別れと、再会と…

〜続・真琴の家族〜

後編


 あたしは、結局お父さん達の言うことを聞いた。
 いや、聞くことにしたんだ…。あたしがお父さんに叩かれてから五日後のことだ。あたしはこの五日間、いっぱい考えた。自分のこと、祐ちゃんのこと。いっぱい…、いっぱい考えた…。
 でも、いい考えは何も浮かんでこなかった。
 出来ることならここで、この町で暮らしたいと思ってる。
 だけど、生活力のない高校生が一人で暮らしていけるはずがない…。祐ちゃんとは離れたくない。あたしの大好きな人と離れ離れになるなんて…。
 でも…、あたしはお父さんたちに着いて行くことにした。ちょうどこの町を出て行く二日前の……。
 そう…、夜の一時ごろ…。そろそろ寝ようかと思い枕元のスタンドに手を伸ばしたところで、ふとお父さんたちの話し声が聞こえてきた。
 何だろうと思いあたしはお父さんとお母さんが話している部屋の前まで来る。
 お母さんは、落ち込んでいるあたしの姿にびっくりしたようだ…。お父さんに…。
「ねえ、あんた。美汐…、水瀬さんのところに預けたらどうかい? 大学も、あの子…、一生懸命頑張って合格したんだべ? なのに今さら大学替えさせるなんて可哀想過ぎるっしょや…。美汐もやっと明るくなってきてたんだべ? 美汐も大学生になったんだべ? そろそろ独り立ちさせてもいいんでないべか? あんただってよく分かってるんしょや? なあ、あんた…。お願いだべさ…」
 そう言ってくれた。お父さんはふぅ〜っとため息を吐くと…、
「おらだって…、おらだって美汐の笑顔は見てえだよ…。あいつの笑った顔を見てえだ…。だども、しょうがねえべや…。今さら、会社に“娘が嫌がってるから転勤しねえ”とは言えねえべや…。そったらこと言っちまうと、いい会社の笑いもんだべ…。美汐の顔、毎日見てえだよ…。あいつはおらんこと、きっと恨んでるだ…。だども、おら、おめえと一緒にいてえんだべ…、美汐と一緒にいてえんだべや…。おら、一人で単身赴任っていうことも考えたべ…。だども、おめえや美汐と離れるなんて、おら、堪えられねえべ…。分かってるだべや…。こったらこと、おらのわがままだってことは…。だども…………」
 そう言って一気にお酒を煽っているんだろうお父さんの声…。
 その声はどことなしか悔しそうだった…。話は続くがいい答えは出てこないみたいだった。あたしの目から、涙が溢れてぽろりと零れ落ちる。
 あたしは…、あたしはお父さんやお母さんにここまで愛されているんだと思った。
 それとは逆に、自分は今まで何てわがままだったんだろう…。何て自分勝手だったんだろう…。そう、思った。
 あたしの行動に対して文句ばっかり言ってるけど、実のところお父さんやお母さんはあたしのことを本当に大切にしてくれているんだ、見ていてくれてるんだと思った。
 ふと、あたしに何が出来るんだろうかと思った。もう…、答えは出ていた。あたしは扉を開ける。
 がちゃ…。きぃ〜っと言う音とともに扉は開いた。
「お父さん、お母さん…」
「み、美汐?……」
 お母さんがびっくりしたような顔であたしを見ていた。あたしは涙声で言う。
「今の話、聞いたべ…。悪かったべさ……。わがまま言って、悪かったべさ…。ごめんなさい……。でも…、でも…あと少し時間が欲しいんだ…。二日…、二日でいいべ…。あたしに時間を…、時間をくれんかい?…。もう、これ以上はわがまま言わねえから…。だから……、だからお願いだべさ…。最後にちゃんとお別れ言って行きたいんだ…」
 お父さんの顔を見る。お父さんは優しい顔でこう言った。
「ああ…、分かったべ…。会社はおらが言っておくから…。……美汐」
 あたしの名前を呼ぶお父さん。お父さんの顔が急に真面目くさくなった。真剣な目であたしを見ている。そしてこう言った。
「後悔…しねえべな? もう会えねえかも知れねえんだべや? それでもいいんだべな? もしおめえが残りたかったら、下宿でもなんでも探してやるべ? 水瀬さんにでも事情を言って頼んでやるべ? それでもいいんだべな? 好きな彼氏とも会えなくなるべ?…。それでも……、それでも後悔しねえべな?」
 一つずつあたしの気持ちを確かめるようにお父さんは押し殺すようにそう言う。
 あたしは“うん”とお父さんの言うことに一つずつ頷いた。祐ちゃんと別れるのはあの子と別れるときと同じくらい、いやそれ以上につらい……。
 でも、あたしは…、あたしはこの町を出て行く…。彼やあの子と暮らしたこの町を……。


 次の日の朝、ちょうど朝のラジオ体操の時間に栞ちゃんに会った。
 あたしは昔からの癖で朝は早く目が覚める。
 最近、ことにこの五日間は、お父さんの手続きの手伝いやら何かで時間に追われ、寝る時間が極端に少ない。体もフラフラだった。でもあたしは起きている。
 習慣とは恐ろしいものだと思った。ラジオ体操の帰り、あたしは栞ちゃんに言った。そう、あたしが引っ越すということを……。栞ちゃんはびっくりしたような顔になって……、
「嘘……、嘘だべ?……。美汐ちゃん…。引っ越すって…」
 あたしはふるふると首を横に振る。栞ちゃんは呟くようにこう言った。
「祐一さんの言ってたことって…、このことだったんだべな?…。このこと…、だったんだべな?…」
 独り言のようにそう言うと彼女の目から涙がぽろぽろと零れ落ちた。あたしは淡々と彼女に話す。栞ちゃんは、あたしの顔をギロリと睨み付けると……。
「そったら、そったら大事な話…、なして今まで黙ってんだべさっ!! あたしたち、友達じゃないんかい? そらぁ、祐一さんが紹介してくれたけど、あたしたち、友達じゃないんかい? 一緒の時間を過ごした、友達じゃないんかいっ!! …あんまりだべ…。なして今まで黙ってんだべさ?……。うっ、うっ、うっ…」
 怒った顔で、悲しい顔で…、栞ちゃんはあたしに縋って泣いた。
 あたしは罪悪感でいっぱいになる。裏切り行為…、そのものだ…。罵声を浴びせられても不思議じゃない。
“もうそんな人は友達なんかじゃねえべさ…”
 そう言われても不思議じゃない…。だけど……、
 ぎゅっ…。
 彼女はあたしの体をしっかりと抱きしめてくれた…。そして、優しい声でこう言う。
「美汐ちゃん…、あたしら、友達だべ? なしてもっと早く言ってくれんかったことは、ちょっと嫌だったべ…。だけどあたしら、友達だべさ…。もう祐一さんも関係ねえ、本当の友達になったんしょや?…。あたし、お姉ちゃんと違って馬鹿だから、友達ってどう作るんか知らねえべ…。でも、美汐ちゃん。美汐ちゃんとは唯一無二の友達だと思ってるんだべさ…。……美汐ちゃん、もし向こうに行って、寂しくなった時、あたしんこと思い出して欲しいんだわ…。アイスクリーム好きな子がおったなぁ〜、だけでもいいべ…。あたしんこと心の隅にでも覚えておいて欲しいんだわ……」
「栞ちゃん……。栞ちゃんのこと、忘れられるわけねえっしょや!! あたしの大切な友達…、忘れられるわけ…ねえっしょや…。向こうに行っても、手紙書くから…。絶対書くから!!…。栞ちゃん…、ごめんね……。本当に、ごめんね……」
 あたしは嬉しかった。出会ってから一年足らずだったけど、栞ちゃんがあたしのことを本当の友達だと思ってくれてたことが…。
 すがすがしい朝日に照らされる町の片隅…。あたしは親友に別れを告げる。そう…、もう会うことはないだろう別れを…。
 家に帰ると今まで我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出してくる。
「なして…。なして、こんな悲しい別ればっかり…」
 そう独り言のように呟くと、そのままベットに倒れこむ。シーツはあたしの涙でぐしょぐしょに濡れてしまった。
 その日、あたしは思いっきり泣いた。
 泣き疲れて、その日は昼も夜もご飯は食べられなかった。あの子と別れたあの日のように、いや、それ以上に…。気が付くと今日と言う日が昨日と言う日に変わっていた…。


 次の日。いよいよあたしがこの町を出て行く日が来た。祐ちゃんにはこのことは言っていない。言えばあの人のことだ。絶対止めに来ることは分かっている。
 朝、荷造りをしていると、祐ちゃんと撮った写真が出てきた。去年の5月、あたしたちが初めて二人だけでデートした時のものだ。
 あの時、祐ちゃんってば二時間も遅刻したんだっけ…。
 一年半という短い期間だったけど、それでも祐ちゃんとの思い出はこんなにも出て来る。
「目にごみでも溜まったんかなぁ〜? えへへっ…。……ぐすっ……」
 そう独り言を言って、大事な思い出達を鞄の中へ詰め込んでいく。
 途中、手のひらで何度も何度も目頭を押えながら…。やっとの思いで詰め込んだ時にはもう昼を過ぎていた…。軽めの昼食を取り、あたしは出掛ける。
“ここを出るんは7時くらいにするべ…”
 お父さんが言ってくれた。多分あたしのことを考えてくれたんだ。あたしはそう思った。
 あたしは家を出る…。
 最後に、祐ちゃんに“サヨナラ”を言うために…。そのまま、会わずに行こうとも考えた。だけどそれは祐ちゃんを…、あたしの大好きな人を裏切るような感じがして…。
 あたしはそれがつらかった。だから最後、あの人に“サヨナラ”を言おう…。あたしの大好きなあの人に…。
 そう、思った…。
 いつもの待ち合わせ場所に行くと彼を待つ…。
 いつも待っているので、待っている間、いろいろなことが心に浮かんでくる。
 あの子と出会った日。あの子と遊んだ日…。あの子と別れたあの日…。涙が枯れるくらいまで泣いた日…。
 あの子が再び祐ちゃんのところに来ていることを聞かされた日。あの子が祐ちゃんに抱かれて消えた日…。
 祐ちゃんの胸で泣いたあの日…。そして、あの子を失ったときに消えてしまった感情を再び取り戻せた日…。
 思えばあの日から…、祐ちゃんの胸で泣いたあの日から、あたしは祐ちゃんのことが好きになったんだ……。こんなにも好きになったんだべ…。
 ……でも、それも今日で終わり…。もう、あたしの残された時間は後僅か……。
「もう……、終わりにするんだ…。しっかり気を持つんだべ…。美汐……」
 そう自分に言い聞かせると、辺りを見る。
 彼がこちらへ歩いてくる。姿が見えると途端に、あたしは祐ちゃんの元へ走り出していた。
 何故走り出したのか分からない……。でもあたしは走り出していた。祐ちゃんの元へ辿り着く。あたしは胸を押えながら言う…。
「はぁ〜、はぁ〜、しんどいべ…。でもよかったぁ…。祐ちゃんに会えて……」
「み、美汐? どうしたんだ? こんなところで……」
 彼は驚いたように言う。しばらく息を整えたあたしは黙っていた。
 何分くらい経ったんだろう。正確には一分も満たない時間だったけどあたしには長い時間のように感じられた。
言おう。そう決意するが祐ちゃんの目は見れずに、あたしは体を背けたまま、こう言った……。
「ねえ…、祐ちゃん……。ちょっと着いてきて欲しいんだわ…」
 と……。彼はどんな顔をしていたんだろうか……。でも、あたしはその顔を見ることは出来ない。もし見てしまうと、あたしは…、あたしの心は…。
 最後に、この町を出る最後に、あの子や祐ちゃんと過ごした町の風景を目に焼き付けておきたかった。
 そう思い、あたしたちは丘に続く道へと向かった。


 俺は何も話さずに彼女の後に続いた。
 美汐は何も言わず背を向けたまま、前を歩いている。それは、まるで…。
 美汐に続いて歩くと、いつもの丘へ続く道に来ていた…。無言のまま歩く…。風が舞った。と、俺の顔に水滴がつくのが分かる。雨が降っている訳でもないのに…。
 不思議に思った。前を歩く美汐を見てみる。顔を上げない。肩が震えていた。何故だと思った。泣いているのか? 不審に思った。
 と脳裏に夢の光景が思い出される。もしかして、あの夢は?……。
 丘の頂上に出る。町が見下ろせた。美汐は俺に背を向けたまま何も言わず黙っている。俺は、言う……。
「なあ、美汐……。話があるんだろ?……」
「……」
 美汐は、黙っている。背は向けたままだ………。
 ふと、美汐がぽつりと言う。まるで夢に見たあの台詞と同じように、寂しそうに呟く少女がいた…。
「…祐ちゃん、あたしたち…別れよ?……」
 と……。
「なっ、なっ、なっ…、何だって?」
 俺は驚いた。まさか…、まさかあの夢が正夢だったなんて…。そう思った。
 …まるで、あの夢のままだ…。ただ唯一違っているところ。それは彼女がこちらを向いていないということだけ…。美汐は俺に顔を向けてくれない…。どれくらい時間が経ったのだろうか…。
 彼女は背を向けたまま…、顔を見せてくれない。俺は静かに言う。
「……美汐…。こっちに顔を向けてくれ……。顔を…見せてくれないか…」
「……やだべさ……。こったら顔…、はんかくさいべ……。それに……、こったら顔より祐ちゃんにはあたしの笑った顔を思い出してほしいんだ…。それに…、祐ちゃんに、あたしの大好きな祐ちゃんに、泣き顔なんて見せられるわけねえっしょや……。見せられるわけ…、ねえっしょや……」
 何故か、美汐の背中がとても小さく見えた。肩を震わせている。また俺は言う。
「美汐……。お願いだ……。泣き顔でも何でもいい……。俺にお前の顔を見せてくれ……」
「嫌だべ…」
 ふるふると首を横に振る美汐。少し強引だとは思ったが俺は彼女を振り向かせる。
 最初は抵抗した彼女だったが、女の子の力では、やはり一端の男には通用するはずもなく、俺の方へと体は向けられた。
 俯く彼女。下げた顔は何かを必死で我慢しているような、何かを堪えているようなそんな感じがした…。彼女は言った。
「祐ちゃん…、あたし、今日…、引っ越すんだ…。祐ちゃん…。今まで黙ってて、ごめんね……」
「……」
 俺は言おうと思った。
“嘘だろ?”
 と、言おうと思った。だけど美汐の悲しそうな瞳を見ているとどうしてもその一言が言えなかった…。
「あたし、今日引っ越すんだ…。栞ちゃんたちには二日前にもう言ったべ……。せっかくお友達になれたのにって言いながら栞ちゃん…、泣いてた。けど、けどしょうがねえべさ!! あたしだって、あたしだって本当は行きたくなんかねえべさ……。祐ちゃんのそばにいたいべさ。あの子と暮らした町にいたいべさ…。けど、しょうがねえんだべ…。あたしを産んでくれたお母さん、あたしを育ててくれたお父さん。その二人に心配かけさせられるわけ…、ねえっしょや?…。もう、決まったことなんだべ……。本土の遠いとこだべさ……。あたしの行くところ…。でも、どこさかわかんねえ…。一度聞いたけど忘れたべ……。あたし……、馬鹿だから……」
 美汐はそう言うと、顔を上げた。顔を見た。痛いくらいの悲しい微笑み…。
 頬には涙の線が幾筋も付いていた。彼女は泣きながら微笑んでいた。その笑顔が痛くて…、俺は、ただ彼女の…、彼女の痛々しい微笑みを見ていることしか出来なかった。
 嘘だろ?…。そう思わざるを得なかった。俺は…、
「そ…、そんな…。そんな…。嘘だろ? なあ、美汐!! 嘘だと…、嘘だと言ってくれっ!!」
 そう言った。いや、言わざるを得なかったんだ。
 信じられなくて…。彼女が、俺の前からいなくなることが信じられなくて…。そう思うと、俺は彼女の肩を持つと体を揺すっていた。
 華奢な美汐の体が、まるで操り人形のように上下左右に揺れている。
 それでも彼女は何も喋らない…。唇をぐっと噛み締めて彼女は黙り込む…。上目遣いで俺を見つめてくる。
 風が吹けば、飛んでいってしまいそうな彼女の体。俺の知らないところへ飛んでいってしまいそうな彼女の体…。俺はそんな彼女の体を力いっぱい抱きしめる。
 美汐は悲しげに俺の顔を見つめると……、
「嘘じゃ…、ねえんだべさ…。祐ちゃん…」
 そう言った。俺は目の前が真っ暗になった。
 彼女の体を抱きしめていた手がだらりと下に落ちる。ふわっと美汐の体が俺から離れた。俺から離れると、彼女は2・3歩前へ進み、また話し出す……。
「嘘じゃないんだわ……。祐ちゃん……。今まで隠してて悪かったべ…。でも、祐ちゃん、このこと知ったら絶対止めに来るって分かってたから…。だから今まで内緒にしてたんだべ…。栞ちゃんは祐ちゃんに話そうって、そう言ってたべ…。けど、祐ちゃん、あたしんこと止めに来るって分かってるから、あたしが栞ちゃんに口止めしたんだべさ…。……祐ちゃん、ごめんね……」
 栞がなぜ悲しそうな顔をしていたのかが分かった。俺は、何も言えない。彼女はまた話し出す。
「祐ちゃん、本当はあたしだって嫌なんだ…。祐ちゃんと…、ここにいたいんだべ…。けど、あたしはお父さんたちと離れて暮らすことなんて出来ねえんだべさ…。今まで育ててくれたお父さんたちに迷惑かけさしたくねえんだべ…。したっけ、あたしがここに残ったらお父さんたち、絶対心配するべ?…。祐ちゃんたちにも迷惑かけさしちまうべさ?…。だからあたしは、あたしはここを出て行くことに決めたんだべさ……。だから、祐ちゃん…、あたしんことは…」
「今さら…、今さら忘れてくれって言うんじゃないだろう? 美汐…。俺は、俺はお前のことが好きだ……。どんな、どんなことがあったって、俺は美汐を愛している。気持ちは変わらないよ…。だからお前が帰ってくるまで、俺、待ってるから…」
 俺はそう言うと目を閉じた。目頭が熱くなってくるのが分かる。でも我慢した。
 俺は男だ。こんなところで泣くわけにはいかない。そう思った。美汐はこちらに振り向く。美汐の瞳から涙が溢れて、彼女の頬を流れていく。今まで、美汐の顔をたくさん見てきた。
 笑った顔、怒った顔、泣いた顔…。でも、こんなに悲しそうな顔はあの時…、そう、真琴との別れのときに見せた、あの時の顔以来だった。
「帰って来るか来んかも分からんって言うのに…。もう帰って来んかも知れんのに…。それでも…、それでも祐ちゃん、待つんかい? あたしんこと、待ってるって言うんかい? そったら、そったらわやなこと、あるわけねえっしょや!! ……祐ちゃん、ほんとに馬鹿だべ……。馬鹿だべや……」
 美汐は両手で顔を覆った。肩がぷるぷると震えていた。俺は優しく彼女の肩に自分の手を掛ける。
「ああ……、俺は馬鹿だからな……。お前の言ってることが分からないんだ……。だから俺、何年でも、何十年でも待ってる…。お前のこと、待ってるから……」
 俺はそう言う。心の中からそう言う。それが俺の嘘偽りない心の中の言葉、そして、真実だったから…。
「うっ、うっ、うわぁぁぁぁぁぁ〜〜〜ん」
 突然、彼女が俺の体に抱きついてきた。俺はしっかりとその小さな体を受け止める。
 彼女は俺に縋って大声で泣いた。この丘に、いや…、この町に聞こえるかのように…。ある意味、それは彼女の本当の心であり……。また彼女の…、激情でもあったのかもしれない……。
 俺はただ、優しく彼女を抱きとめて、頭を撫でてやった。


「ああ……、俺は馬鹿だからな……。お前の言ってることが分からないんだ……。だから俺、何年でも、何十年でも待ってる…。お前のこと、待ってるから……」
 彼はそんなことを言う。馬鹿だべさ…。本当に馬鹿だべさ…。
 そう思った。……でも、嬉しかった。彼の本当の心を聞けたような気がした。悲しさと嬉しさが入り混じり…、あたしは泣いた……。
 日は暮れていく…。あたしが落ち着いた頃には、ちょうど日が山に沈んだ、そういう時間だった。
 もう七時を過ぎているだろうか…。お父さんたちは心配しているかもしれない。そう思い歩を進めた。
 空を見た。澄んだ北の空はもう赤い残光も消え始め天の川が綺麗にかかり始めていた…。
 ゆっくりゆっくり、祐ちゃんやあの子と暮らしたこの町の感触を確かめるように、元来た道を降りていく。ちょうどあの子を拾ったところへ来る。
 すると…、子狐が二匹、遊んでいる姿が見えた。お母さんがやってきて、一緒に巣穴へと帰っていく。あたしは…、
「バイバイ…」
 心の中でそう言った。奇跡を一つ貰った。そして、つらい別れを経験した…。あの子たちは今、幸せに暮らしているのだろうか…。そう思った……。


 家に着くと、お父さんたちが待っていた。栞ちゃんや香里さん、秋子さんや名雪さんやあゆさんたちも来ていた。多分栞ちゃんがみんなに言ったんだろう。祐ちゃんもびっくりしていた。
「急なことで……、美汐ちゃん一人くらいなら、うちでお預かりしてもよかったんですよ?」
 遠くで秋子さんがそう言っているのが聞こえた…。
 お父さんたちは丁寧にその申し出を断っていた。あたしはほっと息をつく。秋子さんは、残念そうな顔をしていた。あたしたちが来ると、お父さんがあたしの手を掴んでこちらに引き寄せる。
 祐ちゃんは秋子さんたちのところへ行った。お父さんが言う。
「今日は私ら家族のために、どうもありがとうございました。もうお会いすることはないと思います。でも、この北海道で生きてきたことを誇りに思って、道産子に生まれてきたことを誇りに思って、内地へ行っても頑張っていこうと思っています…。今日は私らなんかのお見送りに来て頂き、本当にありがとうございました…」
 お父さんはそう言って、深深と頭を下げた。それに続いてお母さんも頭を下げる。あたしも下げた。
「まだだべかー。船に間に合わなくなるべや〜」
 引越し屋の人が急かすように言った。あたしたちは引越しの車へと乗り込む。
 いよいよ車は動き出す。祐ちゃんが、栞ちゃんが、走ってくるのが分かった。車はスピードを上げていく。あたしは身を乗り出して手を振る。手が千切れそうになるまで手を振る。
 涙が風と共に祐ちゃんたちの方へ、あの町の方へ飛んでいった…。
そして…、祐ちゃんも栞ちゃんも見えなくなった。あの丘も見えなくなった…。町も見えなくなった…。お母さんがあたしの顔を見て……、
「ほんとに、これでよかったんだべか? 美汐……」
「……うん……。これで…、これで良かったんだべ…。最後にさよならも言えたべ…。祐ちゃんにも…、栞ちゃんにも…、そしてあの子にも……。だからもう、思い残すことなんて、…なんも……ねえ……べ……や……。…うっ、うっ、うわぁぁぁぁぁぁ〜〜〜ん!!!」
 あたしはまた泣いてしまった。丘で泣いた時より、ずっと悲しかった。車は町を離れていく。
 あたしはお母さんの膝に縋って泣いた。泣きじゃくった。あたしはこの北海道と言う土地が好きなんだと改めて気付かされる。お母さんはゆっくりとあたしの頭を優しく撫でてくれた。
 その日…、あたしは住み慣れた地、北海道を離れた…。
 もう二度と、帰って来ることはないだろう北海道の地を…。あたしの生まれ育った地を…。あたしはいつまでも…、いつまでも見つめていた…。

エピローグへ続く…