僕は、目の前が真っ暗になった。
1ヶ月…、それが、僕に残された命だった。医者がそう言っていた。だけど僕には、何も聞こえなかった。
ただ、診療室の明かりが、暗い病室の扉の隙間から漏れていた……。
幼い妹を残して…
僕の家族、それは僕と僕の大切な妹だ。妹の名前は、雛子という。
今年の春から近所にある小学校に入学する予定だ。父さんと母さんはもうこの世にはいない。父さんは、雛子が生まれてからすぐに胃ガンが発見された。
末期だった…。父さんの死の直前、父さんから病院へ来るようにと言われた。
コンコン。
「父さん。僕だよ」
「航か…、入りなさい」
僕は、病室に入った。病室の中は何もなく、殺風景だった。ただ、僕たち家族の写真が小さなテーブルの上に立て掛けてあるだけだった。家族みんな幸せそうに微笑んでいた。
「航、今日はお前に大事な話がある。そこに座って聞いてくれ…」
「う、うん…。何? 父さん…」
僕は、椅子に座った。父さんは真剣な表情でこう言った。
「大事な話だ。お前だけには、本当のことを伝えておこうと思った…。お前に頼みがあるんだ。聞いてくれ……。どうやら父さんは、もう長くないらしい…。医者は隠してはいるが、父さんには…、分かるんだ…。母さんも、このことは知っているだろう。雛子の成長を見届けたかったが、もう父さんの命は、後僅かしか残っていない。頼む、航! 母さんと雛子を守ってやってくれ…。雛子の成長を見届けてやってくれ…。それが、雛子に何もしてやれなかった父さんからの…最期の願いだ……」
僕は何も言えなかった……。かわりに、僕の目から一滴、涙が零れた。父さんは、痩せた手で僕の涙をふき取ってくれた。それが、父さんとの最期の言葉となった…。
父さんと母さんは、駆け落ち同然で結婚した。だから僕は親戚というものを知らない。
葬式は父さんの会社の人、数人と近所の人たち、それに僕たちという質素なものだった。
それから4年後、母さんが、交通事故で亡くなった。ひき逃げだった。ちょうど僕が高校1年になった頃だった。
幸い犯人は自首してくれた。だけど、母さんを失った悲しみは計り知れなかった。雛子は4歳だ。これからどうすればいいのだろう…。
僕は、母さんの遺影に手を合わせて言った…。
「母さん、犯人は自首してくれたよ…、でもね、母さん…、僕はどうしたらいいのか分からないよ…。教えてよ、母さん…、父さん……」
僕は、両親を失ってしまった。僕の身内は幼い妹、雛子一人になってしまった。
僕はどうしていいのか分からなかった。自暴自棄になりかけた。と、その時、僕は父さんの最期の言葉が聞こえたような気がした……。
“雛子を頼む”
と……。
あれから、1年が過ぎようとしている。僕は、高校2年になった。雛子は、幼稚園の年長組、今年の4月から小学校の1年生だ。
雛子は、元気で素直に育っている。僕は、そんな雛子を見ていると嬉しくてたまらなかった…。父さんも母さんもいない…、こんな家庭で…。……。
そんな僕にも、彼女が出来た。僕の同級生の咲耶ちゃんだ。
実は彼女のお父さん(おじさん)は、僕の父さんの古い友人だった。今でも、困ったことがあると僕はおじさんを頼りにしている。
おじさんたちは、10年間の海外出張から去年日本に帰ってきた。
ちょうど母さんが亡くなってから半年後のことだった…。
咲耶ちゃんは帰国子女だ。だから飛び級で同じ学年になった。実際には1つ下ということになる。
だから僕のことを、「お兄様」と呼んでいる。まあ、分からないこともないんだけどね…。
まあ、生活の方は、何とかやってこれたと僕は思っている。
これも、近所の人たちの温かい目と、咲耶ちゃん一家の支援と、そしてなにより雛子の元気が僕にパワーをくれたんだと思う。
今日もいつも通りの一日が始まる。僕は、服を着替えて、雛子を起こしに行った。
「雛子、雛子、起きなさい。今日も幼稚園だよ。今日は雛子の大好きなお絵かきの時間があるんだろ?」
「むにゃむにゃ、うにゅ〜? あっ、おにいたま、おはようございます。ふ、ふぁ〜〜〜〜」
「さ、早く服に着替えて。おにいたまは、朝ご飯の用意をしてくるからね」
「ふぁ〜〜〜〜い」
僕は、エプロンをつけて台所に立つ。雛子のお弁当と朝ご飯を作るためだ。
晩ご飯は、時々咲耶ちゃんが遊びに来たときに作ってくれるけど、朝ご飯と雛子のお弁当は僕が作る。お弁当にもアイデアを凝らす。
タコさんウインナーや卵焼きは、母さんが生きていた頃に教えてもらったものだ。
あと、昨日の晩ご飯の残りをちょっと入れて…、出来た。あとは、雛子用のかわいいクマさんの刺繍の入った袋に入れてっと…。お弁当完成!
と、ちょうどそこへ、雛子が幼稚園の服に着替えて、台所に入ってきた。
「おにいたま〜。朝ご飯まだぁ〜? ヒナ、おなかペコペコだよぉ〜」
「あっ、もうちょっと待ってて、雛子。もうすぐ出来るから…」
「うん! じゃあ、ヒナ、ご本読んでるね」
そう言って雛子は、絵本を読み出した。雛子のお気に入り“こぐまのぷーやん”という本だ。
これは、生前父さんが大きくなる雛子のために買ってきた本だった。今、父さんと雛子を結んでいる唯一の絆となっていた。
僕は一生懸命に本を読んでいる雛子に微笑みながら、朝ご飯の用意をした。
「ご飯が出来たよ〜。雛子〜」
「は〜い、おにいたま」
僕たちは、向かい合って席についた。そして、決まって……、
「父さん、母さん、今日も僕たちは元気です。ではいただきます」
と言ってから、ご飯を食べ始めるようにする。
僕が、父さん母さんのことを忘れないように言う言葉だ。雛子も…、
「パパ、ママ、今日もヒナとおにいたまは、げんげんげんきです。いただきま〜す」
と僕のまねをして言ってくれるようになった。なにも、僕がそうした方がいいよとは言っていない。
雛子が自分で言い始めたんだ。僕は、それが嬉しかった。僕たち家族の絆は、どこの、どんな家庭よりも深いと思った。
「おいしいね、おにいたま」
「うん、そうだね。あっ、雛子、ご飯粒がついてるよ。ちょっと待ってて。取ってあげるから…」
「あっ、おにいたま、ありがとう。くしし」
そう言って僕たちは朝ご飯を食べた。朝は毎日ご飯とお味噌汁という献立だ。
これは、雛子のことを考えての食事だった。雛子は好き嫌いなく何でも食べてくれる。僕には、それが有難かった…。
「雛子〜。忘れ物してない?」
「えっと、えっと、クレヨンでしょ? おにいたまが作ってくれたお弁当でしょ? ……うん! ヒナ忘れ物してないよ? ヒナ、えらい? くしし」
「うん、えらい、えらい」
僕は、雛子の頭をなでた。雛子は、嬉しそうに僕の顔を見つめている。僕はにっこり微笑んだ。
と突然、眩暈がして、僕は足をついてしまった。最近、よくこんな眩暈がある。どうしたんだろう? 疲れているのだろうか…。
「おにいたま、どうしたの?」
雛子が心配そうに尋ねてきた。僕は雛子に心配させないように、にっこり微笑むと…、
「ううん、なんでもないよ。さ、さあ行こうか…」
頭をブルブルと振ると立ち上がった。何だか、まだ違和感がある。本当にどうしたのだろうか? 今度病院にでも行ってみようかな?
雛子を幼稚園に送って、僕は学校に向かった。雛子の幼稚園から学校までは、歩いて10分だ。
途中に咲耶ちゃんの家があるので、僕はいつも彼女の家に迎えに行く。今日も咲耶ちゃんは、僕が来るのを待っていた。
「お兄様〜〜〜〜」
僕を見つけると、咲耶ちゃんは手を振って走ってきた。
「おはよう。咲耶ちゃん」
「お兄様、私のことは咲耶でいいって、何度も言ってるのに…。もう…、でもそんなところもラブよっ!」
とそこへ…、
「あっ、お兄ちゃまだ〜。いいなぁ。咲耶お姉ちゃまは…。花穂も一緒に学校行きたいな〜」
「可憐も、一緒に行っていいですか?」
この子達は、咲耶ちゃんの妹の可憐ちゃんと花穂ちゃん。二人ともとっても素直でいい子達だ。
「ダメよ〜。ダメダメ。これから私とお兄様とで愛について語り合うんだから〜。さあ、お子様はさっさと学校に行って算数の予習でもしてらっしゃい」
「ひっど〜い。可憐、お子様じゃないもん!! ね〜、花穂」
「そうだよ、そうだよ!! 花穂だって、お子様じゃないもん!!」
でも、なぜか姉妹ゲンカばかりしている。
僕から見れば、咲耶ちゃんVS可憐ちゃん&花穂ちゃんというのがおおよその見解だ。僕としては、ちょっと羨ましくもあり、微笑ましくもあった。
「あれ? どうしたの、お兄様?」
どうやら咲耶ちゃんに見られていたらしい。僕は咄嗟に…、
「あっ、ううん。何でもないんだ。ただ、羨ましかっただけさ。そうやって何でも言える姉妹がいてね…。雛子は、まだ小さいからね…。僕の方が一方的に言っちゃうんだ。この前も大変だったよ……」
そう言った。咲耶ちゃんは首をすくめて…。
「ふ〜ん。でも、雛子ちゃんは素直でいいわよ。うちなんか可憐も花穂も全然私の言うこと聞いてくれないし…。困っちゃうわ。全く……」
「それは、咲耶お姉ちゃまの方だよ〜。ふえーん」
「そうだよ、そうだよ!!」
「はいはい。分かった。分かったわよ。可憐も花穂も学校に行きましょう。遅刻しちゃうわよ? お兄様も。ねっ?」
咲耶ちゃんは、そういうと僕の手をとって学校の方へ歩き出した。
「待って〜。お姉ちゃ〜ん」
「ああん、待ってよ〜。咲耶お姉ちゃま〜、可憐お姉ちゃま〜」
……。
学校に着いた。今日は体育があるんだな…。僕は数学の用意をしながら、そう思った。
「お兄様、どうしたの? 何だか顔色が悪いわよ?」
学校に行く途中、咲耶ちゃんがそんなことを言っていた。そういえば、最近体の調子がおかしい。
朝もそうだったけど、体がだるい。頭もふらふらする。それに、左の腹部の上の方が腫れてきているような気がする。本当にどうしたんだろう?
今日帰る時にでも、病院に行こうかな…。
キーンコーンカーンコーン。
その時、チャイムが鳴った。担任の先生が入ってくる。
先生が何か言っているけど体がだるくて、話もろくに聞いていられなかった。頭も、朝にもましてふらふらする。風邪なんだろうか…。
でも、今は大事な試験前の勉強の途中だ…。僕は、我慢して授業へ入っていった。
でも、やっぱり体がだるい。どうしたんだろう。と、その時…、
「海神、ちょっとこの問題解いてみろ」
「あっ、は、はい」
先生に呼ばれ、僕は黒板の前に行こうとした。だけど…、
ガクッ、バタン。
僕の意識はそこで途絶えてしまった。
その時、ヒナはお絵かきのお時間でした。
「えっと〜、なにを書こうかな? う〜ん…。あっ、そうだ! ヒナのダイダイダーイ好きなおにいたまのお顔にしようっと! おにいたま、うまく書けたらヒナのこと、いいこいいこしてくれるかな? くしし」
うんしょ、うんしょ、やった〜! 出来たよ〜。ヒナ、自分でもびっくり!! だって、すっごく上手に書けたんだもん!! あっ、鞠絵せんせいに見てもらおっと。
「鞠絵せんせい、見て見て〜。ヒナ、お絵かき書けたよ〜」
「あらあら、上手に書けましたね。それは雛子ちゃんの兄上様でしょ?」
「うん、そうだよ〜。ヒナ、これをおにいたまに見せて、いいこいいこしてもらうんだぁ…。くしし」
「そう、兄上様もきっと喜ぶに違いありませんね。うふふっ」
トゥルルルルル、トゥルルルルル。
「あら? 電話だわ。誰からかしら? こんなときに…」
鞠絵せんせいは電話の方に行きました。しばらくしてせんせいは戻ってきました。なぜかお顔を青くして…。
「雛子ちゃん…。今日、兄上様はお迎えにこれなくなったんだって。だから、今日は可憐ちゃんと花穂ちゃんがお迎えに来てくれるそうですよ…」
「え〜っ、ヒナ、おにいたまと一緒に帰りたかったのにな…」
あ〜あ。ヒナ、がっかり。せっかくおにいたまと一緒に帰れると思ったのにな…。
おにいたま、どうしちゃったのかな? このままだと、ヒナ、サビシイサビシイ病になっちゃうよ?
夕方、可憐おねえたまと、花穂おねえたまがヒナのお迎えにきました。
「雛子ちゃん。お迎えに来たよ、さっ、帰ろ」
花穂おねえたまが、よろよろと歩きながら、ヒナのところに来ました。またこけちゃったのかな?
ヒナより、ドジッ子だからね。花穂おねえたまは…。くしし。向こうのほうで、可憐おねえたまと鞠絵せんせいが何かお話ししてる。
鞠絵せんせいが、ときどきヒナのお顔を見るけど…。
「お姉ちゃまは、先生とまだお話があるみたい。さあ、行こう。雛子ちゃん…」
「うん。おにいたまが待ってるんだしね! ヒナ、早くおうちに帰って、おにいたまにヒナの絵を見てもらうんだぁ。くしし」
「あっ、それが…。……。うん、お兄ちゃま、2週間くらい帰ってこれなくなったんだって…。だから花穂たちのお家へ行こうよ。ねっ、雛子ちゃん」
「え〜? なんでなんでぇ〜?」
「だからね、お兄ちゃまは…。え〜っと、そう、旅行! 旅行に行ったんだよ」
「うそだぁ〜。おにいたま、一人で旅行になんか行かないもん。おにいたま、ヒナのことダイダイダーイ好きって言ったもん! だから、おにいたま、ヒナを置いて行ったりしないもん!! それにヒナ…、おにいたまがいなくなっちゃうとサビシイサビシイ病になっちゃうもん。もう、花穂おねえたまのうそつきぃ〜! ぶぅ〜!!」
「ふぇ〜〜ん。雛子ちゃんに嫌われちゃったよ〜。だから花穂には向いてないって言ったんだよ〜。お姉ちゃまのバカ〜」
ヒナがぷんぷん怒っていると、鞠絵せんせいが可憐おねえたまとのお話をやめて、ヒナのところへ来ました。
「あらあら、雛子ちゃん。そんなに怒ってはだめですよ。……………………………………。花穂ちゃん。花穂ちゃんは、雛子ちゃんの兄上様にそう聞いたんですよね?」
「えっ? あっ、はっ、はい!」
「ねっ。雛子ちゃん、兄上様がそう言ったんですよ…。雛子ちゃんは兄上様のこと、嫌いですか?」
「ううん、ヒナ、おにいたまのことダイダイダーイ好きだもん!!」
「そうでしょう? だったら、花穂ちゃんのこと、信じてあげて。ねっ?」
「うん…。わかったよ。花穂おねえたま、ごめんなさい。…でも、ヒナ、おにいたまの絵、いっしょうけんめい書いたのにな〜。ヒナのこと、またいいこいいこしてほしかったなぁ〜。あ〜あ……」
「うふふ。さあ、雛子ちゃん。気をつけて帰ってくださいね。せんせいはまだ、可憐ちゃんとお話があるから…」
そう言うと、鞠絵せんせいは、また可憐おねえたまの方へゆっくりと行きました。
……。気が付くと僕は、ベットに寝ていた。どうしたんだろう…。
それに、ここはどこだ?…。
「あらっ、気が付いたのね? 雛子ちゃんのお兄さん」
声がした。僕はぼーっと声のする方を見る。
そこには、いつも雛子や僕がお世話になっている病院の看護婦さんが立っていた。と言うことはここは病院なのか? でも何で僕は病院にいるんだろう。考えてみる。
……。あっ、そうだ、僕は、授業中に倒れたんだっけ…。
「そうか……。僕は、倒れたんだ…」
「そうよ…。先生が言うには、軽い貧血だって…。今、あなたの彼女から、倒れたときのことを詳しく聞かせてもらってるの。念のためあなたの血液も採らせてもらったわ」
「血……、ですか?……」
「えっ? ええ…、そうよ…」
何で、血を調べるんだろう。僕は疑問に思った。僕は、そのことを聞こうと思い、看護婦さんを見た。
看護婦さんは、微笑んでいた。だけど僕には、その微笑みがとても寂しそうに見えた。何でだろう? 僕には…、分からなかった…………。と、そこへ…、
「お兄様…」
咲耶ちゃんが病室に入ってきた。咲耶ちゃんの目を見た。咲耶ちゃんの目が今日の夕陽のように赤かった。
泣いていたんだろうか? と、僕に気付いたのか…、咲耶ちゃんは、ゴシゴシ目をこすり、そしていつもの笑顔になって…。
「お兄様、大丈夫?」
「えっ? あっ、う、うん。大丈夫だよ…。そろそろ雛子を迎えに行かないと……」
「ダメです!! しばらく安静にして下さい」
看護婦さんが、布団から出ようとする僕の体をつかんで、押し戻そうとする。
「なっ、なぜ止めるんですか! 僕は軽い貧血なんでしょう? だったら、もう大丈夫なんでしょう? 早く雛子を迎えに行かないと…」
「ダメ!! ダメなんです!! とっ、とにかく、しばらく安静にして下さい」
「お兄様!! しばらく休んでいらして…。お願いよ…、お兄様…」
咲耶ちゃんまでがそんなことを言った。咲耶ちゃんの顔を見た。咲耶ちゃんの瞳が、悲しそうに見えた。
その時、僕は言い知れない不安にかられた。ひょっとして僕の命は…、もう長くないんじゃないのか? そう思った。
そんなことを払拭するように、咲耶ちゃんは…。
「雛子ちゃんのことは、心配しなくてもいいわ……。私と可憐と花穂とでみてるから…。お兄様は疲れていらっしゃったのよ。しばらく、ゆっくり休んでいらして…。ねっ、お兄様……」
そう言った時の咲耶ちゃんの目が、とても悲しそうに見えた…。だから僕は…、
「ごめん……。それに、ありがとう…。咲耶ちゃん」
ただ、それだけのことしか言えなかった。咲耶ちゃんは無理に笑顔を作って……、
「そ、それじゃあ、私、帰るわね。何度も言うようだけど、雛子ちゃんの事は心配しなくてもいいわ。お兄様は、しばらく休憩…。ねっ!!」
僕には、その笑顔がとても痛々しくて可愛そうでならなかった。だから…、
「……うん。それじゃあ、雛子のこと、よろしく頼むよ……」
僕はそう言った……。
その夜……、僕は、ふとトイレに出かけた。
その帰り道、僕が診療室のところを通り過ぎようとする。何か話し声が聞こえてきた…。何だろう、僕は気になって診察室の前に止まる。…どうやら、僕のことを話しているようだった…。
「海神君だが…。もう、彼には骨髄移植しか残ってないんだ。ただ、彼の骨髄液の型が非常に珍しい型なのでね。世界中探して、1人……。ううん。全く見つからない可能性の方が大きいんだ。……。もう、私たちに出来ることは、どうやって、彼に苦しまず残る余生を送ってもらうかだ…」
「ええ……。……。でも、可愛そうですね……。海神君…。お父さん、お母さんに先立たれて、一人で雛子ちゃんを育ててきたんですもの…。なのに何で、何で神様はこんなにも不公平なのかしら…」
聞いてしまった…。医者がそう言っていた…。やっぱりそうだったのか…。
……でも…、信じられなかった…。僕が死ぬ? 嘘だろ? と突然、左上腹部に激痛が走った。僕は逃げるようにその場から走り出した。
自分のベッドに座った。激痛は少しは収まった。けど、まだ痛かった。ふと、自分の頬を触った。何か冷たいものに触れた。それは…、僕の涙だった。
僕は自分でも気が付かないうちに泣いていた。こみ上げてくる悲しみに、胸が締め付けられる思いがした。
自分の命が後僅かしか残っていないことに……。
そして…、幼い妹1人を残して逝ってしまう自分のふがいなさに……。僕はその夜、泣いた。
このまま涙が枯れてしまえばいい。そうすれば、もう泣かなくてすむ。幼い僕の妹に心配させずにすむ…。僕は、そう思った。
ヒナが、咲耶おねえたまたちのおうちに来てから、3週間が経ちました。
その間に、ヒナ、小学校に入学したんだよ〜。おにいたまが来てくれなかったことはすっごく寂しかったけど、でも、もうヒナ、1年生だもん。ヒナの入学式には、おじたま、おばたま、それに咲耶おねえたまたちが来てくれました。でも…、おにいたまは旅行に行っているので、会えませんでした。あ〜あ、ヒナ、がっかり…。
「花穂おねえたま、おにいたま、いつ帰ってくるの? ヒナ、おにいたまが帰ってきたら、いいこいいこしてもらうんだ〜。 楽しみ〜! くしし」
ヒナ、早くおにいたまに会いたかったから、そう言ったの。そしたら、花穂おねえたまが、
「雛子ちゃん…、お兄ちゃまね。ご旅行、もうちょっと帰ってこれないって…」
って言ったの。花穂おねえたま、そんなこと言ってウソついてる…。ヒナには分かるんだよ〜。
おにいたまはヒナのこと放っといて、そんなながいながい旅行になんか行かないもん!! ……。でも、もしそうだったら、ヒナ、ちょっぴり悲しいな…。
「ただいま」
可憐おねえたまが帰ってきたの。花穂おねえたまとヒナは、玄関まで、可憐おねえたまをお迎えに行きました。
「おかえりなさ〜い、可憐おねえたま。あれ? 咲耶おねえたまは?」
ヒナ、可憐おねえたまに聞いたの。そしたら、可憐おねえたまは……、
「咲耶お姉ちゃんは、ちょっと病院に行ってるの。お兄ちゃんの…」
「お姉ちゃま……」
花穂おねえたまは何か悲しいお顔で可憐おねえたまのほうを見てたの…。
ヒナ、おにいたまは旅行に行ってるって思ってたのに…。
可憐おねえたまたち、ヒナにウソついてたんだねっ!! ぶぅ〜っ。ヒナがぷんぷんしてると、可憐おねえたまがヒナに…、
「……ごめんなさい、雛子ちゃん…。実はお兄ちゃん、ご病気なの…。お兄ちゃんが、雛子ちゃんに心配させたくないって言ってたから…。雛子ちゃん、本当にごめんなさい…」
って、謝ってたの…。……。…おにいたま…、おにいたま大丈夫だよね…。おにいたま、またげんげんげんきになってくれるよね…。ヒナ、とっても心配だったから…、
「おにいたま、大丈夫かなぁ〜。…あっ、そうだ! ヒナ、明日おにいたまのところへ行くんだ〜。そしておにいたまをヒナのお歌でげんげんげんきにしてあげるんだ〜」
おにいたまイタイイタイで、お注射ぶちゅ〜っ、なんだって。ヒナこわいこわいなのに、おにいたま、すっごくえらいなぁ〜。そしたら可憐おねえたまが…、
「しばらく、様子を見てるほうがいいよ…。雛子ちゃん……」
って言ったの。ヒナ、明日行きたいのに〜。
「え〜っ、なんでなんでなんで〜〜?」
「雛子ちゃん、お兄ちゃまは、もうちょっとイタイイタイなんだよ〜。だから、会いに行くのはもうちょっとあとだね…」
「え〜っ? ヤダヤダヤダァ〜! ヒナ明日いくの〜。ゼッタイゼッタイ行くの〜。もう! 可憐おねえたまたちのイジワル〜。ぶぅ〜」
ヒナ、怒っちゃった。ヒナ、明日おにいたまに会いたいのに〜。
「ヤダヤダヤダァ〜、ヒナ明日行くの〜。ゼッタイゼッタイ行くの〜」
「雛子ちゃん…。ごめん…、ごめんね…」
そう言うと可憐おねえたまがヒナのこと、ぎゅって優しく抱きしめてくれたの。
そして、ポタッてヒナの頭にお水が落ちてきたの。何かなってヒナがお顔を上げると…、可憐おねえたま、泣いてたの。
「お姉ちゃま…。うっ、うっ、うっ」
花穂おねえたまも泣いてたの。ヒナ、何だかとっても悲しくなって泣いたの……。その日、咲耶おねえたまはおうちに帰ってこなかったの…。
あれから3週間が過ぎた…。僕の病気は急激に悪くなっていった。もう立つことも座ることも出来なくなっていた…。医者も、僕の命はもう僅かだと言ってくれた。
「先生!! お願いです!! 隠すより言ってください!! 僕は、後どれくらい生きられるんですか?!」
僕は、そう言って医者の顔を睨んだ…。医者は…、
「……2週間…。それもよくもって……、だ……。……」
「……やっぱり……、そう、ですか……」
その時の医者の顔は、何とも言い様のない顔だった……。
咲耶ちゃんは、毎日僕の部屋に来てくれた。今日も、来てくれるだろう。僕は今日、咲耶ちゃんにお願いしておこうと思っていた。それは、そう……、雛子のこと。
コンコン。
「お兄様…、入るわよ」
「うん……」
咲耶ちゃんは、僕のベッドの隣の席に座った。しばらく無言が続いた。
「……」
「……」
言おう……。僕は意を決して言った…。
「……咲耶ちゃん、今日は君にお願いがあるんだ。咲耶ちゃんはもう知ってるよね…。僕がもう長くないってこと。君には、いろいろ迷惑かけちゃって…、ごめんね…。……。これが僕の最初で最期のお願いになると思うけど…、聞いてくれるかい? 咲耶ちゃん……」
僕は寝たままで、咲耶ちゃんの方を見た。咲耶ちゃんは、怒ったようにそっぽを向いていた。かまわず僕は言葉をつづけた……。
「雛子を君の妹にして欲しいんだ。おじさん達にはこの前あって話した…。そして…、雛子を君の家の養子にするって……。おじさん達は、快く承諾してくれたよ…。だから、咲耶ちゃ……」
「いやよっ!! 雛子ちゃんにはお兄様しかいないのよ!! 私だって、私だって……、お兄様しかいないんだからっ!! なのに、なのに何で、諦めるのよ!! 何でもっと生きようとしないのよ!! 希望を捨てないで!! 諦めないで!! お願い……、お願いよ!! お兄様ぁぁぁぁぁぁ!!」
「咲耶ちゃんらしいね…。そうやっていつも僕を励まそうとしてくれる…。でもね、咲耶ちゃん……。もう僕には時間がないんだよ…。死のカウントダウンは着実に減ってきてるんだ…。僕に残された時間は…、後僅かしかないんだよ…。僕は、よくもって後2週間の命だろう…。……。ずっと、ずっと、生きていたかった…。ずっと、雛子や君と一緒にいたかったんだよ!! 僕はっ!! 僕はっ!!」
僕は思わず声を荒らげてしまった。
きぃ〜。
その時、扉が開いた。僕は扉の方を見て愕然とした…。
可憐ちゃん、花穂ちゃん、そして、涙をいっぱい流して立っている僕のたった1人の幼い妹、雛子だった。
「おにいたまぁぁぁぁぁ。死んじゃやだぁぁぁぁぁぁ。うえーーーーーーーーーーん」
「……」
僕は、しばらく声が出なかった。雛子が、涙を流しながら僕のベットに駆け寄ってくる。僕は…、
「……。……可憐ちゃん、花穂ちゃん、すまないけど、ちょっと出て行ってくれないかい……、お願いだよ…。咲耶ちゃんも、ねっ…」
しばらく沈黙の後…、静かにそう言った。
「……うん、分かった…。お兄ちゃん…」
可憐ちゃんは、そう言うと無言のままの花穂ちゃんと、僕のベッドの横で泣き崩れている咲耶ちゃんを連れて、病室の外へ出て行った。
雛子はまだ泣いている。よほどショックだったのだろう。僕は……、
「雛子、こっちへおいで……」
そう言った…。
「ぐすっ、ぐすっ、おにいたまぁぁぁぁぁ」
雛子が僕のベットに駆け寄って来た。雛子の顔を見てみる。もう涙で雛子の顔はぐしゃぐしゃだった。
僕は、置いてあったタオルで雛子の、涙に濡れた顔を丁寧に拭きながら優しく言う…。
「雛子、おにいたまは確かに死んじゃうよ…。でもね、雛子…、おにいたまは雛子の心の中で生き続けるんだ。ずっと、ずっと、生き続けるんだよ…。だからね…、雛子、辛い時、悲しい時は、おにいたまを思い出して頑張るんだよ…。ねっ、雛子。これは、おにいたまとのお約束だよ…」
「ぐすっ、ぐすっ……。……。うん…、おにいたま。ヒナ、おにいたまのこと、ぜったいぜったい、忘れないよ…。でも、でも…、ヒナ、やっぱり、お約束守れないよ…。ぜったいぜったいサビシイサビシイ病になっちゃうよ…」
「う〜ん、それは困ったねぇ〜。……。……あっ、そうだ! 雛子がサビシイサビシイ病にならないようにってお約束するために、おにいたまと指切りしようよ……」
「うん…」
「じゃあ。いくよ〜、ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんの〜ます……」
僕は、微笑みながらそう言うと雛子の指に絡め、指切りをする。涙に濡れた妹の目を見ると、悲しかった。でも、ここで心配させてはならない。そう思い、笑顔で僕は言う。
「うん、もう大丈夫だよね? 雛子……」
「……うん。おにいたま…。ヒナ、もう大丈夫だよ……」
「そうか…。よかったよ。ありがとう……。雛子……」
“僕は、いつまでも雛子の心の中にいるんだから…。だから、雛子はサビシイサビシイ病なんかじゃないよ…”
雛子の目には、もう涙はなかった…。雛子はうれしそうに微笑んで僕の顔を見つめていた……。
そうだよ、雛子…、お前は泣いている顔より笑っている顔の方がいいんだ…。だからもう泣かないで…。いつまでも笑顔でいておくれ。ねっ? 雛子……。
僕はそう思った…。
……その3日後、僕は息を引き取った……。5月の心地よい風が木々の間を吹き抜けていった。
私は、今、兄の墓前に来ていた。目を閉じる。兄との思い出が蘇ってくる。あれから20年が経った。
可憐お姉様、花穂お姉様はもう結婚して子供がいる。咲耶お姉様は、兄との思い出があるのか、結婚はしなかった。そして2年前、兄のもとへ逝ってしまった。
兄と同じ病気…、白血病だった…。
私は結婚することが決まった。相手は2歳年上の、兄のような優しい人だ。
昔、兄にしてもらったおまじないは効いていた。私は、もう寂しくない。だって、私の心の中にはいつも兄がいるのだから……。私は、久しぶりに…、
「おにいたま、ヒナ、もうサビシイサビシイ病じゃないよ。だってヒナ、結婚するんだから…」
と、昔、子供の頃に使っていた言葉でそう言った。どこからか、風が吹いてきた。爽やかな初夏の風だった。
どこからか兄の優しい声が聞こえたような気がした…。
「雛子、おめでとう……」
と……。
FIN