一輪ほどの暖かさ


 桜が咲いた。と言っても一輪だけなんだけど。大学へ行く途中、偶然名雪に会って“桜が咲いたんだよ〜?” と言うので見に行くとまだ雪の残った樹の上に一輪可愛らしい桜の花がいかにも寒そうに咲いていた。あたしの妹はもうこの世にはいない。6年前、天国へと旅立っていった。妹は彼の胸の中で、優しく抱きかかえられながら…。失ったものはあまりに大きかった。妹を拒み続けてきたあたしにとってはやっとこれから…と思える時期だった。それだけに自分は今まで何をしてきたんだろうと思って。妹につらい目ばかりさせてきたあたしは一体なんだったんだろうと思って…。そうして気がつくとあたしは自暴自棄になっていた。死ぬことばっかり考えていた。でも…。
 そんなあたしに生きる勇気を与えてくれたのが天国からの妹の手紙だ。あれ以来あたしは妹の、栞の心と一緒に今を生きている。栞の彼で今、目の前にいるあたしの親友の従兄弟・相沢君は、東京に帰っていった。医者を目指すと名雪から聞かされている。あたしも彼から聞かされた。…彼が東京に帰るとき、空港のロビーであたしに言った言葉が胸に焼きついて離れない。
「きっと帰ってくるから…」
 あたしにそう言った彼。目を見ると真剣な目であたしを見つめている。その目はあの日の、彼が東京に帰ることをあたしに告げた日と同じような目だった。あれから4年が経つ。彼はある医科大学で外科と小児科を学んでいるらしい。名雪の話によると卒業して2年ぐらい大学院で更に学ぶそうだ。普段おちゃらけているけど、やるときは何事にも真面目だった彼の性格が出ているのね? とあたしは思った。かく言うあたしも養護学校の教諭を目指して勉学中だ。腰まであった長い髪も大学入学時にばっさり切った。事情を知らない友達は、“何で切っちゃったの? もったいない…” と言ってあたしの顔を見つめてたっけ?
 でもあたしの決意は固い。栞と同じような、ううん、もっと酷い子供たちがこの世にはいる。その子供たちにあたしがしてあげられることは何なのだろうか…。そのことに改めて考えさせられたのはある一人の少年だった。あたしが教育実習生としてある養護学校に行ったときのこと、その少年はいた。いつも寂しそうに窓の外を眺めている。他の生徒の輪の中には一切入ろうとはしない。そんな感じの少年だった。その横顔が昔の、栞を失ったときのあたしと似ていたんだろうか。ふと気づいた時、あたしは声を掛けていた。だけど、知らないような顔をしてそっぽを向く。どうして? と思う。担任の先生に聞くと、彼のお姉さんが原因なのではないだろうか? と言うことだそうだ。彼はご両親の離婚の憂き目に遭い母方のほうに引き取られたんだそうだけど、母親は水商売系からか、すぐに再婚して家を出て行ったんだそうだ。今は行方も全く分からないと言うことらしい。父親は離婚してすぐに事故で…。残ったのは年老いた彼の祖母と彼の姉だったらしい。そうしてものの1年もしないうちに祖母は病に倒れてそのまま…。残ったのは姉1人だけだった。その姉も今度結婚するんだそうだ。彼にとってのすべては姉だったんだと思った。あたしのすべてが栞だったように…。そう思うと何だかやるせない気持ちになる。でも彼の姉はまだ生きている。あたしの妹のようにもうこの世にいないわけじゃない。そう思っていた矢先、あたしは昼休みに屋上に佇んでいた彼に会った。と言うよりあたしが彼に会いたかったんだろうと思う。彼は屋上に佇んで車椅子から身を乗り出して校庭で遊んでいる小学部の子供たちを見つめていた。と、あたしに気がついたのかぷいっとそっぽを向くと車椅子に腰を下ろして鬱陶しげにこっちを見てくる。“何を見てたの?” そう言って彼のところに行こうとするあたしに、“何でもねーよ…” こう言って車椅子を漕ぎ出す彼。その彼の背中が何か悲しく見えたんだろうか…。“キミは独りじゃないのよ?” と独り言のように呟いていた。と…、漕いでいた車椅子がぴたりと止まる。するりとこっちを向くと鋭い眼光があたしを射抜いた。彼が言葉を紡ぎ出す。それは彼の心の声のように聞こえた。


「独りじゃない? はっ、笑わせるぜ…。あんたは俺の心の孤独が分からねーんだよ。どうせ…、どうせ俺は独りなんだ…。これからもずっと…。父ちゃんも母ちゃんも離れていった。父ちゃんとばあちゃんは天国に逝っちまった。挙句の果てに姉ちゃんも俺から離れていく…。よそのやつらはこんな俺のことをさも哀れんで、“大丈夫?” とか言ってるけど実のところは面白がって聞いているだけだ! あんただってそうだろう? こんな、こんな俺のことなんてもう放っておいてくれ…」
 一睨みにあたしの顔を見遣るとまたそっぽを向く彼。あたしはそんな投げやりな彼の態度に腹が立った。彼が昔の…、何もかもが灰色に見えていた頃の、自暴自棄になっていた頃のあたしに似ていたからだと今更ながら思う。パシンと乾いた音が屋上に木霊する。自分でも気がつかない間にあたしは彼の頬を叩いていた。少々赤みがかった頬を擦りながら彼がこっちを恨めしく睨む。静かにこう言った。
「…叩いたな? 教育実習生のくせに生徒を叩くなんて許されるとでも思ってるのかよ?」
「ええ、叩いたわ。でもそれがどうしたって言うの? 実習生である前にあたしも一人の人間よ? 物の道理や善悪くらいの判断はつくわ。あなたが今やってることは小さな子が駄々をこねてるのと同じことよ。あなたはそうやって何でもかんでも人のせいにして自分では何も解決しようとはしない…。小学部のあの子達より悪いわ…」
 そう言ってあたしは校庭を見る。校庭の中ほどにあるブランコに小学部の小さな子供たちが遊んでいた。乗る順番を決め、乗れない子は不自由な体でも友達のために一生懸命漕ぐのを手伝っている。人間は独りじゃない。ましてや独りでは生きられない。それは妹に教えてもらった大切な心。だから彼の今の言動がどうしても許せなかった。と、彼が車椅子ごとあたしに飛び掛ってくる…。バタンっと車椅子ごと彼の体があたしにのしかかる。顔に一発、彼の拳を受けた。痛くはなかった。元々力のない彼だ。痛くないのは分かっている。だけどあたしには彼の心が痛かった。まるで棘だらけの傷ついた心があたしの体を、いや、心をえぐっていくような感覚。体にも数発喰らう。殴られながら彼の顔をそっと見たあたし…。言葉が出なかった。彼は泣いていた。泣きながら拳を打ち続けている。それはかつて、あたし自身が儚く散っていく妹の命を繋ぎとめたくて必死に医者の体を揺すっていた、あのときのように…。まるで昔の自分がそこにいるかのような感覚に襲われる。体は痛くはない。少々口の横が切れて血が出ているみたいだけどこんなものは比じゃないと思った。やがて疲れてきたんだろうか、彼はふぅふぅ息を上げて涙に暮れた瞳を拭いながら、
「な、何で、何であんたは何も言わないんだ…。口の端から血が出ているって言うのに、どうして何も言わない…。痛いなら痛いと言ってくれ!! 苦しいなら苦しいと言ってくれ…。頼む! 頼むから…」
 こう言うと、殴るのをやめた。のしかかっていた彼の体が離れる。体が軽くなって起き上がると彼は車椅子のところまで行こうと手をついて這っているところだった。あたしは車椅子を持ってこようとする。でも、“持ってくるな!!” 彼の声があたしの耳に木霊した。彼の心…、孤独と言う色に塗られた心…。あたしは何も言わずそのまま車椅子を彼の元に持ってくる。“な、何で? 何であんたは…” そう呟く彼の声が聞こえていた。
 無言のまま、車椅子に乗るのを手伝う。口の端の血を服の袖で拭うと結構なものだった。力がないとは言え、さすがは高校生だと思う。でも、彼の心の中はどんなに孤独なんだろう…。どんなにつらいんだろう…。そう思うとこんな傷なんて傷のうちにも入らない。車椅子越しの彼の背中がなんだかとても寂しく感じた。無言のまま、屋上のエレベーターに乗り込む彼の背中をあたしはいつまでも見つめていた。


 次の日、彼は学校に来なかった。次の日も次の日も学校を休んだ。あたしの脳裏を不安が掠めていく。担任の先生もお手上げ状態らしく、元々不良っぽい彼には誰も彼に注意する先生、いや、注意してくれる先生はいなかった。学校側はそんな生徒は黙っておくのが一番だと言うことだろう。普通の学校でさえそんな生徒は爪弾きにされているのに、養護学校では尚更なんだろうな…。そう思った。日にちはどんどん過ぎていく。だけど彼は来ない。いよいよ明日が教育実習最後の日になる。その日は職員会議があって昼までで終わりらしい。他の実習生の友達なんかはほっと一息といったところだろうか、レポートを書き終わったらどこかに気晴らしに遊びに行くそうだ。あたしも誘われたけど、断った。一人の友達が、“あんたさぁ〜。何であの子のことに必死になるわけ?” と不思議そうに尋ねてくる。あたしは言う。“あの子を見てるとね、何だか昔の自分を見てるような気がするのよ…” と…。そう、最愛の妹を失って、生きる希望を失って、何もかもが灰色に見えていた世界。教師の…、しかも養護学校の教師の資格を取ったのも妹のような、ううん、それ以上に不自由な人たちに生きる意味を教えたいって思ったからだもの…。そう思って、早々にみんなと別れて、一人彼の家に向かうあたし。そんなあたしを他の実習生の友達は一応に不思議そうな顔で見つめていた。予め担任の先生からもらったメモを頼りに歩く。担任の先生は不思議そうにあたしの顔を見てたけど…。2週間も経つとだいたいの人間関係は分かる。担任の先生も彼は苦手らしい。いや、彼のほうが他人との距離を開けているのか、そう思いながら歩く。地図を見ながら歩く。だけど似通ったアパートが何軒もある地区なので迷う。しばらく歩くとそれらしいアパートが見えてくる。ふっと続き長屋の出入り口を見ると彼がいつも乗っている車椅子が置いてあった。
 表札を見て、ここだろうと思い、ピンポーン…と呼び鈴を押す。誰も出てこない。そう言えば彼のお姉さんは働きに出てるんだっけ? そう思ってもう一度呼び鈴を押す。だけど誰も出てこない。裏へ回ってみる。平屋建ての続き長屋の古い木造建築は年代を感じさせるものだった。と彼の部屋の手前、足は止まった。戸が開いていた。野良猫が数匹、彼の部屋だろう部屋の前でニャーニャー鳴いている。しばらくして鰹節だろうか…、えさを持ってくる彼の姿が見えた。動かない足を引きずるように庭先に持ってくると器用に手で足の向きを変える。だらりと軒の踏み台に足がつく。あたしには気づいていないのだろうか彼は普段見せない優しい顔でこう言った。
「今日はこれだけしかねーんだ…。買いもん行ってないからな…。まあ、これで勘弁な?」
 少々俯き加減に猫を撫でる彼の目は普段の学校での目じゃない優しい眼だった。声を掛けるのにも忍びなくしばらく見つめている。そんなあたしに気がついたのか彼がふっと顔をあげる。ちょっと驚いた顔をしていた。あたしは言う。
「ここがキミの家だったのね? ここって同じようなアパートがいくつもあるから迷っちゃったわ…」
「何で…。何で来た…。あんたに傷を負わせ、酷い目に遭わせた俺の元に何でわざわざ来たんだ?…」
 信じられないという表情でそう呟く彼。驚いて声が出ないのかそれ以降何も話さない。ただ彼の目はあたしの顔を見つめている。“ちょっと横に座らせてもらっていいかしら?” と言うと、無言のまま一人分の席を空ける彼。あたしはちょこんと彼の横に座る。未だに信じられないと言う顔の彼に向かいあたしはこう言った。
「なぜって…。キミのことが心配だったからじゃないの…。他にどんな理由があるの?」
「…変わりもんだな? あんたって人は…。普通の実習生のヤツだったら教師に言って即停学か何らかの措置があってもいいはずなのにそれもない。現に今までそうしてきたヤツを俺は見てきた。俺も覚悟はしてたんだぜ? これで停学か若しくは最悪の場合退学処分になっちまうってことを…。それがどうしたことか、学校からは何の連絡もないじゃないか…。何でだ? 何でそこまでしてこんなどうしようもない俺を助けてくれる? 分からない…」
 そう言いながら野良猫たちに鰹節をやる彼。目を落とすと野良猫たちが鰹節を必死で食べていた。そう、それは16年と言う短い命を精いっぱい生きた妹の命の輝きのような感じがした。あたしは一生懸命鰹節を食べている猫たちのほうを見遣りながら言う。
「あたしの話…。ちょっと長くなるけど聞いてくれる?」
 こう言って今度は彼のほうを見る。無言で頷く彼を見ながら、あたしは妹のことを話し出す。奇跡が起こったかのように見えたあの日々、胸に白い陰影を見せつけられて絶望したあの日、それでもあたしの妹は生きようと、精いっぱい生きようと努力したんだ。妹が天国に召されて、生きているのか死んでいるのかさえ分からなかった日々。でもあの天国からの妹の手紙があたしに再び生きる勇気を与えてくれたんだ。だからあたしは生きられる。生きていられる。この命はあたしだけのものじゃない。妹の、栞の命も一緒なんだ…。と言うことを彼に話す。ふっと彼のほうを見ると俯いていた。
「だから、自分は独りぼっちだなんて考えないで…。あなたのお姉さんだって心配しているに違いないもの…、ううん、お姉さんだけじゃない。あなたの天国のおばあちゃんだってきっと心配しているに違いないわ…。それにあたしだって心配していたのよ?」
 無言の彼。見ると握った拳の上、ぽたぽたと雫が落ちていた。顔は上げない。多分見せたくはないのだろう。こんな弱い自分を…。そう思って握った拳の上、優しく手を置いた。冷たい風は吹く。だけどその中に春の暖かさも感じさせる。そんな春の日の午後、今度は彼の肩を優しく抱いてあたしはどこまでも続く青い空を見つめていた。それがあたしと彼との最期となった。彼はもともと心臓が弱かったらしく、あたしが教育実習を終えて大学へ帰った日の夜に大きな発作を起こして栞のところへ逝ってしまったんだそうだ。そう言えば初めて出会ったときにも10種類くらいの薬を飲んでたっけ…。最期の顔、眠るようだったと風の便りに聞かされた。こんな晴れた日だったかな? そう思いながら名雪と一緒に早咲きの桜を見る。梅じゃなくて桜だけどこんな言葉を思い出す。“梅一輪、一輪ほどの暖かさ” と言う俳句を…。ちょっとずつ暖かくなっていく様を表した俳句なんだそうだ。高校時代習ったはずなのに、この前大学の授業で改めてその言葉を聞いてなるほどと思った。ふと空を見る。春まだ浅い北海道だけれど確実に春はやってくるんだ。日差しがそう告げていた。


 そしてそれから1年後…。あたしも今年度から晴れて教師となる。初めて教師として学校へと向かう。果たしてそこでどんな子たちと出会うのだろう…。期待に胸を膨らませながらあたしは真っ青な空に向かい、こう心の中で言った。“頑張るね?” と。誰に向かって言ったのか…。あたし自身にも分からない。でも心の中から出た言葉はそれだけ。北海道の真っ青な空に飛行機雲がまっすぐ消えていく。今年もアパートの近くの早咲きの桜は咲いた。と言ってもまだ一輪だけだけど…。腕時計を見る。時間を見るともう余裕もない。“全く、名雪じゃないんだから…” と親友の糸目の顔を思い出して、少々苦笑いを浮かべながら車に乗り込んだ。“さて、行きましょうか…” と独り言を呟くと、エンジンをかける。と、もう一度一輪だけの桜の花を見遣った。五つの薄桃色の小さな花弁は、ここ北海道にも遅い春が来たのを告げるかのように咲いていた。

FIN