わたくしは一人佇んでいた。離れた地・東京にいる彼のことを思い出しながら…。街の片隅にある寂れた公園で一人ブランコに乗る…。キーコキーコと揺らしているとふと彼の優しい笑顔が浮かんできた。その笑顔を思い出し、“うふふっ”と一人微笑むとえいっ! とばかりに飛び降りる。また歩き始めた…。


木綿のハンカチーフ


 家は職場から2キロメートルほど行った先にあった。今日もわたくしはその家に帰っている。わたくしの住んでいるところはある山あいの小さな村だ。なにもないところだけど空気が澄んでいて夜には星がよく見える。すぅ〜、はぁ〜っと深呼吸しながら空を見る。今日も星がきれいだ…。昔、体の弱かったわたくし。でも今はこの通り元気になった。それは一概に彼のおかげだ。そう思っている。彼の名前は海神航と言う。わたくしの大切な人、そして大好きな人。彼はわたくしと同い年。正確には2日彼の方が早い。だからではないけれどわたくしは彼のことを冗談っぽく“兄上様”と呼んでいることもある。でも普段は航くんだ。ちなみにわたくしは一人っ子。彼とは幼馴染みという間柄だった。
 わたくしが幼かった頃はいつも一緒で、わたくしが転んで怪我をしたときは彼がよく負ぶってくれたし、病気で家でいるときにはお見舞いにも来てくれた。優しい性格、いざとう時の行動力、どれを取ってもわたくしの足元にも及ばない。わたくしは体も弱いし、可愛くもない。おまけに眼鏡を掛けている。不釣合いなことは分かっているけれど、彼に思いを寄せていた。好きだった。彼の顔を見るたび、恋心が募っていく。友達のひばりにどうすればいいんだろうと相談すると…、
「いっそのこと告白しちゃえば? …実を言うとさ、ここだけの話彼にも頼まれたんだわ…。“鞠絵と仲を取りもってくれないかな?”ってね? ほらあたしって彼と付き合い長いじゃない? もちろんあんたもだけどさ…。同い年の幼馴染ってさ、カップルになる率が低いんだよねー。そこであたしの出番ってわけ。まあうまく舞台は作っておくから…。あっ、でもそこから後は自分で何とかしなさいよ?」
 彼とひばりは生まれた病院も同じだし、すぐ隣にも住んでいる。だからか会うと喧嘩ばかりしている。でも非常に仲がいい。そこのところはちょっと羨ましく思えた。わたくしも、彼女のような行動力があったらと思った。そんなわたくしの鼻に軽く指を押し当てて、そう彼女は言う。考える。彼もわたくしのことを? なら相思相愛? …信じられない…。こんな体も弱く運動神経もない、料理とかも得意な方じゃない、こんなわたくしを? でも嬉しい。そう思った。途端に自分の頬がぽっと赤くなる感覚を覚えた。幾日か経って、夕暮れの校舎で、わたくしと彼とは恋人同士になった。
「こんな僕だけど…、付き合ってくれるかい?」
「…うん…」
 夕焼けの校舎窓から入り込む夕陽がやけに眩しかったことを思い出す。嬉しくて涙が零れ落ちそうになる。彼がそっと木綿のハンカチで涙に濡れたわたくしの顔を拭いてくれた。本当に嬉しかった。本当の彼氏彼女になったんだと思った。恋愛小説じゃない、本当の彼氏彼女に…。そう思った。
 恋人同士になってからの毎日は楽しくて時間を忘れるまでおしゃべりしたり、手を繋いで歩いたり、ときには遠出をしたりした。日帰り旅行なんだけど、いろんなところに行った。わたくしが笑うと彼もつられるように笑ってくれた。初めてキスもした。あのときも夕焼けの校舎だった。背が高い彼に爪先立ちになるわたくし。目を閉じる。彼も目を閉じる。どくんどくんと口から心臓が飛び出るくらい緊張した。そして……。唇と唇が触れ合うだけのキス。わたくしのファーストキス。大好きな航くんとのファーストキス。わたくしはこれほど幸せな気持ちになったのは生まれて初めてだった。嬉しかった…。唇を離すと嬉しくて思わず涙が出てきてしまう。気がつくと泣いていた。彼は心配そうに“あっ、ご、ごめん”って言いながら頭を下げていたっけ…。ううん…と首を横に振ると、わたくしは涙に濡れた瞳をごしごし擦って、にっこり微笑む。彼の顔を見る。彼もそんなわたくしの顔を笑顔で見つめていた。
 また彼は勉強も教えてくれた。彼は頭がいい。学年ではいつもトップクラスだった。わからないところも彼に聞くと、途端に分かってしまう。“ねえ、航くん、教師になれば?” と言ったことがある。頬をぽりぽりと掻くと、“うーん、鞠絵が言うんだったらなってみようかな?” 彼はこう言って微笑んでいた。実際彼が本当に教師になるなんて思ってもみなかったけど…。ちなみに彼は今、東京の小学校で国語を教えている。小・中・高校と見てきたわたくしが言うのはどうかとも思えるのだけれど、彼には教師と言う職が天職だと思う。教えるのもうまいし、勉強熱心だし…。それに休み時間とかには彼はよく小説の話をしていたし、放課後もよく図書室で本を読んでいる姿を見かけた。国語教諭としては天職だったんじゃないかな? そう思った。
 そんなこともあり、わたくしは今、町の図書館に勤務している。といってもここは田舎の小さな図書館。蔵書量も大してない。そんな中でわたくしは高校を卒業後、ここに就職した。ひばりと、後数人の友達も一緒だ。でも…、大多数の友達は大都会・東京へと行ってしまう。彼もそのうちの一人だった。駅のホーム。別れ際のあの言葉…。今でもわたくしの心に焼きついて離れない。あの言葉が今こうしてこの町で頑張るわたくしの原動力になっている。あの言葉…。
「必ず僕はこの街に帰ってくるよ…。そしたら鞠絵、僕と一緒になってくれるかい?」
 って…。純粋な目で。わたくしが大好きな目でそう言ってくれた。あれから6年。手紙は交換している。だけど向こうの大学が忙しいのか帰ってくることはなかった。寂しく思えた。4年後、彼は東京のある小学校の教師として採用される。馴染めない生活、いろいろ大変なんだろうとは思う。でも、とても寂しかった。手紙に同封されている彼の写真を見るたび、少しずつ垢抜けていく彼を見つめていると少し違和感も覚える。だけど…、それでもわたくしは彼のことが好きだ。心から好きだ。そう思って今日も一人、彼を待っている。


 家に帰り着く。郵便受けをを見ると手紙とか小包とかが何通か入っていた。手紙を取り出してみる。大概は商品案内のダイレクトメールだったり、電気やガスや水道の明細だったりするのだけれど…。ああ、やっぱり宣伝広告ばかりだ。そう思った。広告を玄関に置くと今度は小包を見る。送り主の住所は辺りが暗いのと目が悪いため判然とは分からない。玄関の電気を点けて宛先を見る。と、自分の顔が満面の笑みへと変わっていくのが分かった。待っていた名前が手の中のあったからだ…。
 トントントントン…。リズムよく廊下を歩く。思わず鼻歌も出てきてしまいそう…。お母さんが“お帰り、鞠絵。あら? いいことでもあったの?” そう聞いてくる。“うん、ちょっとね?” 小包を隠しつつそう言うと早足で部屋へと入った。
 部屋に入って、電気を点ける。明るくなった部屋の片隅にはわたくしが6年前、ちょうどこの町を出て行く彼にお願いして貰った彼の写真が飾ってあった。小包を置くと鋏を探す。ふと外を見るといつの間にか満天の星空が空いっぱいになるそんな時間になっていた。確かこの辺に…、と鋏のあるいつもの引き出しを調べる。……あった。丁寧に小包を紐解く。中は手紙と本だろうか、ちょっと厚い包みが入っていた。手紙の入った封筒の端を切っていく。すべて切り終わり中から便箋を取り出した。ドキドキと胸が高鳴る。広げると彼の字があった。

“鞠絵へ…。
 元気で頑張っているかい? 僕は教師として悪戦苦闘の真っ最中だ。先生になって初めて分かるけど、教えるって難しいよね? いろいろと調べなければならないし、自分で体験して教えなければならない。昔僕たちを教えてくれていた先生たちの苦労が今になって分かるよ。
 そっちはどうだい? 元気で暮らしているかい? 図書館の仕事、頑張っているかい? って僕は文学なんてあれから全然で今はほとんどちんぷんかんぷん状態なんだけどね……。ってこう言ってたら小学校の先生失格か…。ははっ…。……でも、目を瞑ると君の頑張っている姿が目に浮かんでくるよ…。じゃあまた手紙、送るよ…。

                                                                      航
  P/S  たまにはお洒落もしないとダメだよ? 君の写真を見たけどまだ素顔のままじゃないか…。
        だからじゃないけど、今、東京で流行っているルージュとか化粧用品等を一緒に入れておくね?
        男一人で行って、化粧品を買うなんておかしいのか、化粧品店の店員さんはちょっと不思議そうな顔をしてたけどね?”

 手紙を読み終る。読んでいた手紙を封筒に仕舞うと小包を広げた。高価なお化粧品が入っていた。中央には可愛らしい模様のルージュが入っている。取りだして中に入っている口紅を出してみる。薄い桃色にきらきら光るものがとてもおしゃれだった。でも彼の温もりが心に伝わってこない…。少し寂しい気持ちになる…。あの、“素顔のほうがやっぱり鞠絵には似合ってるよ…” って言って優しく微笑んでくれた彼が…。草笛を吹きながら楽しくお話をしてくれた、つらい時には慰めてくれた、いつもわたくしのそばにいてくれた航くんが…。そう思うと何だかいたたまれなくなって、そっとルージュを箱の中に戻した…。


 お風呂に入ってひとしきり体を温める。ゆっくり温もる。山あいにある小さな村のそのまた外れにある家なので、夜は寒い。だけど空気が澄んでいるのか星はすごくきれいに見える。窓を少し開け夜空を眺めた。星空がまるで宝石箱をひっくり返したように見える。東京ではこんなきれいな星空は眺められないのに…。“どうして東京なんかに行っちゃったの? 航くん…” そう思いぶんぶんと首を振る。航くんは夢を叶えに行ったんだ。いつか夢が叶ったら帰ってきてくれるんだ。そう思った。いや、そう願った。
 風呂上り、服を着替えて出てくると早速返事を書いた。星は煌いている。最初の一文を書いて筆を止めた。なんて書こうか…。悩む。最近は文明の利器というべきパソコンがどの家でもあって、わたくしも図書館にいるときには利用している。といっても、滅多なことでは利用しない。もちろん家にも置いてあるのだけど…。でも、わたくしはこういう機械類には弱い。メールも送れないし、メール自体もよく分からなかった。お父さんは仕事でよく使うほうだけど…。だからじゃないけど彼にはいつも手紙を送っていた。彼も“手書きのほうが思いがこもっていて何だかいいよね……” と、初めての手紙でもそう書いてくれている。彼もわたくしと同じ気持ちなんだ。そう思うと嬉しくなって貰った手紙をぎゅ〜っと胸に当てて、ふと見ると手紙がくしゃくしゃになっていたっけ…。
 “そんな時もありましたね?” そう思うと止まっていた手を動かす。今のわたくしの心境。こちらでの暮らしぶりなどを書き連ねる。しばらく書いてペンを置く。辺りを見るともう真っ暗になっていた。シャーッとカーテンを閉めると、机に向かう。細い字で封筒に住所などを書き、封筒にさっき書き上げた手紙を入れると封筒をのりで止める。最後に切手を貼った。ポストに出そうと思ったけど寂しそうな街路灯がぽつんぽつんと点いているようなところだ。“もう暗いのでポストに出すのは明日ですね?” 独り言のように呟いて、机の上に手紙を置くとわたくしはお母さんのお手伝いをしに台所へと向かった。


 次の日。いつも通りに目を覚まして、お父さんとお母さんに挨拶をしていつも通りに朝食を食べて、いつも通りに高校へと向かう。ただ違うのは胸にしっかりと抱いているこの手紙だけ…。うふふっと微笑むと郵便局へと向かう。家から坂を下りて200メートル行ったところにその郵便局はある。引き戸を引いて中へ入る。航くんとの文通によく使っているせいか、ここの郵便局員さんとはもう顔馴染みだった。
「おはよう。鞠絵ちゃん。今日も恋人へお手紙かい?」
 にっこり笑顔の郵便局員さん。その顔にぽっと顔を赤らめるわたくし…。何も言わずこくんと頷く。顔が火照っているのが自分でも分かる。おそらく真っ赤になっているんだろう…。そう思った。
「じゃあ、手紙を出して? ……よしっ! っと…。じゃあ大切に送らせてもらうよ…」
 そう言うと郵便局員さんはウインクして微笑んだ。その顔にさらに顔を真っ赤にして俯くわたくし。朝の清清しい時間はこうして過ぎていった。てくてくと歩いて村の図書館へと向かう。途中で同じ図書館に勤務する友達に出会い昨日のことなどを話しながらへと向かった。彼女とは高校時代からの友達。名前を“ひばり”って言う。実は彼女こそがわたくしと航くんの恋のキューピットだった。てくてくと図書館へと向かう。途中で別の友達が数人合流した。
「ねえ、鞠絵? 彼氏が遠くで寂しくない? あたしだったらさ、寂しくてすぐに追いかけると思うよ?」
 ひばりがそう言う。他の友達もうんうんと頷く。わたくしも本当は会いに行きたい。空を舞う鳥のように翼があるのなら…。だけどわたくしはここで待っている。“迎えに来てくれるって…。航くんが約束してくれたから…。そう言ってくれたから…” そう心の中で独り言を呟くとわたくしはひばりの顔を見てこう言う。
「それは心配なのは心配だけどね? 彼がこの町を離れる時“必ず君を迎えに来るから、待っていてくれ”って言ってくれたんだもの…。迎えにくるって、必ず迎えに来るからって言ってくれているのに。信じなきゃダメだって。大好きな人のこと信じなきゃダメだってね? そう思うの……」
「はぁ〜。そういうもんかねぇ〜。あたしならすぐにでも追いかけると思うけどねぇ〜?」
 そう言ってひばりは首を竦めた。別の友達が“ダメよ。ひばり…。鞠絵に何を言ったって…、だって鞠絵は彼にぞっこんなんだもの…。ねぇ? 鞠絵…” そう言ってあははと笑う。わたくしの顔がみるみる赤くなったのは言うまでもなかった。彼とわたくし、遠く離れていても心は繋がっている。寂しくても繋がっている。苦しくても泣きそうになっても彼はわたくしのことを見守ってくれている。6年前、彼が東京の大学へ行くときに駅のホームで泣いているわたくしを抱きしめて、静かに涙に濡れた頬を拭いて…、
「必ず帰ってくるから…。だから泣かないで? せっかくの可愛い顔が台無しじゃないか…」
 そう言って優しく微笑んでわたくしの頬に流れる涙をハンカチで拭いてくれたんだっけ…。あの時の笑顔はわたくしの脳裏に今も鮮明に焼きついている。あれから6年、文通はいくつしたのか分からないくらいした。ただ…、彼が帰ってくることはなかった。心のどこかで会いたいと思う気持ちもあった。行けば会える。顔を見て話も出来る。写真立ての中じゃない。本当の彼の顔が見える。しかし会うことはしなかった。彼も頑張っているのに……。逆にわたくしがいて迷惑になるんじゃないだろうかと考える。手紙にはいつも“帰れなくてごめん”って言う一文がどこかに必ず書かれてある。彼も向こうの暮らしで大変なんだ…、そう思った。


 でもだんだんと彼からの手紙が来なくなってくる。少し不安になった。事故にあったんじゃ…。病気になって入院しているんじゃ…、って思った。もしかして! と最悪のことも考える。わたくしとのあの約束を? 脳裏にそんなことが一瞬よぎった。そう考えてその考えを振り落とすようにぶんぶんと首を横に振る。ただ忙しいだけなんだ。ただ、忙しいだけ…。そう思い毎日を過ごしている。友達にも話す。話を聞いていたひばりは妙に真剣な顔になるとこう言った。
「鞠絵。あまりこう言うのはどうかと思うけどさ…。もう彼、あんたのこと忘れてるんじゃないかな…。だって前まで出せば必ず返って来てた手紙…。最近来なくなったんでしょ? それにメルアドも変えちゃったって言うじゃない…。もうさ、一回会いに行くべきだと思うよ? あたしはね?…」
「うん。でもね…。きっと忙しいと思うんだよ。やっぱり…。それにね? 恋人だったらどんなことがあっても信じてあげなきゃダメだって思うの…。彼のこと…。だってわたくし、航くんの彼女なんだもん…。航くんのこと、一番分かってるつもりだもん……」
 わたくしは自分の心の黒い部分を消し去るように、虚勢を張るように無理矢理微笑んでこう言う。そうでもしないとこの黒い心に押しつぶされそうな感じがしたからだ…。都会にはたくさんの誘惑もある。だからある程度は仕方がないのだろうと思う。でも、あの約束だけは忘れて欲しくない。そう思った。優しい顔で泣いているわたくしの顔にそっとハンカチを当ててくれた彼。必ず帰ってくるって言ってくれた、わたくしの恋人。そう思い、今日も手紙を書いている。書いているときにひばりのあの言葉を思い出す。
“もう彼、あんたのこと忘れてるんじゃないかな…”
 嘘だ…。絶対に嘘…。一旦筆を止めてふるふると首を振る。忘れてなんかない。大好きな彼は。彼は絶対に…。閉めていたレースのカーテンを開けると空を見上げる。夕陽が今日もきれいだった。この夕陽をあの人も見ているのだろうか…。ううん、絶対見ているに違いない。だって、わたくしと航くんは恋人同士なんだもの…。自分にそう言い聞かせる。でも…。心の闇は広がっていく。写真の彼が遠くなっていくような気がした。
 とぼとぼと夜道を歩く。この時間には郵便局は閉まっている。一日も早く彼の気持ちを知りたい。そう思って村に一つしかない郵便ポストに手紙を投函しに行く。お母さんは“まあ、慌てて行かなくても…”って微笑んでいた。てくてくてく…、歩く。空には満天の星が輝いている。街路灯が空の星を羨むように点いたり消えたり…。やがてポストの前、足は止まった。手紙を胸のところにやる。この手紙を読んでもらえますように…。と神様に祈った。最後にもう一度手紙を見つめてポストの口を開けて丁寧に手紙を入れた。この思いがどうか彼の心に届きますようにと…。そう祈って…。

 手紙を出して幾日か経ったある日の夜…、わたくしは夢を見た。彼がわたくしの知らない女の人と歩いている夢を…。わたくしは彼の後ろで大きな声を出して彼のことを呼んでいる。それなのに彼はわたくしの声には全く気付かずにその女の人と微笑み合いながら行ってしまう。わたくしを置いて…。いや…。いや…、いや、いやいやいや…。首を横にぶんぶん振るとわたくしは追いかける。彼の後ろ姿を。でも、彼には追いつけない。追いつけないどころかどんどん離されて行ってしまう。やがて、彼の姿は見えなくなる。わたくしはただ呆然と立ち尽くしていた。涙が頬を伝たってぽたっと地面に落ちた…。

 朝、目を覚ます。枕がぐしょぐしょに濡れていた。目を擦る。やけに濡れていて腫れぼったいような感覚がした。洗面所に行き鏡を見る。涙の後か幾筋も出来ていて目が赤く腫れている。どうして? と一瞬思った。と、そこで思い出す。今朝彼の夢を見たことを…。ただそれがそんな夢だったのかまでは思い出せない。うれしい夢なのか、悲しい夢なのか…。それすら分からない。そんな不思議な夢だった…。
 また幾日か経った…。だけど彼からの返事は来ない。“本当に忘れちゃったの? 好きだって、そう言ってくれていたじゃない。ねえ、航くん” 写真に向って何度も何度も問いかける。でも写真立ての中の彼はただ微笑んでいるだけだった。ひばりは、
“もう東京に行って彼のことを自分の目で確かめるしか、方法、ないんじゃない?”
 と言って深いため息をつく。“いやだ! 確かめたくない!” そう自分の心が叫んでいる。わざわざ確かめなくても、わたくしが彼を愛しているように、彼もわたくしを愛してくれているはずなんだ。心は繋がっているはずなんだ。どんなに離れていても。そう思いたい! …でも本当に向こうの暮らしが楽しくて…、ううん、そんなはずないもん。そう、自分の心に言い聞かせる。一週間が経つ。二週間が経つ…。一向に彼からの手紙は来ない。それでも待った。ひばりや他の友達は“辛抱強いって言うか何て言うか…。はぁ〜” とため息を吐きつつそう言いながら、もう諦め顔でわたくしの顔を見ている。それでも、わたくしは待った。そして手紙を出して三週間目のある日…。一通の手紙がわたくしの元へ届く。送り主の名前にはわたくしの待っていた名前があった。
 乱暴に鍵を開け、家の中へ入る。水を飲むのも程ほどに階段を急いで上がり、自分の部屋に入った。肩に掛けた鞄をベットの方に乱雑に放り投げる。鞄から書類とかがいっぱい出てきたけど気にしない。急いで鋏を探す。なかなか見つからない。見つけたときには悠に10分は過ぎていた。もう一度手紙を見る。彼の字だ。手紙を胸元に抱く。“航くん…、お願い!!” そう思い、手紙の入った封筒を切る。丁寧に丁寧に切っていった。手紙を取り出して広げる。久しぶりに見る彼の字。でもいつもの生き生きとした字じゃなかった。どことなく思い悩んで、答えを探しているような字…、そんな字だった…。愛用の眼鏡を掛け直すと手紙を読む。手紙にはこう書かれてあった…。

“鞠絵へ…
 手紙、どうもありがとう。いつも貰うばかりでごめんね。
 君と離れてもう6年になるのか…。手紙…、こちらの暮らしが忙しくてなかなか君に手紙を出すことが出来なったんだ…。ごめん…。こっちに住んでいると毎日が忙しいけど楽しいんだ。都会に暮らしてみて初めて分かったことがあるけど、やっぱりそっちは不便なんじゃないかな? って…。そう思う。
 18年そっちで暮らしてきた僕だけど、こっちに来て都会はやっぱりいいなぁって、そう思えるようになった。東京に着たばかりのころは、あまりのそっけない態度に、なんて冷たいんだろう…って思ったりもしたけど、6年も経つと返って煩わしくなかったりするもんだって、そう思えるようになったんだ。
 やっぱりそっちと東京とじゃ距離が遠すぎると思うんだよ。いや、近ければいいって言うものじゃないけどね。でも、やっぱり僕と君との距離は遠すぎる……。6年経って最近やっと気がついたんだよ…。って気がつくのが遅すぎるよね…。最初の一年でもう分かってたことなのに…。
 君が悪いわけじゃない。すべては僕のわがままだ。だから君に許してもらおうなんて思っていない。一生恨んでくれても構わない…。だけど、このままずるずる行ったって好転はしないと思ったんだ。だから…。……別れてくれないか?……。そうした方が僕は一番いいと思ってる。君にはつらい選択かもしれないけど、これが今の僕たちにとって一番いい方法だと思うから…。だから…。だから、本当にごめん…。

                                                             航”

 わたくしは泣いていた。溢れる涙が頬を伝ってぽたぽた机の上に落ちた。航くんが…、わたくしの初恋の人が都会の喧騒の中に消えていく。幼い頃から好きだった彼は、もうわたくしの方へは振り向いてはくれない。にわか雨だろうか……。ザァーッという音が部屋の中にいても聞こえてくる。……しばらく動けなかった。
“帰ってくるって…。迎えに来てくれるって…。そう言ってくれたじゃない…。あの、あの約束は何だったの? ねえ、航くん…”
 立てかけてある写真に向かいそう呟く。でも写真の中の彼は、何も語りかけてはくれなかった。返事もしてくれなかった。ただ微笑んでいるだけだった。…都会、行ってしまった彼。もう戻ってきてはくれないわたくしの初恋の人。眼鏡を外すとそのままベットに雪崩を打つように横になる。今までの思い出が浮かんでは消えていった。一緒に話しながら帰ったあの日、初めてキスをしたあの日、毎日が楽しかったあの頃…。そして、彼がこの地から去っていったあの日…。いつも彼は笑顔だった。6年という時間は余りに長すぎて…。わたくしはそばいると思っていても、彼は…。彼は遠く感じていたんだろう。今さらながらそう思う。布団を頭までかぶり丸くなる。
 お母さんが帰ってきたみたいだ。でも、わたくしは動かなかった。お母さんが上がってくる。“ちょっと疲れちゃっただけだから…。だから心配しないで?” 部屋の前、コンコンとノックするお母さんに精一杯の明るい声を出して、こう言った。だけど頬は濡れている。でも、気付かれないように精一杯明るい声を出した。今の自分の崩れかけたプライド。それを一生懸命になって押し止めている自分がいる。ガチャっと扉が開く。お母さんが入ってきたみたいだ。布団にうずくまっているわたくしをどういう風に見ていたのだろうか。…お母さんはわたくしの布団越しの背中をぽんぽんと優しく叩くと“お粥、作って置いておくから後で食べなさいね?” そう言って部屋を出て行った。お母さん…、ありがとう…。そう心の中で思うと、わたくしは声を出して泣いた。
 泣いた。泣いた。泣きじゃくった。…でも、涙は枯れることはなかった。泣きながら体育座りのように座る。彼の写真が薄暗い部屋の中に薄っすらと見える。“何で? それほど東京がよかったの? 恋人を、わたくしを捨ててまでも東京のほうがいいの? 何で? 何で?” と写真の中の彼に何度も何度も問いかける。だけど写真の中の彼は、ただ微笑んでいるだけだった。何十分ぐらいそうしていただろう。正確には何分も経ってないけど。わたくしには何十分も経っているような気がして…。そうしているうちに性も根も疲れ果てて眠くなってくる。それでも涙は止めどなく流れている。布団にもう一度横になる。でも、涙は止まることはなかった。悔しかった。都会と言う魔物にわたくしの愛した彼は…。そう思った。でもわたくし何も言えない。彼は夢を追って都会へと旅立ち、そして夢を掴んだんだ。だからわたくしは何も言えない…。
 しばらく経ってお母さんが、お粥を運んできてくれた。何も言わずことっと置くとそのまま部屋の扉を閉めて出て行った。そんなお母さんに“ありがとう。お母さん” と心からそう言う。机にある電気を点けると暖かそうなお粥と、“元気を出しなさい…” っていうメモがお盆と机の中に挟まっていた。気付いてたんだ、お母さん…。そう思った。“お母さん…。ごめんね?” 涙を手の甲で拭くとお粥を食べ始める。涙の塩味が口に残った……。


 遅い食事…、食べ終わっても涙は枯れることなく流れている。それだけ彼のことを思っていたんだ…。わたくしの彼に対する思いがこんなにも深かったんだ。改めてそう思った。雨は断続的に降り続いている。もう梅雨に入ったんだろう…。そう思って濡れた頬に触れてみる。後から後から流れてくる涙で、顔はもうぐちゃぐちゃだろう…。
 時が癒してくれる…って言うけれど、それは何年も経った後のことで、今この悲しみを癒してくれるものなんて何一つない。もしあるとするならば彼からの手紙だけだけど…、それはもうなくなった……。だからわたくしは最後の手紙を認める。もうこれが最後。もうこれで最後…。眼鏡を掛け直し机に向かう。雨は病むことなく降り続いている。まるでわたくしの心を鏡で見ているかのように…。つらつらと書き連ねる。今までの思い出を書き留めるように…。彼との思い出を胸の奥に刻み込むかのように…。そして…、最後にこう書いた。彼に届いてほしいわたくしの最後のわがまま…。崩れかけのわたくしのプライドとともに……。
“ねえ、航くん…。最後に一つだけお願いがあるの…。…もしよかったらわたくしの濡れた涙を拭く木綿のハンカチを送ってください……”
 って……。

FIN