私は、泣いていた。
暗い病室のベットの上、一人泣いていた。もう、この病室を出ることはないだろう…。そう、この病室を出られる時、それは、私が天に召される時だ…。だけど、だけど…、私は別れたくない…。お姉ちゃんや、お友達。それに、あの人とも…。私は……、泣いていた……。
奇跡の価値
「祐一さん、遅いなぁ…」
昼休み、私はあの人を待っていた。冬、雪降る町の寒い空、私を絶望の淵から救い出してくれたあの人を。そして、私に奇跡を与えてくれたあの人を…。
あの人にこんなことを言うと……、
“それは栞、お前自身が奇跡を起こしたんだ。俺は何もしてないよ…”
って言って笑うけど、私は、あの人に…、相沢祐一さんに助けてもらったんだと思う。
季節は5月、若葉が青々と茂り、木陰からちらちらと日の光が洩れていた。そんな中、私はあの人を待っている。暖かい校庭の芝生の上には何人ものカップルが昼のひと時を過ごしていた。
「栞〜、待ったかぁ〜?」
祐一さんが駆けてくる。私はぷぅ〜と頬を膨らませて、怒ったような表情を見せる。内心は怒っていない。ちょっと祐一さんにいたずらしてみたくなっただけ。案の定、祐一さんは困った顔をしていた。
「ごめん、栞。なかなか授業が終わらなくってさ…」
さらに私は、ぷぅ〜と頬を膨らませる。少しでも、祐一さんにかまって欲しかったから…。
「栞〜。お願いだから機嫌直してくれ〜。何でも言うこと聞くからさ〜」
「ほんと…、ですか?」
私は、ちょっと上目遣いに祐一さんの顔を見る。困ってる、困ってる。私は…、
「じゃあ、今日の放課後、私とデートしてください。私を待たせた罰なんですからね!」
そう言った。祐一さんはほっとした表情で…、
「あ〜、よかったよ。栞は怒ると怖いからな。ハハハ」
「あ〜! それどういう意味ですか? そんなこと言う人嫌いです…。もう、お弁当あげません!」
「え〜っ? 栞〜、許してくれ〜。たっ、頼む!」
「うふふふ、うふふふふふふふ」
私は今まで頬を膨らませていたのに、祐一さんの真剣に謝っている表情を見てると、何だか急に可笑しくなって、笑い出してしまった。
「別に怒ってませんよ。ただ祐一さんにいたずらしてみたくなっただけですから…」
「何〜? 俺を弄んだのか? 栞! お兄ちゃんは、お前をそんな風に育てた覚えはないぞっ!!」
「やっぱり、そんなこと言う人嫌いです…。もう、明日からお弁当作ってきてあげませんよ〜だ! ぷんぷん」
「悪かった。許してくれ、栞、この通りだっ」
「もう…、時間がいくらあっても足りませんね。そろそろお弁当にしませんか? 祐一さん。うふふ」
「そうだな…。あはは」
そうして、私は、お弁当を用意する。祐一さんのお弁当箱は、私より一回り大きくて詰めるのに一苦労だ。でも、好きな人のために材料を選んで、好きな人のためにお料理して、好きな人のためにお弁当箱に詰めて、好きな人に食べてもらう。これほど幸福なことはない。
おいしそうに食べてくれる好きな人を見ながら、私はささやかな幸せを感じていた。
「ごちそうさま…。ふぅ〜、食った食った。栞、お前だんだんと料理の腕上がってきたな」
「だって、お姉ちゃんにいろいろ教えてもらってるし、それに…、好きな人にはやっぱりおいしいものを食べてもらいたいですから…」
「栞……」
「さ、さあ、食後のデザートもあるんですよ。たくさん食べてくださいね」
「え〜っ? まだあるのか? もう食えん!!」
「ぐすっ。せっかく祐一さんのために一生懸命作ったのに…。ひどいです。それだったら、明日からお弁当……」
「わ〜っ!! 食う。食うからそれ以上は言わないでくれ〜」
私はそうやって泣きまねをする。きまって祐一さんは慌てふためきながらデザートの入っているタッパを開ける。今日は、りんご、キゥイ、バナナ、それとさくらんぼの入ったデザートボックスだ。
りんごのウサギさんも今はうまく出来るようになった。祐一さんは私にも勧めながら、デザートを食べていた。
祐一さんにりんごを一切れもらって食べる…。おいしい。やっぱり好きな人と一緒に共有できる時間があるってこと、私は、今一番幸せなんだと思う。
放課後、私は急いでいた。時間は4時10分。ホームルームが長引いてしまい、約束の時間に遅れてしまった。廊下を歩く靴音が響く。玄関先ではあの人がぼ〜っと空を眺めて壁にもたれていた。
「祐一さ〜ん、ごめんなさ〜い。待ちました〜? ふぅ、ふぅ……」
「いや、急がなくてもいいぞ〜。俺も今来たところだ〜」
そうして、私と祐一さんは、商店街へ行く。いつもの学校帰りのデートだ。桜の若葉が夕陽に照らされて、とてもロマンチックな気分にさせてくれる。手を繋ぎたいな…。私は、少し赤くなって祐一さんに聞いた。
「祐一さん、あ、あの…、手…、繋いでもいいですか?」
「あ? ああ、いいぞ。ほら…」
祐一さんは、そう言って私の手をとって歩き出した。いつものゲームセンターで、UFOキャッチャーに挑戦して、その後、百花屋に寄った。
「栞、何がいい? またジャンボミックスパフェデラックスか?」
「いいえ、今日は普通のアイスクリームにします」
「何で?」
「何故って、最近ちょっと…」
そう言って私は上目遣いに、祐一さんの顔を見る。祐一さんは私の言ってる言葉の意味がわかったのか、笑い出していた。
「そうかぁ〜。栞も女の子だもんな〜。気になって当然かぁ〜。うぷぷ」
「祐一さん、失礼です…。私、これでも一応女の子なんですよ〜? 気になって当然じゃないですかぁ〜。それを、うぷぷ、だなんて…。酷いです、祐一さん…。大嫌いですっ! こっ、こほん、こほん」
「わっ、わっ、拗ねるな、栞。冗談、冗談だって! って、栞、大丈夫か? 何だか顔色悪いぞ? 最近…」
「だ、大丈夫です…。そんなことより…、冗談でも、言っていい事と悪い事があります! 女の子に向かって〜。ぷぅ〜」
私はそう言って膨れてみせた。怒ってはいない。ただ、かまって欲しかった。今まで、私を普通の女の子としてみてくれたのは祐一さんだけだった。病院でも、私は一人きりで…。ときどきお姉ちゃんが来てお話をするだけ…。お姉ちゃんが帰ってしまった後の孤独感。
何度、涙を流したか分からない。でも…、でも今は…。今は…私の一番好きな人と、こうやってお話が出来る…。この幸せ…、もう少し長く続くといいな……。私はハンカチで口元を抑えながら、そう…、思っていた……。
「ただいま〜」
「お帰り〜、栞。今日も相沢君と一緒だったの?」
「うん。あっ、お姉ちゃん聞いて聞いて〜。祐一さんったら酷いんだよ〜!!」
私は、今日あったことをお姉ちゃんに話す。少し前までは考えられなかったことだ…。このときが私は一番嬉しい。
私の両親は仕事が忙しく、帰ってくるのはいつも夜中だ。だから夕飯はお姉ちゃんがいつも作ってくれている。今日の夕飯のメニューは、シチューだった。
「それでなんて言ったの? 相沢君は」
お姉ちゃんとの食事。私は、今日あったこと、そして祐一さんのことを話している。お姉ちゃんが優しい目で私を見つめて、微笑んでいた。
「私が普通のアイスクリーム頼んだら、祐一さん、「栞も女の子だもんな〜。気になって当然かぁ〜。うぷぷ」って言って笑うんだよ〜。どう思う? お姉ちゃん。ひどいよねっ」
「そりゃ〜、相沢君が悪いわね…。でも、この間までジャンボミックスパフェデラックス食べてたあんたも悪い。って、あんた、顔色悪いわよ。大丈夫?」
「う、うん。私は大丈夫……、こほっ、こほっ」
「…今日は、もう寝なさいな。明日また勉強…見てあげるから…」
私はこの時、胸の病気が再発していた…。この病気とは幼い頃からの付き合いだ…。完治はしたけどまた別の要因で発病したのかもしれない…。それに、徐々に私の体を蝕んでいることは分かってる…。何回か血を吐いたこともあった。
でも、私は誰にも秘密にしていた。だって、私のためにお父さんやお母さんやお姉ちゃん…、それに祐一さんにも、あんな思い…、もう…させたくなかった…。
「う〜っ、でも、試験も近いし…。出来るところまでやるよ…」
お姉ちゃんはやれやれと言った表情で、私を見ていた…。私が、言い出したら聞かないという性分だということを見透かしていたんだろう……。
「は〜っ、言っても聞かなそうね、その顔は…。でも無理するんじゃないわよ。あとであたしも行くから」
「うん、ありがとう、お姉ちゃん。それじゃ私、勉強するね〜」
私は、2階に上がった。自分の部屋に電気をつけて、テスト勉強をはじめる。私は、もう一回高校一年生だ。でも、それだって悪いことじゃない。
だって…、だってまたお姉ちゃんとこうして学校に行ける事が出来るんだから…。今まで叶えたくても叶えられなかった夢が…、こうして叶ったんだから…。
しばらくして、お姉ちゃんが上がってきた。
「どう? 勉強はかどってる? あっ、その顔ははかどってないときの顔ね? もう、しょうがないわね…。どれ、貸してみなさい。って、あんた、こんな簡単な問題も解けないの? は〜あ、先が思いやられるわ…」
「う〜っ、だって難しいんだもん」
「は〜ぁ、しょうがないわね。じゃあ、これをこうして……」
……。
「ふう、大体こんなところね。栞…、栞? もう、しょうがないわね」
見ると、栞は寝息を立てて眠っていた。可愛い寝顔を見ていると、こっちまで心が穏やかになってくる。あたしは微笑みながら、毛布を栞の肩にかけてやった。
……。
あの時、栞に宣告した日、あの子の命がもう僅かしか残っていないことを告げた日…。
あの時、あたしは…。あたしには、もう妹なんかいないって思った…。相沢君に初めて栞のことを聞かれたときだって、あたしは自分に嘘をついて…。何度心の中で栞に謝ったか分からない。
相沢君に妹の事をはじめて言った時、相沢君は、栞のことも、病気のことも、あの子が長く生きられないって言うことも、すべて受け入れるって言ってくれたんだ。
それからかな? 妹…、栞のことを、病気のことも含めて受け入れられるようになったのは…。そして、奇跡が起きた…。
……でも……。でも、最近…、栞の顔色が悪い。あたしは、不意に不安にかられた。栞の病気が再発したんじゃないか、と…。いや、違う…。確かに医者は完治したって言ってたんだ…。
気が付くと、もう真夜中だった。お父さんたちはもう帰ってきたんだろう。一階で話し声が聞こえている。あたしは静かにドアを閉めて栞の部屋を出た。暗い廊下を歩く。向こうの窓の方から、月明かりが洩れていた。
あたしは、自分の部屋に入ろうとした。カタン…、遠くの方で物音がした。栞の部屋からだ…。また栞が起きて何かやっているんだろう。その時あたしは気にも止めなかった…。あたしはいつもどおり床についた。
その夜、あたしは夢を見た……。みんなが泣いていた。お父さんも、お母さんも、相沢君も、そして…、あたしも……。栞はベッドの上で眠っている。何もない病室。あたしは何か言っている。でも…、栞は眠っていた…。
毎日お姉ちゃんと学校に行けることを私は喜んでいた。今まで、どんなに願っても叶えられる事はないだろうって思ってた。だけど…、だけどこんなに嬉しいことはない。今、私は一番幸せなんだと思った。お姉ちゃんが勉強を教えてくれるおかげで、私の学力は上がっていた。
私は学力なんかよりも…、それよりも…、お姉ちゃんと一緒にいられることが嬉しかった。
「栞、朝よ」
6月のいつもの朝の風景だった…。お姉ちゃんが私の部屋をノックしている。いつものように部屋の扉を開けて挨拶をして、お姉ちゃんに叱られる…。私が謝って、お姉ちゃんが笑顔で…。だけど今日は、出来なかった。だって、私は…、
「栞、そろそろ起きないと遅刻よ…」
お姉ちゃんが、ドアを開けようとした。
「お姉ちゃん! ダメッ! 入ってこないでっ!! ごふっ、ごふっ…」
私は、咄嗟に鍵を掛けた。私の口から大量の血が吐き出されていた。こんなに大量の血を吐いたのは初めてだった…。私のこんな姿、こんな惨めな姿…、お姉ちゃんには…見せたくなかった……。
「栞?! あんた、まさか?! 開けなさい! 開けなさい、栞!!」
ドンドンドン! ドンドンドン!!
お姉ちゃんが私の部屋を叩いている。私は、まだ咳をしている。真っ赤な血が咳とともに出た。見ると一面、鮮血が青い絨毯を真っ赤に染めていた。
「うそ…、うそだよ……。……うそだよ!! ごふっ、ごふっ」
私は、そう呟きながら、気を失った……。涙をいっぱいためて…。
「香里!! 栞は? 栞は大丈夫なのか?」
病院の待合室であたしは栞を待っていた。相沢君と名雪が病院に駆けつけてくれた。北川君は後で来ると言うことだ。お父さんたちは、すぐ駆けつけるということだった。
「分からないわ…。でもあの子、血を…、血をいっぱい吐いて…。救急車で病院に運ばれて来るとき、とても苦しそうだった…。まるで、昔の栞を見てるようだった……」
「そうか…」
「……香里…、栞ちゃんはきっと大丈夫だよ…。だって、香里の大切な妹なんでしょ? だから、ねっ?」
名雪はそう言って、優しく微笑んでくれた。それが不安になったあたしにどれほど安らぎを与えてくれたことか…。よく栞は、「お姉ちゃんはほんとにいいお友達を持ってるんだね…」と言って、微笑んでいた。本当にそうだ。あたしは胸の奥が熱くなるのを感じていた。
やがて…、医者が栞の精密検査を終えて出てきた。そして…、
「ご両親はいませんか?」
とあたしたちの方を見て言った。と、相沢君が、
「栞の両親はもうすぐ駆けつけると思います。それより、先生。栞は…、栞は大丈夫なんですか?」
あたしの代わりにそう言ってくれた。医者は、あたしたちの顔を悲しそうに見た。そして…、
「それでは、親族の方は?」
「はい。あたしです…。あの子の姉ですけど……」
「あの…、わたしたちもご一緒させてもらってもいいですか?」
名雪が、そう言ってくれた。多分、あたし一人だと気が動転してしまうことを見越して言ってくれたんだろう…。
「患者さんとは、どういうご関係ですか?」
「後輩です。俺と、名雪の…、そして、俺の彼女です…」
今度は、相沢君が言ってくれた。
「そうですか…。……それならどうぞ。お入りになってください…」
医者は少し考えた後、あたしたちを診察室に通してくれた。診察室には、栞の胸部のMRI画像がスクリーンに掛けてあった。医者がスクリーンの電気をつけた。瞬間、あたしは目を疑った。
そこに映し出されたもの…。それは肺に大きく照らし出されている白い陰影だった…。
あたしは、目の前が真っ暗になった。
「妹さんは、残念ながら…。薬でも…、手術をしても…、多分無理でしょうね…。私たちも、治ったと思っていたのですが…、申し訳ない…。 ……以前から、自分でも薄々気付いていたのでしょう…。でも、そのことは隠していた…。彼女のポケットにこんなものが入っていたんです。お姉さん…、あなたのためにね…」
医者が一つのノートみたいなものを出してきた。あたしは、そのノートを受け取る。ページを開いてみた。日付は昨日だった…。
「6月5日。胸が苦しいです。昨日の夜、また血を吐いてしまいました。これで6回目…。病気は治っているんだ…。私はそう思いたいです。だけど…、だけど目の前の現実が物語って…。お姉ちゃんにはこのことは言ってません。だって…、だって、お姉ちゃんを悲しませたくありませんから…。私に、もう長くないって言ってたときのお姉ちゃんの顔…、もう、見たくないです…。奇跡、私の奇跡、それは、つかの間の奇跡だったのかもしれません…。それでもお姉ちゃんと一緒に学校に行って、大好きな人と一緒にお昼ご飯を食べて、夕方は大好きな人と町を手を繋ぎながら歩いて、拗ねて、怒って、笑って、泣いて、夜はお姉ちゃんに今日あったことを話して、そういう平凡な日々が少しでも送れたこと、それが私の奇跡だったんだと思います…。だけど、もう私は駄目です…。多分、私の命は長くありません。最期…、最期は、私はどんな顔をしているんだろうと、ふと思います…。泣き顔なんて見せたくありません…。でも、もう私は強くないです。死ぬの…、怖いです。最期は、やっぱり泣いてしまうと思います…」
あたしの手からノートが落ちた。相沢君が落ちたノートを拾った…。あたしは力が抜けてしまった。
ぽろぽろと、あたしの目から涙が零れた。病気は治ったはずなのに…、またあの子の笑顔が見られると思ったのに…。気が付くと、あたしは医者に詰め寄っていた。
「先生!! もう…、もうあの子の病気は治ってたはずじゃないんですか? 治ってたはずじゃ…。お願い…、お願いだから、先生!! あの子を治して!! あたしの命と引き換えてもいい!! お願い…、治して…。あの子は…、栞は、今まで幸せというものを感じたことはなかったのよ! でも、幸せそうに相沢君とあの子が話してる姿、あの子が楽しそうにしている姿を見て、あたしは、あたしは…、嬉しかったのよ! やっと、普通の暮らしが出来る…。栞はやっと普通の女の子に戻れる。そう…、思ってたのに…。こんなのって、こんなのって…、うううっ……」
あたしは、医者にすがって泣いた。涙がぽろぽろと零れ落ち、医者の白衣を濡らしていた。医者は立ったまま動こうともしない。しばらくして…、
「私達も最善の努力は尽くします。が…、彼女は…もう………」
それだけ言うと、医者は、診療室から出て行った…。診療室は静かだった。ただ名雪のすすり泣く声が響いていた。相沢君は、顔を上げようとはしなかった。ポタッ…と、相沢君の下げた顔から雫が落ちた。それは……。
私は、気がつくとベットで寝ていた。ここは、どこだろう? ふと考える。あっ、そうか…、私、昨日…。
「栞、気が付いた?…」
私のベットの傍らに、お姉ちゃんが座っていた。お姉ちゃんは、とても、とても優しい目で私を見つめていた。それは、あの時の祐一さんの目のように…、もう、命の灯火の少ない私にくれた、あの優しい微笑みのように…。
私の命、それは私が一番よく知っている。それにお姉ちゃんは、もう私の命のことは知っているだろう…。
「あっ、栞。お腹すいてない。ちょっと待ってて、いまリンゴむいてあげるから…」
お姉ちゃんは、そう言うと微笑んでリンゴをむき始めた。
「はいっ。出来たわ。栞、あんたもこれくらい上手に出来ないとね。相沢君に愛想つかされるわよ? 彼ってね、最近人気があるみたいだから…。よく女の子から声とか掛けられてるらしいわ…。まあ、相沢君はあんたのことが好きみたいだから、そんなに心配することもないけどね。でも、うかうかしてられないわよ? 彼って優柔不断なところがあるから…。うふふっ」
お姉ちゃんはそう言って、リンゴのウサギを私のテーブルに置いた。やっぱりお姉ちゃんの方が私より綺麗だ。私もお姉ちゃんみたいになりたかった。お姉ちゃんは私の憧れだった。でも、もう私は…、
「お姉ちゃん…、花火…、したいな…。線香花火……。ぱちぱちって、火花を出して…。綺麗だろうね…」
「なに言ってるのよ。この子は…、夏になればいくらでも出来るじゃない…。さあ、栄養をつけて早く元気にならないとね……」
「私、私…、そんなに生きられないよ…。私…もう長くないって、自分でも分かってるから…。ねえ、お姉ちゃん。見たんでしょ? 私の日記帳…。これ以上、私の体…、持たないみたいだよ…。……せっかく治ったって喜んでたのにね…。普通の女の子みたいに、好きな人と…、祐一さんと、春の公園でデートして、夏の浜辺で花火をして…、秋の夕暮れ…、一緒にウインドウショッピングして、冬は私の手編みのマフラーをプレゼントする…、そういう普通の暮らし。もうちょっとしてみたかったよ…。でも、もう、私には出来……ないよ……」
栞は、泣いていた……。あたしには、どうすることも出来なかった。ただ、悲しいまでに小さいあたしの妹を、見つめることしか出来なかった。声を掛けようと思った。手を差し伸べて、頭を撫でてあげようと思った。
だけど、そんなことをして何になるのだろう? 気休めにもなりはしない……。雨が降っていた。季節は、6月だ。雨が降っても、不思議じゃない。
あと半年も経てば、雪の季節……。あたしがこの子に命の灯火を告げた日が来る…。そして、奇跡が起きた日が…。あれから4ヶ月、あたしは奇跡が起きたと信じて疑わなかった。だけど…、今は奇跡なんて、そう簡単に起こるものじゃないと思った。
もし…、もし神がいるのなら、もう一度この子に奇跡を与えて欲しい、もう一度この哀れな一人の少女を救って欲しい。あたしは、雨の降る町並みを見ながらそう思っていた…。
栞の体は日に日に弱っていった。4日後には、食事がとれなくなった。あたしは、そんな栞を見つめることしか出来なかった……。それから3日後、相沢君が病室にやってきた。栞が入院して1週間が経っていた。
「あたし、お邪魔だから出てるわね…」
あたしは、病室を出ようとした。すると…、
「親族代表のお前が出ていったら、出来ることも出来ないじゃないか……」
相沢君は少し照れながら、そう言った。あたしは何のことだかさっぱり分からなかった。相沢君は栞のベットの横に腰掛けて、栞の顔を優しく見つめて言った……。
「栞、これ、受け取ってもらえるか? 俺は、世界中で誰よりもお前のことを愛してる…。俺の小遣いじゃこの程度のものしか用意できなかったけど……。俺からのちょっと早い婚約指輪だ…」
そう言って、銀の指輪を栞の指にはめようとした。けど…、栞はそれを制して、笑ってこう言った。
「祐一さん、嬉しいです…。私…。……でも、祐一さん…、私なんかと婚約したっていい事はないですよ…。私、あまり掃除や洗濯得意じゃないですし…、お料理だってうまく出来そうにないです…。それに…、それに…、私はもうすぐ、遠い遠い国へ行ってしまうんですよ…。誰も知らない、そう…、行ってしまえばもう帰ってこれない、遠い…、遠い国へ…。……。お願い…、私のお願い、聞いてくれますか? 祐一さん…」
「……ああ、俺が出来ることだったら、何でも聞いてやる」
「……じゃあ、私のこと……、私のこと嫌いになってください……。私のこと、大嫌いになってください。それが…、私のお願いです……」
栞は微笑みながらそう言った…。あたしは、栞の顔を見つめていた。いや、見つめることしか出来なかった…。
栞は笑っていた。悲しいくらいに…。俺には出来なかった。嫌いになることなんて出来なかった。俺は栞をどんなことがあっても、例え彼女という存在がこの世から消えてなくなっても、俺は彼女を…、栞を愛していたい…。
だから、どうしてもその願いだけは…、聞くことが出来なかった…。
「栞……、俺は、その願いだけは聞くことは出来ないよ…。俺は、お前のことが好きだから…。お前のこと本当に好きだから…。遠い国に行っても、もう…、帰って来れないって分かっていても…、栞…、俺は、俺は…、お前を嫌いになることなんて出来ないよ…」
俺は下を向いた……。
私は、祐一さんの顔を見ることが出来なかった。祐一さんは私のことをこんなにも好きでいてくれる。そのことが私にはつらかった……。お姉ちゃんもじっと下を見ていた。無言だった……。と、突然、私は…、
「ごほっ、ごほっ、ごほっ、ごほっ…、ごぶっ」
大量の鮮血が私のベットに散らされていった。私は、自分の死に逝く姿を…、惨めなこの姿を…、あの人だけには見せたくなかった。世界中で誰よりも好きなあの人にだけは…。惨めだった…。本当に惨めだった…。涙が…、出た…。
お医者さんが来た。看護婦さんも来た。お父さんも、お母さんも来た。お姉ちゃんは私の手を握ってくれた。
「……」
お医者さんは、何も言わず首を横に振っていた。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、お医者さんも看護婦さんも、そして祐一さんも……、みんなが…、泣いていた。
「……最期に……、お願いが…あるんです……」
「……何だ? 栞……」
夜、俺達は、何もない病室で二人きりでいた。栞が真新しいシーツを広げたベットの上で、天井を見たままそう呟いた。俺はさっきまで大量の鮮血で真っ赤に染まった栞のベットを…、直視することが出来なかった。
「町が…、町が見たいです……。私やお姉ちゃんが暮らしてきた町……。そして……、私の大好きな人と出会った町を…」
医者も看護婦も、栞の両親も、そして香里も…、最期は栞の大好きだった人と一緒にいさせてやりたい、そう言っていた…。俺は何も言わず、栞を抱き上げた。栞の体は水鳥の羽のように軽かった…。
この病院はちょっとした高台にあって、町を見下ろせるにはちょうどよかった。
俺は栞の体を抱きかかえると、開いた戸から表に出た。雨が、いつのまにか止んでいた。雲の切れ間から綺麗な星が出ていた。星は本当に綺麗だった。俺は、空を見上げていた…。
「祐一さん…、昨日祐一さんに、私のこと嫌いになってくださいってお願いしたの……、あれは、嘘です…。本当は、本当は…、いつまでも、私のことを忘れないで欲しいって、心の片隅にでも私のこと…、覚えていて欲しいって、そして…、私のことを好きでいて欲しいって…。ずっと、ずっと、好きでいて欲しいって…。わがままですよね…。私……」
「ああ…、そうだな。わがままだよな、お前……。……なあ、栞…、もう、駄目なのか……。奇跡でも起こらないと駄目なのか?」
「ひどいです、祐一さん。やっぱりそういうこと言う人嫌いです……。……祐一さん…、私はもう……。それに、奇跡が何回も起こったら奇跡じゃなくなるじゃないですか…。だから…、起こらないから奇跡って言うんですよ…。きっと…」
栞は静かに首を横に振った。俺は栞を抱きかかえたまま、庭へ出てきた。ちょうどこの町を一望できる場所…、町が見える。数多の宝石を散りばめたような夜の風景。綺麗だった。本当に綺麗だった…。
「栞…、ほら、町が見えるぞ……」
「わあ、本当だ…。綺麗な町……。…そう…、ちょうどあのあたりでしたね、私と祐一さんが初めて会った場所…。あの時の祐一さんとあゆさん、本当に可笑しくて、涙が出るくらい可笑しくて…。あっ、あのあたりでしたよね…。公園…。一緒に雪合戦しましたね…。そう、あのあたりが、商店街でしたね…。あのジャンボミックスパフェデラックス、もう一度食べたかったです…。それで…、あのあたりが学校…。私が行きたかった場所。一番行きたかった場所…、そして、もう一度行きたい場所。でも…、もう駄目ですね…」
栞が思い出の場所を次々と指差していった。そして…、学校。そこを指差したまま、栞の指が止まっていた…。栞がずっと行きたかった学校…、これからずっと行けると信じていた学校…、出来ることなら行かせてやりたい。俺は思った。
だけど、今はもう彼女の命の終焉が刻一刻と迫っている。俺はなんて声を掛ければいい? 俺はただ黙って見ることしか出来ないのか? 俺はもう…、どうすることも出来ないのか…。
と…、栞が小さい、本当に小さい声で淡々と…、
「祐一さん。ありがとうございました。短い間でしたけど、私は幸せです。1月、雪の木の下で出会いました。2月、私に奇跡を与えてくれました。3月、病室に来て、面白い話をいっぱいしてくれました。4月、私の絵のモデルさんになってくれました。5月、私と一緒にデートしてくれました。……本当なら私はあの時…、私の誕生日…、あの日で私の命は終わると思っていました。5ヶ月の間に、こんなにも楽しい思い出がいっぱい出来ました。でも…私…、最期まで祐一さんにご迷惑掛けっぱなしでしたね…。ごめんなさい…。……私…、死んだらどこに行くんだろう……。私、私…、祐一さんと…、別れたくないです…。やっぱり死ぬの…、いや……です……。死ぬの…、怖い……で……す……」
そう言った。そう言ったときの栞の顔を俺は見ることが出来なかった。栞はどんな顔で、どんな気持ちで言ったのか…。俺の服の一部が濡れていた。それは、多分…。……栞の体の力がだんだん抜けていくのが分かった。
栞が、ぎゅっと俺の服を握った。そして…、
「……さようなら…、祐一…さん……」
「栞?……。栞……」
栞の手が、俺の服を握っていた手が…、まるで重力に従うかのようにだらりと下に落ちた…。ふと栞の顔を見た。栞の顔はまるで眠っているかのようだった。ただ、涙が一滴、栞の目から流れて落ちた。空を見た。雲の隙間から満天の星が綺麗に瞬いていたんだろう…。
だけど、俺にはその星空が見えなかった…。俺は無言だった。栞の体を抱きしめたまま、佇むことしか出来なかった…。
奇跡…、一体それは何だろう…。俺は思う。きっとそれは、どんなに起こらないって分かっていても、それでも起こって欲しいと願って、それを信じている人々の希望なんじゃないかと思う。その希望が大きければ大きいほど、奇跡という価値があるんじゃないかと思う……。
雨が降っていた…。たった16年という短い生涯を終えなければならなかった、一人の哀れな少女のために神が泣いてくれているのだろうか…。
棺の中の少女は、眠っていた…。揺すれば起きるのではないかと思うくらい穏やかな表情で…。たくさんの美しい花々に囲まれて、その少女は眠っていた……。
〜Fin〜