夢を見ていた。夢の中…、俺は一人の女の子と立っていた…。
 整った顔立ち。悲しげな瞳で俺を見つめている…。しばらくして…、その女の子は一言、寂しげに呟いた…。
「祐ちゃん、あたしたち…別れよ?……」
 と……。


別れと、再会と…

〜続・真琴の家族〜

前編


「祐一さん、祐一さん…。朝ですよ。起きてください…」
 秋子さんがいつものように起こしに来る。時計を見た。7時半。いつも通りだった…。
 俺は目を擦りながら起きようとする。ふと、擦った手を見ると涙がついていた…。秋子さんは心配そうに俺の顔を覗きこみながら…、
「祐一さん…、何かあったの? 目が赤いですよ? それに、枕も……」
 秋子さんにそう言われ、目を擦ってみた。濡れていた。枕も見てみる。
 涙で枕がぐっしょり濡れていた。今朝、何かとても悲しい夢を見た…。それがどんな内容だったのか、俺には分からない。ただ、とても悲しい夢だった事は覚えている。
 まるで冬に見た、あの夢のようだった…。
 とりあえず秋子さんに“大丈夫です…”と言うと俺は布団から出た。秋子さんもいつもの顔に戻って……、
「じゃあ、朝ご飯、準備してますから……」
 そう言うと階下へ降りていった。名雪やあゆはもう起きて、一階に降りているんだろう…。賑やかな声が階下から聞こえていた……。


 みんなで学校へ向かう…。何も言わず歩いていると、名雪が俺の顔を心配そうに見つめてこう言った。
「祐一…、元気ないね…。どうしたの?」
「うん。ボクもそう思ったよ。祐一君…。今朝から何かおかしいよ?…」
 あゆも心配そうに俺の顔を覗きこんでいる。俺は、努めて平静を装うとこう言った。
「今朝、ちょっと悲しい夢を見ただけさ……。内容までははっきりとは覚えていないんだけどな……。……。でも、もう大丈夫…。二人とこうして話してると元気になったよ…。ありがとう……」
 そう言ってにっこりと微笑む…。まだ不安なのか、二人は俺の顔をまじまじと見つめていた…。
 しばらく歩くと学校に続く坂道へと出る。俺たちの通う大学は、今まで通っていた高校の近所にある。だから必然的にこの道を通らなければならなかった。
 俺たちは終始無言のまま坂道を登った。先を歩いていた名雪がくるりと俺の方に向き直り向こうを指差してこう言った。
「ねえ、祐一…。あそこにいるの、美汐ちゃんじゃないのかな?」
 指の先を見ると一人寂しそうに立っている俺の彼女、美汐の姿あった。
 そう、美汐は俺の彼女になった。同じ悲しい別れを経験した者、そのことを引き摺って生きていく者として…。同類相憐れむとは言ったものだ。
 俺も美汐もその心に深い傷を背負って、今を生きている…。
 ふと思う。もし真琴が…、あいつが今、この場にいたら何て言うのだろうか…。きっとあいつのことだ。
“祐一に美汐はもったいないわよぅ…”
 って笑いながらそう言うに決まってる…。
 俺はそんなことを考えながら美汐の待つ方へ歩を進めた。普段から人付き合いがあまり良くない美汐は、友達もあまり多くない。俺の知ってる下級生で友達と呼べるやつは栞くらいしかいなかった。
 美汐は俺たちに気付くと、ぺこりとお辞儀をする。
 前みたく、おばさんくさくはなくなった。髪もストレートにして、良家のお嬢様と言う感じだ。
 最近では男からの人気もあるようだ。しかし、彼女はあまり自分を出す方ではないので、男たちも気兼ねしてあまり話したがらないようだった。
 孤独だった彼女の心…。今でも続いているのか?…。俺はそう思った。
「あっ、祐ちゃん…、名雪さんにあゆさんも……」
「あっ、おはよう。美汐ちゃん」
「美汐ちゃん、おはようだよ…」
 あゆと名雪が美汐に挨拶している。寂しそうな瞳で俺を見つめる彼女。そんな彼女に俺は何が出来るのだろうか……。一瞬考えて、俺は言った。
「なあ、美汐…。午後からちょっと俺に付き合ってくれないか?」
「えっ、ええ?…。べ、別に構わねえけど? でも、どうしたんかい? 急に……」
「あっ、ああ……。たまにはデートでもしようと思ってな……」
「はっ? デ、デデデ、デートだべか?」
 美汐は俺の顔を見つめてくる。顔を真っ赤にして…。
 その顔がおかしくて、あまりにおかしくて俺は笑い出してしまった。表情をころころと変える彼女。とてもユーモラスだった。美汐はとたんに不機嫌な顔になった。
 俺の顔を睨むと……、
「祐ちゃん!! またあたしんこと、ちょしたべな? そったらわやなこたぁねえっしょや!! ぶぅ〜!!」
 そう言うと彼女は頬を膨らませる。
 まあ、いつものことだ…。地元の言葉で話す彼女。そう、ここは北海道。地の言葉が出ても不思議じゃない。俺を睨み付けてくる美汐を見て……、
「ご、ごめん、美汐…。まあ、好きな女の子にはいたずらしたくなる、そういう男の性だと思って諦めてくれ…」
 そう言うと素直に謝った。彼女はうんうんと首を振ると…。
「うん…、まあ、しかたねえべな……。昔っから祐ちゃん、こうだったって聞いたべ…。ねえ、名雪さん、あゆさん…」
「そうだよ。祐一君…、いっつもボクにイジワルしてきたんだよ?」
「そうだお〜。祐一、極悪人だお〜」
「何でお前たちまで同調するんだ?…」
 俺はそう言うとあゆと名雪を睨む。女の子同士の友情も分かるが、少しは俺のことも庇ってほしい。そう思った。
「しかたねえべさ…。祐ちゃんが悪いんだから…」
 今までぷぅ〜っと頬を膨らましていたかと思うと、美汐はにっこり微笑んだ…。
 ふと美汐の目を見た。何か儚げに俺を見つめている。儚げなその瞳は、どことなく今朝の夢の少女に似ていた……。
 俺は今、美汐と付き合っている。
 もう一年近くが経とうとしていた。ついでを言うと名前を“天野”から“美汐”と言う風に名前で呼ぶことにした。その方が一般の恋人同士らしいと彼女は言っている。
 今では“美汐”が当たり前になって逆に“天野”と呼ぶのは恥ずかしい気もする。彼女は俺と出会った頃は標準語で話していたが、今では方言で話してくることが多くなった。
 はじめは違和感を覚えたが、今では標準語で話す彼女の方に違和感を覚えるようになった。名雪たちも友達なんかとは方言で話しているらしいが、俺の前ではなぜか標準語を使ってくる。
 何故だ? と名雪に聞いたことがある。名雪は恥ずかしそうに俯きながら…、
「う〜っ、だって、恥ずかしいんだもん……」
 そう言うと顔を真っ赤にしていた。何故だ? ここは北海道なんだから方言が出てもおかしくはないだろ?
 現に美汐は使っているんだぞ? とは思ったがあえて言わないことにした。
「何やってるんだべさ? 祐ちゃん。そったらとこにおったら、祐ちゃん、講義に間に合わなくなるべ?」
「あっ、ああ………。分かったよ……」
 美汐たちはもう前を歩いていた。彼女は立ち止まると俺の方に向き直り、こう言ってくる。
 俺は苦笑いを浮かべると彼女たちの方へ足を向けた。昔はこの土地が嫌いだった俺…。記憶を…、九年前の記憶を雪が積もるかのように忘れた俺…。いや、忘れてしまいたかった俺…。
 それが…、いつの間にかこの土地に愛着を覚えるようになった。ここの人が好きになった。
 それはあいつのおかげなのかもしれないな…。丘の上、眠るように消えていった少女…。沢渡真琴と呼んでいた少女。あいつのおかげだ…。
 …俺も変わったんだろうか? ふと、思った…。
 変わったと言えば美汐も変わった…。それは一概に俺の彼女になったからと言うわけではない。
 彼女も自分から変わりたいと努力して変わったんだ…。微笑む事を覚えた彼女は、とても可愛い。感情のない昔の彼女よりも、今の感情の起伏に富んだ彼女の方が俺は好きだ。
 そう考えていると、校門が見えてくる。二年前まで来ていた制服たちが、ぞろぞろと校門に入っていくのが見える。俺たちは感慨深げにそれを見ていた。美汐も感慨深げに見ていた。
 彼女は俺と同じ大学の一回生になった。元々頭のいい彼女だ。俺たちの大学じゃなくもっといい大学、道大(北海道大学)にでも行けたはずなのに…。
 そのことを美汐に言うと、彼女はぷぅ〜っと頬を膨らまして…、
「祐ちゃん!! あたしんこと嫌いかい? あたしは祐ちゃんのこと大好きなのに…。大好きな人と一緒にいたいってことは女の子は誰でも思うもんなんだべ? そったらもんなのに…、わやな話だべや…。あたしんこと大事じゃなかったんかい? ええっ? ……あたしんこと大事にしてくれんと、ここで泣いちまうべ?…」
 そう涙を溜めて脅迫まがいなことを言ってくる。俺は慌てた。実際美汐に泣かれて困ったことがあったからだ。
「分かった。分かったから…、泣きべそをかくんじゃない!!」
 そう言いながら大学へと向かった。名雪もあゆも何か面白いものでも見ているように笑っている。こいつらは…。家に帰ったらおしおきだな、こりゃ…。
 二人に分からないように、ふふふと俺は不敵に笑った。
 大学の門が見えてくる。美汐とは学部が違うので、ここで別れなければならない。美汐は俺の方に顔を向けて…。
「祐ちゃん…。したら放課後…、いつものところで待ってるべな…」
 そう言うと、昇降口を登っていった。俺は何も言わず、彼女の後姿を目で追うだけだった…。
 美汐を見送るとまた歩き出した。
 あゆとは大学に続く道のところで別れた。あゆは看護士になるため、看護士の専門学校に通っている。九年前の悲しい事故。七年間も眠り続けた自分…。それを温かく見守ってくれた人…。
 そんな人に自分もなりたいと思ったんだろうか…。
 彼女は自分の夢に真っ直ぐに進んでいる。そんな彼女に俺は“頑張れ”とエールを送りたい。そう思った。


 午後の講義も終わり、ふぅ〜っと溜め息を吐く。
 四時に待ち合わせているのでちょっと急がねばならない。名雪たちに「じゃあな」と言うと、俺は美汐との待ち合わせ場所まで行く。名雪は「美汐ちゃんによろしくね…」と微笑みながら言っていた。
 しばらく走っていると、見慣れた服が見えてきた。
 夏の夕日がビルの窓に反射してとても綺麗だった。女の子の前までやってくる。髪は、肩に届くか届かないか…、アクセントに黄緑色の髪留めをしていた。
 そ〜っと顔色を伺う。ぷぅ〜っと頬を膨らませていた。
「遅いべさ……、祐ちゃん…」
 そう言うと彼女はさらにぷぅ〜っと頬を膨らませる。
 どこまで膨らむのだろうか…。試してみたい気になったが怒ると厄介なので素直に謝ることにした。
「悪かったよ、美汐…。お詫びに今日は俺のおごりでいいか?」
「……ううん、やっぱりいいべさ…。あたしもさっき着たばっかりだし…。おあいこだべ…」
 首を二・三回横に振り、そう言うと彼女はにこっと微笑んだ…。
 俺はそんな彼女の顔が愛しくてたまらない…。彼女は俺にしがみつくと、俺の腕に体を寄せる。石鹸のいい匂いがした。
 どこに行こうか…。悩む…。
 喫茶店にでも行こうかと思ったが、せっかく美汐と二人なんだから、もっと別の場所にしよう。そう思った。途中の自販機でハスカップジュースを二本買うと、足をその方向に向ける。
 美汐は疑問に思ったのか俺の顔を見て…、
「ねえ、祐ちゃん…。どこさ行くんかい?」
「ああ…、行ってからの秘密さ…」
 そう言って歩を進めた。
 やがて大通りから一歩路地を入る。そこは今現在俺の家と言うべき、水瀬家に続く道だった。その道から一歩、路地に入る。
 ここまで来ると美汐も分かったようだ…。うふふと微笑んでいる。草の生い茂った道を潜り抜け目的地に着いた。
 そこは…、ものみの丘…。
 そう、俺と美汐の思い出の地…。今、俺たち二人を恋人同士にさせてくれた、真琴と呼んでいた少女が住んでいた地…。丘に吹く風は夏とは思えないほど涼しく、陽は夕方の七時だというのに、まだ赤い残光を残していた…。
「なあ、美汐。綺麗だよなぁ〜。ここで見る夕日は……。夜景も見えて、まさに隠れたスポットじゃないのか? ここって……」
「うん、綺麗だベなぁ……。ありがとう。祐ちゃん……」
 ハスカップジュースを飲みながら、ただ日が沈んだ町の風景を眺めている俺たち。
 寂しそうにそんなことを言って微笑むと美汐は黙り込んだ…。しばらく黙り込む。地の言葉で話す美汐。
 俺が“天野”から“美汐”へと呼び方を変えたように、“相沢さん”から“祐一さん”、そして“祐ちゃん”へ美汐の俺に対する呼び方も変わった。
 呼び方が変われば変わるほど、余計に親近感が沸いてくる。真琴には悪いと思うが、今、俺は美汐のことが好きだ。そう思った……。
 しばらく黙って地平線に沈む夕日を眺めていた美汐は、ふと俺の顔を見て……、
「ねえ、祐ちゃん…。もしも…、もしもあたしがどっか引っ越すって言ったら、祐ちゃん…、驚くかい?」
「えっ?」
 俺は素直に驚いた。いきなりそんなことを言うなんて、一体彼女は何を考えているんだ? そう思い、彼女を見るとぺろっと舌を出して微笑んでいた。
「…冗談だべさ…。ちょっとちょしただけだべ…。朝のお返しだべさ…。うふふっ…。さっ、もう帰るべ…。日も暮れてきたしさ…」
 ふと空を見る。もう星が出ていた。もう一度彼女を横目で見る。何故か寂しそうな顔をして星空を見上げていた。


 あたしは祐ちゃんの彼女になった。嬉しかった…。
 あの子には悪いと思った。でもあたしの気持ちは抑えられなかった。
 初めて祐ちゃんの腕の中で泣いたあの日…。初めて微笑みが出たあの日…。初めて二人だけで出かけたあの日…。
 そして…、あたしのことを、こんなあたしのことを好きだって言ってくれたあの日…。全部覚えてる。
 あたしは道産子だ。この土地で19年生きてきた。だけど一週間後…、あたしは引っ越すことになった。あたしがそのことを知ったのは昨日の夜のことだった。あたしは反対した。あまりに突然だったからだ。
「そ、そったら…。そったらわやな話…。冗談だべ? ねえ、お父さん…。あたしんこと、からかってるんっしょや?」
「いんや……。からかうもなんも…、ほんとの話だべ…。転勤なんだから、しょうがねえべ?……。友達には早く言っておくほうがいいべや……」
 そう言うと、お父さんは黙って晩酌のビールに一口つける。
 業務辞令というものが無造作に机の上に置いてあった。あたしはそれを拾い上げてじっくりと読む。一ヶ月前から転勤の用意をするようにと、辞令にはやたらと長い文章で書いてあった。
 お母さんは黙って給仕をしていた。読み終わったあたしはお父さんを睨みつけながら言う。
「そったら…、そったら大事なこと、なして今まで黙ってるんだべさっ!! あたしに内緒で…、なして今まで黙ってるんだべさっ!! ……そったら…、わやなこたぁねえっしょや…。…お父さん、あたしの気持ち…、考えたことあるんかい? 17年間、心を通わせる人が出来んかったあたしの気持ち、考えたこと、あるんかい? 今さら…、今さらこんな内地の遠いとこに…、知ってる人も誰もおらんとこに行けって?……。そったら…、そったらわやな話…、あるわけねえっしょや!! あたしは行かねえべ…。あたしはここにいたいんだ…。あたしはここで暮らすんだ…」
「しょうがねえべさ…。美汐…。諦めるべ…。また、向こうで新しい友達でも見つけたらいいべさ…」
 あたしとお父さんが話しているのを聞いていたお母さんはそんなことを言う。そんなお母さんの言葉を聞いて、あたしはお母さんを睨んだ。静かに言う。
「諦める?……。……こったらことが…、こったらことが簡単に諦められるわけねえっしょや…。好きな人がいるんだ…。あたしはここにいたいんだ。あたしを助けてくれた人のとこにいたいんだ。あの人の隣にいたいだけなんだべ?…。お願い…。お願いだべさ…、お父さん…。一生のお願いだべさ。下宿でも何でもいいべ…。あたしを祐ちゃんから引き離さねえで? なあ、お父さん…、一生の…、お願いだべさ…」
 そう言うと、あたしはお父さんの顔をじっと見る。
 お父さんの肩を持つとがくがくと体を揺らした。でもお父さんは、びくとも動かない。それはそうだろう…。こんなか弱い女の子の力では、びくともしないのは分かっている。
 でも今のあたしは…、そうするしかなかった。
 何分間、そうしていただろう…。おもむろにお父さんが立ち上がった。思わず掴んでいた手を離す。お父さんがあたしを睨む。あたしも同様に睨んでいた。
 お父さんはしばらくあたしの顔を睨みつけると……、
 バシンッ!!
 突然、大きな音がした。突然のことで何が起こったのか分からなかったが、あたしは倒されていた。頬が痛い…。触ってみる。痛かった。
 横座りになって、ふとテーブルの方を見る。お父さんの大きな手が振り下ろされていた。
「おめえ……。おめえ、誰にここまで大きくさせてもらってると思ってるんだべ!! おらが働いて、母ちゃんがうめえもん作って、おめえに食わしてやって…。ここまで大きくなったんだべや!! そったらもんも分からんでどうすんだべや!!  わがまま言うのもいい加減にすっべ…」
 そう言うとお父さんは、ふうっと溜め息を吐いた。そしてあたしに言う…。
「自分の部屋さ行って、しばらく頭冷やしてくっといいべや…」
 あたしは赤い片頬を押さえながらお父さんを睨んだ。そして、これ以上とない大きな声であたしは言った……。
「お父さんなんか……、お父さんなんか……、大っ嫌いだべ!!」
 と……。悔しかった。お父さんはあたしの味方だと思っていた。
 なのに……。……。叩かれたことは何回かはあるが、あたし自身お父さんに逆らったことはこれから先、一度もなかった。
 だからだろう。あたしがそんな事を言うとお父さんは驚いた顔になって、あたしの顔をまじまじと見ていた。
 鳩が豆鉄砲を食らったように、お父さんはあたしの顔を見ている。あたしの目からぽろぽろと涙が頬を伝い流れて落ちた。ぽたっと雫が床に落ちる。
 飛んで逃げるようにあたしは自分の部屋へと向かった。
 部屋に入るとがちゃっと鍵を閉める。あたしは悔しかった…。悲しかった…。拭いても拭いても涙が溢れてくる。その日あたしは悲しくて…、眠ることが出来なかった。
 一晩中、あたしは泣いていた。
 考えた。一晩中考えた。もし一人暮らしが出来たら、大好きな祐ちゃんと別れなくてすむ…。
 あたしの年では一人暮らしくらいは出来る…。だけど女の子の一人暮らしなんてとても許してもらえそうにない。うちの親は厳格なのだ…。
 いっそのこと、祐ちゃんの居候先である水瀬家にあたしも厄介になろうかとも思った。
 そしたら祐ちゃんとも別れなくてすむんだし…。
 祐ちゃんや秋子さんたちに言えば何とかしてくれることは分かっていた。でも、そこまでしてしまうと、名雪さんや秋子さんたち、それに祐ちゃんにも迷惑をかけさせてしまう…。
 それにあたしはそんなことを言える勇気もない…。
 もう、どうにもならないの? 祐ちゃんと離れ離れにならなくちゃいけないの?
 …そんな考えがあたしの頭の中をぐるぐるぐるぐる回った。でも、何一ついい考えは浮かんでは来なかった。また、あたしの頬を涙が流れていった。
 遠距離恋愛は実らないって…。必ず別れるって…。栞ちゃんが言ってた…。
“確かにそうだべな…”
 あたしも思う。歌にもあった。小説にも書いてあった。あたしは…、あたしは一体どうしたらいいんだろう…。


 美汐と話してから一週間後、美汐と出会うこともなく俺はいた。
 なぜか美汐に避けられているような気がした。美汐とはあの丘での会話以来会っていない。会おうと思って美汐の家まで行くがいつも留守だった。
 どこに行ったんだ? そんな一人で出歩く娘じゃないのに…。
 美汐の母さんに聞いた。だけど…。
「ごめんねぇ。あの子、最近フラぁ〜ってどっか行っちまうんだわ…」
 そう言って寂しそうに微笑んでいた。何か隠しているんだろうか…。そう思わざるには得なかった。
 公園の大きな木の木陰に陽がきらきらと輝いている…。
 そんな中、俺は、彼女の唯一の友達である栞に彼女の事を聞いてみることにした。それぞれの手にはアイスクリーム。食べながら俺は聞いてみた。
 ところが栞も彼女とはゆっくり話していなかったらしく……。
「…美汐ちゃんのこと? う〜ん……。……私は何も聞いていませんけど? あっ、祐一さん…、もしかして…」
 そう言うと栞は、う〜っとでも言いたげに俺を睨んでくる。香里の睨みならまだしも、こんなお子ちゃまな睨みはさほど怖くはない。
 …が、女の子に睨まれる男なんて、まるで痴漢行為をして捕まる寸前の男のようだ。
 俺は栞に尋ねた。
「何で俺を睨むんだ? ええっ?」
「美汐ちゃんにへっぺして、嫌われたんでないかい?」
「俺はそんなことはしていなーい!! というか、何でお前まで方言を使ってくるんだ?…。美汐じゃあるまいし…」
 俺はそんなことを言うと呆れた顔になった。栞はぷぅ〜っと頬を膨らませたかと思うと、ふふふと笑って…。
「ここは北海道ですよ? 祐一さん。方言が出たっておかしくはないじゃないですかー。祐一さん、嫌いです…。うふふっ。それにしても面白いですよね。祐一さんをからかうと…。ふふふっ…。……まあ、美汐ちゃんのことは、私からもおいおい聞いておきますから…」
「……。ああ…。よろしく頼むよ……。さてと、そろそろ帰るかな…」
 文句を言おうと思ったが、また美汐の真似をされては困るので止めにしておく。
 栞が寂しそうに俺を見ているのが気になる。聞こうと思った。だけど聞けなかった。俺を見る栞の目が、なぜか悲しそうで……。俺は、彼女に聞くことが出来なかった。
 栞と別れ、俺は家路に着こうとしていた。いつもの道へ出て来る。
 と、前方のプラダナスの木のところに、寂しそうにもたれかかっている女の子を見つけた。女の子は俺の姿に気付くとこつこつと靴音を響かせながら走ってやってくる…。
「はぁ〜、はぁ〜、しんどいべ…。でもよかったぁ…。祐ちゃんに会えて……」
「み、美汐? どうしたんだ? こんなところで……」
 その女の子…、美汐はそう言うと寂しそうに微笑むとこう言った。
 俺は彼女がなぜ寂しそうなのか、こんな時刻に待っていたのか分からず聞き返す。一瞬目を伏せて後ろに向くと彼女はこう言った。
「ねえ…、祐ちゃん……。ちょっと着いてきて欲しいんだわ…」
 その姿が、あの時の…。初めて俺の胸で泣いた、あの時の姿に似ていて……。俺は「ああ」とだけしか言えなかった。理由を聞こうと思った。
“なぜそんな悲しそうにしているんだ?”
 って…。でも聞けなかった。美汐の悲しそうな姿を見ていると聞こうにも聞けなかった。いや…、聞く勇気がなかったんだ……。

後編へ続く…