桜の蕾が膨らむと、なぜか悲しい気持ちになってくる。
桜が散るとまた悲しい気持ちに襲われる。そんな、毎年の卯月4月だった……。
さくら、独唱…
もう、桜も咲こうかという季節。春…。
春休みになった僕は、僕の育った町に帰ろうとしている。都心から約50キロメートル離れた場所に僕の育った町はある。いつもは定期的に帰っていたが、ここ一年は帰れず仕舞いだった。だから今日帰る。
それに今日は特別なんだ…。何が特別かって? あはは…。それは秘密だよ?…。
用意をする。まず鞄を引っ張り出して、その中に何やらかやらと適当に詰め込む。この間買っておいたお土産なども詰め込んだ。鞄に入りきらないお土産は手に持つことにした。しかし、お土産がいっぱいだね…。自分自身で苦笑する。
トゥルルルル…。電話をかける。しばらく電話の通話音が鳴っている。慌てずに僕は待った…。やがて受話器を取る音がする。妹の元気な声が聞こえた。
「はい…、もしもし、海神ですけれど?…」
電話に出たのは、僕の妹だ。久しぶりに声を聞いたから嬉しくてたまらない。だけどこれから帰るんだ。僕の家に…。僕は話を進めた。
「ああ、僕だけど。もうすぐここを出るよ……。そっちに着くのは夕方くらいだろうね…。うん、うん。あはは…」
懐かしい声が聞こえてくる。もう、一年以上妹の姿を見ていない…。職業柄どうしても帰れないっていうことはあるんだけど…。だって僕の職業は、新米教師…。小学校で1年生の担任だ。もちろん来年度は進級して2年生の担任となるんだけどね…。
今年で22歳になる妹…。でも、案外僕の前では甘えん坊さんかな? あはは…。
「じゃあ、今から出るよ…。迎え? いや、いいよ…。そっちだって大変だろう? うん、うん…。えっ? お昼? ああ…、お昼はこっちで済ましておくから心配しなくていいよ…。うん。今から出るから多分夕方頃になると思うし…。うん? 晩御飯? う〜ん、そうだなぁ…。じゃあ、お前の得意料理で…。うん、それじゃあ…」
カシャ…。受話器を置くと、妹の笑顔が一瞬見えたような気がした。急ごう…。僕は荷物を手に部屋を出る。この時間だと町には遅く着くだろうな。そんな僕の考えに反比例するように足は急げ急げと命令していた。
バス停に来る。でも、バスはまだ来ていない。時計を見ると、15分ほど間があった。じっとしているのも何だと思い、さっきコンビニエンスストアで買った雑誌を広げる。最近は殺人やら詐欺やら悪い人がいっぱいだ。妹にはこうはなって欲しくないな……。
そう思い、時計を見るともうそろそろいい時間だった。席から立って荷物を持っているところにバスは来る。バスに乗る。お客さんは僕を含めて15人くらいと言ったところか…。座る席がないため荷物を他のお客さんの迷惑にならないところへ置くと吊り革に手をやる。
「ふぅ……。一段落かな?…」
一言呟いて、外を見た。都心の高層ビル群からだんだんとバスは離れていく。見る風景もいつも見ている慌しさとは少し違うものになっていた。長閑な田園地帯をバスは駆けて行く。お客さんも一人減り、二人減り…。立ってるのも何だと思い、空いた席に座った。
そこはさっきまで身重のお母さんと男の子がいた席だ。男の子は5歳くらいだろうか…。お母さんはマタニティードレスを着ていた。きっと男の子の弟か妹がお腹の中にいるんだね。そう思い微笑ましくその親子を見ていた。他のお客さんも僕と同じように微笑みながらその親子のことを見ていた。
お母さんは恥かしそうにぺこりと頭を下げていた……。その席に僕は座っている。“幸せがもうすぐやってくるんだよ〜! いいでしょー。えへへ…”とでも言わんばかりな男の子の笑顔が印象的だった…。
やがてお客は僕とおばあちゃんが一人、二人…と数に数えられる人数になった。短いようで結構距離はあるものだね。そう思う。終点近く……。もう春休みだろう子供たちが田んぼの中で蓮華を積んで花冠を作っていた。しばらく風景を見る。
やがて終点が見えてくる…。僕の育った町に続く駅のある町だった。
ぷしゅーっ…、とバスの昇降口の開く音がしておばあちゃんたちは運転手さんに“ありがとう”と言って降りていく。僕も、一言お礼を言って降りた。運転手さんは、“気をつけなよ?”と言うとにっこり微笑んでくれた。
ここから更に電車に乗らなければならない。電車は昔ながらのディーゼル機関車だ。僕はそれ程びっくりしないが、大学の友達なんかには“すっげー田舎だな。お前んとこって…”とちょっと驚いた顔でよく言われた。
まあ、誰しも驚くだろう。今時の電車はどこも電気車両だからね…。でも、僕には懐かしくて、何かこう…、ノスタルジックな気分にさせてくれる、そういう機関車だった。バス停から歩いて5分。駅が見えてくる。石造りの重厚な佇まいを醸し出して、その駅はある。
中へ入ると、これから乗るのであろう赤い機体があった。客車は先頭から5両までで、後には貨物が延々と横たわっていた。13両編成だから8両が貨物車両だ。出発時刻は10分後。まだ余裕があるね…。そう思った僕はお弁当とお茶をその駅舎で買った。
やがて…、機関車は出発する。荷物を座席の前に置くと、ふっと景色を見た。まだ雪も残る山肌が何とも言いようがなく寂しかった。僕の家はこれから終点まで行き、そこから歩いて2キロほど山を登ったところにある。そこに妹が一人で暮らしている。
僕の両親は僕が大学生になったばかりの頃、不慮の事故で他界してしまった。それから妹が一人で暮らしている。だからじゃないけど、僕は心配でならない。心配でならないから僕はいつも電話でこう言う。
“僕と一緒に暮らさないかい?”
って……。決まって妹はこう言うんだ…。
“いいえ…、一緒に暮らすと兄君さまにご迷惑がかかってしまいますわ…。それに、兄君さま。早く彼女など見つけられませんと……。ワタクシ、父君さまの墓前にご報告できませんもの…。それに……”
言おうとしていることは分かる。僕に早く落ち着いて欲しいと、こう言いたいんだろう……。でもね…。都会じゃそんな出会いはないんだよ? と言いたいが僕は妹の涙に弱い。というか、他人が悲しんでいる姿を見ると自分も何だか悲しくなって涙が出てきてしまうんだ…。
理由はいっぱいある。両親の不慮の事故死もその一因だ。だけどその根底には……。それからだろうか…。他人が悲しんでいる姿を見ると、自分でも訳もなく悲しくなってしまうと言うのは…。
電車に揺られながらそんなことを考えた。時間は昼下がり…、遅めの昼食を取る。残雪の残った山にはウグイスが美しい声で春が来たと告げている。そんな風景を僕はじっと眺めていた……。
午後五時。ようやく終点である僕の町に電車は到着した。ここからは歩きだ。頑張るぞ! と、気合を入れる。勾配が結構あるため足腰に負担が掛かる。でも6年前まで通った道だ。気合に任せて登る。
しばらく山道を登っていた僕は、ふと後ろを振り返った…。寂れた駅舎がぽつんとあった…。駅を中心に、家々が点在している。そこに来て初めて僕は“ああ、帰ってきたんだ…”と思った。日は長くなってきたものの、山に隣接する地域の日暮れは早い。日が落ちるともう真っ暗だった。
僕はまた前を向き家路を急ぐ。山間の小学校の拡声器からは、ドボルザークの“新世界より、第二番・家路”が流れている…。それを聞いていると、僕は無性に寂しい気持ちになった。
歩く、歩く、歩く…。てくてくと歩く。家の近くまで来た頃には、日はとっぷりと沈んで、空には星が瞬いていた。僕は歩いていた足を止め、その星空を眺めた。星が空いっぱいにある。それはまるで数多の宝石をばら撒いたかのようだ…。そう…、妹たちと見たあの澄んだ星空のように…。
しばらく星空を眺めていたが、そこではたと気付く。“早く帰らなくっちゃ、春歌が心配しちゃうんだ…”と…。急いで歩き出した。遠くに街灯が見えてくる。寂しげな街路灯…。それを右へ入りしばらく歩くと、いよいよ僕の家だ…。家の前、足は自然と止まる。
じっくり自分が18年暮らしてきた家を見てみた。ところどころ汚れた表札は年代と言うものを感じさせられる。木造の古い平屋立て…。そこには僕たち家族の喜びがあり、悲しみがあり…、歴史があるんだ。そんなことを考えて立っていると何だか涙が零れ落ちそうになった。
思い出はそっと胸にしまっておこう。そう…、彼女と過ごした14年と言う思い出は……。そう思い、ぐっと涙を我慢すると僕は玄関の戸をガラガラと開ける。妹に悟られないように勤めて元気な声でこう言った。
「ただいまー!! 今帰ったよーっ!!」
と……。
「まあ! 兄君さま。よくお帰りくださいました。春歌は嬉しゅうございますわ…。長旅でさぞやお疲れでしょう? お風呂の準備もしてありますわ…」
「うん。まず荷物を置いて、仏壇に手を合わせてからね?……」
僕はそう言うと、肩に掛けていた荷物を下ろす。つかさず春歌が手伝ってくれた。と、春歌へのお土産があることに気付いた僕は土産袋の一つを取り出すと春歌に手渡して言う。
「あっ! そうだった…。春歌…。これ、お土産……」
「まあ、なんでしょう……」
古風な春歌のことだからきっと喜んでくれると思う。そう思って選んだ品だ…。春歌が丁寧に土産袋を開ける。土産袋の中には小さい箱がきれいな包装紙に巻かれて、二つ入っている。
「開けてみて?……」
僕はそう言う。春歌はそっと箱の包装紙を解いていく。かんざしと櫛がそれぞれ一つずつ、小さくきれいな箱に収められていた。箱を開けた途端、びっくりしたような顔になる。それがだんだんと嬉しそうな顔に変わってくるのが分かった…。
「兄君さま…。これは?」
「うん…。ちょうど春歌に似合いそうなかんざしと櫛があったものだからね…。買ってきたんだ…。…って、こんなことをすると鞠絵に嫉妬されちゃうかな?…。“姉上様ばかり…”って…。あはは…」
僕はそう言うと春歌のほうを見る。春歌は俯き加減にこう言った…。
「ええ…。でもあの子はそんなことは言わないと思いますよ。だって、あの子は遠くから見つめて微笑むだけだった。布団越しの窓からワタクシたちを……。ワタクシには、それがつらかったんです……」
「……ああ。そうだったね。ごめんよ? 春歌…。でも、もう6年か……。…月日の経つのは早いものだね…。ねえ、春歌……。あの桜はまだあるかい? もう咲いているかい?」
「ええ。まだありますわ…。蕾も膨らんでそろそろ咲くのではないでしょうか?」
「そうか…。僕は今年も見にいけないけど、春歌…。また咲いているところの写真を送ってきてくれないか?…。お前にはまた迷惑かけるけどね……」
「……ええ、構いませんわ…。だって兄君さまとの約束ですもの……。あの子とも……」
「ああ…。そうだね……」
最後に春歌がぼつりと呟く。僕はその言葉の意味を知ってる。でも敢えてそのことは言わないことにしよう…。僕はそう言うと、お供え物ともう一つプレゼントを持って仏壇の前に来る。仏壇の前に座る。鐘をチーンと鳴らして手を合わせた。心の中で言う。
「父さん、母さん、鞠絵…。ただいま…。父さんと母さんは甘いものが好きだったから…、お饅頭を買ってきたよ…。美味しいと東京で評判のやつだから、多分気に入ってくれると思うよ…。それから鞠絵……。お前にはこれだよ……。そうだ…。お前が読みたがっていた本だよ?…。6年ぶりに新刊が出たんだよ?…。最後まで…、お前が読みたがっていた本の新刊だよ?…。でも、もうお前の本を読んでいる姿は見ることは出来ないけどね……」
心の中でそう言って、仏壇にお供え物と本を置く。ちょうど春歌が夕食を作っているようだ。隣りの台所からトントンとまな板を叩く音が聞こえている。ふっと様子を見る。割烹着に身を包み給仕をする妹を見ると、やっぱり家に帰ってきたんだとつくづく思った…。
風呂を頂いた。風呂の湯気が開けた窓から立ち上っている。いい湯だ……。そう思った…。風呂から上がるともう夕食が出来ていた。春歌の料理は美味しい。今日は得意料理と言うこともあってかすごく美味しそうに見えた。
「美味しそうだね…。じゃあ早速頂くことにしようかな?」
「はい。じゃあご飯をおつぎ致しますわ…」
そう言って茶碗にご飯をつぐ春歌。そんな妹を見ながら僕はもう一人の妹のことを思い出していた。……そう、僕にはもう一人妹がいた。名前を鞠絵と言った…。
鞠絵は生まれつき体が弱く、一人部屋にいることが多かった。小学校にも少しの間しか行けなかった。父さんたちはそんな鞠絵を元気にさせてやりたいと思ったんだろう。僕が小学校6年生のとき、こっちに引っ越してきたんだ。初めは僕も反対した。
でも、苦しそうに咳き込む妹を見ていると、うん、と首を縦に振るしかなかった。それからこの町で暮らしてきた。鞠絵は僕が反対したと言うことが分かっていたんだろう…。すまなそうに僕の顔を見つめていた。そんな妹に僕は何も言えなかった。
鞠絵は僕たちが学校に行く姿を寝室の襖からじっと見つめていた。不憫に思った。なぜ彼女だけが学校に通えないのだろう。そう思った。それに彼女は何を思って僕たちが学校に行く姿を見ていたんだろう。今となっては分からない……。
そんな妹のことが不憫だと思った僕は、勉強などを見てやった。春歌も一緒になって、時には僕よりも見てくれていたんだっけ…。嬉しそうに喋る二人を見て僕はいつもほっとしていた。春歌と鞠絵は本当に仲の良い姉妹だったんだ。そのせいで、昔はよく父さんや母さんを困らせていたっけ……。
そう…、今じゃ考えられないだろうけど、僕は昔は引っ込み思案だったんだ。でも、病気になって引越しをしても容易に表に出られない妹を見ていると思った。“よし! 僕がいろんなものを見てきて、そして教えてあげよう…。外へ出られない鞠絵のために…”って……。
それからどんどん表へ出るようになった。あちこちと出かけては鞠絵に愉快な話・面白い話などをしてやる。春歌も学校であった楽しい出来事や何かを話してやっていた。そのときの鞠絵の笑顔を僕は忘れられない……。微笑んでいる顔なのに、なぜか悲しく見えた……。
そんな鞠絵も14歳の春、ちょうどこんな麗らかな陽気の日に……。最期の顔はまるで眠っているかのようだった。今でも僕はあの鞠絵の死に顔と、横で泣き崩れる姉・春歌の顔が忘れられない。
あれからもう6年も経つのか……。早いものだね……。遠くに見える桜の巨木を見ながら、僕はそう思った。
次の日……、寺に着き、本尊の前で菩提を弔うためのお経を唱える。納骨堂に行き、そこでも父さん・母さん、そして鞠絵の冥福を祈った。墓の方に行く。春歌と一緒に父さんや母さん、そして鞠絵の眠る墓の前までやってきた。
黒い黒曜石には、正面に“海神家之墓”と言う字が彫ってあり、側面に父さん、母さん、鞠絵の名前と享年が彫ってある。それが僕にはいつも一種異様に思えた。
二人で蝋燭に火を点す。線香を立てると手を合わせた……。和尚さんと話をするため寺のほうに向かう。向かう途中で、桜の花びらがどこからともなく飛んでくる。桜が咲いているのか? こんな早い時期に…。
あたりを見回すが、どこにも桜なんて咲いてはいなかった。僕はもう一度地面をよく見てみる。桜かと思っていたものは雪だった。多分木の葉に乗っていた雪が風に飛ばされて、それが桜の花のように見えたのだろう。
僕の早とちりと言う具合だろうか…。まずこの時期にこんなに早く桜が咲くなんてこの土地では考えられない。蕾は膨らんできているものの、まだ咲くという段階じゃないっていうことは素人目から見ても明らかだった。
自嘲気味に微笑むと、早足で春歌の後を追った。
「兄君さま? どうされたのですか? さっきまであそこでずっと立っていらして…」
「ああ…。ちょっとね……」
春歌の後を追って少し早足で歩く。追いつくと春歌は不思議そうに僕の顔を見つめてそう尋ねた。僕はさっきのことを春歌に話す。春歌はうふふと笑って、こう言った。
「うふふ……。早とちりな兄君さま…。……でも、もうすぐですわね…。鞠絵が…、あの子がいつも楽しみにしていたあの桜の花が咲くのは…」
「そうだよ……。もうすぐだ……。あの桜の花が咲くのはね……」
そう言うと僕たちは寺のほうへと向かった。和尚さんから法話を聞いた。法話は10分ほどで終わり、後は雑談になる。丁寧にお茶菓子まで出して頂いた。お茶を一口頂く。和尚さんは僕の方を見てこう尋ねる。
「毎年じゃないですか? あなた方がここに来るのは…。特にお兄さんは大変ですなぁ。東京でしょう? お勤め先は…。感心しますなぁ。最近の人では珍しいですよ…」
「ええ……、まあ…。でも、一年に一度しか来られませんからね…。学校の方も忙しいですし…。だから、いつも妹に任せっきりで…。申し訳ないです……」
「いやいや…。こちらこそ妹さん…、春歌さんにはいろいろとお世話になりっぱなしで……。最近はどの土地でも急激な過疎化が進んでいるでしょう? ですから春歌さんのような若い人はどこでも引っ張りだこで…。本当に助かっていますよ…」
そう言うと、和尚さんは微笑ましそうに僕たちのほうを見る。皺の入った優しい顔には全てを悟りきったような感じがした。
「まあ、和尚さまったら……。うふふっ……」
春歌はそう言うと、微笑んだ。普段から困っている人のために出来ることをしようと考えている僕の妹は、いろいろなボランティア活動に参加しているらしかった。その原点は、やはり僕たち兄妹の妹の死だろう。僕はいつもそう思っている…。
夕方、ちょっと長居をしてしまった。和尚さんにお別れを言う。にっこり微笑んで和尚さんは僕たちの帰るのを見ていた。だんだんとお寺から遠ざかる。ふと後ろを振り返るとまだ和尚さんは立っていた。手を振ると振り返してくれた。寺が遠くに見えるところで、春歌がぽつり寂しそうに呟いた。
「和尚さま……。お一人なんです……。話し相手がいないんですよ。もともと独身でしたからね…。和尚さま…。兄君さまもご存知でしょう? 昔……、昔はワタクシたちと遊んでくださいましたわ…。鬼ごっこやかくれんぼなんかを…。…そう。あの子とも…、鞠絵ともよく遊んでくださいましたわ…」
「ああ、そうだったね…。ねえ、春歌…。……鞠絵は最期は幸せだったんだろうか?…。いつも考えるんだよ…。本当に鞠絵は幸せだったんだろうかって…。いつまでもこんなことを引き摺っているって言うことは分かってる……。でも、僕は…」
そう言うと僕は歩く春歌の顔をじっと見つめた。僕の脳裏にはあの6年前の光景が蘇る…。そう、それは…。
6年前の今日、僕の妹が亡くなった。元々体が弱かった彼女は、眠るように息を引き取った。彼女が15歳になる前々日のことだ…。朝、いつものように春歌が起こしに行くと彼女は…。
病名は心臓発作…。軽いものだったらしいが、体の弱い鞠絵にはそれでも死に至る病だったんだろう…。
母さんは泣きじゃくっていたっけ…。“自分が悪い…自分が悪い…”って言いながら…。最後は泣く元気もなくなってぼーっとしていたのが印象的だった…。父さんは人前では泣かない男だ。でも僕は葬式の終わった夜、一人納屋で咽び泣く父さんの姿を見てしまったんだ……。
気丈な父さんがあそこまで泣くなんて、よほど悲しかったんだろう…。当時は僕も悲しみに負けそうだった…。父さんも例外じゃない。だから父さんも泣いているんだ…。としか思わなかったけど、今にして思えば、どんなに悲しかったろう…。どんなにつらかったろう…。そう思う…。
でも、一番悲しそうにしていたのは姉の春歌だ。彼女がいつも鞠絵の世話をしていたんだ。僕も彼女に頼るところが大きかったしね…。生前、一度鞠絵に聞かれたことがある…。
「兄上様……。いつかわたくしも、姉上様のようになれると思いますか?」
って…。何も考えていない僕はこう言ってしまったんだ…。後でどんなに後悔したか…。
「鞠絵には…、鞠絵には無理だよ…。お前には武道は出来ないよ…。向いてない…。それよりも早く病気を治すことのほうが先決じゃないか? まずは病気を治して…、それからだよ…。鞠絵……」
僕がそう言うと鞠絵は微妙に俯き加減になってこう言ったんだ。
「そう……ですよね…。早く元気にならないといけませんよね? わたくしったら…。うふふっ……」
無理に笑っているってことは、誰の目にも明らかだった。なのに当時の僕は気付かなかった…。……いや、気付いてやれなかったんだ…。その三日後、鞠絵は息を引き取った。
そのことに気がついたのは大学生になってからだ。今思うに、なぜあそこで気の利いた言葉の一つも出なかったんだろうか…。そう考えながら歩いていると、横に歩いている春歌が僕のほうを見て静かにこう言った…。
「……兄君さま。この間荷物の整理をしていた時に、ふとあの子のお手紙を見つけたのです。6年前…、あの子の亡くなる一週間前に認められたお手紙ですわ。父君さまと母君さま、そして……、兄君さまとワタクシへと言うふうな綴りで認められたお手紙です…。あの子のお手紙、兄君さまと一緒に見ようと思って、ワタクシ、まだ封は開けておりませんの…。どうです? 帰ったら一緒に見ませんか?……」
僕は驚いて春歌に尋ねた。“そ、それは本当かい?”と…。春歌は何も言わずこくんと頷く。僕は胸が締め付けられる思いがした。そうしているうちにも家はだんだん近くなる。僕の足取りは重かった……。
家に着くと、春歌は早速手紙の入った封書を出してきてくれた。僕は僕と春歌宛てに書かれた封書を手に取る。父上様、母上様へ…、と書かれた封書を開けるのは何だか気が引けた。春歌も分かっていたんだろう。
「父君さまと母君さまへのお手紙は、大切に仕舞っておきますわね?…」
春歌はそう言うと、封書を箱の中に元通りに仕舞い込み、元の引き出しに直しに部屋を出て行った。僕は封書をじっと見つめていた。薄い鉛筆の芯で書かれた字は確かに鞠絵の字だった。春歌が戻ってくる。
「…じゃあ、見ようか…。春歌……」
「ええ…。兄君さま……」
ところどころセピア色に変化した封書の端を丁寧に鋏で切っていく。封書を切った僕は手紙を取り出した。春歌は何も言わず、取り出した手紙を見つめていた。手紙を広げる…。そこには6年前の懐かしい妹の字が書かれてあった。でも…、所々滲んだ部分がある…。それは…。
いや…、あえて言わないようにしておこう……。僕はそう思った。横を見る。春歌はもう手紙に目を通していた。僕も見よう……。そう思い目を通した。手紙には細く美しい字でこう書かれていた。
兄上様…、姉上様へ…。
このお手紙が読まれている頃には、わたくしはもういないことでしょうね…。
わたくしは、もう恐らく……。
最期はどんな顔をしているのだろうとふと思います。泣いているのか、苦しんでいるのか…。
出来れば眠るように……。と、そう思います。でも…、それは無理でしょうね…。
だって…、だってわたくしは悪いことをいっぱいしてきたんですもの…。
父上様、母上様にはわがままばかり言ってしまって…。
姉上様にはご迷惑をかけて……。そして兄上様には…。ご心配ばかりかけてしまって…。
ごめんなさい……。
…もし、もう一度生まれ変われることが出来るのなら、わたくしは、父上様、母上様の娘で…。
姉上様、そして兄上様の妹でありたいと思います……。それが叶わないのなら、せめてわたくしの愛した家族を見守られるような大きな桜の木になりたいです……。そう、まだわたくしが元気だった頃、兄上様たちと一緒に遊んだあの桜の巨木のように…。
どうか兄上様、姉上様…。わたくしが死んでも悲しまれませんように…。わたくしは兄上様たちの心の中でずっと生き続けられます。兄上様たちがわたくしのことをお忘れにならない限り……。
…でも、もし重荷に感じるようなことであるのなら、その時はわたくしのことは、どうか…、どうかお忘れになって下さい…。わたくしは兄上様、姉上様の心の重荷になんてなりたくありません…。そのときはわたくしのことは、どうか…。どうか……。
最後に……。わたくしは兄上様と姉上様の妹で本当によかった……。鞠絵
手紙にはそう書かれてあった。僕は泣いていた…。春歌も泣いていた…。悔しかった……。僕は鞠絵のこと、“心の重荷”なんて思ったことは一度だってない。それなのに…。目の前に鞠絵がいたら叱ってやりたかった。でも…、それはない…。
書かれた手紙の上、涙がぽたぽた落ちる。涙で手紙が濡れていくのが分かった。胸が締め付けられる思いがした。僕は涙声、それと怒った声で言う。空の上にいるだろう鞠絵に向かって…。
「鞠絵……。僕が…、僕がお前のことを重荷に感じるだって?…。そんな…、そんな悲しいことを書くんじゃない! 鞠絵!! 僕は…、僕はお前のこと、一度だって重荷に感じたことなんてないんだぞ?! お前の笑顔で僕はどれだけ優しくなれたことか! どれだけ楽しくなれたことか! 春歌だって、父さんだって、母さんだって…。お前が心の中で生きていたから頑張って来れたんじゃないのか! それを…、それを“忘れて下さい”だって?! 鞠絵の…、鞠絵の馬鹿!」
怒鳴り声を上げると、僕は表へ飛び出した。春歌はびっくりしたようだったが、僕はわき目も振らず走り出す。春歌の僕を呼ぶ声が聞こえるが、わき目も振らずに走った…。どこをどう走ってきたか分からない。でも、桜の巨木の前に僕は立っていた。
ここは昔、僕たち兄妹の遊び場だったところだ。それだけじゃない。悲しいこと、苦しいこと、つらいことなんかをこの桜の巨木に話し掛けると、まるで嘘のように消えてしまう…、不思議な巨木だった。そんな不思議な桜の巨木の前に僕は立っている。
ふっ、と幹に触れてみる。涙が溢れて止まらない。拭っても拭っても次から次に涙が溢れ出してくる。
「鞠絵ぇ…。畜生!! お前は僕の心が分からなかったのか! いや…、僕だけじゃない! 春歌や、父さん、母さんの思いを分からなかったのか?! なぜ…、なぜあんな悲しいことを書いたんだ! なぜもっと…」
桜の巨木にそう語りかける。でも桜の巨木は何も語りかけては来なかった。ただ凛としてそこに立っているだけだった……。
「兄君さま……」
後ろから春歌の声が聞こえる。でも僕は巨木に向かって立っている。後ろに振り返られない。振り返ればきっと……。きっと僕の弱い心は……。
「兄君さま! こっちを向いてくださいませ!」
春歌はそう言うと僕の手を取って、自分の方に向かせる。長刀を習っている春歌は力も強い。僕はあっという間に春歌の方に向かされた。春歌は僕の顔を涙目で睨んでいる……。僕は何も言えない…。沈黙が辺りを包んだ…。
何時間そうしていたんだろう…。正確には一分くらいだったが、僕には何時間もそうしているように思った。春歌はゆっくりと話し出す……。
「……兄君さま、あなたは……、あなたはそんな情けない男なのですか? あなたは鞠絵の優しい気持ちを分からないのですか? 鞠絵だって…、鞠絵だって本当は…。もっと生きたかったたはずなのですよ? 死にたくはなかったはずなのですよ? でも鞠絵は…、鞠絵は自分の死期を悟ったから兄君さま、あなたに負担をかけさせたくないと思って、兄君さまには自分のことをいつまでも引き摺って生きていってほしくないと思って…。だから…、だからあのようなことを書いたのですよ?! その優しさが…、あの子の優しさが兄君さまには分からないのですか? ワタクシだって…、ワタクシだって!! 本当は、死んでしまいたいくらい悲しいんです! 6年経った今でも、心が押しつぶされるくらい悲しいんです!! それでも、今日まで頑張ってこれたのは、あの子の…、鞠絵の笑顔があったからなんですよ? それなのに……。それなのに兄君さま! “お前は僕の心が分からなかったのか!” ですって? バカ! バカですわ! 兄君さま!!」
春歌の怒声が辺りに響く。僕は何も言えない。ただ、ぽかぽかと僕の胸を叩く妹にされるがまま、桜の巨木に背もたれてぼーっと立っているだけだった。僕の服を涙で濡らしながら春歌は……、
「…バカ……。…兄君さまの……、…バカ……」
そう呟くだけだった…。風はさらりと吹き抜けていく…。木に積もった雪が音もなく宙を舞う…。僕は考える…。鞠絵の優しさ……。そして、春歌の優しさ…。……僕は情けない、弱い男だ…。それに比べると春歌は…。春歌の肩にそっと手を置く…。僕は言った…。
「僕はバカだ……。本当にバカだ……。鞠絵の心にも気付かずに…。春歌…、お前の心にも気付いてやれずに…。僕は…。お前だって悲しいだろうに…。つらいだろうに…。それなのに僕は何もしてやれなかった…。ごめんよ…。春歌……」
そう言うと僕は妹を抱きしめる。これといっていいほどに力いっぱい抱きしめる。たった二人の兄妹…。その絆を確かめるように……。妹を抱きしめる。
「あに…ぎみ……さまぁ……。うっ…うううっ……」
僕たち、たった二人の兄妹…。この世に残された、たった一人の妹…。その妹の心にやっと気付いてやれたような気がした…。父さん、母さんの心…。そして……。14歳でこの世を去らなければならなかった、もう一人の妹の心にも……。
雪の積もった桜の巨木からさらさらと残雪が舞っている。これが溶けて花が咲いて、散って…。そして葉っぱが生い茂って蝉が鳴く頃、もう一度ここを訪れよう…。ちょっとだけ大きくなった子供たちを連れて…。そう思った…。
「じゃあ…。帰るよ。春歌…。…今度は夏休みに来るよ…。学校の……、ちょっとだけ大きくなった子供たちを連れてね……」
「ええ…。楽しみに待っておりますわ…。兄君さま……」
駅のホーム。休みは終わった。明日からまた仕事が始まる。僕の妹はたおやかな笑顔を見せていた。警笛が鳴る。扉が閉まる。ディーゼル機関車は煙を吐きつつ、ゆっくりゆっくり動き出す。
動き出したと同時に妹の足も動き出す…。やがて妹の姿も、駅のホームも遠くになった……。僕は悲しみを背負って生きていくことだろう…。でも、僕だけじゃないんだ。妹も、この世を去った父も母も、みんな何かしらの悲しみを背負って生きているんだと僕は思った……。
明日からまた仕事が始まる……。頑張ろう! そう思いながらディーゼル機関車に揺られる。遥か遠くには僕の暮らす町…、東京のビル郡が乱立するように見えてきていた……。
FIN