雨が降っていた…。
 鉛色の空から、しとしとと雨が降っていた…。そう、それはまるであの時の…、一人の優しい姉が、一人の重い病気の妹を治してほしいと医者に縋って泣いた、あの涙のように…。
 俺は今、山の中腹にある墓地に来ている。そこには、俺の大好きだった一人の少女が眠っていた…。


心の中の恋人

〜続・奇跡の価値〜


 俺が愛した女の子……。アイスクリームが大好きで、絵を書くのが趣味だった。もう、この世にはいない…、俺の、最愛の彼女…。もう1年になるのか…。早いものだな…、栞……。
 ふと、葬式のことが思い出された。栞の両親も、栞がはじめてお友達になっためぐみちゃんも…、俺も、名雪や秋子さんたちも、そして香里も…、みんなが泣いていた……。
“栞…、やっぱりお前はいいヤツだよ。こんなにもお前のことを愛してくれた人たちがいてくれたんだからな…”
 俺は、そう思った。俺のたった一人、この世の中でたった一人愛した人は、遠い遠い国に行ってしまった…。もう、どんなに会いたくても会うことの出来ない、遠い…、遠い国へ……。
 あれから1年。俺は大学生になっていた。何気なく試験をして、何気なく大学に受かって、何気なく通っている。別に望みとか、将来の希望など見えてこない…。そんな毎日だった…。
「何やってるんだろうな…、俺…」
 自嘲気味な独り言を呟きながら、俺は墓地の坂道を上がっていった…。ゆっくりした足取りで栞の墓前まで来る。黒い黒曜石には、「美坂家之墓」という字が彫られていた。もう1年も経とうかというのに、真新しい字はあの当時のままだった。
 目を閉じる。栞との楽しかった思い出が目に浮かんでくる…。ふと頬に触れてみた。濡れて…、いた……。
 栞の大好きだった、大きな白い花を墓前に置く…。
「お前が天国に行って1年が経つな…。早いものだな、栞…。お前の大好きだった白い花…。ここに飾っておくよ…。名前…。なんて言ったっけ?…。…ははっ、俺は彼氏失格だな…。お前の好きだった花の名前すら覚えていないなんてな…」
「……ユリっていうのよ…。その花……」
 俺は、声のした方に目を向けた。そこには、彼女の姉、俺の同級生、従姉妹の親友…、美坂香里が立っていた。
「そうか……」
 俺は再び墓前に目を向けると一言そう言った。香里は俺と同じように黒曜石に刻み込まれた文字を見ながら…、
「……早いものね…。もう1年も経つのに、つい昨日のことのように思えるの……」
「…ああ、そうだな…」
 俺はそう言うと香里の顏を見た。香里は寂しそうな笑顔を俺に向けていた。
「いつから、そこにいたんだ?……」
「そうね……。あなたがここで手を合わせているときからかしら…」
 そう言うと、香里はまた黒曜石を見ながら…、
「不思議ね…。あの子がいるときには、あの子のこと、栞のこと……、ずっと見捨てておいて。あの子がいなくなってから、こうやって毎日のように会いに来るのよ…。あたしってバカね…。あの子が生きているときにこうやっておけばよかったのにね…。本当にあたしはバカだわ…。それなのにあの子は、あたしのこと、最期までお姉ちゃんとしてみていてくれた…。あの子を…、栞をあんなに苦しめ続けたお姉ちゃんなのに…、ね……」
 そう言った…。俺には兄弟がいない…。自分の妹や弟を見捨てること…。どういう気持ちなんだろうか? 自分の妹が死んでしまう…。
“最初から妹なんていなければよかったのに…”
 香里は前にそう言っていた。奇跡が起きたように見えた。香里はこれ以上ないと言う優しい微笑みで病魔に勝った最愛の妹を見つめていた…。
 ずっとこのまま…、愛する妹の病気が治ると信じていたに違いない。それが……。
 悲しかったに違いない。自分の最愛の妹の命…。病魔に奪われた妹の命…。それに対して、何も出来なかった自分…。
 俺も香里と同じだった…。いや、香里以上に自分の無力感に襲われていた……。ただ、俺には名雪という心の支えがいた。だから何とかここまでやってこれたんだと思う…。
 香里はどうだろうか…? ふと考えてみる…。香里には…、あいつには心の支えなんてなかったはずだ…。だから……、あいつは……。
 栞が天国に召された日、香里は、自分の手首を切った。幸い、命に別状はなかった。それでも香里は、何回も死のうとした。そして、何回も寸前で誰かに助けられた。それでも香里は「死なせて……。お願いだから…」と涙を流しながら、何回も哀願するように言った…。
 香里は身も心も、もうぼろぼろだろう…。俺は思った。
 でも俺は、何とか香里に以前のように戻ってもらいたかった。元気で明るい香里に…。名雪も北川もそう思っているに違いない。それに…、天国にいる栞だって、そう思っているに違いない…。俺は、そう思った……。


 あの子は、どんな気持ちで…、どんな心で、あたしを見ていたんだろうか…。あたしは、ずっと考えている…。一生、あたしは考えることになるだろう…。
 大切な…、あたしの命と引き換えてもいい、本当に大切な妹を失って…、あたしは生きる希望も、活力もなくなっていた。
 それはまるで、あたしから死の宣告を受けたときの栞のように…。栞もきっとこんな気持ちだったんだろう。でも栞は…、あの子は生きる希望を最期まで持ち続けた。相沢君に言った、あの子の最期の言葉…。
“祐一さんと…、別れたくないです…。やっぱり死ぬのいやです…。死ぬの…、怖いです……”
 ずっと生きていたかったあの子の言葉…。相沢君に聞かされた、あの子の最期の言葉。そして、涙…。病魔に栞の命は…。そう思うと、あたしは悲しくて…。辛くて…。16年間、辛くあたってきたあたしに、栞は…、あの子はどんなときも笑顔を向けてくれた。
 栞の方があたしより強い…。そう思った…。16年間、あの子に冷たくあたって、それでも、あの子はあたしのことを姉として見てくれていた。それがあたしには辛かった……。


「さあ、そろそろ帰ろうか? 香里…」
「ええ…。そうね……」
 線香の消えるのを待って、俺と香里は立ち上がる…。ふと、香里が俺に聞いてきた。
「ねえ。相沢君…。今でも、栞のこと……、好き?……」
「ああ…、俺にとって栞は…、最愛の彼女だったから…。だから俺は栞のことを、生涯…、愛し続けると思う…」
「そう……」
 そう言ったときの香里の顔は、言いようのない悲しい顔だった。墓地を離れて、ただ黙々と歩く。夕暮れ…、雨は上がっていた。雲間から、きれいな夕陽がビルの谷間から見えていた。
 駅の方に着く頃には午後6時を差していた。香里と話をすることもなく、香里の顔を見ることもなく、俺はただホームに佇んでいた。
 香里も何も話すことなく、ただ佇んでいる。友達同士何も会話もなく、ただ家路に着くための電車を待っている。他の人たちから見れば、少し滑稽に見えるかもしれない。
 だけど、俺たちの間には、空虚な時間だけしかなかった。
 電車に乗ると、さっきまでビルの谷間から見えていた夕陽が、電車の窓を赤く染めていた。向かい合った席に差し込む夕陽…。香里が沈みゆく夕陽を見ながら一言、言った…。
「きれいね……。あたし…。あたしは栞と……、こんなきれいな夕日、見たことがあったかしら?……」
 香里は、自問自答するように、首を横に振った。
「……いや、……ないわね…。16年間、あたしは栞を避けてきた。避け続けてきた…。そのことだけは事実だわ……。おかしいわよね…。今さら、栞のことを…、あたしの大事な妹だなんて…、ねっ…」
 そう言うと香里は自虐的に微笑んだ。その笑顔を見たとき、俺は香里の態度に腹が立った…。栞は…、あいつはこんなことを言ってほしくはないはずだ…。
 俺は栞の…、あいつの最期の涙を思い浮かべながら言った…。
「それじゃあ…。それじゃあ、あの時のお前はなんだったんだよ? 栞が倒れた時のお前は何だったんだよ? お前……、真剣だった…。医者に縋ったお前は真剣だったよ!! それなのに…、何故? 何故そんな事が言えるんだ? あいつ、俺が病室に来るたびに、こう言ってたんだ…。“最近、お姉ちゃんといろいろお話しできるようになったんです。うれしいです…”って、にっこり微笑んで…。俺は、そんな栞を見るのが好きだった。やっと、あいつの本当の笑顔が見られたんだって…。あいつ…、嬉しそうだった。お前と話せること…、心から嬉しそうだったよ…。あいつにとって、お前は自慢の姉だったんだよ!! 俺は、兄弟がいないからそういう気持ちは分からない…。だけどな!! 栞は、お前のことを…。お前のことを最高の姉だって思っていたんだよ!! 世界一の姉だって、思っていたんだよ……。それなのに…。それなのに……」
 言葉が、繋がらなかった…。俺は悔しかった。香里は、栞の優しい心が分かっていないのか?…。あいつの、姉を慕っていた心がわからないのか?…。
 あいつが16年間、慕っていた姉は心を閉ざして…。身も心も深く傷つけて…。俺は何とか彼女の心を開かせてやりたい。そう思っていた。
 だけど、もう無理だ……。ごめんな…。栞…。去年の3月。お前の病室に行った時…、お前…、言ってたよな……。
「もしも…、もしもですよ…。私がまた病気になって、助からなくて…。その…、天国に行ってしまったら…、お姉ちゃんのこと、よろしくお願いしますね。お姉ちゃん、ああ見えて結構寂しがり屋さんですから…」
 って……。その時は冗談だと思っていたんだ…。でも、栞…。お前は、こうなることが分かっていたんだな…。だからあんなことを言ったんだな…。
 …俺は、何とか香里の心の支えになってやりたいと思っていた。それが栞との約束なんだと…。だけど、もう無理だ…。俺には…、どうすることも出来ないよ…。
 お前の大好きだった姉の心は…、俺には救えない。栞…、本当にごめん…。本当に…、ごめんな……。
 そう考えると、ぽろぽろと俺の目から涙が零れ落ちた。香里は山に沈む夕陽を、ただ見つめるだけだった…。


 何も話すこともなく、相沢君はあたしから離れていった。帰りの駅のホーム。相沢君が、言った…。
「香里…、俺は…、俺はお前を助けたかった…。俺は、あいつのたった一人の大切な姉を助けたかったんだ…。だけどお前は、俺や名雪たちの言うことを聞かずに、どんどん深みにはまっていってしまうんだ…。そう…、悲しみと言う深みに…。お前は、心のドアを閉めてしまった…。もう…、俺にはお前を助ける自信がないよ…」
 あたしのもとから離れていく相沢君…。あたしは声をかけることもなく、ただ去っていく彼の背中を見つめていた…。夕日は彼を赤く染めて、そして彼は夕陽に照らされ、影はだんだんと小さくなっていった…。
 …あたしは、一人になった…。ふふっ、自業自得よね…。自虐的に笑ってみる…。
 友達も、両親も、あたしの心から離れていく…。独りぼっち…。誰もあたしを助けてくれる人はいない…。…いや、あたしがいないんだ…。この世から、あたしだけがいない。
 あたしという存在が…。あたしはただ、呼吸をしているだけ…。それだけの、存在……。
“悲しみを通り越せば、感情も何も出てこなくなる…”
 昔の人はよく言ったものだ…。何もせず…、何も考えられず…、そこには空虚な世界だけが広がっていた…。
 ふと、気がつくとあたしはビルの屋上に立っていた…。ここから飛び降りることが出来たらどんなに楽だろうか…。そう思い手を手摺りに掛けた…。
 でも、あたしは飛び降りることが出来なかった…。あたしには飛び降りる勇気さえなかった…。
 こんな…、こんな簡単なことなのに、そんなことも出来ないの?! 死ぬことすら出来ないの?! あたしは、自分の意気地のないさまに両手をついて泣いた…。
 死ぬことが怖かったんだと思った…。死ぬことすら出来ない自分…。なんて惨めなんだろう…。栞を…。あたしの大切な妹を見捨てて…。いや、殺して…。あたし自身はのうのうと生きている。あたしはそんな自分自身が許せなかった……。


 相沢君との墓地での会話以来、あたしはますます閉じこもるようになっていた。学校にも行きたくない…。名雪たちとも会いたくない…。
 あたしは、ずっとこのまま…。そう…、このままあたしの事を忘れてほしい。そう、あたしなんか最初からいなかったんだって思ってほしかった…。
 でも未来永劫、あたしは自分を許すことは出来ないと思っている…。そんな毎日だった。
 栞の一周忌も間近に迫っていたある日…。
 夜。あたしは部屋にいた。何もない、一人ぼっちの部屋に…。あんなに好きなはずだった学校にも、行かなくなった。名雪は心配して時々見に来てくれる…。でも、あたしは…。お父さん、お母さんは仕事に追われていた。今日も遅くなると言っていた。
 あたしはその方がいいと思った。こんな悲しい思いをするのはあたし一人で十分だと…。ふと、ラジオを見つけた…。こんな何もない空虚な空間…。
 ラジオくらいつけてお父さんたちを安心させてやりたい…。栞が天国に行ってから、毎日そうしていたことだ…。そう思い今夜も電源を入れる…。
 ちょうど、栞が好きだった歌番組がやっていた…。DJが言う…。
“次は、東京都の「ペンネーム・綾子ちゃん」のリクエストで、曲は谷戸由李亜、サヨナラ……”

 聞こえてきた…、曲……。

♪私の心にすき間があいた…、ねむれぬ夜…、ためいきばかり…。
 気づかぬうちに……、朝になってた…。
 あなたの声が聞きたくて…、ぬくもりふれたくて…。
 あなたへの思い…、こみあげてくる…。涙あふれる…。
 サヨナラ…、愛しい人…。
 まだ忘れられない…、あなたの事。
 サヨナラの一言で終わってしまうなんて…。かなしいよ……。♪

 一番を聞き終わった瞬間、あたしの目からぽろぽろと涙が零れて来た。歌詞が今のあたしにそっくりだったからだ…。忘れようとしても,忘れられなかった。気がつくと朝になってた時だってあった。
 みんな、この歌詞と同じだ…。あたしは、その歌に聞き入った…。曲が終わって、DJがまた話し出す…。

“綾子ちゃん、どうもありがとう。綾子ちゃんは失恋でもしたのかな? 早く元気になってくれると僕はうれしいです。それでは、次…。次のリクエストは…、え〜っと、このリクエストはちょうど一年前に頂いたものなんですけどね。こんなお手紙が付いていました。読んでみますね…。
「私川さん、こんばんは。私は病院で私川さんのラジオを聞いているある重い病気の女の子です…。この手紙が読まれている頃には私はもう、この世にはいないと思います。だって私、聞いちゃったんです。もう、私の命は後僅かだって…。私の体には、一度奇跡が起こったんです。でもそれは、神さまが与えてくれたつかの間の奇跡でした…。悲しかった…。心が何かで押しつぶされるくらい悲しかった…。でも、私川さん…。私は最期まで生きようと思います。もしかしたら、また奇跡が起こるかもしれませんし…。もし、また奇跡が起こったら、ご連絡しますね…。あっ、そうそう、私にはお姉ちゃんが1人います。とても優しいお姉ちゃんです。今日は、そのお姉ちゃんのためにリクエストします…。もし、私が死んでしまったら…、お姉ちゃん、とても悲しいと思います。悲しくて…、寂しくて……。いつも泣いていると思います。ですから、そんな寂しがり屋さんで泣き虫なお姉ちゃんのために、この曲を贈ってください……」
 これは、北海道の、本名OK「美坂栞」さんからの……”

 美坂? 栞? あたしは一瞬耳を疑った。うそ?…。あの子が…、あの子が?…。こんな、どうしようもない…、16年間あの子を苦しめ続けたお姉ちゃんのために……。そう思った…。DJが言う。

“この子について、僕は気になったので、この子が入院しているという病院に連絡してみました…。そしたら、彼女はこの手紙を書いた3日後に、息を引き取られたそうです…。優しい彼に抱かれて…。彼やこの手紙を書いた彼女のご両親に公開してもいいですか? と僕は連絡してみました。優しい彼も、彼女のご両親にも快く了承され、特に優しい彼は…、「是非ともかけてやってください!! それがあいつの希望でもあるんですから…」と言うお返事を頂きました…。ですので、こうして公開させて頂くことになったというわけです…。1年後に紹介して下さいとの彼女の希望もあり、こうやって紹介したわけですが…。お姉さん…。聞いていますか? 妹さんは、いつもあなたと一緒ですよ…。ということで、リクエストは…、ゲーム・ファイナルファンタジー\の中から、Melodies of Life………”

 流れてきた、曲………。

♪あてもなく彷徨っていた…、手がかりも無く探し続けた…。
 あなたがくれた思い出を…、心を癒す歌にして…。
 約束もすることも無く…、かわす言葉も決めたりもせず…。
 抱きしめそして確かめた…、日々は二度と帰らぬ…。
 記憶の中の…、手をふるあなたは…。
 私の…、名を呼ぶことが出来るの……。
 あふれるその涙を…、輝く勇気に変えて……。
 命は続く…。夜を越え…、疑うことの無い明日へと続く……。♪

 あたしは、泣いていた…。栞が…、天国に行った栞が……。こんな、どうしようもないお姉ちゃんのために…。曲は、続いた…。

♪飛ぶ鳥のむこうの空へ…、いくつの記憶預けただろう…。
 儚い希望も夢も…、届かぬ場所に忘れて…。
 巡り合うのは…、偶然と言えるの…。
 別れる…、時が必ず来るのに…。
 消え行く運命でも…、君が生きている限り…。
 命は続く…。永遠にその力の限り…、どこまで(も)…。
 私が死のうとも…、君が生きている限り…。
 命は続く…。永遠にその力の限り…、どこまでも続く……♪

 曲が、終わった。あたしはラジオのスイッチを切った…。涙は止めどなくあたしの頬を濡らしている。あの子は…、あの子は、こんなどうしようもないあたしなんかのために…。
 ……お姉ちゃん、バカだったね…。本当にバカだったね…。今まで生きる希望も何もかも失って、死ぬことばっかり考えて…。
 ねっ…。お姉ちゃん、これからあなたの分まで精一杯生きるね…。精一杯…、生きるね…。

♪私が死のうとも…、君が生きている限り…。
 命は続く…。永遠にその力の限り…、どこまでも続く……♪

 最後のフレーズ…。栞のメッセージが込められたフレーズ…。あたしは、あの子の分まで生きよう。もう、どんなことがあっても、死ぬことなんて考えない。
 これからは、この限られた命の続く限りあの子のために生きよう…。16年という、あまりにも短すぎる生涯を閉じてしまった最愛の妹のため…、栞のために、精一杯生きよう…。
 あたしはそう思った……。
“栞……。最高のプレゼント…、ありがとう……”
 空を見た。雨はいつのまにか上がっていた…。空には満天の星が瞬いていた。あたしは、心の中で何度も何度もそう言った。ふと、流れ星が流れた。あたしは、いつまでも、その星たちを見つめていた。
 もう悲しい顔じゃない。あの子がくれた笑顔で…。


「祐一さん…、電話が掛かってきてますよ…」
「誰からですか?……」
「ラジオのDJの人だそうです……」
 秋子さんが俺の部屋の前でそんなことを言った。1週間も前のことだ……。
 1週間前…、栞がいつも聞いていたラジオのDJから電話があった。1年前、栞がリクエストした曲を流してもいいか? ということだった。曲の内容と栞からの手紙があるということを聞いて、俺は…。
「是非ともかけてやってください!! それがあいつの希望でもあるんですから…」
 そう言った。DJも俺の返事を聞いて…。
「じゃあ、お手紙の方はお楽しみに…、ということでご協力ありがとうございました。彼女のご両親にも快いお返事を頂いてうれしい限りですよ。では本番、楽しみにしていてくださいね…」
 そう言って、電話は切れた…。
 そして、今日……。俺は名雪と秋子さんと一緒にラジオを聞いていた。姉に宛てた天国からの手紙を…。
 曲が終わって、俺たちは知らず知らずのうちに泣いていた。
「栞ちゃん…、香里さんのこと、本当に好きだったのね……」
「うん…。そうだね…。お母さん…、祐一……」
「ああ、そうだな…」
 秋子さんと名雪がハンカチで目元を抑えながらそう言い合っていた。そんな二人を見ながら、俺は今、ある決心をした…。いや、天国からの…、あいつの手紙が俺を決心させてくれたといってもいいだろう…。
 あいつも、俺の決断に賛同してくれるだろうか? あいつのことだ…。きっと…、
“祐一さん、頑張ってくださいね。私も、応援します!!”
 って、あの可愛い笑顔で俺にエールを送ってくれると思う…。俺は言った…。
「秋子さん…、名雪…。俺…、医者になろうと思います。栞が天国へ行って1年…。俺は自分の目標が見えなかった。でも、俺…。やっと自分の目標が見えたような感じがするんです…。道は険しいと思います。でも俺…、あいつと同じような死の病と戦っている人たちを助けたい…。そう思っているんです。希望を失いかけている人たちに、もう一度希望を持たせてやりたいんです!! だから俺、父さんたちのもとへ…、東京へ帰ろうと思います…」
 秋子さんたちは少し驚いたような顔をしていたが、すぐに元の優しい笑顔になって…、
「祐一さん…。やっと祐一さんの目に輝きが戻りましたね…。今までの祐一さんの目は輝きを失っていましたよ…。わたしはそれがうれしいんです…。家の中は…、少し寂しくなりますが…、ね…。でも、祐一さんが決めたことですから……。ねっ、名雪……」
「うん……。お母さん…。祐一がいつもの祐一に戻ったね。良かったよ……。これから勉強、頑張ってね…。寂しいけど…、わたしも頑張るよ…。でも辛くなった時は、この町のこと、思い出してね。わたしたちが、そばにいるって言うこと、思い出してね…。祐一…、ふぁいと、だよ」
 少し涙目になりながら名雪はそう言った。名雪は寂しさをこらえて、わざと笑顔でいてくれたに違いない。俺はそう思った。
 秋子さん…、名雪…。俺は本当にいい人たちに出会えてよかったと思ってるよ…。俺は言った。
「でも俺、この町好きですから…。この町…、大好きですから…。だから…、絶対、帰ってきます!! 約束します!! 俺の…、俺の彼女が…、栞が暮らしていたこの町に……、必ず帰ってきます……」
 と……。

 俺の決心はついた…。栞…。俺、頑張るよ…。栞のような人たちのために精一杯頑張る…。だから、見守っててくれ…。なっ? 栞が命をかけてまで俺に教えてくれたこと…。
 それは……、最期まで生きようとした…、そして、最期まで誰かを愛そうとした心だったんだと俺は思うよ…。
 だからそのことを…。栞が命をかけてまで俺に教えてくれたことを、今度は俺が…、死の恐怖に怯えている人たちに教えてあげる番だ。と…。


 香里から会いたいと電話があったのは、栞の天国からの手紙が流された翌日のことだった。
「相沢君……、あたし、栞が天国へ旅立ってから、後ろばかり向いていたわ……。そう、あたしはもうこの世から消えてしまった方がいいのかとか…。そんなことばかりね……」
「……」
 夕暮れの公園…、俺たちはベンチに腰掛けていた。もう子供たちは帰っていた。静まり返った公園…。夜も7時半が過ぎようとしているのに木々は赤く映えていた……。
「でもね、相沢君…。あたし、昨日のあの子の天国からの手紙を聞いて思ったの…。あたしは、栞の分まで精一杯生きようって…。あの子が残してくれた思い出を胸に頑張って生きようって……。そう、思ったの……」
「ああ…、お前はあいつの…、栞の自慢の姉だったからな……」
「ええ……。そうね……」
 空を見た。空には、一番星が瞬いていた。俺はベンチから腰を上げて、空を見ながら言った…。
「なあ、香里……。俺、医者になろうと思うんだ…。もちろん道は険しいと思ってる…。でも俺…、栞のように、死の病と戦っている人たちを助けてやりたい…。そう、思ってるんだ。だから俺、もう一度勉強しなおそうと思ってる…。……俺、東京に帰るよ……」
「えっ?……」
 香里は驚いたような顔になった。俺は言葉を続けた…。
「でも、俺はこの町が好きだ…。名雪や秋子さん。お前や北川、友達と暮らしてきたこの町が…。それに、あいつと一緒に暮らしたこの町が…。六年後…。いや、何年後になるか分からないけど、俺は必ず帰ってくる。あいつの…、栞のために…」
「そう……。栞は…、栞は幸せでしょうね……。こんな…、優しい彼氏を……。…いいえ、こんな優しい婚約者をもって……。ねえ、栞……」
 香里はそう言うと姉としての最高の笑顔を空の彼方に向けてそう言った。
 そう、それは天国に届くかの如く……。


 六年後…、北海道のある町に一人の新米医師が赴任してきた。東京の医科大学を主席で卒業して大学院に進み、将来は教授になると誰もが思っていた。
 だが彼はその誘いをすべて断って、この閑散とした北の町に赴任してきた…。その医師の名前は、相沢祐一と言った……。
 彼の診察室の机の片隅には、少し古ぼけた一枚の写真が立て掛けてある……。写真立ての中には可愛く微笑んだ一人の少女の写真が飾ってあった…。
 診察に訪れた女の子は、お母さんの膝元で不思議そうにその写真立てを見ながら……、
「ねえ、せんせい。このかわいいおんなのこはだ―れ?」
 そう言った。医師は照れながら言う……。
「んっ? この子かい? この子はね、先生の好きな人だよ……」
 女の子はにっこり微笑んで……、
「じゃあ、せんせいはこのことけっこんしてるんだね?」
 そう言った。医師は前にも増して照れながら言った……。
「うん。この子が先生のお嫁さんだよ……」
 と……。雨はしとしとと降っている…。今日も蒸し暑くなりそうだ……。

〜 FIN 〜