肉じゃがの思い出
コトコトコトコト……。美味しそうな匂いが台所に漂っています。今日9月23日はわたしの誕生日。名雪たちは朝早くに出かけていったので、今わたし一人で昼食と、夕食の準備をしています。ちなみに今日の夕食は“肉じゃが”です。最近はどこの家庭でも、肉じゃがは“家庭料理”の1つと思われているそうですが、昔は海軍の栄養食だったんですって…。ってこれはあの人が教えてくれたことなんですけどね?
昼食はわたし1人と言うこともあって、お茶漬けで簡単に済ませようと思います。あゆちゃんや真琴も名雪と祐一さんと一緒に出かけちゃっているみたいなので必然的にわたし一人ということになります。身寄りのないあゆちゃんと真琴はわたしの娘と言うことで引き取りました。名雪はにっこり微笑んでましたし、祐一さんも“俺も嬉しいです”、そう言いながら頭をペコリと下げていました。あゆちゃんと真琴も、“これからお母さんって呼ばなきゃいけないね?” そう言いながら、顔を見合わせてにこっと微笑み合ってましたけど……。
美味しそうな肉じゃがを眺めつつ、自分でも“強くなったな…”って今さらながら思います。それはあの人のおかげなのかもしれませんね? 新婚時代はこうじゃなかったもの…。そう…、あの頃は何をやってもドジばかりで、食事もうまく作れないで…、あの人に迷惑ばかりかけちゃったなって、そう思います。でもあの人は文句の一つも言わずに笑って、ときどきは手伝ってくれたりしました。あの頃のわたし、そして今のわたし…。あの人が今いたらなんて言ってくれるんだろう…。
“うん、うまいよ。秋子…。こんな美味しい料理を毎日食べられるなんてね? 昔と比べても格段の差だよ。秋子……”
そこまで考えてううんと首を横に振りました。あの人はもういないんだって…。どんなに会いたくてももう会うことは出来ないんだって…。もうあの人は天国の扉を開けてしまったんだって……。ふう、と大きなため息をつきます。帰らない日々、戻ってこない日々。分かってることなのに……。だめですね、わたし…。
あなたのお葬式の時、あなたを失った悲しみは計り知れなかったけど、それでも希望が持てたのはあなたの忘れ形見・名雪を身篭っていたから…。だからこうしてわたしには名雪を産んで一生懸命育ててこれたんです。名雪も真っ直ぐに育ってくれました。それが何より嬉しいんですよ…。でもちょっとお寝坊さんなところはありますけどね? これはあなたに似たのかしら…。うふふっ。
もうあなたが天国へと旅立ってしまってから、18年も経つんですね? 亡くなる時、一瞬微笑んで何かを言おうとしてたけど何を言おうとしていたの? そこまで考えて首を横に振りました。あなたのことですもの、きっと…。
“泣くんじゃない、秋子。僕はもうすぐ天国に行くけど、お前と生まれてくる子供のことをずっと見守り続けるよ…。だから泣くんじゃない…。お前は泣いた顔より笑った顔のほうが素敵なんだから…。ねっ? 秋子…”
って、こう言いたかったんじゃないかしら……。そう考えて、ふと昔のことを思い出していました。昔、名雪がまだ小さかった頃に“何でわたしのおうちにはお父さんがいないの?”ってよく聞かれました。それはそうでしょうね。他の子たちはみんなお父さんと遊んだりしてるのに、名雪だけがわたし一人だったんですもの。寂しかったんだろうなって…。寝言で“お父さん…”って言っていた名雪の顔を見ると、わたしは涙が溢れてきて…。あなたの親からも、“再婚してやりなさい。名雪ちゃんのためにも”ってよく言われましたけどね? でもわたしは…。わたしには出来なかったんです。それはあなたのことが好きだったから。もうこの世にはいないって分かっていても、わたしの心の中にはあなたがいる…。わたしが愛したあなたが…。そう思いたかったんですよ…。あなたには迷惑だったことでしょうけどね? いつも悲しみに暮れて…、生きる希望さえも失いかけたわたし。失意の中で名雪を産んで、育てていくうちに、“頑張らなきゃ”って…。そういうことを考えるようになったんです。これも、あなたのおかげですね……。今さらながらそう思います。
そうそう、新婚の夜、初めてわたしが作った料理が今わたしが作っている肉じゃがだったんですよね? 他の料理は出来なくてもこの肉じゃがだけはどういう訳か得意だったから。あなたもおいしそうに食べてくれましたっけ…。その微笑んだ顔は今の名雪の微笑んだ顔とそっくりで。いつもおいしそうに食べてくれるから嬉しくて嬉しくて…。あなたに食べて欲しくって…。いろいろ勉強もしたりして、レパートリーもだんだん増えていったんですよね? 今のような……。
でもね……。こんなことを言うとあなたに笑われちゃいますけど、あなたにも今の料理を食べて欲しかったって。肉じゃがだけじゃなくって、もっといろんな料理を食べて欲しかったって。そう思ってるんですよ? 御仏前には毎日上げてますけどね? …もう叶わない、叶うことのない夢だけど、あなたと、名雪と、祐一さんたちと、そしてわたしと…。夕食を囲って今日あったことなんかをいろいろ話しながら、ときどき大笑いなんかもして食べたかったです…。
ぐつぐつ煮えているお鍋を見ながら、そんなことを考えてしまいました。はぁ〜。ダメですね? わたし…。あなたとの約束、守れなくて…。また寂しがりの癖が出て来てしまって…。あなたが亡くなる少し前…、いつも泣いてたわたし。そんなわたしの手にそっと痩せた手を置いてこう言ってくれましたっけ…。
“秋子。泣きたい時は泣けばいいんだ…。我慢しなくてもいいんだよ? でも、でも僕はお前の心の中で生き続けるんだ。秋子が忘れない限り生き続けるんだ。だから何も悲しむこともないんだよ? …でも、もし悲しくなったら今のことを思い出して欲しいんだ。僕がそばにいるって言うことを。例え見えなくなっても僕はそばにいる。秋子が僕のことを思ってくれている限り…。そのことだけは覚えていて欲しいんだ。だから寂しくなんかないんだよ? 秋子…”
って…。そのことを思い出すと不思議とあなたがそばにいてくれるような気がしてくるんですよ。わたしの横で微笑んでいるような気がするんですよ。……ぐつぐつぐつぐつ。肉じゃがはもうそろそろいい頃合い。でも、わたしは……。泣いていました。ぽろぽろ涙を零して泣いていました。もう帰ってこないって分かっている。もうどこにもいないって分かっている、それなのに…。いたたまれなくなり、ガスコンロの火を消すと、一人部屋へ向かいました。思いっきり泣こう。そして夕方にはまた笑顔でいられるように。そう思いながら……。
泣きました。これ以上とないくらい泣きました。あなたのことを思い出して、あなたの笑顔を思い出して…。気がつくともう夕方。秋の優しい夕焼けが、わたしの体を包み込んでいました。それは、あなたに抱かれているような…。目をごしごし擦って涙を拭きます。まだ涙の跡が残ってるかしら…。そう思って洗面所へ行き洗面台の鏡に映った自分の顔を見ました。ひどい顔…。こんな顔のままでいたら、名雪たちは絶対心配することでしょう。そう思いばしゃばしゃと顔を洗いました。泣いた後はすっきりした気分になるって言いますけど、確かにそうですね? わたしもそんな気持ちです。
台所の肉じゃがはどうなったかしら? そう思い台所に向かいます。鍋の中を覗くとじゃがいもに煮汁がしみ込んでいい色になっていました。味見に一口食べてみます。にっこり微笑みました。今日はわたしの誕生日。きっと名雪たちはもうすぐ帰ってくるでしょう。そう考えていると、玄関の方から音が聞こえてきます。多分名雪たちでしょうね? そう思って玄関へ向かいました。
「お帰りなさい。名雪、あゆちゃん、真琴、祐一さん…」
「ただいま、お母さん。今帰ったよ?」
「ただいま、お母さん。ねえ、今日の晩御飯は?」
「うぐぅ〜。真琴ちゃん、さっきからそればっかりなんだよ? どう思う? お母さん」
三人のわたしの愛する娘たち。そして、甥っ子は一人ため息を吐くとこう言います。その顔はなんとなく昔のあなたに似ていました。
「はぁ〜、名雪もあゆも真琴も…。もっと肝心なことがあるだろ?」
そう言うと何かに気がついたかのように、ごそごそと後ろ手に隠している鞄からかわいい包装紙にくるまれた箱をを取り出して、みんなを代表して名雪がこう言いました。
「お母さん。お誕生日おめでとう…。これみんなで選んだの…。よかったら使ってくれるとうれしいな……」
そう言うと箱をわたしの方に差し出します。“ありがとう…” 口でも心の中でもそう言って受け取りました。居間に行きソファーに座ります。
「気にいってもらえるかどうか分かりませんけど、俺たちで、これ、選んだんです。今回はちゃんとあゆと真琴の分も入ってますしね?」
そう言う祐一さん。娘たちはにこにこ顔でわたしの方を見ています。丁寧に包装紙を解いていきます。やや小ぶりの箱が包装紙の中から見えました。包装紙をたたんで箱を開けました。そこには…。可愛い装飾がなされた箱型の…、これはオルゴールですね? があったんです。高かったでしょうに…。そう思って対面の4人の顔を見ました。にっこりとわたしの顔を見つめて微笑んでくれていました。この行為が嬉しくて、みんなの顔が優しくて…。わたしは、知らず知らずのうちに涙を流していました。“お、お母さん! どうしたの? 大丈夫?” と名雪がそう言ってくれます。わたしは…、
「大丈夫よ…。名雪。ごめんなさいね? 心配かけさせてしまって…。まだお礼の言葉、言ってなかったわね? ありがとう。みんな…」
そう言うとみんなの顔を見てにっこりと微笑みました。みんなもにっこりと微笑み返してくれます。その笑顔を見ながらわたしは天国のあなたに言いましょう…。
“悲しいこともいっぱいあったけど、わたしは今、幸せです”
って…。天国のあなたへ……。
END