。
 ああ…、栞…。やっぱりお前の言ってたことは正しかったんだな…。
“奇跡って起こらないから奇跡って言うんですよ…”
 って…。お前の言ってたことは正しかったんだ…。それなのに俺は…。
 …ああっ、…鞠絵ちゃん…。許してくれ…。鞠絵ちゃんの手術…必ず成功させるって言ったのに…。笑顔で応えてくれたのに…。
 助からないのか…。救えないのか…。命を救うのが医者のはずなのに…。人一人の命も救えないのか…。俺は……。俺は目を瞑った。

不思議な光景がそこにあった。
常春の広い野原…、女の子が一人花飾りを編んでいた。俺は一人立っている。
女の子は俺に気が付くと優しそうな微笑みを浮かべてこちらに歩いてくる。
何か言っているが俺には聞こえない…。俺の目の前、女の子の足が止まる。女の子の顔を見た。
何だか懐かしい顔だった。
だが、思い出せない。彼女はまた何か言っている。俺には分からない…。
ふと、彼女が出来たばかりの花飾りを俺に差し出してくる。優しそうな笑顔があった。
俺はその花飾りを受け取る。そして…、またにっこり微笑む。
だんだんと背景も彼女も薄くなる。
そして、消えようとしたその時……。
「大丈夫ですよ……」
そう聞こえたような気がした……。

 目を開けた…。看護士たちが血圧計の方を見て、唖然としている。
 多分、もう心拍数も血圧もゼロに近いんだろう…。鞠絵ちゃん…。ごめん…。ごめんな……。君を…、君を助けられなくて…。…手術なんて、するんじゃなかった…。医者になんて、なるんじゃなかった…。
 後悔が、頭の中をぐるぐる回った…。唖然としていた看護士の一人が慌てて俺に言ってきた……。
「先生!! 血圧と心拍数が、元に戻りつつあります!!」
「なっ、何だってっ!!」
 慌てて、血圧計の方を見る。血圧は正常値に戻りつつあった。脈拍計も見た。心拍数も元に戻っていた。
 …奇跡が…、起こっていた……。俺は看護士たちの顔を見る。看護士たちも俺の顔を見た。
“うん”
 そう頷くと俺は再びメスを握る。気合が入った。
 右心房にある動脈瘤を切除する。メスを患部に置いて滑らせていく…。メスを滑らかに動かしていく…。
 …そして、最後の一刀を入れた。患部を…切り取った。赤ちゃんの拳ほどの塊が、鞠絵ちゃんの心臓から切り離された。
 何度も痛くて苦しくてつらい手術の元凶が、今、俺の手の中にある。
 俺は嬉しかった。命を…、救えた。切り取った後の患部を体の中で溶ける糸で縫っていく。人工心肺のスイッチを切る。緊張が走った。血液が流れていく。
“ドクン…ドクン…ドクン……”
 心臓が元気良く動いていた。肺も上下に動いていた。カテーテルを抜き取った。抜き取った後、すばやく血管を塞ぐように止血用の塗り薬を塗りつける…。
 血はほとんど出なかった。彼女の顔を見た。穏やかな顔だ……。そして開いていた胸を閉じた。八時間に及ぶ手術は、終わった…。


 手術中のランプが消えた。時計を見る。時計は午後六時半を指していた。雨はいつの間にか上がっていた…。
 虹が出ていた。もう、夕方なのね…。そう思った。手術室のランプが気になって、外を見る余裕がなかった…。夕日に照らされた手術室の前の待合室…。
 雨上がりの空にはいつの間にか星が出ていた…。終わったの? 彼女は? 鞠絵ちゃんは大丈夫なの?
 扉が開く。手術台に乗せられた鞠絵ちゃんがICUへと運ばれていく。その後に、疲れた表情の…、でも…、どことなく安心した表情の彼…、相沢君がやってくる。
 彼は、片膝を付き航君と同じ目線になる。そしてにこっと微笑んだ…。航君はそのことがどういう意味か分かったのだろう……。彼の目から涙が溢れた。
 彼は相沢君の体に力いっぱいしがみついて、大声で泣いた…。
 今までの悲しみの涙をすべて洗い流すように……。
 彼は涙声で何度も何度もお礼の言葉を言おうとしていた。だが呂律の回らない口は何を言っているのか分からなかった。
 相沢君はそんな彼の心の声を聞いていたんだろう…。彼の頭を優しく撫でると…、
「今回は俺の力じゃないよ…。俺の力じゃどうすることも出来なかったんだ…。…でもね、航君……。今回は君の妹の…、鞠絵ちゃんの生きようとする力が病気に勝ったんだ…。生きたいって思う、思いの力がこんな大手術を成功させたんだよ…。だから、ありがとうって言う言葉は俺に言うんじゃない…。頑張った君の妹、鞠絵ちゃんに言うべき言葉なんだよ…。さあ、鞠絵ちゃんのところへ行こう…。鞠絵ちゃんが待ってるよ……」
 そう言うと彼は航君の車椅子を押してICUへと向かう。相沢君がチラッとあたしの方を見た。アイコンタクトで分かった。あたしもICUへと向かった。
 ICUの重い扉が開く。彼と交代したあたしは航君と一緒に中へ入った。いろいろな機械がある。これも全部、今、戦いに勝った彼女の疲れを癒すものなんだろう…。
 昔、この部屋に入ることは多かったけど、こんな嬉しい気持ちで入った事はなかった……。いつもは、悔しさと悲しみでいっぱいだった。なのに…、今は嬉しい気持ちでいっぱいだ。
 航君は鞠絵ちゃんのところへ車椅子を押していき、何も言わず彼女の手を握り締めていた。


「相沢君、ありがとう…」
 航君と鞠絵ちゃんをICUに残しあたしたちは病院のベランダに出ていた。もう日は西に沈んで、今は赤い残光を残すのみだった。相沢君は言う……。
「香里…、何度も言うようだけど、今回は俺の力じゃない…。彼女の生きる希望と…、そして…、あの声のおかげなんだ……」
「あの声って?……」
 あたしはそう聞いた。相沢君はまた話し出す。
「ああ…、鞠絵ちゃん…。彼女は実を言うと危ない状態だった。血圧低下…、脈拍減少…。ああ、もう駄目だと思った。俺は目を瞑った。…手術なんてするんじゃなかった……。そんなことを考えて…。でも……」
 手術中、彼の身に起こった不思議な体験を話してくれた。あたしは聞いていた。彼が話し終わる。あたしは言った。
「そう……、そんなことがあったの……」
「ああ、だから今回は俺の力じゃない…。彼女の生きる希望と…、あの声のおかげなんだよ…」
 彼はそう言って空を仰いだ。あたしも空を見る。赤い残光は消え、空にはいつの間にか星が出ていた。星は綺麗だった……。しばらく二人で星を見ていた……。


 航君のことを相沢君にお願いして、あたしは学校へと戻った。…そう、辞表を提出するためだ。もちろんこのことは相沢君や航君には内緒だ。
 人一倍責任感の強い航君のこと、きっと自分の責任と感じてしまうだろう…。あたしにはそれがつらい。
 それにこれはあたしが勝手にしたことだ…。あたしは学校へと車を走らせた。
 学校に着いた。子供たちは帰っているので教室は閑散としていた。職員室も見たけど真っ暗だった。
 もう七時半だ。職員会議でもない限り残っている先生なんているはずもない。ただ校長室のあかりだけが煌々と点いていた。校長室へと向かう。
 こつこつと廊下を歩く靴音が響いた。校長室に着いた。
「失礼します……」
 そう言って扉を開けた。校長先生は優しそうな目であたしを見つめていた。あたしは持っていた辞表を先生に手渡す…。先生は辞表を受け取るとこう言った。
「美坂先生…、本当にいいんだね?」
 先生はあたしの目を見つめてこう言う。あたしは言った。
「はい……。他の先生方にも、ご迷惑をおかけしましたし…。それに私自身の区切りとして……」
「今日……君が欠勤した時に、PTAの方々が来てね…。いろいろ言われたよ……。“また彼女は休んでいるのか?”とか、“あんなやつ、早く止めさせてしまえ!!”とか…。……でもね……」
 先生はここで一呼吸置いた。あたしはじっと耳を傾ける。一呼吸置いた先生はまた話し出す。
「“美坂先生を止めさせないで!!”って、子供たちがここに来たんだよ…。不自由な体でここまでやって来たんだよ…。重度の子は動ける子に車椅子を押してもらって…。知っていたんだね…。君が海神君のために一生懸命頑張っているということを…。彼らのために本当に親身になってくれる先生なんてそうそういるものじゃない。私は彼らに逆に教えられた気分だよ…。PTAの皆さんもびっくりした顔になってた…。…私は君にここに残ってもらうことにしたよ…。いや、残って欲しい…。これまで数多く先生たちを見てきたが、君のように生徒のために一生懸命になれる先生なんて、ここ最近では見たことはなかった…。だから、これからも我が校の教師として私は君を迎えようと思う…。だから…、これはなしだ…」
 そう言って先生はあたしから受け取った辞表を破った…。あたしは言葉が出ない…。ただ、あたしの目から涙が溢れていた。先生はあたしの顔をじっと見つめて、ハンカチをポケットから取り出して言う。
「さあ、涙を拭いて…。また明日から頑張りなさい…」
「はい……」
 校長先生はあたしの肩をぽんぽんと叩いて、椅子に腰掛けた。あたしは、深く一礼をすると校長室を出る。あたしは胸がいっぱいになった。
 廊下を歩いている時、涙で前がよく見えなかった。やっとの思いで車のところまで来る。車に乗っても涙は止まらない……。嬉しかった…。
 こんな…、こんないたらない教師でも、あの子たちは信頼してくれている。そういうことが嬉しくて……。しばらく車を動かせなかった。ようやく落ち着いて家路に着いたのはその日の夜遅くだった。


 鞠絵ちゃんの意識が戻ったとICUの看護士に聞かされたのは手術から三日後のことだった。俺は彼女の担当看護士・片瀬とともに行くことにした。
 この三日間、片瀬はろくに寝ていない。仕事も手につかず失敗も多くなった。
“休んだらどうだ?…”
 と、俺の同僚に言われても……、
“大丈夫です…”
 の一点張りだ。それだけ彼女・鞠絵ちゃんのことが心配だったんだろう…。しかしあまり無理をしてはいけない。そう思った俺が彼女に言おうとした矢先だった…。
 廊下を歩く靴音が響く…。ICUが見えてくる。俺たちは、ちょうどいたICUの看護士に話を聞き、中へと入った。
 そこには、手術痕がまだ痛々しく残ってはいるが、病気に勝った彼女の姿があった。俺は彼女の横に立つ。また麻酔が少し残っているのだろう。
 朧気な瞳で俺を見つめていた。俺の横に立っていた片瀬が言う。
「鞠絵ちゃん…。よかった…、よかったね…」
「片瀬さん…、先生…。……わたくし…手術…成功したのですか?……」
「そうだよ…、鞠絵ちゃん…。成功したんだよ…。治ったんだよ…。もう…苦しまなくても…いいんだよ…」
 片瀬はそう言うと、病に勝った彼女を最高の微笑みで迎えた…。涙を流して…。まだ麻酔が少し残っているのか、そう言うと彼女はまた目を閉じる。
 今までで最高の微笑みを浮かべながら……。俺はそんな彼女に…、
“おめでとう……”
 心の中で静かにそう言うのだった……。

エピローグへ続く