わたくしの命の灯火が、もうすぐ消える……。
つい今しがた兄上様と先生の話し声が聞こえて…、わたくしは目の前が真っ暗になった。信じられなかった。もうすぐ退院だよって先生も仰ってくれていたはずなのに…。それなのに…。わたくしの頬に涙が一滴流れて落ちた…。
命の灯火
前編
そう、わたくしは病院にいた。7つの頃からずっといた。わたくしの父上様、母上様はもうこの世にはいない。わたくしが7つの誕生日を迎える数日前、事故で他界している。父上様たちの記憶もお声も今は朧気にしか覚えていない。写真立ての向こう…、幸せだったあの頃の思い出を、ただ見るだけだった。悲しかった…。昔、わたくしがこの病で倒れて間もない時のことだ。
他の人たちには父上様や母上様がいてくれるのに、どうしてわたくしだけ誰も一緒にいてはくれないの? そう兄上様に聞いたことがある。いや、実際には分かっていた。もう、父上様たちはいないって…。でも、心のどこかで生きているかも知れないって思っていたのだろう…。兄上様は困った顔をしておられたっけ…。そう、わたくしには兄上様がいる。とても優しい9つも歳の離れた兄上様が…。わたくしは兄上様が好きだった。時には父上様のように気高く、また時には母上様のようにお優しい、そんな兄上様が…。
「いつか兄上様のお嫁さんになるの…」
昔、まだ幼くて何も分からなかった頃、わたくしはそう言って兄上様を困らせていた。……今は、もうそんなことは出来ないと分かっているけれど……。桜の蕾もようやく膨らんで間もなく咲こうかという頃。突然わたくしは倒れた。もう9年も前のことだ。わたくしが小学校に入学する前の日だった。今でも忘れはしない…。
それからずっとこのお部屋から見える風景がわたくしの唯一の世界となった。今年も遠くの河川敷の桜は咲くだろう…。でも、桜が咲く頃にはわたくしの命は…。そう思いながら、今日も外を眺めている。わたくしの命も後僅か…。
その日は小雪がちらついていた。春とはいえまだまだ寒い日が続いている。わたくしは本を読んでいる。今読んでいる本はわたくしのように体の弱い女の子がある男の子に恋をするというお話を書いている恋愛小説。兄上様に買ってもらったわたくしの一番の宝物。他にも買ってもらったものはいくつかある。でもわたくしにとってはこの本が一番の宝物だ。だってこの本は去年のクリスマスに初めて兄上様とちょっとだけお出掛けして買ってもらった物だもの…。その後で体調を崩して、先生に“鞠絵ちゃん、あまり無理をしちゃいけないよ?”ってちょっと怒られちゃったけど…。うふふっ。でもあの時は今まで生きてきた中で一番嬉しかった。あの時の兄上様の笑顔、兄上様の手の温もり……。思い出すたびにわたくしは兄上様の妹でよかった…。そう思いながら毎日を暮らしている。
“毎日来られなくてごめんね? 鞠絵…”
いつもお見舞いに来られては、すまなそうにわたくしを見つめると兄上様はそんなことを言われていた。お優しい兄上様。わたくしはあなたの妹で本当によかったと思っています。でも…、時々不安になることがあるの…。それは兄上様がどこかに行ってしまわれるんじゃないかって…。“僕は病弱な妹なんていらないよ…”っていつか言われるんじゃないかって…。見捨てられるんじゃないかって…。そう考えると、夜も眠れない時だってあるの。ねえ兄上様、わたくしを見捨てないでくださいますか? わたくしはあなたの妹であり続けたいです。毎回兄上様が来るたびにわたくしの心の中はそのことでいっぱいになるの…。
そう思っているうちに、主治医の先生がやってくる。優しそうな眼差しでわたくしを見つめると……。
「今日も小雪が舞ってるね? 鞠絵ちゃん。だるい感じとかはないかい?……」
「はい…、特にはありませんけど? それが何か?」
今までと質問の感じが違う…。何故なんだろう。いつもならもっと楽しいお話をして下さるのに…。不思議に思った。最近は体も調子がいい。夜、時々胸が痛くて眠れないときもあるけど薬を飲めば抑えられている。なのにどうしてそんなことを聞くのだろう。少し不審に思った…。
「診察しようか? 最近はよく眠れているかい?…」
問診が始まる。20くらいある質問に答えていく。事細かに先生はチェック項目に印を付けていく。最後のチェック項目に印を入れると聴診器を取り出す。心臓の音を聞いたり、あと血圧を測ったりした。すべて異常なしとにいつもどおりの優しい表情で先生は言う。問診、触診、すべて終わりカルテに結果を書き込んだ先生は、これまでにないにこやかな表情でこう言われた。
「……うん、心臓の音もきれいだし、この分だともうすぐ退院かな?……」
って…。夢なのでしょうか…。これは……。いいえ、これは夢なんかじゃありませんわ! …望みと言うものはいつか叶うものなのですね? もう何も心配もなく大好きな兄上様と暮らしてもいいのですね? わたくしの心の中のもやもやは一瞬にして晴れ渡り、まるで澄み切った空のように穏やかな気持ちになった。わたくしは先生に言う。
「ありがとう……、ありがとうございます! 先生!!」
と…。心の底からそう言う。……今にして思えば、空虚なものだ。こんなに早く治るような病ならばもっと昔、そう子供の頃に治っていたはず…。一時の言葉に惑わされ、踊らされていた自分が恥ずかしい…。そう思うとわたくしは窓の外を見た。病床の窓から映る景色は変わらない。だけどそれはわたくしが知らないだけで刻一刻と変化しているんだ。そう、わたくしのこの病と同じように…。明日をも知れない命を背負って今を生きて…、いったいどんな意味があるというのだろうか……。一瞬そんな考えが頭によぎる。
いっそのことと、置いてある鋏を首筋の頚動脈に当てる。冷たい感触がわたくしの首筋に走った。引けば切れる。溢れる血液の海に身も心も横たえられる……。でも、出来なかった。一瞬、あのお優しい兄上様の姿が目に浮かんで…。あの心に響くお声がわたくしの耳に聞こえて…。わたくしは、出来なかった。やっぱり生きていたいと思った。例え後僅かの命でも生きていたいと思った。涙は痩せた頬に流れる。俯くと眼鏡の上に落ち、眼鏡から溢れた涙は手の甲に落ちてしみを作った。
わたくしはやっぱり死ぬことすら出来ない臆病者だと、そう思った…。
僕は今、鞠絵がいるはずだった部屋にいる。僕の妹は心臓に重い爆弾を抱えている。もう治る見込みのない、重い、重い爆弾を抱えている。9つも年が離れているせいか、僕はどのように接したらいいのか分からなかった。そう…、爆弾を抱えているということが分かるまでは…。僕の両親は僕が16歳の時に事故で他界した。ちょうど妹が7歳になる少し前だ。
小学校入学という時だったね? あの頃は…。妹は僕に縋って泣きじゃくって、最後は疲れて眠ってしまったんだっけ…。それから数日後……、妹は重い足枷を付けられ自由には羽ばたくことの出来ない体になってしまった。
あれから9年、妹はもうすぐ16歳。ちょうど僕が妹を守らなければと心に誓った歳と同じ歳になる。でも、もう…。この間主治医の先生から電話がかかってきた。鞠絵のことで何かあったのだろう。そう思って話を聞く。主治医の先生は言い難そうに一言、
「鞠絵さんのことでお話があります。詳しい話は明日病院のほうで…」
こう言った。薄々ながら感づく。妹は、鞠絵はもう…。でも…、とも一瞬思った。最近は顔色もいい。何より鞠絵の笑顔が元気そうに見えた。もしかしたら……。と、希望が生まれる。ともかくも明日だ。そう思った。次の日、会社に休暇願いの電話をかけて僕は病院へと向かう。
病院に行く道すがら書店による。鞠絵が読みたがっていた本があったんだっけ。そう思って僕は1冊の本を手に取った。レジで清算を済まして表へ出る。ふと妹の優しい微笑みが脳裏に浮かんだ。袋に入った本を見てにこっと微笑むと僕はまた歩き出した。病院はちょっとした高台にあり療養施設などもある大きな病院だ。ふぅ、ふぅ、と息を吐きながら緩やかな勾配の坂道を登る。途中でふと後ろを振り返ると、遠くの川べりの桜並木が見えた。今はまだ何もなくて寂しい状態だけど、もっと暖かくなって本格的な春がくれば、あの川べりは薄桃色の綺麗な並木道になるんだろうね…。そう思いながらまた歩を進める。
しばらく歩くと病院が見える。鞠絵は元気だろうか…。寂しがっているんじゃないだろうか。僕が行くと決まって笑顔になる妹のことを考えると自然と笑みがこぼれた。門をくぐって玄関前に着くと、
「あっ、鞠絵ちゃんのお兄さん」
と僕を呼ぶ声が聞こえた。呼ばれた方向に振り返ると鞠絵の担当看護士さんが立っていた。寂しそうな笑みを僕に向けて…。
「いつも鞠絵がお世話になっています…。先生からお話があると聞いてきたんですが…。先生はどちらに?」
「あっ……、はい。じゃあご案内致しますね?」
そう言うと看護師さんは静々と歩いていった。僕もそれに続く。ふと院内を見回してみる。診察を待つ人や薬を貰う人、あるいは退院していく人などが見えた。できることなら鞠絵も早くそうなってほしい。春の日差しを体いっぱいに浴びて微笑みながら…。そう思いながら主治医の先生の部屋の前まで来る。緊張しながら看護師さんの後に続いた。
「先生、鞠絵ちゃんのお兄さんが……」
「んっ? あっ、ああ……」
と言いながら言葉少なげにカルテに目を通していた先生は、僕のほうに向き直った。先生が置いてある椅子を僕に勧める。荷物を置くと椅子に座る。荷物の中にはさっき買ってきた本も忍ばせてあった。先生との話が終わったら鞠絵に会って渡すつもりでいる。鞠絵に会ったら楽しかった会社の慰安旅行の話をしようか…。それとも…。と話す内容を考える。だけど…、そんな僕の考えを打ち破るようにどことなしか暗い表情の先生はこう言った。
「お兄さん、今日あなたを呼び出したのは言うまでもありません。あなたの妹さん、鞠絵さんのことです……」
そう言う先生。顔を覗き込むように僕は先生の顔を伺う。暗い表情がさらに暗くなった。重苦しい雰囲気が流れる。しばらく何も話さず先生は僕の顔を真剣な表情で見つめている。僕も先生を見つめる。何分か経つ。実際には一分少々しか経っていないようだけど、僕にはその時間が長く感じられた。やがて、息を整えるように深呼吸すると先生は語り始める。僕の予想だにしていなかったことを…。
「…と言うわけです。私たちも最善の努力は尽くすつもりです。が…、万が一の場合は、お兄さんも覚悟しておいてください…」
余命一ヶ月。それが妹に与えられた命だった。…拳を握った。強く強く握った。血が出るほど握った。もうすぐ鞠絵がいなくなる? 嘘だろ? そう思った。だけどそんな僕をあざ笑うかのように現実は甘くはなかった。MRIに映し出された映像を見て、現実はそう甘くはないことを思い知らされる。それからは……、何も覚えていない。ただ先生の難しい説明を聞いている自分がいるだけだった。
ふらふらと病院を出る。結局、鞠絵に会うことも出来ず、僕はこっそりと、まるで夜逃げのように病院を出る。人一倍気遣いのいい鞠絵のことだ。今の僕の顔を見ればすぐにばれてしまうことは分かっていた。そう思い僕は後ろ髪を引かれるように、病院を出る。帰り道、家の近くの土手道を帰る。春だって言うのに、川べりを吹く風は異様に冷たい。ふと、渡すはずだった本を鞄から手に取る。
薄桃色の可愛いしおりが真新しい本に挟んであるだけだった。妹はこのことは知らずに…、いつの日か僕と暮らせる日、それだけを信じて今を一生懸命生きているんだ。でも、それはもう出来ない。そう考えるとあまりにも妹が可哀想で…。あの窓の外を寂しそうに見つめる鞠絵があまりにも哀れで…。僕は息が詰まった…。何気なく頬を触ってみる。濡れていた…。
“兄上様、今日はどんなお話をしてくださるのですか?”、“うふふっ、兄上様ったら…”、“わたくしは兄上様のこと…”…。
夜、自分の部屋のベットの上、僕は妹のことを考えていた。妹の命は、もう長くはない。一ヶ月がヤマだろう…。病院での先生の話が思い出される。
「鞠絵には? 鞠絵にはこのことを?」
そう言う僕。もしもこんなことが妹に知られたら…。人一倍ネガティブに考えてしまう妹のことだ。きっと…。と先生のほうを見る。先生は静かに首を横に振った。しばらく沈黙が続く。先生の顔も見れず、ただ下を向いて拳を握った。力いっぱい握った。血が出るほど握った。先生は何も言わず黙っている。ちらと先生の顔を覗きみる。そこには唇を噛んで悔しそうな表情の先生の顔が見えた。…僕にはそれ以上何も言えなかった。先生は医者だ。患者の命を助けるのが医者の務めだ。それなのに…。悔しいんだろうと思った。先生も僕と同じ気持ちなんだと思った。
ふと、渡そうと思っていた本を手に取る。表紙を開くと挿絵があった。男の子と女の子が微笑みあいながら草原の向こうにある湖へと歩いていくという、どこにでもある普通の絵が載っている。15歳。健康だったら恋もおしゃれもしたい年頃だと思う。そんな普通の、当たり前のことですら僕の妹は出来ないんだ。僕の妹は…。そう思うと僕は自分がとてもちっぽけな人間.に思えてきてしまう。
ズダン!! と思いっきり壁を殴った。何故そうしたのか自分でも分からない。それでも壁を殴った。拳が割れて血が出るほど殴った。悔しかった。痛かった。でも妹の、鞠絵の苦しみに比べれば、こんな痛みなんてどうと言うほどのことでもない。僕は鞠絵に何て言葉をかければいいんだろう。死期が刻一刻と迫っている妹に……。明日をも知れない、そんな妹の命に、いや心に、僕はどんな言葉をかけてやればいいんだろう。思えば思うほど考えられなくなる。涙がぽろぽろと僕の頬を伝って落ちる。知らず知らずのうちに泣いていた…。
もうすぐ退院できる。兄上様と暮らせる。それだけを考えてわたくしは胸躍る気分で退院できる日を待っていた。でも、なんだか最近胸が苦しくなることがある。夜、眠れない時もある。もしかして?! とも思うけれど、首を横に振った。この痛みは早く退院して兄上様と一緒に暮らせることの喜びで胸が高鳴っているんだと……。そう思って一日一日を暮らしている。
退院したら何をしようか。わたくしは考える。まず兄上様を優しく起こして朝ごはんの準備をして一緒に朝の光を浴びながら食べるの…。そして仕事に出かける兄上様にお弁当を作って差し上げて、“いってらっしゃいませ…” と笑顔でお見送りをして差し上げるの…。お洗濯やお掃除もしますよ? 晴れたいい日には兄上様のお布団とかも干して、青空の下でお洗濯物のしわをのばしながらにこっと微笑むの…。
あっ、あと、お買い物にも行きますよ? 今日の夕食の献立を考えて、材料を買ってきて、下手だけど一生懸命作って差し上げて、ほかほかの料理を兄上様と一緒に今日一日あったことを話しながら食べるの。雨の日などは駅まで迎えに行きますよ? 少し大きめの傘を持って…。兄上様は背が高いからわたくしの代わりに傘を持って下さって、わたくしは兄上様の鞄を持つの…。
にこっと微笑んで、そんなことを思いながら今日もわたくしは外を見ている。もうすぐ退院できるかもしれない。兄上様と暮らせるかもしれない…。遠くの河川敷にある桜の蕾は大分膨らんでいるのだろう。薄桃色の小さな蕾は遠く離れたわたくしの目にもはっきり映る。目を本に戻す。本のページをめくる音も何だか軽やか…。うふふっ。退院してもいないのに、わたくしってば…。頭をこつんと自分で叩く。…でも、考えるのは退院後のことばかりだった。
本を読み終えて戸棚へ直す。そうして別の本を取ろうとしたとき……、それは起こった。息が出来ないほどの圧迫感がわたくしの胸を襲う。苦しい。息をしようとは思うけれど、胸がきゅうきゅうと締め付けられる。胸を手で押さえて何とかナースコールを押そうとするけれど指に力が入らない。必死の思いでナースコールを押そうとする。指に渾身の力を込めて押した。と同時に、わたくしの意識は遠のいていく。だめ、兄上様と…。そう思いながらわたくしの意識は途絶えた……。
う……ん……、と気がつく。わたくしの口には酸素マスクが掛けられていた。手には、点滴の注射針が刺さっている。心拍計、血圧計もあった。ということはここは集中治療室なの? そう思いあたりを目線で確かめてみる。白い天井、機械のいっぱい揃った部屋。やっぱりここは集中治療室なんですね…。そう思った。でも、どうしてわたくしはこんなところにいるんだろう…。もうすぐ退院かも知れないのに…。と思った。遠くで声が聞こえてる。これは…、先生と兄上様のお声だ。そう思い耳だけをお声のするほうへと向ける。
「一命は何とか取り留めました。だけど…、良くはなっても一時的なものです。あとは彼女の体力がどこまで続くかです。出来れば回復した時に、彼女となるべく一緒にいてあげてください。いつも寂しそうにしていましたからね…。今度大きな発作が出れば彼女はもう……。お兄さん。申し訳ない……。本当に申し訳ない…。人の命を救うのが我々医師の勤めなのに…」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。ウソですよね? わたくしはもうすぐ退院して、兄上様と一緒に暮らせるんですよね? 元気になってるんですよね? もうすぐ退院だって、退院できるって、この前診察に来てくださったとき先生もそう仰ってくれていたはずじゃないですか…。何故そんな訳の分からないウソをつくの? 兄上様、先生に言ってください。“鞠絵はもうすぐ退院するんです!”って……。でも、そんなわたくしの心の声とは裏腹に…、
「そう…、ですか…」
ぽつり、そう呟く兄上様のお声が聞こえて。そして、すすり泣く兄上様のお声が聞こえて…。わたくしは自分の命が残り僅かだと言うことを知らされる。…わたくしの目から涙が一滴流れて落ちた。
後編につづく…