「美坂、いや、香里…。俺と結婚してくれ!!」
大学4年生の冬も終わり、一週間後はいよいよ卒業式。そんな慌しい日にあたしは北川君からプロポーズを受けた。いつもの冗談だと思った。でもあたしを見つめる彼の真剣な目を見て、本気だと思った。
プロポーズ
彼とは高校の時からの縁で今も付き合っている。妹の栞は、あたしたち姉妹の解れかけた心の糸を再び結び付けてくれた恩人、相沢君と今付き合っている。幸せそうに電話でデートの日取りなどを決めている妹。横で見ながら、“栞、良かったわね?” いつもこう思う。当の栞は、
「お姉ちゃんもそろそろ自分の幸せを見つけたほうがいいよ? 私は今十分幸せだから。だから今度は自分の幸せ探しをしてくださいね?」
と微笑んでそう言う。あたしを見つめる妹。微笑みの中にはどことなく真剣さが感じられた。自分の幸せ? 今まで考えたこともなかったけど、栞の言葉ではっとなる。今までは栞のことばかりを考えてきて、あたし自身のことなんて考えたこともなかった。あの子が健康でありさえすればあたしはどうでもいいとさえ考えたこともあった。
妹も元気になり素敵な彼も出来て、今は幸せそうにおしゃれなどを楽しんでいる。その光景を見て、あたしもそろそろ自分の幸せを求めてみようかな…。そう思った。
相沢君は高校を卒業して今はあたしたちと同じ大学生だ。栞も、1年留年したけど無事に卒業して今は看護学校に通っている。自分が大病を患っていたときに勇気を分けてくれた看護師に憧れてその門を叩いたんだそうだ。頑張っている妹の姿を見ていると、あたしは嬉しくなってくる。あたしも頑張らなきゃって思う。
北川君とは高校1年の時に知り合った。最初あたしは彼とはあまり仲良くはなかった。彼は社公的で誰とも仲良くなれる。あたしはその逆だ。友達である名雪にさえも言えない妹のこと、妹の病気のこと…。そんなことがあたしを閉鎖的にさせていたのかも知れない。彼が話を振ってきても、ただ合わせるように返事をするだけ。それがいつからだろうか。彼の話が本当に面白いと感じられるようになって…。いつの間にかあたしはそんな彼に惹かれていった。そう、あれは大学受験の願書をもらう時だったかしら…。
「美坂はどこを受けるんだ?」
そう彼はあたしに尋ねてくる。あたしの受ける大学は…、と彼に話すと彼は言う。
「じゃあ、俺もそこ、受けてみようかな?」
って…。彼は人並みには勉強は出来るほうだ。受ける大学の偏差値もぎりぎりではあるが届いているはず…。なのにどうして? あたしは驚く。“他に行きたいところがあるって言ってたじゃないの? 北川君は…” そう尋ねると彼はちょっと恥ずかしそうに頬をぽりぽりと掻くとこう言った。
「だ、だってな。あそこは正直言うと偏差値が高すぎて俺には無理だっていうことが分かったんだよ。そ、それに、美坂と一緒の大学にしたほうが美坂の顔、いつでも見られるしな…」
最後のほう、教室の喧騒で分かりづらかったけど、あたしにははっきりと聞こえた。名雪が、
「香里? どうしたの? 顔が真っ赤だよ?」
あたしの顔を覗き込んでこう言う。はぁ〜、相変わらずの名雪だわ…。そう思った。
大学入試の合格発表。会場にはため息あり、歓喜あり、感涙ありといろいろな声があった。ちなみに名雪は陸上の推薦入学があって進路はそっちに決めたそうだ。
「美坂、あったか?」
「え〜っと…、あっ、あったわ。って、そういう北川君はどうなの? あったの? な、なかったの?」
少し心配になって聞くあたし。彼は急に悲しそうな顔になる。やっぱりなかったの? 悲しそうな彼の顔を見てあたしもちょっと悲しくなった。と、突然にこっと微笑む。今までの悲しそうな顔はどこへやら…。“ぷぷぷっ”と微笑むと彼はこう言った。
「心配するなって! 冗談だから…。あったぜ? 俺も…。まあ、それもこれも全部特別講師のおかげだな」
あたしの肩に手を置くと抱き寄せるようにしてそっと耳元で囁く彼。“もう! ちょっと心配しちゃったじゃないの!!” 頬を膨らませながら言うあたし。でも、内心ほっとしていた。せっかく二人で頑張ってきたんだもん。もし不合格だったら…、と思う。もし不合格になって彼があたしから離れていって…。と考えるとあたしはどうにかなっちゃう…。そう思った。膨らませた頬を更に膨らませて不機嫌そうに言う。
「ちょっと! 北川君! 冗談も休み休み言いなさいよ!! 全く…。あたしがどれほど心配したかと思ってるの? バカ…」
って……。そう言うと彼はすまなそうに“ごめんな。冗談言って…”と言って少し項垂れてしまった。そんな彼が少し可哀想になってくる。ちょっと言い過ぎたかしら…。上目遣いですまなそうに見つめる彼の顔を見てると何だかおかしくなった。思わずぷっと吹きだしてしまう。さっきまで膨らませた頬を緩ませるとこう言った。
「北川君、そんな顔しないでよ…。せっかく合格したって言うのに、あなたがそんな顔をしてると何だか合格してないような気がするわ。確かにさっきはちょっと言い過ぎたわ。ごめん…」
「……確かにそうだな…。ぷぷっ」
彼はこう言って笑い出す。あたしもつられるように笑う。合格できたんだ。彼と一緒に…。そう思いながら笑う。嬉しくて嬉しくて仕方がないくらいに笑った。二人で笑い合ってると相沢君がにこにこ顔でやってくる。彼も合格したんだ。そう思った。
「おっ、相沢。ご苦労さん…。その顔は〜って見なくても分かるぜ。合格したんだな? ってお前、早く彼女に報告しなきゃダメだろ? 応援してくれたんだしな?」
「そうだな。栞には今日まで構ってやれなかったしな…。悪いな。じゃあちょっと行ってくるわ…。ってそう言う香里と北川は? やっぱりデートなんだろ? まあ、俺もその口なんだけどな。はぁ〜。お礼に超特大ジャンボアイスでも買っていくか…」
そう言うと足早に相沢君は去っていく。去っていく彼の後ろ姿を見て北川君が、“ありゃ、絶対栞ちゃんに頭があがらねえようになるな。うん” って独り言のように呟いていた。確かに相沢君は栞に頭が上がらない。って言うより栞が甘えてるだけなんだろうけど。彼は栞の涙に弱い。そのことをいいことに、あたしの妹は無理難題を言ってくる。
“もうちょっと謙虚になったらどうなの? 相沢君が可哀想でしょ?”
“そう言うお姉ちゃんこそもう少し謙虚になったらどうなんです? 私が見る限りいっつもデートに行っては荷物持ちばっかりさせられてる北川さんが可哀想じゃありませんか? それに私はいつも謙虚なんですぅ! そんなこと言うお姉ちゃん嫌いですっ!”
相沢君のことを言うと、決まってこんなことを言って反論してくる栞。はぁ〜。と、あたしはいつも心の中でため息を吐く。病気が治ってからというもの、わがままになったのかいつも相沢君を困らせているように見える。ってこれはあたしの主観なんだけど…。当の彼はそんな妹の言うことを文句を言いながらでも一応は聞いてくれているみたい。そんな彼だからこそ栞もわがままになるんだろうけどね?
去っていった相沢君の方向を微笑みながら見つめるあたしたち。“じゃあ、俺たちもそろそろ帰るか” そう言うと彼があたしの手をそっと握る。“そうね。でもどこかで何か食べていきましょうよ” そう言うあたし。このまま帰るのも嫌だし…。それに好きな人とはずっといたいしね?…。で、結局その日の晩御飯は少なめだった。
それから4年間。まあ人並みには勉強したほう…。あたしと北川君は教育学部、相沢君は学校の先輩である川澄先輩や倉田先輩のいる医学部にそれぞれ道を進めた。栞は高校卒業後、看護系の大学に通っている。まあ家から近いこともあり何かと都合もいいのだろう。ついでを言うと栞の友達の天野さんも同じ看護学校に通っている。入学式当日、行く前はものすごく緊張した面持ちだったのに、帰ってくるとけろっとしてるんだから。現金なものね? そう思って、うふふっ、と笑う。案の定その後で、ジャンボミックスパフェデラックスを奢らされて閉まったけど…。
そうそう、大学2回生の夏休みには彼と一緒に旅行とかにも行ったりしたわ。海の見える旅館で昼は海水浴、夜は打ち上げ花火とかをしたり、あと、静かな海辺でいろんなことを話したり…。栞は羨ましそうに見てたけど…。でも、その後で相沢君に無理を言って旅行に連れてってもらってすごく嬉しそうだったけどね。3回生の冬にはあたしや栞、相沢君や北川君、それに名雪や先輩の倉田さんたちや栞の友達の天野さんや秋子さんたちとで、温泉旅行にも行ったわね…。そう言えば栞が、“約束通り、祐一さんに10メートルの雪だるまを作ってもらいます!!” って言って相沢君を困らせていたっけ。で、結局全員相沢君に借り出されて、3メートルの雪だるまになっちゃったけど。栞の喜んだ顔は今でもあたしの脳裏に焼きついている。
去年の春のお花見のときなんかは大変だったわ。栞は朝からお弁当作りに躍起になって台所を占領してしまって朝ごはんが食べられなかったし、みんなでお花見に出かけてお弁当を食べる時に、相沢君がちょっと栞のじゃないお弁当を抓んだと言うだけでぷぅ〜っと膨れてしまうし…。あたしと相沢君と北川君とでどれだけ宥めたことか…。お父さんやお母さんは微笑みながら、“元気になったわね〜。栞は…” って言ってたけどね…。はぁ〜。
北川君はそんなあたしの愚痴を聞いてくれる。まあ、同じ妹を持つものだからと彼は苦笑いを浮かべていた。…そう、彼にも妹がいる。あたしも何度か会ったことがあるけど北川君とは違って大人しい感じの子だった。北川君曰く、
「まあ、外面はいいんだけどな? ははは……。はぁ〜」
ということらしい。でも彼女のほうが栞より大分ましなんじゃない? 拗ねてぷぅ〜って頬を膨らませながら怒るわけでもないんだしさ…。あたしがそう言うと、
「美坂が知らないだけだぜ? あいつの生態って言うもんをな? 俺から言わせりゃ栞ちゃんのほうが断然いいに決まってるぜ? あいつはほんとに大変なんだからな? あいつを怒らせると、まず泣いてくるだろ? そして泣きながら俺の顔とか体をぽかぽか叩いてくるんだ。泣き止んだ後は後でいろいろイジワルばっかりしてくるんだぜ? 結構交友関係も広いからいろいろ妹の友達とかが俺に、“何で涼香ちゃんを泣かすんですか? 可哀想に。今日も泣いてましたよ?” って言いながら寄ってくるんだ。後ろでべーっとかいーっとかやってるって言うのによ…。」
って言いながら首を竦める。栞もそう言う節はある。でも彼の妹のようにぽかぽか叩いたりはしないけど…。はぁ〜、どこでも同じなのね? そう思った。
そして今日…。あたしは彼からプロポーズを受ける。卒業式の1週間前。冬の終わりの夕焼けの中、彼の目は真剣だった。
「今すぐにとは言わないぜ。お前の答えが出るまで待ってるよ…。それで、お前がどうしても嫌だと言うのなら、俺は諦める。でももしよかったら俺と一緒になってくれないか? 俺と一緒にともに未来を歩いてくれないか? 香里…」
そう言うと彼はあたしの顔を見つめる。プロポーズ…。まさしくそうなのだろう…。“考えさせて…” そう言うとあたしは俯いた。彼は俯いたあたしの頭をくしゃっと一撫でする。“じゃあ、待ってるから…” そう言うと彼は夕闇が迫る中、自分の家へと帰っていく。あたしは帰っていく彼の背中を見つめるだけだった。
1週間、悩んだ。彼の気持ち、あたしの気持ち…。いろいろと考える。だけど答えがなかなか見つからない。2日経ち、3日経ち…。とうとう答えを出す前日になってしまう。でもあたしの答えはなかなか見つからなかった…。家に帰る。栞はもう帰ってきてるみたいだ。台所から鼻歌が聞こえる。今日はお父さんもお母さんも遅くなるって今朝言っていたことを思い出した。ダイニングに入ると可愛らしいエプロン姿の妹が給仕をしている姿が見えた。栞があたしのほうを見てこう言う。
「あっ、お姉ちゃん。お帰り。今日は早かったね?」
「うん。ただいま。あっ、あたしも手伝うから…」
荷物を置き、椅子に掛けてあったエプロンに袖を通すと妹の給仕の手伝いをする。ふと、あたしが結婚したらこんなことも出来なくなるんだ…。そう思った。ご飯を食べてる時、お風呂に入っているとき…、心ここに在らずだった。考えることは彼のプロポーズのことばかり…。“ふぅ〜”とため息が出る。そろそろ寝よう…。そう思ってベットに入り部屋の電気を消そうとした時、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。栞の声だった。
「お姉ちゃん、まだ起きてますか?」
「ええ…、でも今寝ようと思ってたところよ?」
そう言いつつガチャッと部屋のドアを開ける。案の定、妹が立っていた。心配そうに、でも真剣そうな表情で…。部屋に通すとハロゲンヒーターのスイッチを入れる。さっきまで寒かった部屋は春のように暖かくなる。ここ北海道は早春とはいえまだまだ寒い。ストーブとかをつけているのはほぼ全家庭のようだ。うちも例外じゃない。しばらくすると部屋は暖かくなる。暖かな部屋の中、栞はあたしの椅子に腰掛けた。あたしはベットに腰を下ろす。しばらく沈黙が続く。それを破ったのは妹のこんな言葉だった。
「お姉ちゃん、私に隠し事してるでしょ?」
図星…。あたしは何も言えない。栞はそんなあたしの顔を見つめている。嘘は言えない。真剣な妹の顔を見てそう思った。でも、これはあたし自身の問題だ。栞には関係ない。そう思いこう言う。
「何でも、ないわよ…」
「何でもないわけがないじゃないですかっ!! お姉ちゃん最近何か変だよ? ご飯を食べてるときも何か必死で考えてるみたいで…。私はお姉ちゃんが心配だから…。本当に何もないの? お姉ちゃん! こんな頼りない妹でも何でもいいからお姉ちゃんの役に立ちたいって思うの…。お姉ちゃんだって私が祐一さんのことでいろいろ悩んでいたときに助けてくれたじゃないですか…。だからお姉ちゃんが困っている時には今度は私が助けてあげたいの…。だから……」
真剣に、まっすぐにあたしを見つめる栞。その瞳には一点の曇りもなく見えた。“誰かのために…”栞がいつも言う言葉。大病を患い死の淵まで迫られていた妹の言葉。死にたくない…。生きたい。心の底から言った妹。そんな栞の言葉だからこそだろうか。ある種の重みがあった。深い色をたたえた瞳があたしを、いえ、あたしの心を見ている。あたしは言った。彼のこと、そしてプロポーズのことを…。
「……お姉ちゃん。北川さんのこと好きですか?」
しばらく黙っていた栞は突然そんなことを言う。“何を言ってるのよ…。栞は” 作り笑顔でそう言うと栞の顔を見る。今にも増して真剣そうにあたしを見つめていた。その迫力に押され何も言えないあたし。こくんと首だけを縦に振った。と、栞はにっこり可愛く微笑む。今までの真剣な表情がうそのように可愛く微笑むとこう言う。
「ほら、もう答えは出ているんですよ? お姉ちゃん。後はそれを伝えるだけなんですよ…。お姉ちゃんに大好きな人にね?」
“答えは出ている…。後はそれを伝えるだけ…” 栞の言葉。心の中で反芻してみる。そう…。そうよね? もう答えは出ているんだもの…。あたしは彼のことが世界で一番好き。答えは出ている。そんな簡単なことにふと気付かされる。栞を見る。うん! と頷いてあたしを見つめている。“大丈夫だよ。お姉ちゃん” 栞の目がそう言っていた。
次の日、1週間前の答えを返す日。その日は朝から雨だった。天気予報では雨は午前中に止んで午後から晴れてくるだろうということらしい。携帯を開く。メールを打った。“夕方、公園で待ってる…” とメールには書いた。答えは出ている。後は彼に伝えるだけ…。昨日の言葉をもう一度頭の中で反芻する。うん! そう言うとあたしは遅めの朝食を取った。ちなみに栞は朝早くに出かけて行ったみたい。机の上には栞が作った朝食と、“頑張れ! お姉ちゃん” と書かれた便箋が1枚置いてあった。
便箋を手に取る。丸っこい字で書かれた便箋……。妹がエールを送ってくれた便箋。あたしは胸のところにその便箋をぎゅっと押し当てる。“頑張るね? 栞…” そう心の中で思った。昼過ぎになる。そろそろ出かけよう。あたしは出かける準備をする。服を着替えて軽くお化粧をした。薄いピンクの口紅は彼が買ってくれたものだ。化粧をし終わり鏡の前でにこっと微笑むと家を出る。
雨は止んでいた。曇り空から時より青空が顔を覗かせている。この分だと待ち合わせ頃には夕焼けが見えるだろう。そう思い歩く。途中しゃれた喫茶店に入る。ここは高校時代名雪たちと行った百花屋とは違う趣がある。小気味いいジャズの音楽と美味しいコーヒー、そして非常に落ち着いた雰囲気があってあたしは好きだった。彼とも何度か来たことがあるけど、彼も“いい店だよな”って言ってくれた。注文をする。しばらくしてコーヒーが運ばれてくる。カップに口をつける。琥珀色のコーヒーは非常に味わいが深くて、美味しかった。
店を出るころには3時を少し過ぎた頃だった。今から公園に行ってもまだ時間はいくらでもある。そう思って商店街を散歩することにした。北海道にもようやく遅い春が来ようとしている。桜の蕾も大分膨らんできてるし、道端の名前も知らない小さい花は色とりどりに咲き誇っていた。普段何気なく通っている道端にもこんなきれいな花も咲いているんだ。改めて自然の凄さを思い知らされる。そんなことを考えながら公園に向かった。
公園……。時計を見ると3時半。ちょっと早かったみたいだ。胸の鼓動を抑えつつ彼を待つ。いろいろな思い出が蘇ってくる。栞のことでは相沢君に助けてもらった。名雪は優しい笑顔でいつも見てくれた。そして…、北川君はあたしを愛してくれている。好きだって言ってくれる。あたしも彼のことが好きだ。いつでも言えたのに…。何だか恥ずかしくて言えなかった。だけど、今日ははっきり言おう。そんな事を考えつつ、彼が来るのを待つ。
30分ぐらい経つ。もう夕陽は沈みかけだ。さっきまで遊んでいた子供たちはもういない。そんな夕焼けの中、足音が聞こえた。俯いていた顔を上げるとにっこり微笑みながら彼が手を上げていた。こつこつとアスファルトを踏みしめて彼はあたしの前に立つ。あたしも立ち上がる。彼はあたしの目を見てしばらく…。
「なあ、美坂…。いや香里…。1週間前の、あの時の答えを教えてくれないか?」
目を逸らしちょっと俯き加減になりつつ彼はそう尋ねた。あたしは言う。心を込めて…。彼への思いを込めて…。こう言う。
「ええ…。……こんなあたしで良ければ、あなたのお嫁にもらって下さい…」
と……。突然彼が顔を上げる。上げた彼の顔を見る。一瞬、驚いた顔…。それがだんだん喜びの笑顔に変わっていく。最後は飛び上がって喜ぶほどの満面の笑みになった。
「ほ、ほほほ、本当か? 香里? 俺、甲斐性なしだぞ? 苦労かけるぞ? それでもいいのか?」
「何言ってるの…。北川君。もう何年も付き合ってるんだからその辺は全部分かってるわよ…。そういう所もあなたのいいところじゃないの…。少なくともあたしはそう思ってるわ…」
信じられないと言う顔で、でも満面の微笑みを浮かべて彼はこう尋ねる。あたしはそんな彼の態度がおかしくて思わずうふふと笑ってしまう。満面の笑みを浮かべながら彼はあたしの手を握り締めると円を描くように回りだす。まるで100点満点をもらってはしゃぐ子供のように。1等賞の端の下でピースサインを作って喜ぶ子供のように…。無邪気な笑顔。そんなところに惹かれたのかもしれないな? そう思った……。
白無垢に袖を通す。今日4月18日。ちょうど彼の誕生日。“何か記念になる日にやりたいよな。結婚式…” そう言って彼は微笑む。“もうすぐあなたの誕生日じゃない?” とあたし。暦を見ると、大安吉日。この日にしようと言うことになった。ちなみに入籍は式の4日前に済ませてある。あたしと彼は同じ小学校に就職した。ちょうど入籍する前の日に小学校の校長先生に、結婚の報告と有給休暇のお願いをしにいく。正直嫌な顔をされるだろうと思っていたんだけど、校長先生は、“おめでとう” と言ってあたしたちのことを祝福してくれた。他の先生たちも口々に、“よかったね” と言ってくれた。嬉しかった…。普通だったらそんなことはありえないことだ。教室へ行くと子供たちがどこから仕入れてきたのか分からないけど、“せんせい、けっこんおめでとー!!” と言いながら拍手してくれる。ちょっとだけ涙が出た……。
この1ヶ月間、いろいろと忙しかった。結婚式の日取りや、双方の家族との顔合わせ。まず最初にあたしが彼の家に行く。彼の父(あたしにとってのお義父さん)は存外朗らかな人で挨拶に行ったときでも、“こんなやつだが仲良くしてやってくれ” と冗談交じりに言っていた。お義母さんはお義母さんで、“まあ、こんなバカ息子にあなたのようなお嫁さんが来てくれるなんてねぇ?” と言って笑う。北川君は、“親父! おふくろ! 彼女の前で俺をコケにするのはやめてくれ!!”って怒ってたけどね? 彼の妹、涼香ちゃんには、“わたし、お姉さんが欲しかったんですよ? ああっ、夢が1つ叶いました…。頼りないお兄ちゃんですけどどうかよろしくお願いします…” って頭を下げながら言われてしまった。
あたしの家にも彼は来る。栞は、“北川さん、お姉ちゃんのことよろしくお願いしますね?” と涼香ちゃんと同じことを言っていた。お父さんはお父さんで、“娘にいじめられたらいつでも言ってきなさい” なんて失礼なことを言うし、お母さんはお母さんで、“栞ちゃんの料理は美味しいけど香里ちゃんは辛いものばかりだから…。心配だわ…” なんて言う。た、確かにあたしの料理は辛いものばかりだけど…。でもl彼の前で言わなくったってていいじゃない…。そう思った。両親・家族の面会…。結納…。いろいろなことがこの1ヶ月間であった。でもすべてはいい思い出だ。そう思う。
衣装の着付けの人が、最後に角隠しをつけたかつらを頭に被せてくれる。お化粧した顔を鏡で見る。今日から本当に“北川香里”になるんだ……。そう思った。式場の神殿には親戚や家族が並ぶ。あたしは彼の横に立つ。神主が祝詞を読み上げている。相沢君たちは今頃披露宴会場でいろいろと打ち合わせをしているんだろうな…。そう思って彼の顔をチラッと見た。彼も同じことを考えていたんだろうか。あたしの顔を見るとにこっと微笑む。
4月18日、大安吉日。空は澄み切ったように青く、木々たちは遅い春の日差しを浴びて芽吹こうとしている。会場の近くの桜が一輪、薄桃色の花を咲かせていた……。
END