バレンタインの夕暮れに


 あたしは今、チョコレートが固まるのを待っている。そう、明日はバレンタインデー。
「お姉ちゃん、固まった?」
「今入れたばっかりじゃない? もう、せっかちなんだから、栞は」
 あたしの妹、栞は心配そうにチョコレートを入れた冷蔵庫を見つめている。妹はあたしのクラスの一人の男の子に恋をしているわけで…。1年前、あたしの心を、心の中の苦しみを分かってくれた人に。親友である名雪にさえ言えなかったことをあたしは言う。彼は何も言わなかった。でもそれが返ってあたしには嬉しかった。今こうして妹の笑顔が見られるのも彼・相沢君のおかげだ。あたしはそう思っている…。
 妹は相沢君のことが好きだ。あたしも彼のことが好きだ。だけど、あたしは彼よりも気になる人がいる。彼の後ろの席のあたしの隣。ちょっと頼りなさげなところがあるけど結構頼りになる人。いつもあたしのそばであたしたちを笑わせてくれるムードメーカー。北川君。彼とは高校1年の時に知り合い、以来3年間同じクラスで過ごしてきた。いつ頃からだろうか。彼のことを想うようになったのは…。ふと考えてみるけどこれといって思いつかない。ということは自然に惹かれていったのね? そう思った。
「そろそろいい頃じゃない? 栞、冷蔵庫からチョコ出してきて? ああ、固まってるかどうか確かめてね?」
「うん、分かったよ」
 栞がチョコレートを持ってくる間にあたしはトッピングとかデコレーションとかの準備をする。ホワイトチョコを湯煎で溶かして絞り袋に入れる。栞が戻ってくる。その顔はにこにこ顔だ。多分うまくチョコが固まってくれたんだろう。そう思っていると、
「わぁ〜、きれいに固まってるよ? お姉ちゃん」
 案の定、栞が微笑みながら冷蔵庫から取り出したチョコを見つめて嬉しそうにこう言った。あたしもそんな栞に釣られて笑顔になる。さあ、次はデコレーションだ。搾り袋の先端を少し切ってホワイトチョコが出るようにする。試しに指に出してみた。うん、いい感じ。チョコレートのついた指を舐めてみる。チョコレートの甘い香りが口いっぱいに広がった。舐めながら横を見ると栞が恨めしそうにあたしの顔を見ている。
「もう、しょうがない子ね…」
 そう言うとあたしは栞の指にチョコレートの搾り袋からちょっとだけ出してやった。にっこり微笑むと栞は口の中に指を入れる。さらににこにこ顔になった。
「美味しいね。お姉ちゃん。えへへっ」
 そう言うと、舐めていた指を口から離して手を洗う栞。あたしも洗う。手に当たるお湯の感触が心地いい。しばらくそうしていると栞が“早く始めましょうよ〜”っていう目であたしを見ていた。“はぁ、しょうがないわね”とため息を吐きつつも笑顔になるあたし。洗った手をタオルで拭いて、気持ちも新たにデコレーションに取り掛かる。
「さあ、ここからが勝負よ? 栞!」
「はい!」
 ハート型の型から静かにチョコを取り出す。ここで失敗すれば一からやり直しだ。だから慎重に型を抜いていく。そう時間は掛からずチョコは型から抜けた。栞を見ると満足げに抜けた型をあたしのほうに見せて微笑んでいる。“うまくいったわね?” そう思った。
 まずホワイトチョコでLOVEと書く。ハート型のチョコに書くのはこれが結構難しい。栞を見ると難しそうにチョコと悪戦苦闘していた。何とか書き終わる。栞を見るとあたしと同じようにふぅ〜っと一息ついていた。字が書けたらここからは自由だ。栞は赤や緑の小さい星型のチョコを降り、さらには粉砂糖を星型のチョコの間に降っている。
 あたしはどうしようか…。しばらく熟考。北川君って甘いものは大丈夫だったわよね? 相沢君と違って。そう思いながら妹のチョコを見る。明日は彼は大変だろうな…。そう思った。あたしはっと…、イニシャルをホワイトチョコで書き入れて、それから、銀色の丸い玉チョコを飾って、後は栞と同じように粉砂糖をさらさらさらと降る。トッピング完了。これをまた冷蔵庫で固めれば完成だ。栞と一緒に再び冷蔵庫の中へ…。
「いいのが出来ました。喜んで食べてくれるかな? 祐一さん」
「大丈夫よ。きっと。何てったって栞の彼氏なんだから。だから、自分に自信を持ちなさい。ねっ?」
 心配そうに呟く栞にあたしはそう言う。元気に“うん”と栞は頷いた。あたしの一番好きな顔で…。そこからちょっと様子を見ながらちょっと遅めに夕食を食べてチョコが完全に固まるのを待った。30分後…、食べ終って後片付けをしていると冷蔵庫のほうから嬉々とした声が聞こえてくる。
「完全に固まってるよ? お姉ちゃん」
「それじゃあ、包装もしちゃおうか。明日の朝なんて時間がないしね?」
 あたしがそう言うと栞は“うん”と大きく頷いた。包装紙、箱、リボンをそれぞれ用意する。丁寧に、出来上がったチョコを箱へ移しきちっと止める。それを可愛らしい包装紙に包みこむ。ちなみにこの包装紙は栞が選んだものだ。ちょっと少女チックなんだけど、あたしもそこそこ気に入っている。最後にリボンを結んで…、と。バレンタインチョコ完成。溶けないように再び冷蔵庫の中へ入れる。これを明日あたしの想いとともに彼へ届けるんだ。あたしはそう思った。栞もあたしと同じことを考えているんだろうか。微笑む目には相沢君への思いが込められているようだった。


 次の日、女の子が一年に一度愛する人への思いを打ち明けることの出来る日。バレンタインデー。歴史的には古くヨーロッパなんかでは昔からやっていた行事ということをどこかの本で読んだことがある。でも、その時はチョコなんてないし、何を贈っていたんだろう。今度調べてみようかしら…。そう考えながら服を着替える。
 着替え終わり姿見でチェック。うん。今日もいい感じだわ。時計を見る。7時半。って、ええっ? びっくりして鞄を持つと部屋を出て階段を降りる。うちの両親は共働き。だからあたしと栞と順番で朝食を作っている。でも最近は栞に任せっぱなしだ。姉としての威厳を保ちたいところなんだけど、あたしはどうも朝は苦手でなかなか起きられない。はぁ〜、あたしってば! 頭をこつんと叩いた。
 だんだんだんだんと慌しく階段を下りる。そ〜っと部屋を覗くと栞が案の定鼻歌交じりにお弁当と朝ごはんの準備とを一緒にしていた。今日も二段弁当なのね? 相沢君も大変ね。昼食時の光景が目に浮かんだあたしはぷっと吹き出してしまった。気がついたのか振り返るあたしの妹。顔を見ると怒っているみたいだ…。
「えぅ〜。今日はお姉ちゃんの番でしょ? それなのに…。お姉ちゃん酷いです。朝が苦手っていうことは分かりますけどもう少し早く起きて下さいよ。全くぅ〜…」
 妹は朝からご機嫌斜めなようにぷぅ〜っと頬を膨らませて言った。余裕な顔であたしはこう言う。栞はこう言われると何も言えない。卑怯とは思う。現に今日はあたしの当番だったんだから。でも昨日はどきどきして眠れなかったの。初めての手作りチョコを彼にあげるんだもの。その辺は分かってほしい。そう思ったあたしは余裕綽々の顔でこう言ってやる。これがあたしの常套手段だ。
「あら? 栞はあたしに相沢君のお弁当を作ってもいいって言うのね? うふふっ…」
「そ、それは…。もう! お姉ちゃんイジワルですぅ〜!」
 と栞。顔を見るとちょっと涙目になっている。あたしは妹の涙には弱いほうだ。相沢君なんかには“シスコン”なんて言われてるんだけど、この顔を見れば誰でも過保護になっちゃうんじゃない? 相沢君も栞のこの顔を見て判断してほしいわ。全くぅ。はぁ〜っとため息を吐くとパンにバターを塗ってその上からハチミツを垂らす。俗に言うハニートーストなんだけど栞はこれが最近のお気に入りらしく塗り終わる頃には笑顔に戻っていた。
「お弁当に、水筒に教科書に筆記用具……。あっ、これこれ。祐一さんに渡すんだぁ。えへへっ」
 家を出る前の最終チェック。あたしも彼に渡すものを鞄に入れる。鍵を閉めて家を出ると雪が日の光できらきらと光ってとてもきれいだった。今日は穏やかに晴れるだろうと今朝天気予報で言ってたことを思い出す。本当にそうだわ。雲一つない空を仰ぎ見ながらそう思った。
 しばらく栞と他愛もない話をしながら歩いていると、遠くからあたしたちを呼ぶ声がした。後ろを振り返ると案の定相沢君たちだった。栞はぺこっとお辞儀をする。
「おはよう、香里、栞。って、今日はえらく遅いじゃないか。もうすぐ校門が閉まるぞ?」
 相沢君が腕時計を指差してそう言う。って! もうそんな時間だったの? 慌てて腕時計に目をやるあたしたち。ほんとだ。名雪たちとダッシュで学校へ向かった。栞は病気で長期療養していたために体力がない。だから遅刻ぎりぎりの時は彼である相沢君に負ぶってもらって無遅刻記録を更新中、というわけだ。これも愛が成せる業なのかしら? 彼の背中で嬉しそうに微笑んでいる妹を見ながらあたしはそう思った。


 今日もぎりぎりセーフ。校門へ入るとふぅ〜っと大きく息をする。相沢君を見るとあたしと同じように大きく息をしていた。負ぶっていた栞を降ろす相沢君。栞は恥ずかしそうに、でも嬉しそうににこっと微笑む。
「ありがとうございます。祐一さん。祐一さん、今日の帰り、一緒に帰りませんか?」
「んっ? あ、ああ…。今日は特に何もないからな…。別にいいよ」
「じゃあ、校門のところで待ってますね? 早く来てくださいね?」
「ああ、努力はするよ。って、昼休みも会うんだからそのときに言えばいいだろ?」
「分ってないですね。祐一さんは…。ドラマだとここから面白くなるって言うのに」
 ちょっとぷぅ〜っと膨れる妹。途端に謝りだす彼。そう言い合う二人を見てふふふとちょっと笑ってしまった。手を振りながら自分の教室へと向かっていく妹。改めてそんな彼女を見て、“よかったわね、栞”と心の中でそう言った。教室へと歩く。
 歩いていると名雪が遅れ気味になる。何で? と思い後ろを振り返ると、案の定名雪が糸目になっていた。相変わらずな名雪。大変よねぇ〜、相沢君も…。今にも眠りそうな名雪の肩をゆさゆさ揺すって起こそうとする彼を見ながらあたしはそう思った。教室へ入ると、あたしの好きな彼が、
「よっ! 今日もぎりぎりってところか? って、何だ。美坂もか…。どおりで鞄がないと思ったわけだ。しかし美坂が遅刻寸前で来るなんてな。ちょっと意外だぜ…。水瀬はまあいつもどおりだろうけどよ」
「き、北川くん!! ちょっと酷いんだよ〜。わ、わたしだって早起きしてるつもりなんだよ?」
「どこをどう解釈してあれを早起きと言うんだ? ええっ? 2000字以内にまとめて端的に報告しろっ!」
 名雪は恨めしそうに相沢君を見る。まあ、いつものことだ。これも一種のコミニュケーションだろう。そう思って相沢君と名雪の言い争い(まあ、相沢君が一方的に言ってるんだけど)を見ながらあたしは自分の席に座る。横を見ると、
「しょうがねーなぁ。はぁ〜。二人とも、先生来ちまうぞ〜」
 と、ため息を吐きつつ半分呆れ顔になる彼。そう言った途端に、キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴った。


 下校時刻になる。渡そうと思っていたチョコはまだ鞄の中にあった。相沢君は栞や天野さんや、近所にある大学に通っている倉田先輩や川澄先輩たちからチョコを貰っていた。他にも彼には月宮さんや沢渡さんって言う同じ居候仲間がいるらしい。月宮さんとは栞を介して知り合い、今ではいいお友達だ。少し子供っぽいところはあるけど、そこが彼女のいいところなのかもしれない。
 沢渡さんはあまり知らないけど相沢君の話しぶりから察して寂しがり屋なんじゃないかなと思う。そう、あの頃の…、相沢君に縋って泣いていた頃のあたしのような感じなんだろうな。彼の後ろ姿を見ながらあたしはそう思った。まあ、今ではみんな元気で自分の目指す道へと進んでいる。多分家に帰ればその子達からも貰うんだろう。
「じゃあ、俺帰るわ…。名雪は部活だしなぁ〜。あっ、そうだ。俺、栞と待ち合わせしてるんだった!! すまないな。ちょっと急ぐ。あっ、そうだ。香里、北川。どうせ百花屋に行くんだ。一緒に行かないか? 栞だって喜ぶと思うぞ?」
「遠慮しとくわ…。二人の恋路を邪魔したくないもの…。ねえ? 北川君?」
「ああ。俺も馬に蹴られて死にたくないんでな…。まあ、しっかりエスコートするんだぞ? 相沢!」
 あたしと北川君の口撃を受けて苦笑いの相沢君。彼は後ろ姿から手を上げて去っていった。残ったのはあたしと北川君の二人だけ。日直の友達が風邪で休んでいたためあたしが代わりに彼とすることになって現在に至っていた。彼は以外に硬派だ。彼のことを好きな女子はいくらもいるんだけど、彼は断っている。今日も何人かの女子が来てチョコを渡そうとしていたけど…。
「悪いな、俺、甘いのは苦手でな。気持ちだけありがたく受けとっとくよ…」
 そう言っていた。しゅんと肩を下げて去っていく女子たちを見て、あたしは言う。“もうちょっと気の聞いた言葉は出ないの?”って…。そしたら彼は…、
「最初から断っておく方がいいんだよ。変に気を使わせてしまったら相手が可哀想じゃないか。だから最初に断っておく方がいいんだ、うん」
 って言う。それじゃああたしのは? あたしのチョコはどうなんだろう…。そう思った。荷物をまとめて帰ろうとする彼。そんな彼を呼び止める。手には、あたしが作ったチョコレート。彼の前に差し出す。
「き、北川君?」
「んっ? 何だ? 美坂……。って?」
 びっくりした顔の彼。そんな彼の顔をまともに見れずに俯いてしまうあたし。手に持ったチョコレートがぷるぷると震えていた。口から心臓が飛び出してしまいそうになる。彼は少々上ずった声でこう言った。
「も、も、もしかして…、俺にか?」
 何も言えずに首だけをこくんと動かした。あたしの顔は多分トマトのように、いいえ、今日の夕日のように真っ赤だろう。う、受け取って! お願い! そういう気持ちでいっぱいだった。すっ、と手が伸びてくる。と同時に、あたしの手にあったチョコは…、
「あ、ありがとな。美坂…」
 彼の手の中に納まっていた。わ、渡せた。嬉しさとともに恥ずかしさも出てくる。ぽっと顔を赤らめながら、あたしは言う。
「べ、別に北川君に作ってあげたわけじゃないからね? た、たまたまチョコの材料が余ってたから、ちょっと興味本位で作っただけよ…。だ、大体あたしは、き、北川君のことなんて…、って、北川君? な、何よ?……」
 自分でも素直じゃないって言うことは分かってる。でも、彼の前に出るといつもこう言ってしまう訳で…。はぁ〜っと心の中でため息を一つ。彼はあたしの心を見透かしていたんだろうか? 彼を見るとにこやかな笑みを浮かべていた。


「さあ、帰るわよ。ぐずぐずしないでね。北川君」
「おい、美坂! 買い物はいいけどよ。荷物くらい自分で持ってくれ」
 その日の帰り、あたしは彼を誘って買い物をする。もちろん夕食をご馳走するためだ。栞も今頃相沢君を誘って買い物をしている頃だろう。って…。うふふ。まあ、今夜は豪勢になるわねぇ。そう思って隣を見た。彼がふぅふぅ息をつきながら買い物袋をぶら下げている。そんな彼を見て、“頑張ったお礼に美味しいご馳走用意するからね?” 心の中で言った。
 彼の背中を見てあたしは思う。ぶつぶつ文句を言いながら、でもしっかりついてきてくれるあたしの好きな人、その人に告白したんだって。世界中で一番好きな彼に…。バレンタインデー。一年に一度女の子が好きな男の子に愛の告白をする日。雪の積もった道路を見る。夕日の残光が白い雪を赤く染めている。…もうすぐ、あたしと妹の家…。温かい家……。

〜END〜